3:〈犬、獣、人〉
謝礼、という名目で昼食をカティと共に済ませた。
その後はカティと別れ、エノーマスが館に戻る。
門扉の前、門番の代わりに兄のライザが立っていた。
「お帰り、エノー。ずいぶんと長い散歩だったね」
「いろいろと情報収集してきたんだ」
「それはいい心がけだよ、エノー。それなら情報収集の続きをしようか。貴族の犬が、ベリオスの説明をしたいとのことだよ」
「犬……?」
人語を話せる犬となると、
「マイル=ギラパールの私兵だよ、エノー。武貴族にも成れない半端者の群れさ。少しくらいは話を聞いてあげようじゃないか」
ライザの後を追って、エノーマスは館に入っていく。
館の一室、客間として使われている部屋で、犬たちが待っていた。
部屋は昼間だというのに薄暗い。もともと陽当たりの良い場所なのだろうが、窓はカーテンで閉じられていた。
人は暗闇を嫌う。おそらく、犬たちはエノーマスたちに威圧感を与えたいのだろう。
燭台に並べられた蝋燭の火が、ゆらゆらと踊り、陰影を歪ませる。
群れの中で、もっとも恰幅の良い男が口を開いた。
「ずいぶんと遅かったではないか。時間一つも守れんようでは、ロード家も底が知れるな」
恰幅のいい男には、見覚えがある。館に来たときに一度顔合わせはしていた。
名はクダリオ。町の憲兵長だ。
「私は忙しい身なのだぞ? 詫びの一つでも言ってみたらどうだ」
「君のことなんて、どうでも良いから話を進めてくれよ、ワンちゃん」
ライザが開口一番にそう言うと、クダリオの顔が憤怒に染まる。
「調子に乗るなよ、ロード家! 我が主に雇われていることを忘れるな! 私が口添えすれば、貴様らなぞ、今すぐこの町から追い出せるのだぞ!?」
キャンキャンと吠えるクダリオを見て、エノーマスは犬呼ばわりが正しいことを察した。
ライザは七面倒くさそうに肩をすくめる。
「あー、そうかい。それでは、ワンちゃん――」
「クダリオだ!」
「初めて知ったよ」
自己紹介は済ませていることを承知の上で、ライザは言い放つ。
「時間に遅れて、すまなかったね。お願いだから、話を進めてくれないかい? 忙しいんだろ、君? だったら、時間は有効に遣おう」
皮肉混じりではあるが、ライザは謝罪の言葉を口にする。
「ふんっ!!」
大きく鼻を鳴らし、クダリオは二枚の紙をこちらに投げつけた。
ライザが床に落ちた紙を拾い上げる。
質の悪い紙には、それぞれ似顔絵が描かれていた。
一人は無骨な顔の男。
もう一人は――仮面を被った人物だ。仮面は、デキミアと呼ばれる肉食獣の顔を象っている。
「貴様らには、ゴミ掃除をしてもらう! すでに兵士が二十人も殺された! この目障りなゴミどもにな!」
「君は、この二人と手合わせはしたのかい?」
「まだ私はない! しかしまあ、私には劣るだろうよ!」
「あー、尻尾巻いて逃げちゃったか」
私兵団の長という位置にいる割には、クダリオの体つきは肥えすぎている。筋肉の上に、でっぷりと乗った脂肪は獣の良い餌になるだろう。
「貴様ぁ! 先ほどから無礼な口を利きおって! 叩き斬るぞ!!」
クダリオが客間のテーブルを拳で打ち据える。それが合図となり、周囲にいた犬が剣の柄に手を添えた。
しかしライザは眉一つ動かさず、
「やれるものなら、やってみなよ」
軽い口調とは裏腹に、禍々しい殺意を放つ。
途端、その場にいる全員がたじろいだ。
ライザの軽い脅しで、力量の差が露呈する。
私兵団といえど、所詮は片田舎の賊上がりでしかない。越えてきた死線の数が違った。
「……兄さん、なんでいつものように、やらないのさ? 敵対者には最初に恐怖を植え付けろって」
普段のライザなら、クダリオの両腕を斬り落とすくらいのことはやってのける。
「仮にも依頼主の犬だからだよ、エノー。このワンちゃんは依頼主の所有物だからね。さすがに飼い犬を殺すのは、よろしくない」
「くっ……! 貴様ぁ!」
我慢の限界に達したクダリオが動く。
腰に下げていた剣を引き抜く直前、彼の鼻先にはライザの刀の切っ先が突きつけられていた。
その速さは、エノーマスでも目で追うのが、やっとだった。
「稽古でも、やるかい? 稽古の代金は……そうだね、その鼻を削ぐくらいで止めてあげよう」
圧倒的な実力差に、クダリオはその場にヘタレ込んでしまう。
「やっぱり、いつも通りじゃないか」
「敵対したからだよ、エノー。犬に噛まれるのは嫌だからね」
そうライザは答え、刀を納める。
「さあ、行くとしよう。これ以上はスマートじゃない」
エノーマスとライザは、恐怖に震える犬小屋から出た。
廊下に差し込む日の光に、目が眩む。
「おや?」
不思議そうな声を出したのはライザだった。
ライザの視線を辿ると、廊下の先でマイル=ギラパールの娘が立ち止まっている。
何か言いたげだったが、彼女はエノーマスと目が合うと、ばつが悪そうに走り去ってしまった。
「やっぱり嫌われてるじゃないか」
不服そうなエノーマスは、ぽつりと呟いた。
*
夜の闇に包まれたスラム街。
エノーマスは腰に剣を下げ、敵中を歩いていた。
スラム街は静まりかえっており、エノーマスの足音だけが響きわたる。
カティと共に訪れた昼間とは異なり、スラム街はまるで別の町のように思えた。
憲兵の姿は一人もいない。やはり、クダリオたちもベリオスの拠点には気付いているのだろう。
一歩、踏みしめる。
「……っ」
不意に、死者の手で背筋をなでられるような感覚に襲われた。
いる。敵だ。
ざりっ、という砂利を踏む音が鳴り、エノーマスが振り返ると、そこには似顔絵で見た無骨な男が立っていた。
痩けた顔ではあるが、体格は中肉中背。薄汚れたハンチング帽の下から覗かせる瞳は、まっすぐにエノーマスを捉えている。
――油断はできないな。
エノーマスは一目で理解した。
先日くびり殺した奴らとは、比べものにならない。
敵は、強者特有の目を持っている。
生身では分が悪い。そう判断を下し、隠してあるナイフで己の手を裂く。
次の瞬間、男は突進してくる。それは染血をさせまいとする動きだった。
「っ!」
敵の手には小刀。鍔のないシンプルなものだ。
男の刃が迫る。
エノーマスは染血を諦め、剣を引き抜いた。
刃と刃がぶつかり、火花が散る。
「染まりきっていない……お主、半人前か」
「……なっ!?」
ロード家を知っていることに、エノーマスは驚きを隠せなかった。
若いロードの者は、染血を繰り返して身体を成熟させる。それを知っているということは――
――この男、ロード家と戦ったことがある!?
ロード家に敗北はない。故に、この男はロード家と相対して生き抜けるほどの実力であることを意味している。
息をつく暇もない、小刀による乱撃。
エノーマスは防ぐだけで手一杯だった。
相手の動きは、まるで演舞のようにしなやかで、それでいて素早い。
その動きに注視していたエノーマスだったが、不意に男の姿勢が低くなった。
突き刺すような――蹴り。エノーマスの鳩尾を打ち抜く。
「おごぉ……!」
肺から空気が絞り出される。
自分の意識が斬撃だけに集中していたことを、見抜かれていた。
腹部の痛みに、腰を折り、頭を垂れる姿勢となったエノーマス。
その首を、男は突き刺そうとした。
苦痛に囚われながら、エノーマスは前に出る。男の胴に、体当たりを決めた。
間合いを詰める行為は、剣士として愚作だ。だが、その選択が男の意表を突く。
エノーマスの身体に巻き込まれ、男は地面に倒れる。
しかしながら、男も只では倒れない。転けながらもエノーマスを蹴り飛ばし、覆い被されることを未然に防いだ。
距離が離れたことで、エノーマスは体勢を整える。痛みを和らげるために息を大きく吸いながら、相手の様子を観察した。
タックルで与えたダメージは、軽傷にも至らない。
唯一、与えた変化と言えば、ハンチング帽を落とせたくらいだった。
男の頭部が露わになり、そこから犬のような『獣の耳』が露出する。
「……獣人か!」
似顔絵では、そんなものは描かれていなかった。おそらく、クダリオが仕組んだことなのだろう。
半亜人、それも獣人となると、なおさら生身で戦うことは難しくなってくる。
人と亜人の混血種(ハーフ)が、獣人と呼ばれる種族だ。亜人の純血よりか身体能力などは劣っているものの、人間に比べればその差は微々たるものだ。
本来なら獣人は尻尾などで簡単に判別できるのだが、どうやら上手く隠していたらしい。
エノーマスは、状況が圧倒的に不利であることを思い知らされた。
どうにか染血をしなければならない。
技量も、力も、経験も――向こうが凌駕している。
染血さえ出来れば、エノーマスにも勝ち目はあった。
だが、その甘えを男が許すことはない。
猟犬の牙が、嵐のように降り懸かる。
一撃一撃が重く鋭い。
じりじりと後退しながら立ち回っていたエノーマスは、老朽化した家の壁まで、追いつめられてしまった。
後がない。
男の小刀が閃く。
エノーマスは身構えた――が、その攻撃は途中で止まった。
「……」
男は大きく後ろに退き、とある家の屋根に視線を向ける。
そこにはもう一人の――デキミアの仮面を被った――人物が屋根の上にいた。
頭部をすっぽりと覆うデキミアの仮面。それは似顔絵で見たときよりも造型は歪で、禍々しく感じる。
「あやつには、荷が重すぎたか」
デキミアの身体は満身創痍だった。右腕から大量の血を流し、痛みに背を丸めている。
仲間の負傷に気付いた男は、エノーマスとの交戦を止め、デキミアと共に去っていった。
河川の岩場を飛び乗っていく鹿のように、屋根から屋根へと移動していく二つの影。
それをエノーマスは、ただただ眺めるだけだった。
危機が去った途端、疲れの津波が肉体に押し寄せる。
肉体の疲労とは別に、エノーマスは剣を落としてしまった。
両手が震え、力が上手く入らない。
圧倒的な実力の差を思い知らされた。
あのまま戦えば、間違いなく殺されていた。
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