5:〈芽吹く想い〉

 数日が経過したが、ベリオスは目立った行動を起こしていなかった。

 エノーマスが夜回りをしても、例の獣人やデキミアは姿を現さず、静寂な夜の散策が続く。

 それが嵐の前の静けさなのかは分からない。

 だが、エノーマスはその穏やかな日々が少しでも永く続くことを、心のどこかで願っていた。

 闘技場が完成するまで、あと十日ほど。

 カティと過ごす時間は、日を追うごとに増していく。



「ふわぁ……」

 間延びした欠伸。

 包み込むような暖かい陽気が、エノーマスの眠気を誘う。

「そこ! 欠伸しない! 真面目に働く!」

 カティの怒声が飛んでくるが、聞き流して、欠伸をもう一回。

 パン屋の裏側、小さな庭でエノーマスは薪割りをしていた。

「ボク、無償の手伝いなんですけど」

 斧を振り下ろすと、パカンと気持ちの音がして、薪は二つに割れた。

「だまらっしゃい! 怪我してる女の子に薪割りさせるつもり!?」

 すぐに治ると主張していた右腕は、未だ完治していない。それが、エノーマスが代わりに薪割りをしている理由でもある。

「女の子っていう歳でもないでしょう」

 パカン。薪が両断される。

「はぁあああああん!? 誰がオバサンですってぇ!?」

「言ってませんよ。……というか、店はいいんですか?」

 まだ営業時間は終わっていない。だというのに、カティはわざわざ店の椅子を外に引っ張り出し、ドカリと座った上で、エノーマスにちょっかいを出している。

「えー、だって、暇なんだもん」

「だったら、少しはパンの味を向上させようっていう気はないんですか……」

「ただいま、向上心は休業中でございまーす。残念でしたー」

 このパン屋は確実に潰れる。エノーマスは、そう確信した。

「はぁ……」

 カティの自由さに気後れする。

 エノーマスは視線を上げ、遠くを眺めた。

 空を蝕む巨大な影――闘技場。

 あれが完成した場合、人の出入りが更に多くなる。いくら不味いパン屋でも、始めの数ヶ月は黒字が出せるだろう。

「いくら闘技場が完成するからって、少しは整えた方が良いと思いますけどね」

「……」

 トンデモ屁理屈が飛んでくるかと思っていたが、カティの反応は薄かった。

 視線を外し、黙り込む。

「カティさん?」

「エノーってさ……闘技場に興味ある? 剣士だから、強い奴を見てみたいとか……戦ってみたいとか……」

 不意な質問だったが、エノーマスは首を横に振る。

「人殺しを楽しむ趣味なんてないですよ」

 カティが小さい吐息を漏らす。その様子は安堵しているように見えた。

「それに……人殺しって見ていて楽しいもんですかね?」

 闘技場は人殺しを行う場であり、それを見て楽しむ場所でもある。

 観客は、剣を握ったこともない貴族たちが主だろう。

 大陸での戦争が減少し、死ににくくなった現代だからこそ、人殺しが娯楽として成立する。いつしかライザが言っていたことだった。

 だが、人殺しを生業とするエノーマスには、いまいちピンとこない話でもある。

「命を弄ぶ奴らのことなんて、私は理解できない」

 その声には、怒りに近い感情が含まれていた。

 先日カティが、クダリオ相手に食ってかかったことを思い出す。

「……カティさん、何かあったんですか?」

 愚直なまでに、ストレートな聞き方だった。だが、それほどまでにカティについて知りたいと思っている。

「んーん、何もないよ」

 カティは否定するが、その嘘はバレバレだった。

 じっと何も言わずに見つめる。

「うーん、弱ったなぁ……。そんな情熱的な目で見られると、おねーさん困っちゃう」

 独り言のように言い、カティは椅子から立ち上がった。そのまま店に行ってしまうかと思っていた――が、

「……私の母親は、奴隷だったの」

 告げる言葉は重く、エノーマスは斧を思わず落としてしまう。

「ど、れい……?」

「母は貴族の家畜で、消耗品だった。今の私よりも若い頃、主の子供を身ごもってさ……使えない道具は要らないから殺されそうになって、逃げ出したの」

 奴隷は、道具として扱われる。持ち主が不要だと思えば、どのように処分しても構わない。それは、この国のどこでも同じだ。

 奴隷は――人間ではない。

「私たちが、そのときの子供なの」

「……私、たち?」

「兄がいるって言ったでしょ? 私たちは双子なの」

 カティは話を戻す。

「母は、息を引き取る瞬間まで貴族の残虐さを教えてくれた」

 淡泊な語りとは裏腹に、彼女の表情には憎しみが現れていた。

「貴族はみんな人でなしよ。心なんてものを持ってない。だから、変えなきゃいけない。――誰もが当然のように生きれる世界を作るために」

 何か取り憑かれたようにカティの視線は、宙をさまよう。その様は、エノーマスの知っているカティではない。

 このまま放っておけば、彼女は別人になってしまいそうで恐ろしかった。

 エノーマスは混乱する思考の中で、言葉をひねり出す。

「奴隷は奴隷としての生き方があり、貴族は貴族の生き方がある……。そう、兄は言っていました……。だから、その……」

 言いたいことが纏まらず、しどろもどろになってしまう。

「それならさ……私は、?」

 カティは気味が悪いほど柔和な笑顔をこちらに向けた。

「え……?」

「奴隷の娘だから、私は奴隷として生きるべき?」

「そ、それは……」

 本来の生き方として、それは曲げようのない正道だ。しかし、エノーマスは否定も肯定も出来ず、言葉を詰まらせる。

 どうしても、カティを奴隷として受け入られなかった。

「ごめんね、意地悪なことを言って」

「いや……ボクが言い出したことだし……」

「このことは、秘密にしてね」

 事実の整理が追いつかない頭を、縦に振る。

「よいしょ……そろそろ、お店に戻るね。テッドが悪さをし出す頃だと思うし」

 椅子を片手で持ち上げるカティ。

「あの……!」

 彼女の抱く闇を知りながら、何も出来ないことが、エノーマスには耐えきれなかった。

「ボクは、カティさんが何者であっても構いません」

 深く考えることをやめ、エノーマスは心の声を、そのまま投げかけた。

「……」

 カティは背を向けたまま、沈黙している。

「カティさんは、カティさんだから……」

 嫌われたのかもしれない。

 様々な不安が畏怖となり、襲いかかる。

 しかし――

「ぷっ!」

 突如、カティの背が丸まった。

「あはははははははっ! なにそれ! もしかして励ましてくれてる!?」

 大笑いしながら振り返るカティの表情には、険が失われている。

「わ、笑わないでくださいよ!」

 自分の真摯な気持ちを笑われ、エノーマスは耳の先まで赤くしてしまった。

「ごめんごめん。……でも、ありがとう。その言葉、凄く嬉しい」

 カティの頬に朱が混じる。

 その目尻に浮かんでいるのは――不似合いな涙だった。

「カティさ――」

「おい、ビビり! 俺、強くなりてぇ!」

「おわぁ!?」

 突然現れたテッドに、エノーマスとカティは身を仰け反らせる。

「て、テッド! あんた、店番は!?」

「うるせぇ! バカクソ! 誰もこねぇぞ! ……そんなことより、ビビり!」

 テッドは、エノーマスを指さす。

「俺ぁ、あのムカつくデブに、見下される日々は嫌だ! だから、強くなりてぇ!」

「どうしたんだよ、突然……」

「突然もクソもねぇ! ビビりは強いんだろ!? 強くなる方法、教えろ! バカクソ!」

 カティを一瞥すると、責めるような視線を送られていた。

「テッド……おまえ、人間の純血か?」

「知らねぇ。確かめようにも、オヤジもカーチャンも、バカ兵士の喧嘩に巻き込まれて殺されちまった」

 まるで自分のことではないかのようにテッドは言う。

「歳は?」

「9だぞ、バカクソ」

「意外と行ってるんだな」

 細身の体と言葉遣いから、もう少し下だと思っていた。

「うるせぇ!」

「……エノー、いい加減にして」

 カティの目つきが更に鋭くなる。

「テッド、駄目よ。私は人殺しをさせるために、あんたを世話してきたわけじゃない」

「分かってんだよっ! バカクソ!」

 覇気のこもった声が、一瞬だけカティの口を閉じさせた。

「俺は守りてぇんだ! 町のみんなやカティねーちゃんを!」

 テッドの目に、遊びや好奇心、憧憬のようなものは一つも含まれていない。歳とは不相応の『決意』が、そこには存在していた。

 エノーマスは、自分が愛用しているナイフをテッドに投げ渡す。

 鞘に納めてあったが、テッドは慌ただしく受け取った。

「いざというときのための武器だ」

「エノー!!」

 責め立てる声を無視して、テッドに告げる。

「テッド、今のボクはおまえに教えられるほど強くないし、時間もない」

 ただ一つ、テッドに伝えられることがあるとすれば、それは武器を持つ意味だ。

「刃は、誰であろうと傷つける」

「??」

 小首を傾げるテッド。

「そいつを上手く扱えるかは、おまえ次第だってことだよ」



 エノーマスが薪割りを終える頃、空には宵が訪れ始めていた。

 うっすらと星が芽吹く空の下、パン屋を出る。

 人々が行き交う中、一人だけ立ち止まり、こちらを凝視している者がいた。

 ――あれはスラム街の……

 クダリオの部下だった。

 エノーマスと目が合うと男は身を翻して、雑踏に紛れていく。

 何かを企んでいる。直感がそう告げた。

 男の姿を追い、エノーマスは通行人をかき分けて進む。

 人、人、人。

 時折、男を見つけては歩くスピードを上げる。

 追いつけるかと思いきや、保護色を纏うように男は姿をくらませた。

 周囲を見回すと、男が路地に入っていくところを見つける。

 ――逃がしてたまるか。

 何か、嫌な予感がする。

 焦燥に駆られ、エノーマスは路地へと踏み入れた。



 カティは、エノーマスを見送った後、店じまいを始めた。

 店の売り上げは雀の涙。兄(パトロン)がいなければ、三日も保たない成果だ。

 売れ残ったパンを配給用の袋に詰めていく。

 その最中、ナイフを大切そうに抱くテッドが、目に留まる。

「テッド、私と約束しなさい」

「あ!? なんだよ! このナイフは俺のもんだぞ! 絶対、渡さねぇ!」

 取り上げる気は更々ない。だが、武器を手に取ったからには、心構えだけはしっかりと叩き込まなければならなかった。

「いい? そのナイフは、自分のためには抜かないこと。最低限でも、これは守りなさい」

「ん? 自分のためだと、駄目なのか……?」

「そう。誰かのために抜きなさい。誰かを守るとき、誰かを助けるとき、誰かを救うとき……誰かのために戦えるよう、エノーはあなたにナイフを渡したの」

 幼いテッドのために、かみ砕いて説明する。

「おう! 分かったぜ! バカクソ!」

「本当に分かってんのぉ……?」

「バッチシだぜ!」

 テッドはナイフを掲げ、宣言した。

「俺、ビビりよりも強くなってやる! んで、あのデブとか貴族の奴らをこの町から追い出してやるんだ!」

 子供ながらの純粋で単純な目標。自分の向かう道を決めたテッドの目は輝いている。

 テッドの輝きはカティには眩しすぎて、

「あんたが強くなってる頃には、すべてが終わってるわよ……」

 その程度の言葉しか彼に贈れなかった。

 しかし自分の世界に入り込んだテッドには、届いておらず、

「そしたらカティねーちゃんは、俺の嫁にしてやっても良いぞ!」

 満面の笑みでプロポーズを決めてくる。

「はいはい。分かったから、あんたは店の看板をしまってきなさい……。それと! ナイフは隠す!」

 ナイフを振り回しながら外に出ようとしていたテッドを叱りつける。

「おうよ!」

 ズボンの中にナイフを隠し、テッドは掃除用の箒を持って店を出ていく。

 ――先が思いやられる……。

 軽い頭痛に悩まされ、カティは戸締まりを始める。

 順々に窓の鍵を締め、残すは正面の扉だけだった。

「……?」

 外が騒がしい。

 それがテッドの罵声だと気づいたと同時、店の扉が乱暴に開かれた。

「あがっ……! 離せ……バカクソ!」

「この私に向かって、なんて汚い口を利くんだ、この人間モドキめ」

 二人の兵士を引き連れ、現れたのは――クダリオだった。

「テッド!?」

 兵士の一人に、テッドは首を掴まれている。

「お願い! その子を離して!」

 クダリオが目配りさせると、兵士はテッドを床に強く叩きつけた。

「あぐぅ!」

 小さく縮こまるテッド。

 クダリオは、か細い体躯を容赦なく蹴り上げた。

「おっと、つま先が汚れてしまったではないか。どうしてくれるん……だっ!」

 短い悲鳴を上げ、テッドは力なく横たわる。

「やめて! その子は何もしてないでしょ! なんで酷いことをするの……!?」

「躾だよ、お嬢さん。頭の悪いガキには、このくらいでも足りないくらいだろうがね」

 クダリオが、こちらを向く。

「お嬢さん。今日はおまえに用があってね」

 体を舐め回すような視線が、酷く気持ち悪い。

「この前、出来なかった取り調べをたっぷりとしようじゃないか」

「……っ!」

 ぬらりと口から舌が伸び、クダリオへの嫌悪感が増していく。

 店の奥に逃げようとしたが、兵士がカティの腕を掴み上げた。

「くっ……! 触らないで!」

「なぁに、悪いようにはしない。時間はたっぷりとあることだし、存分に楽しもうじゃないか」

 一歩、一歩とクダリオが近づいてくる。

 薄ら笑いを浮かべて呼吸を荒くする様から、彼の頭の中ではすでに『こと』が始まっているのだろう。

「……カティねーちゃんから……離れろ……!」

 クダリオの背後、小さな影が立ち上がった。

「ん? おやおや、これはいけないなぁ……」

 テッドの手には――抜き身のナイフが握られている。

「まさか、この私を刺そうとしているのか? そうなると……これは反逆罪が適応されるな……」

「テッド! ナイフを捨てなさい!」

「いやだ! カティねーちゃん、言ってたじゃねぇか! 誰かのためなら、こいつを抜いていいって!」

 あのとき、無理にでもナイフを取り上げるべきだった。

 震える両手で、しっかりとナイフを握りしめ、切っ先をクダリオに向ける。

「罪に対する罰は――死だな」

 この男たちは、小さな子供でも容赦しない。兵士の腐敗具合は、嫌というほど知っている。

 町の治安を守る憲兵が、子供を殺し、女性をいたぶることなんて――この町では別段珍しいことではない。

「お願いだからやめて……! 何でも言うことをきく! だから、その子だけは見逃して……!」

「ほぅ……良い表情をするじゃないか」

 カティが懇願する様を見て、クダリオはニタリと笑う。

「おい、ガキを黙らせろ。ただし、殺しはするな」

「わかりました」

 兵士の一人が剣を抜く。

 自分よりも体が大きく、そして長い得物を前にして、テッドは身を強ばらせた。

「う、うわああああああああ!」

 ナイフを突き出し、体当たりでもするかのように直進する。それは恐怖よりも勇気が勝った故の行動だった。

 だが、兵士は動じることなく、テッドのナイフをなぎ払う。

 ナイフがテッドの手から離れ、床に落ちる。

 無防備となったテッドを、兵士は剣の柄で殴りつけた。

 それは一方的な加虐だった。

「やめて……!」

 カティは拘束を振り払い、兵士の腕にしがみつく。

「ねえ! やめてってば! もう充分でしょ! それ以上は死んじゃう……!」

 倒れるテッドを看る。手心を加えられていたものの、頭を強く殴られ、意識を失っていた。

「さて、お嬢さん? おまえは私に何をしてくれるのかな?」

 カティは兵士に腕を取られ、無理矢理クダリオと対面させられる。

「吐き気がするわ……! あんたたちのやり方、性根が腐りきってる!」

「んー、良い響きだ。もっと罵ってくれたまえ。私は、強気な女を屈服させるのが趣味でね」

 愉悦に歪むクダリオの表情が、不気味さを煽る。

 自分がこれから酷い目に遭うことを、必死に思考から放り出し、カティは強気の姿勢を崩さなかった。

「クソみたいな趣味ね。オークでも口説いてれば?」

「良いぞぉ。ますます楽しくなってきた」

 ずいっとカティの喉にナイフが突き立てられた。そのナイフは、テッドが手放したものだった。

「ほら、もっと吠えてみろ」

「……っ!」

「おや? おかしいな? 何も聞こえんなぁ?」

 ナイフが動く。

 服から違和を感じた。

 わずかに引っ張られるような感覚。

 次の瞬間、じりっと音がして襟から服が裂かれていった。

 胸元が、はだける。

「やめて!」

「何も、聞こえんな」

 胸から腹、下腹部へとナイフが滑り落ちる。

 露わになる肌。

 隠そうとするも、兵士に羽交い締めされ、カティは身動きが取れなくなった。

「いやっ……!」

「あははははははははははははははははははは!」

 クダリオと兵士の笑い声が混ざり合う。

「……助けて」

 カティの小さな声は、彼らの笑い声に溶けていった。



 エノーマスは追跡に苦戦していた。

 男の足が速い上に、路地は迷路のように入り組んでいた。

 土地勘のないエノーは、必死に男の後を追う。

 しかし途中で、男の行動がおかしいことに気づいた。

 向こうも、エノーマスの存在に気づいている。

 撒こうと思えば、いつでもエノーマスの追尾から逃れられるのだが、まるで一定の距離を保つように移動していた。

 誘導された先には、トラップがあるのかもしれない。

 そう考えたエノーマスは、一つの決断を下した。

 自分の血を点眼し、染血となる。

 闇に紛れた黒髪が白髪に変色。青い瞳は紅く染まり、薄暗い路地で光っていた。

 わずか数秒の変身を終え、エノーマスは路地を駆ける。

 男が染血に気づいたときには、もう遅い。

 エノーマスは路地の壁を蹴り、男の頭上を越えるように跳躍。男の目の前に着地した。

 尽かさず、男の首を捕らえる。

「くっ!?」

「なんであそこにいた? それでボクをどこに連れていくつもりだった?」

「口は割らんぞ……!」

「首が折れる前に答えた方がいいと思うけど?」

 少しばかり力を入れると、男は悲鳴を上げた。

「ごめんごめん。染血って、力の調整が難しいんだ。たぶん、次は――失敗すると思う」

「――ひっ。分かった! 話す! だから、許してくれ!」

「逃げようとは思わない方がいいよ。両足を斬り落とすから、そのつもりで」

 手を離すと、男はその場にしゃがみ込んでしまった。

「俺はクダリオ様の部下だ……」

「そんなの、分かってるから。どうしてあそこにいたんだ?」

「知らん。あそこで待機するように命令されただけで――」

 エノーマスは抜剣し、男の鼻先を掠めるように刃を地面に突き刺した。

「ひぃ!?」

 堅い煉瓦が、まるで砂地かと錯覚してしまうほど、剣は深く埋まっている。

「わざとボクに尾行させておいて、それはないだろ?」

 脅しはこれが最後だった。

 次は、足を斬り落とす。その次は右手の指だ。

「わ、悪かった! 本当は、クダリオ様から貴様を、あのパン屋から引き離すように命令されていただけだ! それ以上は何も知らない! 本当だ!」

「パン屋から……?」

 地面から剣を引き抜くと、男は斬られると思ったのか、身を縮ませた。

「ひぃいいい! た、たぶん! パン屋の娘でも、襲うつもりだ! クダリオ様は、無類の女好きだからな……!」

「――」

 体中の、血の気が引いていく。

 剣を納めることさえせず、エノーマスは駆けだした。

 路地に放置された樽を踏みつけ、建物の屋根へと飛び乗る。染血だから出来る芸当だ。

 周囲を一巡。パン屋の方向を見出す。

 エノーマスは建物の屋根を伝い、一直線にカティの元へと疾走する。

「カティさん……!」

 間に合え。

 間に合え。

 間に合ってくれ。

 胸のざわつきが、一向に止まない。

 一秒でも、一瞬でも、刹那でも早く――速く。

 遠く、見覚えのある屋根が見えた。

 両足に力を入れる。

 一歩でも多く、一歩でも大きく。

 足裏で屋根を抉り、跳躍に近い一歩を踏み出す。

 パン屋の前には、兵士がいた。男の言っていたことは、悔しくも正しかった。

 エノーマスは屋根から飛び降り、スピードを緩むことなく駆ける。

 兵士が、こちらの存在に気づいた。

「ロードの弟!? 止まれ! 現在、クダリオ様がベリオスの調査中だ! いますぐ、立ち退け――」

「おまえが、退けぇ!」

 兵士の頭を掴み、扉に叩きつける。

 扉の金具が砕けて、エノーマスは兵士と共にパン屋に入り込んだ。

 視線を上げ、カティを探す。

「カティさ――」

 夕日が差し込む部屋。

 驚くクダリオ。

 二人の兵士。

 そして、一糸纏わぬカティがいる。

「え、エノー……?」

「――――――――――!!」

 頭の中が真っ白に焼き付く。

 感情のタガが外れた。

 エノーマスは、沸き起こる激情に突き動かされ、剣を握りしめる。

「――! ――!」

 クダリオが何かを叫ぶと、兵士が剣を構えた。

「邪魔」

 兵士の剣が、まるでガラス細工のように砕け散る。

 ぼとり、と。勢い余って、兵士の腕も斬り落としてしまった。

「――!! ――――――!!」

 悲鳴。悲鳴。悲鳴。

 兵士が倒れ、泣き叫ぶ。

 エノーマスは構わず、斬り落とした腕を踏み越えた。

「――――!」

 腰を抜かすクダリオ。近くにあった花瓶などを投げつけてくるが、どれも見当違いの方向に飛んでいった。

 その姿は醜く、エノーマスの激情を更に加速させる。

「――!」

 何かを訴えてくるが、よく聞こえない。そもそも、聞き受けるつもりもない。

 剣を振り上げる。

 後は、あの頭を真っ二つに割るだけ。朝の薪割りと変わりなかった。

 振り下ろそうとした瞬間、背から小さな衝撃が伝わる。

 誰かに抱きしめられていた。

「駄目……私なんかのために……あなたの手を汚しちゃ……駄目」

 カティの声が聞こえる。

 麻痺していた感覚に、神経が通り始めた。

「カティさん、邪魔をしないでください。こいつだけは……許さない」

「ひっ……! わ、私を殺せば、おまえらロード家は終わりだぞ!! 我が主と敵対するも同然だぞ!!」

「関係ない。おまえは絶対に殺す」

「駄目! そんなの……絶対、駄目!」

 なぜ彼女が、そこまでしてこの男を庇うのか分からず、エノーマスは苛立ちを覚えた。

「離してください! こんなクズ! 死んでも誰も困らない!」

「死んでいい人なんていないの!!」

 喉を潰しそうなほどの大声に、エノーマスは虚を突かれた。

「カティ、さん……?」

 冷静さを取り戻していく中、カティが何を考えているのかを思慮する。

 だが――

「な、なんだ。利口じゃないか! は、始めから私に抱かれたかったのか! はは、ははははは!!」

「――」

「駄目ぇ!」

 怒りは一瞬にして沸点を通り越した。

 剣を振り下ろす。

「いぎゃああああああああああああ!」

 血が舞う。

 クダリオの頭を割らず、代わりに右耳を斬り落とした。

 のたうち回るクダリオを蹴り飛ばす。

「残った耳でよく聞け。二度と、この人に近寄るな。次は――首を落とす」

 でっぷりとした右耳を、踏み潰す。

「あひぃ……!」

 兵士に抱えられながら、クダリオはパン屋から姿を消した。

 水を打ったような静寂。

 依然としてカティは、エノーマスから離れなかった。

「……なんで止めたんですか」

「エノーの、仕事の邪魔はしたくなかったの……。それに、人殺しなんてしてほしくないし……」

 口調を普段通りにしようと努めていることは、すぐに分かった。

「ほ、ほら! エノーってさ、お姫様を守る騎士ナイトの方が似合ってるじゃない?」

 気丈に振る舞うカティに、エノーマスは胸を締め付けられる。

騎士ナイトだって姫を守るためなら、人は殺しますよ」

「あぅ……」

 我慢の限界だった。

 エノーマスはカティの抱擁を振り払い、その両肩を掴む。

 さっきは怒りで視界が曇っていたため、今はカティの姿がよく見えた。

 夕日に反射した肌、すらりと曲線を描く腰のライン、ふくよかな胸……。

「は、恥ずかしいよ……エノー」

 カティは顔を真っ赤にしていた。

 いつも被っているハンチング帽はない。

 淡い栗色の髪から、獣の耳が生えている。

 ――獣人?

 自然と連想された人物は、ベリオスの獣だった。

「……ぁ」

 ぽたりと、カティの目から涙が滴り落ちる。それは、降り出した雨のように止まらなかった。

「うぅ……やだ、なぁ……。いつもの、おねえさんが出来ないや……」

 泣きながらカティは笑う。

「……!」

 ――違う、この人はそっち側ではない。

 余計な考えを振り払い、エノーマスはカティを強く抱きしめた。

 体の温もりを全身で感じる。

 このまま抱きしめ続けないと、心と体が形を保てずに崩れてしまいそうで怖かった。

 ――この人を守りたい。

 泣きじゃくるカティを抱きしめ、そう思った。

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