7:〈獣人の呪い〉

 翌晩。町中は静まり返り、人々が寝床に入る時刻――スラム街掃討作戦は決行された。

 スラム街から続く道は全て封鎖され、まさに袋の鼠となった。

 マイル=ギラパールの私兵のほとんどが掃討作戦に参加しており、ここに住まう『ドブネズミ』の駆除を行う。

 遠くから聞こえる悲鳴を背景に、エノーマスは一人でスラム街を歩んでいた。

 今は作戦中、戦いの真っ最中であるのにも関わらず、エノーマスの頭にはカティのことで一杯だった。

 ――もう会えないのか。

 子供じみた別れ方に、今更ながら後悔する。

 彼女は、もうこの町にはいないだろう。

「……っ」

 鈍化していた思考が、急激に働き出す。

 視線の先――大勢の人が、エノーマスの行く手を阻んでいた。

 がしゃりと鉄の擦れる音が、響きわたる。

「あんたら、何してんだよ」

 彼らは、ベリオスではない。マイル=ギラパールの私兵団だ。

「貴様を殺しにきたに決まっているだろう?」

 兵士団の群れから、片耳の男――クダリオが姿を現す。

「仕事しろよ、犬ども」

「黙れ、ガキが。貴様をくびり殺して、その首をあの女に突きつけてやる」

 改めて、クダリオという男の愚かさに腹が立つ。

 己に課された役目も全うせず、感情に任せるがまま、愚直にもエノーマスを殺しに来た。

 このような愚行を平然と行う男が、町を守る憲兵の長なのだ。本当に、この町は救われない。

 エノーマスの胸中で激情が蠢き出す。

「あれで懲りてないのか。馬鹿は死ななきゃ治らないっていうのは、本当みたいだな」

「貴様ぁ……!」

 エノーマスは、誰よりも先に剣を抜き、クダリオに切っ先を向けた。

「忠告したよな? 次は殺すって」

「――っ」

 殺意はあった。が、今の行動は全て脅しだ。

 こんな敵陣の真っ直中で、共食いをしている場合ではない。

 もしも、あの獣人が現れたら――エノーマスにとって最悪のシチュエーションだった。

「殺す……! 貴様は! 絶対に! 殺してやる!」

 エノーマスの脅迫は、火に油を注ぐ結果となった。

「かかれぇ!」

 クダリオが部下に突撃命令を下す。

 数は十人。たかが一人を殺すためには、いささか多すぎる頭数だ。

 しかしながら、たかが十人相手に殺されるわけにもいかない。

 エノーマスは剣を構えた。

 先頭を走る兵士に狙いを付けたが、突如として兵士の首に一本の矢が突き刺さった。

 横合いから――それも高所から――の射撃。

 エノーマスが廃屋の屋根を見回すと、そこには十数名もの敵が構えていた。

「馬鹿なぁ!? か、囲まれているだとぉ……!?」

「敵地でバカなことを考えるからだ……っ!」

 この敵の数から察するに、私兵団を狙っての奇襲だ。エノーマスは、とばっちりを受けてしまった。

「放てっ!」

 ベリオスの一人が叫ぶと、矢が雨のように降り注ぐ。

 判断の猶予は、一瞬しか与えられなかった。

 エノーマスは転がるように、廃墟と化した民家に飛び込む。

 矢の雨は避けられたが、私兵団の被害は甚大だった。

 集団での行動は、個々の反応が遅れる。エノーマスのように屋内に逃げることは誰一人として出来ず、彼らは手持ちのラウンドシールドを構えて即死を免れるしかなかった。

 しかし、エノーマスの選択も完全な正解ではない。

 咄嗟に逃げ込んだ民家、その中には武装した敵が潜んでいた。

「――!」

 戦斧が振り下ろされる。

 エノーマスは間一髪のところで回避し、状況を確認した。

 屋内の敵は一人ではない。

 複数人、おそらくエノーマスが入った民家だけでなく、周囲のほとんどの民家に敵が待機しているようだった。

「チッ!」

 敵が、なぜ屋内にも潜伏していたのか。その理由、嫌と言うほど想像できてしまう。

 敵の狙いは――逃走する私兵団の追撃だ。

 エノーマスは、敵から逃げるようにして、再び外に飛び出した。

 弓兵による射撃は止んでいる。

 外では、屋内に潜伏していた敵が姿を現し、私兵団に襲いかかっていた。

 敵は本格的に私兵団を潰すつもりらしい。窮鼠猫を噛む、とはまさにこのことだろう。

 急襲を受けた私兵団の統率力は、完全に喪失している。

 ――あれだと負ける。

 士気は下がり、敵前逃亡を図る兵士もいた。

 一端の長がいれば、全滅は免れただろうが、あのクダリオが並の技量を持っているとは思えなかった。

 エノーマスは、こちらにも刃を向けてくる敵を斬り殺しながら、逃げ出すための経路を探す。

 生身であっても、並の戦士には負けない自信はある。だが、この状況で戦い続けたところで、エノーマスが得られるものは何もない。

 そして何より、

 ――ヤツがいる。

 先ほどから、ぞくりぞくりと寒気が止まらない。

 あの獣人は、エノーマスが染血になるタイミングを狙っている。

「キェエエエっ!」

「!?」

 奇声を上げながら、何者かが斬り掛かってくる。

「殺す! 殺す殺す殺す殺す殺すっ!」

 あろう事か、クダリオだった。相当な悪運を持っているようで、矢の雨と追撃を受けてなお、健在していた。

「いい加減にしろよ……! あんたが考えている以上に、ボクはあんたを殺したいんだ……!」

 激情を抑え込んでいた楔にヒビが入り、殺意は理性の手綱から放たれる。

 戦闘では感情的になってはならない、とライザには常日頃から言われていた。

 ――今はそんなもの、どうでもいい。

 カティを泣かせた、この男だけは絶対に許さない。

 ライザの教えに反することを覚悟の上で、エノーマスは激情に従う。

「私が受けた屈辱! 貴様にはぁ! 何十倍にして、返してやるっ!」

「――そうかよ。望み通り、殺してやる」

 クダリオの剣術は、お粗末なものだった。棒きれを振り回す子供と大差がない。

 こんなもの戦闘にも値しなかった。

 エノーマスは、クダリオが握りしめていた剣を弾き飛ばす。

 宙を舞う剣を見上げ、呆然とするクダリオ。

 エノーマスの剣が、その弛んだ顎肉ごと首を跳ねる――直前のことだった。

「ロードの子よ、そやつはまだ殺してはならん」

 クダリオの背後、あの獣人が現れた。

 エノーマスの振るった剣が届くよりも先に、獣人はクダリオのアキレス腱を両断し、膝裏を蹴り、姿勢を崩させる。

 剣は空振り、豚のような悲鳴が上がった。

「ひ……血……? あっ……ひぃ……あ、あしがぁあああああ!」

 ――助けた?

 クダリオは、ベリオスにとって殺すべき敵のはずだ。

「あんた、どういうつもりだ?」

 獣人に問いかけた。

 しかし、獣人はエノーマスを無視し、仲間にクダリオを運ぶよう、指示を飛ばした。

「な、なんだ……? 何なんだ!? おい、貴様ら、私をどうするつもりだぁ!?」

「悦べ、犬よ。今宵は、お主を持て成してやろう。お主の大好きな『尋問』を用意してやった」

 獣人が薄く笑う。それは加虐に満ちた笑みだった。

「……なっ!?」

 クダリオを抱える仲間に、獣人は更に指示を送る。

「まずは瞼を削げ。目を閉じさせるな。腕を指先から間接ごとに斬り落としていけ。気を失うようなら、焼き鏝で気付けさせよ。冷や水でも良い。痛みで失禁しようものなら、排泄物を全て残らず、口に放り込め。尋問は、こやつの『餌食』になった者たちから優先的にさせよ。絶対に殺すでないぞ。こやつが死にたいと咽び泣いても、絶対に死を与えてはならん。最後は、生きたまま放り出せ。――こやつが犯した悪行は、それすら温い」

 それは呪詛のようだった。

 浮き世離れした内容に、クダリオは震え出し、歯をカチカチと鳴らす。

「な、なぁ! 私の話を聞け!! 何でも望んだものを、くれてやる! もう二度と刃向かわない! 何なら、一緒にこの町を征服しようじゃないか! だから……! お願いします!! たすけてぇえええ!」

「助けて、だと?」

 獣人がクダリオの首を掴み、顔を近づける。

 鼻先がぶつかり合うほどの距離で、クダリオの目を見つめながら――

「お主は、何度その言葉を無視した?」

 そう、言った。

「ぁ……ぅあ……」

「連れて行け」

 涙と鼻水まみれの顔でクダリオは助けを求める。今さっき殺そうとしていたエノーマスに、手を伸ばしてきた。

 エノーマスは冷笑を浮かべ、

「楽しんで来なよ」

 彼を見送る。

「――!!??」

 言葉未満の叫び声を発しながら、クダリオは闇の中に消えていった。

 静寂が訪れる。

 周囲を見渡せば、すでに私兵団の亡骸が道に横たわっていた。

 二十を越える敵がエノーマスを取り囲む。獣人一人さえ勝てるかも分からない実力では、この状況を覆せない。

 しかし――

「お主らは、他の援助に迎え。俺は、ロードの子と話をする」

 獣人の発言に、エノーマスだけでなく、ベリオスの仲間たちも狼狽する。

「何をしておる。半人前ならば、俺一人で事足りる。さっさと行くが良い。……だが、もう一人のロードとは絶対に戦うでないぞ」

 後押しをされた仲間たちは、足早にこの場を離れていく。

 残されたのは、獣人とエノーマスのみ。

「ボクは話すことなんてないんだけど?」

 相手の意図が読み取れない。

 これから殺し合う相手に、何を話そうというのか。

「ロードの子よ、お主はなぜ戦う?」

「なぜって……」

 戦う意味を問われることは、初めてだった。

 産まれ落ちたときから、エノーマスには剣の道が用意されており、その道を進むだけに戦ってきた。

 だから、

「仕事だから」

 剣を振るうのも、人を殺すのも、全ては依頼されたから行うだけ。

「お主の思想は、そこにあるのか?」

「そんなもの、仕事には不要だよ」

 積まれた額だけの仕事をこなす。ロード家の下っ端であるエノーマスには、矜持など持ち合わせる必要がなかった。

「お主も、マイル=ギラパールと同じか。……貴族のように腐乱しておる」

 自己完結するように、獣人は独白する。

「少しは見込みのある男だと思っておったが――残念だ」

 話し合いの終わりを告げるように、殺気が放たれる。

 全身の毛穴が開いていく。

「構えよ。それくらいは見逃してやろう」

「……」

 染血を咎めるような言い回しだ。

 逆手に考えれば、染血になれれば、エノーマスの勝ちということを示している。

 エノーマスは、あえて剣を構えずに思考の時間を作った。

 染血に必要な時間――変身に二秒も掛かり、点眼の動作を含めれば合計三秒となる。

 たった三秒という時間さえ稼げれば、エノーマスの勝ちだ。

 だが、人を殺すには一秒も要らない。

 ならば、どうするか。急拵えではあるが、エノーマスには考えがあった。

 エノーマスは剣を構えず――走り出す。

「っ!? 恥を捨てるか!」

 近場の民家に飛び込み、家々の間を移動していく。

 民家は廃れており、壁や扉がなくなって吹き曝しになっているものばかり。

 身を潜めるには最適の地形だった。

 エノーマスは、元の場所から離れた廃屋の壁に、背を預ける。

 距離は稼げた。これで染血になれる。

 剣士としての戦いは白旗を上げたが、殺し合いで負けるわけには行かない。

 エノーマスは親指を裂いた。

 点眼しようと、顔を仰ぐ――その視線の先に、獣人がいた。

「獣の知覚を嘗めるでない」

 廃屋には屋根がない。屋根を伝って、獣人が飛び降りてきたのだ。

 踏みつけるような蹴りを辛うじて躱す。

 だが、室内に溜まった砂埃が舞い上がり、獣人の姿をすっぽりと隠してしまった。

 エノーマスは、一歩退く。

 まるでその一歩に併せるように、獣人は砂埃のヴェールを脱ぎ捨て、突貫してきた。

 蹴りが、腹を打つ。

「あ、ぐぅ……!」

 エノーマスは激痛で怯む。

 その僅かな隙を狙い、獣人は小刀を突き出した。

 首を穿とうとする一撃。

 剣を振るうには、室内は狭すぎた。

「――!!」

 視界の隅、足下に転がる木製の椅子。その椅子に足を引っかけ、蹴り上げた。

 デタラメに回転しながら浮上する椅子を掴み、障害物として利用する。

 右手に剣、左手に椅子。

 尻を乗せる『座』の部分に、小刀が突き刺さった。

 咄嗟の機転がチャンスを生む。

 相手の小刀を封じた。このまま椅子を捻るように引っ張れば、相手は釣られて、姿勢を崩すはず。

 だが、エノーマスが行動を起こす直前、獣人は躊躇なく小刀から手を離した。

「……なっ!?」

 獣人が旋回する。

 後ろ回し蹴り。まるで鉄球を振り回したような威力の一撃は、椅子を粉々に砕いた。

 椅子が飛散する。

 向こう側、獣人は『何か』を投げてきた。

 一直線に『何か』が飛んでくる。

 それは、椅子の破片だった。

 剣をコンパクトに振るい、被弾を免れた。

 尖った木片を瞬時に選定し、掴み取り、そして的確に投擲する。エノーマスには、絶対に真似の出来ない芸当だ。

 エノーマスが木片を払えたのも、相手の狙いが正確すぎたからこそ成功した。

 獣人は首や心臓を狙っている。

 染血への可能性を極めて低くするためだろうが、そのおかげでエノーマスは紙一重のところで命を繋ぎとめることが出来た。

 向こうも必死なのだ。

「このっ!」

 椅子の残骸を投げる。

 相手が避けようが、払おうが、構わない。これは逃げるための一手だ。

 エノーマスは廃屋の窓から逃げ出し、通りを走る。

 獣人は追ってきた。

 身体能力は、向こうが上。いずれ追いつかれてしまうだろう。

 じりじりと選択肢を削られていく中、エノーマスの目にはスラム街の鐘塔が目に留まった。

 ――あそこなら……!

 土地勘のないエノーマスでも、鐘塔は昼間に一度踏み入れた。

 内部の構造を理解した上で、エノーマスは一つの作戦を思いつく。

 行き先を鐘塔へ。

 追いつかれないよう、必死に駆けた。

 近くなっていく鐘塔。

 鐘塔の前に、門番の姿はなかった。

 木造の扉を蹴破り、鐘塔に入る。中はモヌケの空となっていた。

 エノーマスは階段を登る。

 距離が詰められていくことが、足音で分かった。

 いつ、背後から小刀を突き立てられるのか。そのような不安と恐怖に苛まされながらも、エノーマスは屋上までたどり着いた。

「はぁ……はぁ……っ! はぁっ……!」

 足が上がらず、心臓は張り裂けそうなほど早鐘を打つ。すでに体力は底を尽き、戦えるような状態ではなかった。

「死に場所を決めたか?」

 獣人は、息を切らしていない。

 手にした小刀をエノーマスに向けた。

「よもや、俺を高所から突き通す算段ではあるまい?」

「はぁ……はぁ……そうだと言ったら……?」

「浅はかな……」

 獣人が肉薄する。

 エノーマスは数歩下がり、獣人の刃を数回凌ぐ。

 初めて獣人と戦ったときと同じ流れだ。

 後退することしか出来ず、最後には――追いつめられる。

 あと一歩でも退けば、エノーマスは鐘塔から落ちてしまう。

 鐘楼は、人の出入りが少ないために、柵などを設けていない。ここから踏み外せば、高度50mから一気に真っ逆様だ。

 ――ここだ。

 エノーマスは剣を振るう。

 生死をかけた一撃。

 それを、獣人は意図もたやすく弾いた。

 握力が弱まったせいで、剣を手放してしまう。

 鐘塔から落下していく剣。それはエノーマスの行く末を示唆していた。

「くっ……!」

 首を射抜こうとする、刺突が迫り――鮮血が飛び散る。

「見苦しい真似を……!」

 獣人が苦々しく言い放つ。

 盾代わりとして突き出した両手が、小刀に貫かれる。

 滴る血。

「……お主!」

 それを見た獣人は、我に返るように表情を一変させる。

「始めから、それが狙いだったか!」

 エノーマスは、一歩下がった。

 そこに床はない。

 ずるりと小刀が両手から抜け、エノーマスを留めるものはなくなった。

 身体は宙へ。

 そして、地面へと落下していく。

 途端、空気の摩擦が強風となって、全身を煽ってくる。

 小さくなっていく獣人の影。

 流れいく鐘塔の外壁。

 下へ、下へ、引っ張られていく。

 数秒後には地面にぶつかり、エノーマスは胴体を破裂させ、四肢を吹き飛ばして死ぬだろう。

 だが、この数秒は――誰にも邪魔されることはない。

 それこそ純粋な獣でなければ。

 エノーマスは両手から流れる血を親指に塗る。血塗れの親指を眼球にすり付けるように押し込んだ。

 途端、身体の性質が、再構成される。

 黒から白へ。青から赤へ。

 そこに黒髪の少年はいない。いるのは、血のような紅い瞳をした少年だけだった。

「――!!」

 地面が迫る。

 空中で姿勢を整え、獣のように四肢で着地する。

 衝撃が走った。両手両足に負荷がかかるが、大したダメージには至らない。

 生身なら衝撃に耐えきれず、骨は砕け、内臓をぶちまけて、死んでいただろう。

 だが、染血を有するロード家は違う。

 人の形をしながら人ならざる者――それがロードを冠する者。

 50mの落下など命の危機にもならない。

 エノーマスは、落ちている剣を拾い、塔を見上げた。

「外から行くか」

 両足を曲げ――跳躍する。

 しかし、さすがに50mも一気には飛べなかった。

 エノーマスは上昇の加速が緩やかになったところで、塔の外壁に剣を突き刺す。身をひねり、外壁の僅かな出っ張りに足を引っかける。

 剣を引き抜き、壁を蹴る。

 外壁スレスレとなる直線軌道を、二回。

 数秒もしない内に、エノーマスは獣人の目線と同じところまで飛び上がった。

 獣人と目が合う。

「見事……!」

 小刀を一閃。その太刀筋は、今までとは段違いの速さだ。

 しかし、それは染血のエノーマスには遅すぎた。

 剣を振るう。

 エノーマスの斬撃は、小刀ごと獣人を叩き斬った。

 袈裟切り。

 深く抉るような一撃を食らった獣人は、ふらりと地面に倒れる。

「……」

 あの獣人に、勝った。

 自分よりも遙かに強い相手を倒せた――そうだというのに、爽快感や達成感は微塵も感じられない。

 剣客として、エノーマスは始めから完全に敗北していた。ロード家でなければ、初めて戦ったあの晩に死んでいただろう。

 複雑な心境のまま、エノーマスは立ち去ろうとした。

「こふっ……」

 倒れている獣人が、血を吐く。

 まだ生きている。

 エノーマスが歩み寄ると、獣人にはまだ息があった。

 しかし骨は砕かれ、内臓まで傷は届いている。いかなる奇跡が起きようと、獣人の死は避けられない。

 うっすらと目を開く獣人。その血だらけの唇を動かした。

「まったく…………酷い人生だ……。……自分の目的のために、己の妹を巻き込み……志半ばで尽きるとはな……」

「なぁ……あんたたちは何がしたかったんだ?」

 これほどの猛者が命を取してまでも叶えたかった野望。ただの知的好奇心だったが、エノーマスは聞きたくなった。

「……世直しだ」

 獣人の目は、もう機能していない。濁った瞳が、宙をさまようだけだった。

「貴族が我々に何をしてきたのか……、お主は見ていただろう……?」

「やっぱり、見逃してくれてたのか」

 エノーマスの言葉に、獣人は反応しない。すでに耳も聞こえなくなっているのだろう。

「どちらが……正しいのか。どちらが……間違っているのか。…………お主の目には、この町がどう映った?」

「それは――」

 心優しき人々が住まうスラム街。

 私欲を肥やす貴族。

 貴族の威を借り、傍若無人に支配する憲兵たち。

 エノーマスが考えを巡らしている間に、獣人の息は途絶えていた。

「……」

 何が正しいのか。

 何が間違っているのか。

 その問いは、まるで呪いのように、エノーマスの頭の中にこびり付く。

 誰が正しいのか。

 誰が間違っているのか。

 思考は、呪い蔦に囚われ、雁字搦めになっていく。

 エノーマスは、この町で出会った人々のことを思い出しているうちに、カティへとたどり着いた。

 唯一正しいと思える人。

 カティのことを考えると、今まで絡みついてきた呪いから、すんなりと解放された。

 同時に、疲労が一気に押し寄せる。

 染血状態を解き、生身となったエノーマスは座り込んだ。

 下を向けば、老若男女の死体が転がっている。

 耳を澄ませば、誰のものか分からない悲鳴が続いている。

 だが、夜空を見ていれば関係なかった。

 何も見なくていい。

 何も聞かなくていい。

 綺麗な星空を眺めながら、カティのことを想い続ける。

 やがて、作戦終了の笛が鳴った。

 笛の音が夜風に溶け込むように、獣人の呪いもエノーマスの中で希薄となっていく。


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