第五話 刹那の愛
暗い洞窟の中に、
悪夢のようなあの朝の出来事から約半日が過ぎ、反逆者として捕えられた彼はここで夜を迎えた。
人里離れた山の中にある、罪人が幽閉される牢の中である。
この牢は天然の洞窟の口に木製の柵を張ったもので、岩肌がむき出しの壁には幾筋も滲み出た水が流れ、内部はじめりとした重い空気で澱んでいた。
柵の外では、長い槍を手にした屈強そうな男が、月読の様子をずっと見張っていた。
「ヴッ……」
小さなうめき声をあげて、見張りの男が前のめりに倒れるのが見えた。
「月読様」
倒れた男を跨いで、大男が柵に近付いて来た。
月明かりを背後から受け、影しか見えなかったが、月読にはその声に覚えがあった。
「
それは昔、魏から帰った
難升米と共に魏へ渡ったこの大男は用心棒的な役割で、帰国後もいつも陰から主人を見守っていた。
そんな男がここへ来たということは、自分の息の根を止めて来るよう主に命じられたに違いない。
「今、ここを開けます」
やはり、自分を亡き者にするつもりかと、月読は諦めと絶望の中、覚悟を決めた。
「あなたを助けに来ました」
「助けに?」
思いがけない言葉に一層不信感を募らせ、月読は洞窟の奥で身を固くした。
「私は、あなたの味方です」
牛利はそう言って、柵を閉じている頑丈な縄をほどき始めた。
「まさか。お前は難升米の……」
「そばでずっと見てきたからこそ、この国をあの男の自由にはさせられないのです」
月読には牛利が嘘を言っているようには思えなかったが、完全に警戒心を解くことはできなかった。
ふと、怪訝そうに大男の動きを見守っていた月読の瞳が、遠くから近付いてくる人影を捉えた。
その視線に気がついた牛利は、柵に背を向け、腰から短剣を抜くと、闇に向かって構えた。
「誰だ!」
牛利の声に人影は一瞬びくりとして、茂みの中に身を隠した。
「誰だと聞いておる!」
揺れる茂みに向かって、牛利は短剣を片手に飛び込んで行った。
「きゃあ!」
「
月読は思わず駆け寄って柵を握りしめた。
牛利が捕えた人影の発した声は、紛れも無く聞き慣れた妻のものであったのだ。
「おい、放せ! 妻の宇多子だ!」
「あなた!」
緩められた牛利の手から逃れ、茂みの中から手足の細い女が彼のもとへ駆け寄って来た。
「お前、なぜここに?」
月読は柵越しに宇多子の頬に触れた。白く熱い頬が涙で濡れていた。
「お父様はなんてことを……」
宇多子も震える手で月読の頬に触れた。
「宇多子、
「あの子は……」
言いかけて、宇多子は牛利の方をちらりと見た。
「あの者は……。私の味方だと言ってくれている」
宇多子はほっと息をついて微笑み、言葉を続けた。
「昨夜父が私のもとを訪れ、あなたが卑弥呼様を殺し、女王を偽っていると言いました」
「あいつ……!」
「でも、父と入れ替わりにやって来た壹与が、事実を教えてくれたのです。そして、父があなたを罠にはめようとしているから、注意するようにと……」
「壹与の奴、難升米の企てを見破っていたのか。それに比べて私は……」
月読は歯ぎしりをして柵を拳で叩き、額を打ち付けた。
そんな月読の拳を宇多子がそっと両手で包み込んだ。
「ご自分を責めないで。それより、これからどうするかを考えましょう」
月読の唇に、宇多子のそれが重なった。
牛利は咳払いをひとつして、気まずそうに二人に背を向けた。
「二人でどこか遠くへ行きましょう」
宇多子が柵越しに月読の首に腕を巻き付けてきた。
甘い香りが月読を包み込み、無意識のうちに彼の腕も強く女の体を抱きしめていた。
「二人で……」
宇多子の声が呪文のようにそう繰り返した。
このまま、この女と幸せに暮らせたら……。
月読は全てを捨ててもいいと思った。
住み慣れた土地も、王家も、民も。
どうせおそらく明日には消される命だ。
それならいっそ全てを捨て去って、愛する妻とどこか遠い土地で静かに暮らせればいい。
若者の心はほぼ固まりかけていた。
「……だめだ」
おもむろに月読は宇多子の体を引き離した。
「壹与を難升米のもとへ置いては行けない。あの子は、私が去れば唯一の王位継承者だ。巫女としての力も人一倍強い。奴のそばにいると、殺されるか利用されるかだ」
月読は宇多子の体から離した両手で柵を握りしめ、少し離れた場所で背を向けている大男に声をかけた。
「おい、お前が本当に私の味方なら、私をここから出してくれ。あの子を……壹与を助けに行かなくてはならないんだ」
牛利は素早く向き直ると、月読のそばへ駆け寄り、柵の縄に手をかけた。
「待って」
だが次の瞬間、宇多子がその手を止めた。
「素直に私とこの地を去ると言えば、逃がして差し上げたのに」
「宇多子?」
月明かりの中、宇多子が切な気に笑うのが見えた。
「お父様の目当ては、あの子でしたの」
「……?」
「壹与の巫女としての力が欲しかったのよ」
月読には妻の言わんとすることがすぐには理解できなかった。
「新しい大王として君臨するためにね」
「宇多子、お前は……」
「私は難升米の娘。父を裏切ることはできないわ」
月読は愕然とした。
あれほど愛をささやき合った妻までもが、彼の味方ではなかったのである。
彼は両手で握りしめた柵を激しく揺さぶり、大声で叫んだ。
「ここから出せ! 出してくれ!」
「父上は、あなたがこの地を去れば、命だけは見逃すおつもりでしたのよ。それなのにあなたは……」
宇多子の言葉など耳にせず、月読は柵を揺さぶり続けた。
「無駄よ。この男も私がここへやったの。私がよしと言うまでは、柵に指一本触れやしないわ」
絶望を感じた月読は、頭を柵に押し当て、すがるように身を滑らせると、膝をついて地に伏した。
「……二人で、遠くへ行こうと言ったじゃないか」
「邪馬台は四方を山に囲まれたところよ。行き倒れなんてごめんだわ」
愛情の無い返事であった。
「途中で父の兵が迎えに来てくれるはずだったの。山賊の振りをしてね。私だけ」
月光の向きが変わり、宇多子の白い顔がくっきりと闇に浮かんだ。
その顔は無表情で氷のように冷たかった。
「哀れな人」
宇多子はそうつぶやくと、月読に背を向け、立ち尽くしている牛利の肩を叩いて促した。
「行くわよ」
牛利は同情めいた瞳でしばらく月読を見下ろしていたが、突然向きを変えると、少し前を歩き出していた宇多子の首に手をのばした。
「牛利、何を?」
素早く大男の手から逃れた宇多子は駆け出そうとしたが、再びのびた牛利の手に衣を掴まれ、横滑りするように地面に倒れた。
「牛利、裏切る気?」
上半身を起こした宇多子に牛利は股がると、その大きな手で白く細い首を絞め、後頭部を地面に叩き付けた。
宇多子は咳き込み、口の端から白い泡を吹き出した。
「牛利! やめてくれ! 宇多子を殺さないでくれ!」
月読は柵の中から叫んだ。
「牛利! その人は私の妻なんだ!」
その声を耳にした瞬間、牛利の力がふっと弛み、宇多子の首から手が離れた。
宇多子はぐったりとした様子で仰向けに倒れている。
「牛利、ここから出してくれ! 早く!」
月読は激しく柵を拳で叩いた。
「牛利!」
宇多子に股がったまま、のっそりと立ち上がった牛利は、大きくため息をつくと月読のそばへやって来た。
太い指が器用に縄をほどいていく。
「宇多子!」
牢の中から解放されると、月読は倒れたままの妻のそばへ駆け寄り、胸元に耳を寄せた。
「……よかった。生きている……」
ほっと息をついた月読は、宇多子を抱き上げ、先ほどまで自分がいた牢の中へ入って行った。
地面が乾いた場所を選んで静かに彼女の体を下ろすと、その手を胸の上でそっと重ねさせた。
それからしばらく、切なげに妻の顔を見下ろしていた彼は、一息ついて牢から出て来た。
「柵をしてくれ」
月読に言われ、牛利は再び器用に縄を操り、柵を閉じた。
元通り柵が閉じられると、月読はさっきまでと逆の立場で宇多子を見下ろした。
月明かりに照らされ、彼女の肌は透き通るほど白く輝いていた。
ただ、首元の絞められた跡だけが赤黒く、いやに痛々しかった。
「それでも……」
月読の頬を一筋、熱いものが伝った。
「それでも私は、この人を愛していたのだよ」
それは月読が八年振りに、あの姉が死んだ夜以来、初めて流す涙であった。
「宇多子様も、この方なりに苦しまれたのですよ」
思いがけず、牛利が口を開いた。
「あなた様や壹与様を愛さぬように。難升米の娘であるばかりに」
「……?」
「この地から出て行かせるから命だけは助けて欲しいと、難升米に申し出たのはこの方ですから」
無言で宇多子を見つめる月読の目から、後から後から涙が溢れ出し、頬を濡らした。
だが間もなく彼は唇を噛み締め、伏せていた目を見開くと、夜空を見上げて言った。
「壹与を助けに行く」
「お前は……なぜ……?」
月読は、自分より頭ひとつ分以上背の高い男を見上げて尋ねた。
「一時の同情から私に味方したのなら、今からでも遅くない……」
「すべては計画通りなのですよ」
牛利は涼しい顔をして言った。
「最初に申し上げたでしょう。私はあなたの味方です」
難升米の屋敷を目指し、山中の牢からくだる山道で二人の男は向かい合っていた。
最も信じていた人間に続けざまに裏切られたばかりの月読は、疑い深気なまなざしで大男を見ていた。
「そんな目で見ないでくださいよ。まいったなあ。私は裏切りませんよ」
眉間に皺を寄せて牛利は口を歪ませた。
「私が賢者なら、お前の言葉の真意も判ろうが、どうやら私には人を見る目が無いらしいのでね」
月読は、味方と名乗る者を素直に信じることができない己が哀しかった。
疑うことを知らなかった昨日までの自分が、まるで他人のように思えたのである。
「私は難升米の独裁に反対する者。あの男には倭国はおろか、邪馬台を治める力もありませぬ」
「その男の罠にまんまとはまったのだぞ。私は」
皮肉気に鼻で笑い、月読は額に巻かれた帯を解くと、垂らしていた髪をそれでひとつに束ねた。
巫女の装束を身にまとい、月光を浴びた月読は、どこか妖艶で神秘的に見えた。
「ご自分に自信をお持ちください。あなたに味方する者は、私の他にも数多くいるのです」
悲壮に訴えかける牛利の言葉も、固くなってしまった月読の心には響かなかった。
「私は壹与を助けに行く。ただし助けはいらぬ。ひとりでやる。お前の言葉が真なら、黙ってこのまま行かせてくれ。もしそうでないのなら、今ここで私を殺せばよい。勿論、そう簡単には殺られぬつもりだがな」
険しい顔つきで月読はそう言い、腰に差していた儀式用の剣を額の前に構えた。
牛利は軽く唇を噛み、眉間を寄せた表情のまま月読を見つめた。
「そこまでおっしゃるのなら……」
大男は一息つくと、月読の剣の三倍はありそうな長剣を、腰から抜き放った。
それを見て月読はごくりと喉を鳴らし、一歩後ずさった。
次の瞬間、青銅の剣が牛利の手を離れ、月読に向かって飛んで来た。
直後、切り裂くような金属音が闇夜に響き渡り、それに驚いた鳥の群れが木々の梢から一斉に飛び立った。
月読は目を見開いて足元の地面に突き刺さる剣を見つめ、続いて牛利の顔を見上げた。
「そのような黄金の、しかも短剣では武器にならんでしょう。それを持ってお行きなさい」
人懐っこい笑顔を浮かべて大男はそう言い、剣の鞘を放った。
月読はそれを片手で受け取ると、刃を納めて腰に挿した。
それでもしばらく呆然とその場に立ち尽くす月読に、牛利は少し口調を強めて言った。
「さあ、早く! 夜が明けぬうちに!」
その声に弾かれるように、月読は暗闇に駆け出した。
彼は山道を駆け下りながら、次に牛利に会うことができたなら、素直に感謝の言葉を口にしたいと思った。
その後、獣道のような道なき道を無我夢中で突き進み、踏み平された麓の道に差し掛かると、難升米の屋敷の灯りが見え、笛や太鼓の音が微かに聞こえて来た。
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