4:〈触れ合う人々〉
翌朝エノーマスは、デキミアの負傷がライザによるものだと本人から知らされた。
エノーマスが獣人に襲われたように、ライザもデキミアと戦っていた。あと一歩のところで逃げられたらしく、その後の行方はエノーマスの記憶に繋がる。
ライザがいなければ、館の前にエノーマスの首が転がっていただろう。
自分の未熟さを何度も思い知らされ、エノーマスはライザに頼みごとを申し出た。
「染血を封じられたときの対処?」
真昼、館の庭。
ライザは腕を組み、答えを出すことに労していた。
「生身ではあの獣人には勝てないし。かと言ってボクに点眼をさせる余裕は与えてくれない。今のままだと、ボクはあいつに勝てないんだ」
染血状態ならば獣人には勝てるだろう。だが、ロード家として半人前のエノーマスでは、染血を維持することにタイムリミットが存在する。
染血になれるのは、一時間だけ。そこから数時間は染血になれない。
もしも点眼をしようならば、肉体が染血の負荷に耐えられず、指一本さえ動かすことが出来なくなる。
それは、半人前だからこそ存在する弱点だった。
「ふむ。染血への移行中は確かに無防備だからね。それなら――」
人差し指が突き立てられた。
「逃げるべきだよ、エノー。その獣人と出会ったら屋内に逃げ込んで、やり過ごすしかない」
「え……?」
ライザならば、何か妙案を教えてもらえるかと思ったが、渡された答えは最も屈辱的なものだった。
「成熟していないエノーには無理だ。その獣人は、俺が対処するよ」
エノーマスは己が未熟であることは十分に理解している。それでも適わない相手は、同じロード家だけだと思っていた。
ロード家は、この大陸で最強の種族。それ以外の生き物には、絶対に劣るはずがない。
もし劣るというのならば、それは――エノーマスがロードとして相応しくないことを意味していた。
「兄さん、稽古してくれる?」
エノーマスは拳を握りしめる。
薄ら笑いを浮かべるライザは、満足そうに頷いた。
相対するライザは、ナイフを装備していた。
「兄さん……体術も交ぜて、息をつく暇もなく、攻撃して」
「なかなか、面白い注文だね、エノー。分かったよ」
昨晩は、相手の手数に圧倒された。
あの戦闘を思い出し、はっきりと分かったことがある。
戦うステージが、一つ違っていた。
素早く力強いだけの敵ならば、血に飢えた獣と大差はない。しかしあの獣は、多くの死線をくぐり抜けた経験を持っていた。
染血が無くとも、その経験差を埋めていけば、同じステージに立てるかもしれない。
「本気でお願い」
「ああ、それなら腕を斬り落とされないよう、エノーは気を付けないとね」
ナイフを構えるライザ。
殺意に似たプレッシャーが、ヒシヒシと伝わる。
構えや体格は違えど、ライザはあの獣人と同じステージにいる。
上らなくては。
――やってやる。
ライザは合図もなく、ショートダッシュを決めた。
肉薄するライザ。
エノーマスは剣を構え、そして――
麗らかな日の下、庭の真ん中でエノーマスは大の字で転がっていた。
全身傷だらけ。腕は何とか斬り離されずに済んだ。
ライザは、雇い主のところに呼び出され、そこにはいない。
「何も……できなかった」
エノーマスは空を仰ぎ、呟く。
ライザのスピードは、恐ろしく速かった。獣人の動きが遅く感じるほどに。
しかし体術の面では劣っていた。
刃を目で追おうとすると、尽かさず鋭い蹴りが飛んでくる。その逆もしかり。
経験と鍛錬で研ぎ澄まされた戦闘術は、そう易々と打破できるようなものではなかった。
「ダメか……」
今の自分では、まだ届かない。
危険だと察したら染血に変身するしかないのだろう。
――それができなかったら……?
ネズミのように、地べたを駆けずり回って逃げる。そのくらいのことしか、今のエノーマスには出来なかった。
「……はぁ」
自分の未熟さに嫌気が差す。
集中力が切れたところで、腹の虫が鳴った。
すでに昼食の時刻は過ぎているが、使用人に頼み込んで、適当なものを頂こう。
そう考え、立ち上がる。
館に目を向けたとき、窓から誰かに見られていたことに気づいた。
雇い主マイル=ギラパールの娘だ。
「……」
彼女は何も言わず、背を向けて立ち去っていく。
不可解で不明瞭な行動だが、エノーマスが彼女に抱く感情に、苛立ちはなかった。
「……なんか居づらいなぁ」
困惑。
どう接していいのか分からず、エノーマスは彼女から逃げるように町に繰り出した。
*
不慣れな町を歩いていたら、自然と見知った場所に足を向けてしまった。
カティがいるパン屋。
別の場所に移動しようと考えたが、空っぽの胃が食べ物を求めている。
「カティさんの失敗作でも処分するかな」
適当な理由を付けて、エノーマスは扉を開く。
すると、
「いらっしゃいませー!! バカクソー!!」
小さな影が一直線に突進してくる。
「おふぅ!」
影は、エノーマスの腹部にぶち当たった。
「こらー、テッド! お客さんに、何してる……って、ありゃ? エノー、また来てくれたんだ」
ハンチング帽の位置を正しながら、カティが店の奥から出てくる。
「近くに寄ったもので……」
「おう! ビビりじゃんか! パン買ってけ! メチャクチャ買ってけ!」
小さな影――テッドは店外に漏れるほどの大声を発した。
「そんなには買わない」
「ビビりは、ケチだな!」
「こいつ……!」
頭でも叩こうとしたが、テッドは拳をヒラリと躱して店の隅に逃げる。
逃げる弱者を追いかける強者ほど、間抜けな姿はない。不意に、ライザの教えが脳裏を過ぎり、ぐっと堪えた。
「やーい! バカクソ! ノロマー!」
テッドの挑発は無視。この忍耐も経験値の糧となることを信じて。
「エノー……? 顔、傷だらけだけど大丈夫?」
いつの間にかカティが間近に迫っていた。
鼻先がぶつかるほど、顔の距離が近い。
「ぁ……」
柔らかそうな肌、綺麗な瞳、潤った唇。パンの匂いに混じったカティの匂い。
不意打ちにより、エノーマスはカティの純粋な美しさを再確認させられる。
――しゃべらなければ、美人。しゃべらなければ!
「どったの?」
キョトンとするカティ。
「あー、なるほどぉ」
こちらの心境に気づいたのか、カティは底意地の悪そうな笑顔を浮かべる。その笑顔は不似合いではあるものの、蠱惑を含んでおり、エノーマスの動揺を増幅させた。
「むふふー。少年よ、おねーさんにドキドキしちゃっておるのかなぁ? 初々しいのぅ」
「ち、違いますっ」
「声が上擦ってる……。かわいいーっ」
頭を撫でられてしまう。
「ビビり、惚れたのかよ!? ビビりのくせに!」
「か、帰りますっ!」
図星を言い当てられ、エノーマスは羞恥に耐えきれなかった。
「あー! 待って待って!」
腕を掴まれた。
たったそれだけのことなのに、エノーマスは殊更動揺してしまう。
平常心を取り戻そうと、別のことを考えるも、巡り巡ってカティのところに行き着く。自分は気が狂ってしまっているのではないかと、本気でエノーマスはそう考えた。
「その傷、治療させて。お願い」
申し訳なさそうなカティの言い方に引っかかりを覚え、エノーマスの熱した思考に冷や水がかけられる。
「……こんなのかすり傷ですよ」
「いいから、そこ座ってて。テッドは店の前の掃除をしてなさい」
店の椅子を引っ張り出して、エノーマスを座らせる。
「えー! めんどくせぇ!」
「いいから行く!」
カティは、不平を漏らすテッドに拳骨を打ち据え、外に放り出した。
「知り合いの薬師さんに、傷薬貰ってるの」
そう言いカティは、棚から軟膏を取り出す。
――あれ?
カティの動きを見ていたエノーマスは、違和を感じた。
どことなく、彼女の動作がぎこちない。
「カティさん、右手……怪我したんですか?」
先ほどから、カティは右腕を庇うようにして動いている。
思い出してみれば、先ほど腕を掴まれたとき、彼女は利き腕を使っていなかった。
「えっ? あ……ちょっと、朝の仕込みでぶつけちゃって……」
「大丈夫ですか?」
エノーマスの小さな傷を心配するよりも、自分の身体を心配した方がいいのではないか。
カティの腕を調べようとしたが、彼女は咄嗟に身を引いた。
「だっ……大丈夫大丈夫! こう見えても身体は丈夫だから! 明日になれば、もう治ってるよ!」
「ですけど……」
食い下がるエノーマスに、カティは悪戯な笑みを作る。
「さては、エノー? この機会に、おねーさんの柔肌にサワサワ触れたり、クンカクンカしたり、ペロペロしようと思っているのかな? やーん、エノーのえっちぃ!」
「ばっ……バカなことを言わないでください!」
「はいはい、だったら大人しく傷を見せてねー」
会話の主導権が、完全にカティに持って行かれてしまった。
されるがままに、カティに軟膏を塗られていく。
柔らかい指先が頬に添えられた。
エノーマスの顔が赤くなっていることに気づいているものの、カティは治療中に冷やかすようなことはしなかった。
「エノーってさ……旅人じゃなくて、剣の修行者だったの?」
「え……? あぁ、そんなところです」
稽古を終えたまま、パン屋に来たことを思い出す。腰に下げた剣の存在を、エノーマスはすっかり忘れていた。
「もしかして、すんごい強かったりする?」
「まあ強いですよ。兄の次に、ですけど」
本当は家族の中で一番弱いのだが、そこまで話すわけにも行かない。
「へーお兄さん、いるんだ。私と同じだね。まさか双子?」
カティの兄について聞いてみようかと思ったが、矢継ぎ早に質問されてしまう。
「違います」
「格好良い?」
「顔は整ってますよ。けど、他人をゴミとしか見てないです」
「ありゃりゃ、それは残念…………よし、これで大丈夫かな。サービスタイムは、これにて終了でございます」
カティは軟膏をしまう。その後ろ姿を眺めつつ、改めて彼女の兄について聞こうかと思った。
「ねぇ、エノー……」
間を埋めるかのように、先にカティが口を開く。
「何ですか?」
「君はさ。その剣で…………」
言葉を選んでいるのか、一度黙り込む。
「剣が、どうしたんですか」
催促すると、カティは作り笑いをした。
「ううん、なんでもない。さて、エノーさん……治療費として、また一緒にスラム街に来て貰いましょうか」
「治療費って……カティさんが進んでやったことでしょう。それって詐欺ですよ」
「チッ、チッ、チッ! 甘い甘い。世の中、ギブアンドテイクってものなのよ」
「……ですけど、今からって、前よりも遅いですよ?」
時はすでに、日が傾き始めていた。
「右腕やっちゃったからねぇ……。仕込みができなくて、こんな時間になっちゃったの」
「それと、スラム街は危険なんですから、もう行かない方がいいですよ」
昨晩のことを思い出す。
日が出ている内に、ベリオスが動くことはないだろうが、スラム街は敵の本拠地だ。何が起きてもおかしくない。
「でも、私が行かなきゃ、みんながお腹を空かせちゃうじゃない」
あっけらかんと言い放つカティを見て、エノーマスは彼女を止めても無駄だと判断した。
無理矢理、店に押し込んでも、必ずカティはスラム街にパンを届けるだろう。会って間もないが、そのくらいは易々と想像できた。
「もしかして怖いのー? 大丈夫大丈夫、おねーさんが守ってあげるから」
常に警戒し、少しでも危ういと感じたら染血となる。もし、この初手を封じられた場合、この人の手を引いて逃げよう。
ニコニコと笑うカティを前に、エノーマスは満更でもないため息を吐いた。
*
夕暮れ時であったが、スラム街は人集りが出来てきた。
皆、パンの配給を求めて集まった人々だ。
「はーい、一人一個ずつだよー! 前貰えなかった人、優先だからねー!」
カティとエノーマス、それにテッドがパンの配給を行う。
「なあ、カティねーちゃん! これ終わったら、パン三つ貰ってって良いだろ!?」
パンを渡す合間に、テッドが声を上げる。
「テッド! あんた、さっき二つも食べたでしょうが!」
「育ち盛りに満腹はねぇんだ! バカクソ!」
角を生やしたカティがテッドを叱りつける。このテッドが怒られる一連の騒ぎは、定番のようで、スラム街の人々が大声を出して笑う。
「人の気も知らないで……」
しかし、エノーマスだけは冷静に状況を見守っていた。
目の前に広がるのは、穏やかな日常。
殺し合いが行われた場所とは思えない。
和やかな空気にあてられないよう、気を引き締めて、周囲を警戒した。
今のところ、獣人らしき人物はいない。
パンを配りながら行う警戒は、神経を使う。
「おにいちゃん、だいじょうぶ?」
聞き覚えのある声に、エノーマスは声の主を捜した。
正面、老婆の後ろに隠れている――パンをくれようとした――少女だった。
「あ、あぁ……ボクは大丈夫だよ」
「おかおが、すごくこわかった。おなかが、いたいの?」
「何でもないから。気にしなくていい」
「ん……」
お節介な少女は、またもパンを渡そうとしてきた。
「これたべて、げんき、だしてね」
突き出される、食べかけのパン。
エノーマスはまたも拒絶しようと思ったが、タイミングが悪いことに腹の虫が騒ぎ出した。カティのパン屋で、昼食を取り忘れていた。
「お兄さん、食べなさいって」
老婆が勧めてくる。
引くに引けなくなり、エノーマスは少女のパンを一口かじる。
味は酷いものだが、なぜか不快感はなかった。
「はい、ごちそうさま。パン、返すよ」
すべては受け取れない。これは少女にとって一日のごちそうなのだから。
パンを少女に返し、ついでに老婆にパンを二つ渡す。
その最中、少女はジッとこちらを凝視している。
「……?」
エノーマスの中で、何かが足りないような気がした。
パンは、しっかりと二つ渡した。しかしそれ以上に、何か渡しそびれているような――むず痒い気持ちが、わき起こる。
「ありがとうねぇ」
別れ際、老婆に言われ、エノーマスはハッと気づいた。
少女に向かって告げる。
「パン、ありがとう」
途端、少女は顔を上げ、にっこりと笑った。
「ばいばい!」
快活な様子で少女は去っていく。
エノーマスの胸中では、不思議な感覚に陥っていた。
人に「ありがとう」と言ったことは初めてかもしれない。
――こんなにも勇気のいる言葉なのか……。
清涼感と多少の高揚感。
エノーマスは自分の頬が緩んでいることを自覚する。
両手で頬を引っ張りながら、視線を周囲に向け――そして、頬と共に緩んでいた気持ちに冷や水を被せられた。
一人の男が目に留まる。
獣人ではない。が、どこかスラム街に似つかわしくない雰囲気を持っていた。
男と目が合う。
すると、少し驚いたような表情を作り、すぐにその場から立ち去っていった。
「……っ!」
ぞくり、と背筋に悪寒が走る。
最悪の状況が来るかもしれない。
男の姿はもう見えなくなっている。
エノーマスは、カティが巻き込まれないように忠告しようとした瞬間――
「見つけたぞぉ!」
スラム街に、犬の遠吠えのような怒声が響き渡る。
次いで、鎧が擦れる音と大人数の足音。
「ロード家に手柄を渡さんとスラム街で網を張っていたら、こんなところに不届き者がいたとはな!」
現れたのは、獣人ではない。マイル=ギラパールの私兵団、そしてその長であるクダリオだった。
集団の中には、先ほど怪しい男もいる。
「貴様か、ゴミどもに飯を配っていた女は!」
クダリオは鎧からはみ出た肉を揺らしながら、人集りの中心にいるカティに歩み寄った。
どうやらクダリオはエノーマスの存在に気づいておらず、目を向けようとしない。
「恵まれない人に、施しをして何か問題でもあるの!?」
カティの表情に険が混じる。
「恵まれないだぁ? このゴミ溜めは、今やベリオスのネグラだ。そこに食料を運んでいた貴様は、ベリオスの一味であることと変わりはないぞ?」
「こんなやせ細った人々に何ができるって言うの! 本来なら、あなたたちの主人が手を差し伸べてあげるべきでしょう!?」
「はっ、何をバカなことを。我が主は、闘技場建設における労働を与えてやっただろう? こやつらは、それを拒否したから、ここにおるのだろう?」
「一日の食費も賄えないような給料しか与えず、奴隷と変わらない重労働を押し付けていたくせに、よくそんなことが言えるわね! あそこで足や腕を失って、ここに暮らすことになってる人もいるのよ!?」
スラム街の人間と接することの多いためか、カティの言葉には説得力があった。
さすがのクダリオも口論に分が悪いと感じたのか、苦々しい表情となる。
「チッ、やかましい女だ……」
クダリオは小さく呟いた後、わざとらしい咳払いをする。
「こほん! やはり貴様はベリオスと関係しているようだな! おい、連れて行け!」
「離して……! いたっ!」
クダリオの部下がカティの腕を締め上げる。
苦悶の表情を浮かべるカティを眺め、クダリオは舌なめずりをした。
「ほぅ……口うるさいが、器量はいい。そこらの娼婦でも顔負けだ」
下卑た顔を作る。
「取り調べが楽しみだな。良い声が聞けそうだ」
「……っ!」
カティが身を捩り、少しでも距離を取ろうとする。
そんなカティを楽しむように、クダリオが顔を近づけ――
「その人に近づくな、駄犬」
エノーマスは、抜き身の剣を二人の間に割り込ませた。
「――っ!? 命知らずが! この私に刃を向けおって、ただで済むと思って……って、なぬぃ!?」
ようやくエノーマスの存在に気づいたと思ったら、クダリオは酷く驚いた。視野が狭いことは、剣士以前に憲兵として失格だろう。
「き、きっ、貴様が……なぜ……ここに!?」
「この人はベリオスに関係ない。いますぐ放せ」
カティを守ることを示すように、剣を彼女の前に掲げる。
「黙れっ! この私に命令するな! 昨晩はおめおめとベリオスの幹部に――」
「早くした方がいいよ。ボクは兄さんと違って、あんたが何者であろうが構わず斬るから」
「……ぐぅ…………放せ」
クダリオが声を絞り出すと、カティは解放された。
「これは主様に報告するぞ! 貴様の無能さを刻々とな!」
「どうぞ、ご勝手に」
剣を納め、嘆息混じりに答える。
「殺してやる……! 絶対に……!」
見事なまでの負け犬の捨て台詞を吐き、クダリオは部下たちと共にスラム街から立ち去っていく。
「あ、ありがとう……エノー」
「別に、あなたを助けるためじゃ、ありませんよ。あの犬が気にくわなかっただけです」
実際、本気でクダリオを殺そうかと思っていた。
理由は自分でも分からない。昨晩の敗北を引っ張り出され、腹が立ったから、というには短絡的すぎる。
本気で苛立った瞬間は――敗北云々を揶揄される前――クダリオがカティに近づいたときだった。
「素直じゃないなぁ」
「?? 何が言いたんですか?」
意味ありげな物言いに、エノーマスは問いかけるが、カティは答えてくれそうになかった。
「……ご勝手に」
答えを諦めて、カティから周囲へ、視線を転じる。
スラム街の人々は、酷くビクついていた。
エノーマスの行動は反逆行為と言っても、過言ではない。支配者の私兵に楯突いた結果、要らぬ怒りを買い、スラム街に飛び火が降り懸かることを彼らは懸念しているのだろう。
しかし――
「す、すげぇなビビリ!」
不意な声が上がった。
「ただのビビリじゃなかったんだな! やるじゃん!」
ピリピリとした雰囲気の中、テッドが空気を読まずにエノーマスに近づいてくる。
「おまえは黙れ…………いっ!」
突如、背中を誰かに叩かれ、傍らにいる人物に目を向けると、
「あんちゃん!! よく、やってくれたねぇ!」
見知らぬ中年女性だった。
「カティちゃんを守ってくれてありがとう! あのデブの悔しがる姿が見れて、スカッとしたわ!」
「え……?」
まさか感謝されるなどとは微塵も思っておらず、エノーマスは反応に困ってしまう。
「お兄さん、凄ぇなぁ! 何者なんだ!?」「見上げた度胸だ、ボウズ! 酒をおごってやる! 一杯やるぞ!」「剣士さん、凄く格好良かったです!」「ちょっとぉ、カティ! どこで、こんな良い男見つけてきたのよ!?」「クダリオの間抜け面は、傑作もんだったなぁ! 本当ありがとな!」
わらわらと集まり、エノーマスを取り囲む人々。
誰も恨み言を口にする様子はなかった。
「ぼ、ボクは誉められるようなことはしてない! むしろ、あなたたちが危険な目に遭うかもしれないのに、どうして……!?」
「あんちゃんがカティちゃんを助けてくれた。それだけで充分よ」
中年女性の言い分は、エノーマスの求めている答えとはズレていた。
「なに……言っているんだ」
――馬鹿だ。
後先も考えず、目先の安泰に喜ぶなんて、子供か馬鹿でしかない。しかし、ここでエノーマスを咎めようとする者は誰もいなかった。
エノーマスは悪い夢でも見せられているような気分になる。
「あんちゃんは私たちのやってほしいことをやってくれた。誰も出来ないことを、やってくれたんだから、感謝するのは当然でしょうが」
さも道理であるかのように言ってのける中年女性を目の当たりにして、改めて思い知らされた。
この町の住民は、他の町とは価値観が大きく違う。
――ここでは助け合うのが常、か。
カティの言葉が、一つの答えとなる。
「さあ、このあんちゃんの歓迎パーティよぉ!」
「は? 嫌ですよ! ボクは、帰ります!」
「つれないこと言うんじゃないよ! ほら、男ども! 連れていきな!」
抵抗するも、多数に無勢。体格の良い男二人に、両脇をがっしりとホールドされてしまった。
「わぁ! 楽しそうだね、エノー!」
カティが目をキラキラとさせている。
「そんなことより! カティさん、助けてください……!」
「さあ、エノー! 出発だよ!」
「うわぁああああああ!!」
この後、エノーマスだけが酒をしこたま呑まされ、館に帰れたのは翌日の昼間だった。
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