6:〈繋がり、別れる二人〉

 朝霧に包まれた町を、エノーマスは歩いていた。

 鳥たちのさえずりを聞きながら、館にたどり着く。

「ずいぶんと遅い帰りだね、エノー」

 館の正門、衛兵の代わりにライザが門番をしている。

 氷のように冷ややかな瞳からは、何の感情も読み取れない。

「兄さん……? どうしたの?」

「女に固執してはならないよ、エノー」

 まるでこちらのすべてを見透かすような一言だった。

「遊び程度なら、俺は何も言わないさ。ただ、女って言うのは平気で男を裏切る。気を許しちゃいけない存在だよ」

「あの人は、そんな人じゃない」

 ライザの重圧に耐えつつ、エノーマスは言い返す。

 すると、ライザは深いため息を吐き、

「エノー。カティ=エルスラとは、もう二度と会ってはいけないよ」

「なんで……!?」

「簡単なことさ。エノーは、あの女に心酔している。利用される前に、離れるべきだ」

「カティさんは、悪い人じゃない。ボクを利用しようなんて――」

「本当に?」

 眼光が鋭くなる。

 獣の耳を生やしたカティの姿が、エノーマスの脳裏を過ぎった。

「はぁ……まさに思う壺って奴だね」

「違う! 兄さんは、カティさんのことを知らないから――」

「エノー。今まで言わなかったけど、実は明日の夜に大規模な作戦が決行される」

 今までの流れを無視して、ライザは話題を変えてきた。

 ライザが口論から逃げたと思っていたが、彼の内容は聞き流すことは出来なかった。

「スラム街を封鎖し、不穏分子を制圧する。いわゆる大掃除さ」

「どうして、黙ってたのさ……?」

「ここ最近のエノーの腑抜けっぷりは、酷かったからね。いいかい? これは仕事なんだ。早く一人前になりたいのなら、その甘えた考えを正した方がいい」

「……っ!」

「エノー、次はないよ」

 そう言い残し、ライザは館へと戻っていく。

 エノーマスは霧が晴れるまで、その場から一歩も動けなかった。

 しばらくしてエノーマスは動き出す。

 行き先は、館ではない。

 錨を失った船のように、エノーマスは町を漂流した。

 歩きながら深く思慮する。

 ライザの言葉は正しいかもしれない。

 カティがベリオスに関与している可能性は、エノーマスも薄々気づいていた。

 だが――彼女がベリオスに所属するはずがなかった。

 カティは、良い人だ。人を殺し、子供を誘拐するような組織は絶対に許さない。

 ライザに対する否定要素が、いくつも浮上してくる。

 クダリオを殺そうとしたときも、カティはエノーマスを止めた。ベリオスにとって重要な殺害対象を庇うことは、理に反している。

 そして、あの獣人とカティは縁もゆかりもない。混血種ということもあり、獣人という種族は珍しいが、大都会ではよく見かける。

 そう、彼女は陽の当たる世界で生きる人だ。あの血生臭い獣人とは、住む世界が違う。

 自問自答は終え、得るべき答えが出た。

 すでに陽が昼時を示している。

 エノーマスは行く。

 カティのいるパン屋へ。



 エノーマスが壊した扉は、使い物にならなかった。

 店をがら空きにさせるわけもいかず、木材で補強した結果、扉は本来の役目を果たせなくなり、『壁』としての役目を負う。

 パン屋にたどり着くが、営業中を示す看板は出ていない。代わりに、扉を固定している木材に、『おやすみ』とヘタクソな文字が書き殴られていた。

 エノーマスはパン屋の裏手に回り、裏口の扉をノックする。

「カティさん?」

 反応はなかった。

 昨日のこともあってか、寝ているのかもしれない。

 ――もしクダリオが戻ってきていたら……。

 しかし小さな不安は、要らぬ想像を掻き立て、エノーマスの正気を蝕む。

「入りますよ」

 鍵は掛かっていなかった。

 裏口から店内に入る。

 戸締まりをしているため、店の中は薄暗かった。

 静寂が不安を煽る。

 カティの名を大声で呼びかけようとした――そのとき、

「あぅ……」

 小さな悲鳴が聞こえ、エノーマスの思考は真っ白になった。

「カティさん!!」

 声の聞こえた部屋の扉を開ける。

「はにゃ!?」

 そこは寝室だった。

 ベッドの上にカティは居る。ただし――上半身裸の姿で、だ。

「あれ……?」

 他には誰もいない。クダリオも、兵士も、誰も。

「良かった……」

 単なる思い過ごしで終わり、エノーマスは安堵する。

 ならば、あの悲鳴は何だったのか。

 カティの様子を観察する。

 エノーマスの来訪に驚嘆しているのか、彼女は目を丸めたまま硬直している。

 ピンと突き立つ、獣の耳。昨日は、これに意識が集中してしまったが、改めて彼女の体には異変があることを気づかされた。

 カティの右腕に、包帯が撒かれている。うっすらと血が滲んでいることから、傷は浅くないのだろう。

 そこで、ようやく事の経緯が読めた。

 包帯は、半ば解けている。おそらく、包帯を代えようとしたところで痛みが走り、苦悶の声を上げてしまったのだ。

「……ん?」

 ――打ち身じゃない……?

 不意に、妙な引っかかりを覚えた。

 何かを忘れているような気がして、それでいて思い出せない。

 エノーマスは考え込むが――

「で……出てけー! この変態ぃ!」

 半泣きのカティに叫ばれて、いそいそと部屋の外に出た。

「す、すいません……」

 寝室の扉に背を預け、エノーマスは謝る。

「えっと……カティさんが心配で、その……一応、ノックはしたんですけど……」

 どう説明して良いものか、悩んでしまう。

「とりあえず、すいませんでした。……帰ります」

 安否が確認できたことで、エノーマスの不安は取り除かれた。

 ――時間を置いて、少し頭を冷やそう。

 瞼の裏には、カティの艶めかしい裸体が焼き付いている。

 安堵の後に沸き起こる感情は――劣情だった。

「……っ」

 邪な気持ちを砕くよう、頭に拳を打ち据える。

「エノー、そこにいて……」

 もう一発、邪念を振り払う鉄拳を額に叩き込もうとしたところで、カティの声に意識が行く。

「昨日はありがとう。エノーが来てくれなかったら、テッドや私は殺されてたと思う」

 クダリオが憎かったから――と言い逃れようとしたが、エノーマスは自分の気持ちに嘘をつけなかった。

「仕事、大丈夫だった?」

「大丈夫です」

 本当のところは分からない。館に戻ったら、仕事を下ろされる可能性もある。

 だが、それはカティには関係ないことだった。

「……」

 カティはエノーマスの言葉を信じていないのか、しばし無言になる。

 気まずい間が生まれ、そして、

「お尻の傷……見た?」

 新たに話を振るのは、カティだった。

「……いえ、見えませんでしたけど……?」

 包帯と裸体に意識が集中していた、などとは言えない。

「そっか。古傷なんだけど、結構大きくてねぇ……。おねーさんとしては恥ずかしい限りなのですよ」

「全く気づきませんでした」

「エノーはえっちだなぁ」

 こちらの考えが見透かされていたようで、ぐうの音も出ない。

「その古傷ってね……兄がやってくれたの」

「やってくれた?」

 カティの言い回しが妙で、つい復唱してしまう。

「うん。獣人としてでなく、人として生きれるようにって……尻尾をバッサリとね」

 獣人や亜人なら、当然のように生えている尻尾。それは人が持たざる体質だ。

「最初は、人でもなく獣人でもなくなるように思えて嫌だった……。けど、今では感謝してるの。だってね、大好きなパン屋が出来るんだもん」

 声が弾んでいる。扉越しではあるが、カティの綻ぶ表情は分かった。

「……でも、エノーからすれば気持ち悪いでしょ? 獣の耳とか、尻尾とかって」

「いえ、そんなことはないです」

「いいよ、気を遣わなくても」

 獣人としての特徴は、彼女にとってコンプレックスなのだろう。

 だがエノーマスからすれば、素のカティの方が何倍も魅力的に感じた。

「ボクは――ありのままのカティさんの方が可愛い、と思います」

 それは紛れもない本心だった。

「…………」

「カティさん?」

 沈黙がやけに恐ろしく感じる。だが――

「いいいいいい、いま、部屋覗いちゃダメだからねっ! 私、すっっっごく、だらしない顔してる……!」

 パンパンパンッと、肌を叩く音が三回。それに、言葉にならない奇声が一吠え。

 しばしの静寂の後、寝室の扉が開いた。

 服は着ている。だが、いつもの仕事用ではなかった。

「うぅ……おねーさんを動揺させるとは、エノーのくせに生意気な……」

「はい?」

 ボソボソと喋って、よく聞き取れない。

「何でもない……っ!」

 赤面を隠すようにカティはハンチング帽を、ぎゅーっと深く被り、エノーマスの視線から逃れる。

「それよりもエノー……、今日って暇?」

「ええ、暇ですよ」

「それなら! おねーさんと一緒にお散歩しなさい!」

 何を思っての提案かは分からない。

 しかしエノーマスに断る理由はなかった。

「いいですよ」

「……!? よ……よーしよーし! エノーは良い子だねぇ!」

 二つ返事にカティは、あからさまに驚いていた。

「それと! それとね! あのね……! その、剣……ちょっとだけ、ここに置いてってくれないかな……?」

「駄目ですよ。剣がないと、カティさんを守れません」

「はうあっ……! ストレートなことを……さらりと言った……!」

 カティの顔は、湯気が立ちそうなほど真っ赤に染まっている。

「で、でもでも……! 危なくなったら、一緒に逃げよ! だから、お願い!」

 懇願され、エノーマスは困り果ててしまう。

 その後も必死にカティに言い寄られ、結果的に剣を店内に置いていくこととなった。

「いいですか? 危険だとボクが思ったら、絶対に従ってくださいよ」

 あまりのしつこさに、エノーマスは膨れっ面で言う。

 しかしカティは、エノーマスとは対照的に、満面の笑みを返した。その顔からは、すでに赤みは引いている。

「はいはい、それじゃあ、しゅっぱーつ!」

 エノーマスは背を押され、パン屋の表に出る。

「あっ! エノー、ちょっと待って!」

 唐突にカティは立ち止まり、パン屋の外観を眺めた。

 パン屋に向ける目は、愛おしむようでありながら、悲しみの色が混じっている。

「さあ、行こっ」

 そう言い、カティはごく自然の流れで、エノーマスの手を取った。

 自分よりも遙かに小さな手に包まれる。

 その思わぬ行動にエノーマスは、目を白黒とさせた。

「イヤかな……?」

 上目遣いに、心臓が高鳴る。

「い、いえ……別に、構いません……」

「えへへ……」

 カティが、はにかむ。

 エノーマスは自分の手から鼓動が伝わってしまうのではないかと、ビクビクしながら、その手を握り返した。

 ぎこちない手の繋がりは、まるで心まで繋がったように思えた。



 カティと並び、歩く。

 たわいもない会話。互いの知らないことを聞き合い、話に花を咲かせた。

 手と手を握る姿に、行き交う人々が目を向けてくる。

 エノーマスは恥ずかしくも、どこか誇らしく感じた。

 宛もなく、目的もなく、町を練り歩く行為に意味はない。

 ただ、カティと一緒にいるだけで楽しかった。

 ――こんな時間が永遠に続けばいい。

「行きたい場所があるの」

 しかし、この世に永遠はない。

 カティに連れられて、エノーマスは再びスラム街に足を踏み入れる。

 危険な場所だったが、それでもエノーマスは彼女といる時間を優先させてしまった。

「とっておき場所なんだけどね……。ほら、あっちに塔があるでしょ? あそこ」

 スラム街の奥、遠くからでも、その巨影は色濃く見える。

 高さ50mは越えるであろう鐘塔しょうとうだ。近くに寄って気づいたが、鐘はなくなっている。

「まさか、入るんですか?」

 鐘塔の入り口には、筋骨隆々の門番がいた。

 門番は、ベリオスの人間かもしれない。しかし、エノーマスはそれをカティに確かめられずにいる。この居心地の良い関係を捨て、真実を知ることを恐れたからだった。

「大丈夫大丈夫。ここには何度も入ってるから。この塔には、小さな子供やお年寄りたちが住んでてね。あの厳ついおにーさんが守ってくれてるの」

「それなら、なおさら、部外者のボクがいると駄目なんじゃ……」

「おねーさんに任せなさいって。ここらへんじゃあ、結構顔が広いんだから! ちょっと話してくるから、エノーはここで待っててね!」

 するりと手が離れていく。

 カティの温もりを名残惜しく感じつつも、エノーマスは黙って行く末を見守った。

 門番はカティを見るなり、深々と一礼した。本当に顔が広いらしい。

 二人の会話は聞こえなかったが、大体の様子は見て分かった。

 カティは門番の肩を叩いた後、エノーマスを指さす。

 門番と目が合う。

 警戒と敵意が伴った視線をぶつけられたが、それでもエノーマスは目を逸らすことはなかった。

 門番は、エノーマスにも見えるように首を大きく横に振るう。

 交渉は決裂――そう思った瞬間、カティが門番の股間を蹴り上げた。

 巨漢が一瞬浮かぶほどの強烈な一撃。

 地面に倒れる門番を放置して、カティはエノーマスの元に戻ってくる。

「許可出たよ! やったね!」

「誰がどうで見ても、出てませんよ」

 門番は、衰弱した芋虫のように痙攣していた。

「大丈夫大丈夫!」

「あとあと、大事になっても知りませんよ……」

 再び、手を握り合う。

 カティと繋がれたことが嬉しく、エノーマスは彼女に誘導されるがまま、鐘塔の中に入っていく。

 鐘塔の内部は正方形の階層が、いくつも積み重なって出来ていた。

 下層では、カティの言うとおり子供や老人の姿が多く見られたものの、登るに連れて人気がなくなっていった。

「そろそろだよ」

 最後の階段を上がり切る。

 塔の最上階、そこは鐘楼だった。

 だが本来あるべきはずの鐘は、そこにない。この地域が放棄されたとき、鐘は融解され、今は武器や日用品に姿を変えてしまっているらしい。

 唯一残された鍾架だけが、物寂しさを醸し出していた。

「エノー、こっちこっち!」

 カティに催促されて、エノーマスは外を俯瞰する。

 広がっていく視界。

「――」

 鐘楼からの眺めは、壮大だった。

 眼下には町並み。遠くには巨大な山脈が連なり、方角を変えれば大地の果てに水平線が僅かに見えた。風景の一角は森で覆い尽くされ、やがて人工物は自然に呑まれていくのではないかと錯覚してしまう。

 360度に描かれた名画のような絶景に、エノーマスは言葉を失ってしまった。

「いいよね、純粋な獣って」

 ぽつりとカティが呟く。

「鳥は、こんなにも風景をいつも見てる。自由に空を飛んで、自由に羽ばたいて、自由に生きていく……。それって、ちょっぴり羨ましい」

 人間でもなく獣でもない。中途半端で、居場所のない存在――それがカティだった。

「カティさ――」

 バサバサバサッ!

 突如、激しい羽ばたきがエノーマスの声を埋めた。

 渡り鳥だ。何十羽もの渡り鳥が、なぜかエノーマスとカティの周囲に群がる。

「ありゃりゃりゃ!? なななな、なにこれぇ!?」

 成体でも10cmほどのサイズではあるものの、大量の鳥に囲まれて、カティは半狂乱になっていた。

 鐘楼に柵はない。一歩でも高台から踏み外したら、それが最期となるだろう。

「カティさん、落ち着いてください」

 渡り鳥が、こちらに危害を加えようとする様子はない。一時的に羽を休めるために、ここに集まっただけだろう。

 エノーマスは、馴れ馴れしく肩に止まっている鳥を払う。

 カティも必死に鳥と格闘していた。ハンチング帽の上にドカリと座る図々しい鳥をペチペチと叩くも、まるで気にしていない。

「退いて! 退いてって! もー、この帽子、お気に入りなのにぃ……! もぉおお!」

「ぷっ……」

 彼女の姿が可笑しくて、ついエノーマスは噴き出してしまった。

「え……?」

 すると、カティは信じられないモノを見るような目をする。

「笑った……。エノー、笑えるんだ……」

「え? 笑ってませんでしたっけ……?」

「笑ったことないよ! いつも、こう……ブスーっとしてて、何考えてんだか分かんないもん!」

 エノーマスの顔真似をしているようだが、その変顔が笑いのツボを刺激する。

「あははははは! その顔は酷いですよ……! ははははは!」

 大笑いするエノーマスに釣られ、カティも笑い出す。

 すると、今までカティの頭から頑なに動こうとしなかった鳥が、飛び降りた。

 特に面白いことでもないのに、笑いの波が起こる。

 鳥の鳴き声と二人の笑い声。

 それは、長く続かなかった。

 カティは突然何かに気づいて、眉をひそめる。

「……あれって、まさか……?」

 視線は、遠くの空に向けられていた。

 カティの視線を追うと、快晴の青空には一点の影があった。

 遙か彼方の空でも、小さく映る姿は、そのモノの巨大さを物語っている。

「ドラゴンですね」

 伝説の生物と呼ばれている存在――ドラゴン。長い首に、ぷっくりとした胴体。一対の翼は、コウモリの翼とよく似ている。

 ドラゴンはたった一匹で小国を滅ぼす、とまで言われ、彼らの存在は天変地異に匹敵する。

「生きてるドラゴンって初めて見た……」

「ボクもですよ」

 ドラゴンは、ただただ一定の場所に留まるように旋回していた。

「あぁ、そっか……。この子たち、ドラゴンが怖くて、ここに止まったんだ」

 カティは、足下で行き交う鳥たちに目を落とした。

「君たちも、自由じゃないんだね……」

 憂いを帯びた表情。

 カティが何かを諦めたようにも見えて、エノーマスは胸が苦しくなった。

 少しでも彼女のためになりたい。

 そう考えていたエノーマスを邪魔するように、旋回をしていただけのドラゴンが大気を振るわせるほど咆哮を発した。


 るぅおおおおおおおおおおおおお!!


 凄まじい声量に、鳥肌が立つ。

 遙か遠い距離であるはずなのに、まるで滝の轟音を身近で聞いているようだ。

 しかし、なぜか咆哮に一切の恐怖を感じなかった。

「なんだか悲しいように思えますね……?」

「死別の咆哮って、本当にあったんだ」

 カティの一言で、エノーマスは理解した。

 死別の咆哮――ドラゴンが親や子を亡くしたときに叫ぶ、泣き声だ。

 お伽噺でしか語られていない習性だが、実在するとは思ってもいなかった。

「別れは急だもんね……。そりゃあ、悲しいよ」

 カティの表情を見る。悟ったような表情に変わっていた。

「あのね、エノー。――私、この町から出て行く」

 ずきん、と胸が激しく痛む。

「たぶん、もうパン屋は出来ないだろうなぁ……」

 エノーマスは、分かっていた。

 パン屋の外装を眺めるときの、あの目――あれは別れを決意した目だった。

「ボクは、カティさんのパン……嫌いじゃありませんでした」

「ふふっ、ありがと」

 他にも言うべき言葉があるはずなのに、喉からは何も出てこない。

「スラム街の人たちにも、別れを告げないと」

 不意に、ライザから伝えられた掃討作戦のことを思い出した。

「……夜は近づかないでください」

「分かってる、分かってる」

「そうじゃなくて――」

 エノーマスは逡巡したが、それも一時的な迷いだった。

 明日の晩に行われる掃討作戦を、カティに伝える。

 作戦の内容を聞いたカティは、顔を青ざめさせ、口元に手を当てた。

「そんなの……酷すぎる」

「……」

 カティの義憤を、素直に受け止めることは出来ない。

「エノー、教えてくれてありがとう」

 真剣な彼女の眼差しに、エノーマスは複雑な気持ちを抱いていた。

 情報漏洩が、もしもライザや雇い主のマイル=ギラパールなどに知られてしまったら、ロード家の信用は失墜する。

 自分の行いが裏切りであることを理解しているからこそ、エノーマスは何も言えず、沈黙に徹していた。

「……誰か来るね」

 階段を上る足音が聞こえる。

「いくら頭の妹でも、余所者をここに入れるのは困りますぜ……カティさん」

 足音の主は、門番だった。

 門番は腰を曲げたまま、不自然な姿勢で歩く。どうやら急所を打たれたダメージが残っているらしい。

「まさか、こいつが例の――」

 エノーマスを見て、何かを言おうとする門番。その股間に、再びカティの右足が食い込んだ。

「せいっ!」

「あひん!」

 口から泡を吹きながら、門番は前のめりに倒れる。

「やばっ……クリーンヒットしちゃった……」

 白目を剥き、痙攣し始める門番。

「何してるんですか……」

「いやぁ、怒られるの嫌でしょ? それで、つい……」

「それが、大人のやることですか」

「そんなことより! 逃げるなら、今のうちだよ! 走れー!」

 半ば強制的だったが、カティに手を引かれ、エノーマスは鐘塔を後にした。

 鐘塔を出てからは、歩みを緩やかにして共に帰路に付く。

 残された時間は短い。

 別れを惜しむことで、エノーマスは口数を少なくなっていく。

 しかしエノーマスが思うよりも早く、別れは訪れた。

 スラム街との境で、カティは立ち止まる。

「エノー、ここでお別れだね」

 手と手の繋がりが断たれた。

「どうしてですか? まだ家じゃないですよ?」

「スラム街の人たちが、一人でも多く逃げられるようにしなきゃ」

「……そう、ですか」

 和やかなカティの表情。

 これが最後になるような気がした。

 何か告げるべき言葉があるはずなのに――

「また、会いに行きます」

 エノーマスは逃げるように背を向けた。

「うん。ばいばい」

 カティの声が、心の奥に染み込んでいく。

 嫌だ、と言ったら彼女はどんな顔をするのだろうか。

 ――離れたくない。

「カティさん……!」

 衝動に駆られ、エノーマスは振り返る。

 しかし、そこにカティの姿はなかった。

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