EPILOGUE:〈希望へと繋がる絶望の物語〉

 まどろみの中、目を薄く開いた。

 誰かが叫んでいるようだったが、エノーマスは煩わしく感じて、再び目を閉じる。

 次に目を覚ましたとき、そこは誰かの部屋だった。

 見たことのある装飾から、マイル=ギラパールの館だと察する。

 ぼやけた意識のまま、エノーマスはベッドで横になっていると、一人の少女が部屋に訪れた。

「おはようございます」

 エノーマスは無言で少女を見つめる。

 しばらくして少女が、マイル=ギラパールの娘だと思い出した。

「三日ぶりのお目覚めですが、覚えていますか?」

「……なにを?」

「あなたは道ばたで血塗れになって倒れていました」

「倒れてた……?」

 なぜ倒れていたのか。

 記憶を探り始めると、脳味噌に血が回り始めた。

「うあぁ……ああああああああああああああああああ!!」

 様々な人の死が、フラッシュバックする。

 声を張り上げて、記憶の呼び出しを阻もうとするが、堰を切ったように止まらない。

 過多なショックに気分が悪くなり、エノーマスはベッドの脇に胃液をぶちまけた。

 胃袋がひっくり返りそうなほど嗚咽する。

 その際、娘は優しくエノーマスの背をさすっていた。

「はぁ……はぁ……」

 だが、エノーマスは娘を睨みつける。

「なんで、俺を助けた!!」

「……」

 娘は何も答えず、エノーマスを見つめ返すだけだった。

「あそこで俺は死ねば良かったんだ!! なんで邪魔したんだよ!!」

 ボロボロと泣きながら娘に向かって理不尽な怒りをぶつける。

 やがて、エノーマスはベッドの上で縮こまり、譫言を呟いた。

「カティさん……、ごめんなさい、ごめんなさい……ひっ、うぐぅ……ごめんな、さい……!」

 謝罪の言葉を何度も繰り返す。そのくらいのことしか、今のエノーマスには出来なかった。

「……これを読んでください」

 娘が二つ折りにされた手紙を、差し出してきた。

「カティ=エルスラからの手紙です」

「…………ぇ?」

「使用人が見つけました。あなたが持ち込んだバケットの底にあったそうです」

 エノーマスが手紙を開くと、そこには不慣れな字がツラツラと書いてあった。



 エノーへ。


 しっかりとしたお別れが出来なかったから、この手紙を書きました。

 私は、兄と一緒にこの町から出ていきます。北に、行こうと思います。先のことはまだ分からないけど、兄と一緒に頑張るね。だから、エノーも頑張って。

 美味しいものたくさん食べて、よく寝ること。あと、無茶は駄目。これはおねーさんとの約束ね。

 剣の道は辛いことが多いと思うけど、きっとエノーなら一人前の剣士になれるよ。だって、私を守ってくれたときのエノーは凄く格好良くて、頼もしかったんだから。

 思い返すと、君との時間は本当に楽しかった。短い時間だったけど、私の思い出で一番の宝物になったよ。本当、楽しかった。

 ねえ、エノー。もし、また会えたら――(塗り潰されている)――今度はビックリするくらい、おいしいパンを食べさせてあげる。期待しとけよぉ!

 それじゃあ、また会う日まで、元気にしててね。

 超絶かわいいおねーさんより。



 不自然に塗りつぶされた文章を、光に当てて透かしてみる。

 カティが何を隠したのか。

 綴り、そして塞いだ想い。

 涙でぼやけた視界の中、彼女の想いを読み取る。


『ねえ、エノー。もし、また会えたら――ずっと一緒にいたいよ』


「うぅ……あああああああああ!」

 喉を曝け出すようにエノーマスは泣き叫んだ。

 優しい人だった。愉快な人だった。

 無鉄砲で、子供っぽくて、それでも誰よりも強い。

 様々なカティの表情を思い出す。

 笑って、怒って、泣いて……どんな表情も好きだった。

 カティが恋しい。

 なぜそばにいないのか。

 彼女のいない世界で、生きていても仕方がなかった。

「カティ=エルスラが死ぬ必要なんて、ありませんでした」

「……っ!」

 自分を責め立てる言葉に、エノーマスは身を震わせた。

「エノーマスさん。この世界は、間違っていると思いませんか?」

「……な、に?」

「私……あの狂った宴から、ずっと夢を見ているんです」

 娘は俯き、喋り出す。

「闘技場で、私は笑っているんです。人が死ぬ光景を眺めながら、周囲の人々と一緒に笑い続けていました」

 悪夢でしかない、と彼女は言い切った。

「私は、そんな風になりたくない。だって……朝霧のように儚く命が消えてしまうなんて、おかしいんです。笑い、泣き、悩み、生きていく……それは命を授かった者達にとっては当然の権利であるはずです」

 泣き出しそうになりながらも、言葉を紡ぐ。

「この世界は狂っています。力を持つ者だけが、世界を支配し、思うようにしている。私は、そんな世界を正したい」

 娘の瞳に力強い意志が宿る。

 エノーマスの目は、彼女の瞳に吸い寄せられていた。

「――命は尊い。死んでいい人なんていません」

 その発言は、カティのことを連想させる。

 カティの死の光景が脳裏で再発し、エノーマスは過呼吸を起こしてしまった。

 呼吸が落ち着くまで、娘はエノーマスに寄り添う。

「……エノーマスさん、この世界を変えませんか?」

 覚悟を決めた娘の瞳をのぞき込む。まるで沼の底から引き上げられたように、酷くクスんでいた。

 あの夜、初めて出会った頃とは別人のように見える。

 ――短い間で、ここまで人は変わってしまうものなのか。

 混濁する意識の中、エノーマスはそう思った。

「綺麗事を抜きに言います。私は、あなたのロード家としての力が欲しいんです」

 念を押して、娘は再度問う。

「私の片腕になりませんか?」

 だが、エノーマスに考える力は残されていなかった。

「もういい……ボクは、カティさんのところに行きたいんだ……」

 カティがいない世界に意味などない。さらに辛い思いをしてまで、戦いたくはなかった。

「彼女は、あなたに何を望んでいましたか? あなたのためだけに綴られた手紙を読んで、まだ、死にたいというのなら、それは彼女の想いを踏みにじることになります」

「……っ!」

『剣の道は辛いことが多いと思うけど、きっとエノーなら一人前の剣士になれるよ』

 死地へ向かうはずのカティは、なぜエノーマスにこのような言葉を託したのか。

 カティの願いは一つだけだった。

「彼女は、あなたに生きてほしいと訴えているんです! 彼女の望みを叶えてやれるのは、あなただけでしょう!?」

 エノーマスは分かっていた。カティの気持ちを理解していた。

 だが、もう無理だった。

 心は壊れかけで、体は満身創痍で。

 このアイト・ハルペという町で、エノーマスは嫌というほど思い知った。

 エノーマス=ロードという剣士の正体は、

「ボクに……何が出来る!? ボクは誰一人、助けられなかったんだぞ!?」

 誰も助けられない、無力な子供だった。


「それは違いますっ!」


 いつのまにか、娘はポロポロと小さな涙の粒を流していた。

 エノーマスの手を握りしめる。

「お忘れですかっ!?」

 娘の言うとおり、エノーマスは忘れていた。


「私の命は、あなたに助けていただいたんです!」


「――」

「長らく待たせてしまい、申し訳ございません……! この命、助けていただき、ありがとうございました!」

 館ですれ違う度、彼女が果たそうとしていたことは、エノーマスへの感謝だった。

 娘は涙を拭いながら、エノーマスに語りかける。

「あなたは決して非力ではありません。あなたがいたから、私はここにいる」

 だから、と言う。

「もっと多くの人々を救ってください。あなたなら出来ます」

 傷だらけの心に、小さな光が灯った。

 子供のように泣き叫びながら、エノーマスは己に問いかる。

 ――ボクに出来るのだろうか。

 答えは出ない。

 今はまだ何が正しくて、何が間違っているのか分からなかった。

 ただ、漠然と、胸の中にある、たった一つのこと。

 カティを守りたかった。

 この想いだけは貫くと決めた。



 少年の物語は始まった。

 この後、少年が選んだ道は鮮血に染まり、死体の山へと続いている。

 その道に救いなんてものはない。

 その道に希望なんてものはない。

 だが、少年の行き着く先に答えはある。

 これは希望へと繋がる絶望の物語。

 物語は――始まった。



〈紅き眼と追憶の獣〉 完


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