2:〈パン屋の華〉

 日中。昨晩殺した男たちの血が、いまだに残る道。

 血なまぐさい臭いが漂い、通りかかる人々は表情を歪ませ、足早に立ち去っていく。

 雑踏の中、エノーマスは獲物を探す獣のように目を尖らせ、周囲に視線を向ける。

 目標は、意図も容易く見つけられた。

 目標との距離は徒歩50歩分。

 行き交う通行人を縫うように進む。剣を館に置いてきたため、その動きはいつもよりも早い。

 手を伸ばし、エノーマスは――パン屋の扉を押した。

 空腹具合は限界をとうに超えている。もう何でもいいから、腹に食べ物を押し込めたかったが、いかんせん土地勘のないエノーマスには屋台一つ見つけるのも至難の業だった。

 扉を開けると、耳障りのいい鈴の音が鳴る。

 匂いの濃度が増し、いたずらに胃を刺激した。

 店内は広く、軽食屋も兼ねているのか、テーブルが三つほど並べてあった。

 内装は非常に綺麗なことから、おそらく貴族の御用達の店、もしくは貴族が経営する店だろう。

 だが、店内は客どころか店員さえいない。

「誰かいませんかー?」

 唾液をこぼさぬよう、声を発する。

「はいはーい!!」

 カウンターの奥から、若い女性の声が聞こえてきた。

 木造の床を軽快に踏みしめる音とともに、ようやくエノーマスの前に現れる。

「――」

 その女性を見て、エノーマスは驚いた。

 荒野に咲く花――とでもいうべきなのだろうか。彼女は使用人のようなエプロン姿であるのにも関わらず、気品とは異なる美しさを有していた。

 淡い栗色のショートヘアーを覆う、白いハンチング帽。風変わりなエプロンの服。

 背丈はエノーマスよりも少しだけ低いが、女性としては高い部類に入る。

「いらっしゃい」

 女性が、不意に笑みを作った。

 成人の女性特有の色香はなく、かといって幼さもない。快活で純粋な笑顔だった。

 目を奪われていたことを気づかれないよう、エノーマスは必死に平静を装う。

「これと、これ。ください」

 カウンターの上にあるメニューで適当なパンを指さした。

「あ゛……」

 女性の笑みが崩れる。

「え、えっとですねぇ……。あることはあるんだけどぉ……」

 先ほどまでの端麗な雰囲気が一瞬にして消え去り、気まずそうに目を背けた。

「どういうこと?」

「いやいやいや! 大丈夫大丈夫! うん! あるから! 一応あるから!」

「いちおう……?」

「少々、お待ちをー!!」

 逃げるように女性が店の奥に入っていく。

 あまりにも不可解な物言いだったが、再び店を探す気力はなかった。

 女性は、プレートに頼んだパンを乗せて戻ってきた。

「お、お待たせしました……」

 その声はどこか緊張している。

 訝しげにエノーマスはパンを観察するが、特におかしな点はない。

 釈然としないものの、王国通貨の硬貨を取り出す。

「あ! う、うちはお客さんの言い値で売ってるから! 食べてから支払いをどうぞー!」

「なら、ここに書いてある値段は?」

「えっと……雰囲気って大切でしょ?」

「はぁ」

 女性の奇っ怪な発言に、思わず生返事をしてしまう。

「と、ともかく!! 食べてみてって!」

 エノーマスは一つパンを手に取る。

 胃袋を刺激する香りは、エノーマスのわだかまりを振り払った。

 かじり付く。

 パンは、今まで味わったことのないほど――

「まっず……」

 苦かった。

「あちゃー。やっぱりか」

 ぺちんと、女性が額を叩く。

「やっぱりって、不味いと分かってて食べさせたんですか?」

「ソンナコト、ナイデスヨー? オイシイパン、タクサン、アルヨー」

「あぁ、不味いから言い値で売るって言ったんですか。なるほど」

「ぎくぅ! ……いや! それね、今までで一番の出来だったんだよ……? 見た目だけだけど……」

 体を縮ませて、両手の人差し指を突っつき合わせる。

「残念ですけど不味いですよ」

「はうっ! ううっ……お代は要りません……」

 エノーマスよりも十歳ほど差があろう女性は、目をウルウルとさせていた。

「そもそも、払いたくもありませんよ」

 そう言いながらもエノーマスはパンをかじる。いくらパンが美味しくなくても空腹には耐えられない。

「……食べて、くれるんだね」

「お腹が減ってるんで。食べないよりかはマシです」

 一つのパンを胃の中に詰め込む。

 もう一つ残されたパンを、一口。

「酷い……」

 先ほどのパンは苦みと酸味があって味が崩壊していたが、今度は石かと思うほど固い。しかも無味。

 これも一種の才能かと思うほど、バラエティに富んだ失敗の仕方だった。

「むきぃいいい! さっきから、好き勝手言ってくれちゃって! がきんちょのくせに生意気だぞー!」

 女性が頬を膨らませ、むくれている。

「逆ギレですか……大人げない」

「むぅううう! かわいくない奴!」

 もはやエノーマスを客として扱うことをやめていた。

「だけど!! 大人な私は、無礼な君を許してあげるわ! 大人だから!」

「言ってること滅茶苦茶ですよ」

「だまらっしゃい!」

 しかしエノーマスは黙らない。

「そもそも、ボクはもう15です。れっきとした大人ですよ」

「はっ、若い若い。たかが15で大人を名乗ろうなんて、おこちゃまの証拠よ」

 相手の挑発に乗ってはいけないと思いつつも、エノーマスは自制できなかった。

「少なくとも、あなたよりは大人ですよ」

 これほど無茶苦茶な物言いをする人種は、野盗などの輩と大差がない。相手が、本当の野盗なら斬り捨てれば終わりなのだが、そうもいかなかった。

「うるさい、がきんちょ」

「あなたの方が子供です」

「ちがいますー。私はアダルトですー」

 水掛け論にも近い、低俗な口論が続く。

 しかし口論は長くは続かなかった。

「……なんですか、この煙?」

 店の奥から、黒煙が漏れてきている。

「は? 煙? なに言ってんの…………って、ひぃぃぃやぁああああああああ!!」

 店内に立ちこめる黒煙に女性が気づいた途端、背を反り返えさせる。

 どうやらパンを焼いていたことを忘れていたらしい。

 間抜けな女性な姿を一笑し、見捨てて帰ろうとした――が、

「き、君! 手伝って! オーブンがぁ! パンがぁ!」

 エノーマスは首根っこを掴まれ、本当に女性かと疑うほどの膂力でキッチンに放り込まれた。

「ま、窓開けて! ひぃぃぃい! はやく! オーブンは私がやるから!」

「なんで、ボクが……?」

「いいから! 動く!」

 鉄製のオーブンから漏れる黒煙は、扉を開いた途端に室内を包み込む。

 エノーマスは女性の指示通りに窓を開けると、矢継ぎ早に次の指示が飛んできた。文句を言う暇もなく、渋々エノーマスは従った。

 近所の人が何事かと店内に入ってきた頃には、ことは終える。

 女性が近所の人々に平謝りするが、なぜかそれにエノーマスも付き合わされた。

 そして――

「いやぁ、火事にならなくて良かった良かった」

 黒煙騒ぎで散らかったキッチンを片づけながら、女性はあっけらかんと言う。

「なにも良くないですよ。なんで、ボクまで一緒に謝らなきゃいけなかったんですか」

「ことの発端は君にもあったわけだしぃ……。それに、ご近所さんも謝れってオーラ出してたでしょ?」

「知りませんよ」

 女性は、先ほどの口論のことなどすっかり忘れてしまっているように接してくる。

「そういえば、名前知らなかったね。なんて言うの?」

「教える必要はないと思いますが」

「私はカティ。君は?」

 人の話を聞いていない。

 彼女の理解不能な思考に、エノーマスは軽いめまいを起こした。

「ほらほら、教えなさいよー」

 黒こげパンをこちらの頬に押しつけつつ、カティが迫ってくる。

 エノーマスは黒こげパンを引ったくって、彼女の頬に仕返しする。

「ひぎゃあ!」

 カティが怯んだ隙に、エノーマスは口を開く。

「エノーマスです」

 姓は教えない。ロードの名は口にするだけで騒動の火種となる。

「そっか。エノーマスっていうのか。長いからエノーね」

 なにが楽しいのか、女性ことカティは煤の付いた顔を満面の笑みで染めて、

「ありがとうね、エノー」

 唐突に言葉を贈ってきた。

 不意打ちに近い行動に、エノーマスは面を食らう。

 同時に、カティの笑顔に見とれてしまった。性格は野盗レベルに酷いが、容姿だけ見ればかなりの美人ではある。

「べ、別に……大したことはしてませんよ」

「エノーって、ここらへんじゃ見かけない顔だけど、もしかして旅行者?」

「……まあ、そんなところです」

 こちらの心境など構いもせず、カティは話し続ける。

「近々、この町に闘技場が出来るからねぇ。エノーもそれを見に来たの?」

「仕事ですよ」

「ここに仕事となると、鉱石の取引とか?」

「言えません」

「えー、けちぃ」

 発酵した生地のように、頬を膨らませるカティ。

 話している内に、キッチンの片づけは終わった。オーブンは使えそうだが、今日の内にパンを焼くことは出来ないだろう。

「そういえば、なんでこんな時間に焼いてるんですか? 普通、早朝に焼くもんでしょう?」

 よく見れば、今日の分のパンは店に並んでいる。あの味で、これ以上の量を焼いても豚の餌くらいにしかならないはず。

「あー、これはお店のために焼いたんじゃないのよ」

 黒こげパンが詰まったゴミ箱に視線を向ける。

「エノー、君って口が堅い方?」

「おしゃべりではないですよ」

「よぅし。なら、お姉さんの秘密を教えてあげよう!」

 カティの不適な笑みに、エノーマスは不安が積もっていく。

「結構です。それでは、ボクは帰ります。失礼しまし――」

「待て待てーい! ここまで来て、今更帰らせるわけにはいかないわよぉ!」

 変なスイッチが入ったのか、カティは演技がかった調子で通せんぼうする。

「帰らせてください」

「通行料をお支払いください」

「ひどい店ですね」

 面倒ごとになりそうなので、強行突破を決めた。

 緩やかに重心を右に傾ける。

「へいへーい、逃さないわよっ!」

 自分の進行方向を相手に察知させれば、当然のようにカティは妨害するためにルートを塞いでくる。

 彼女の重心が傾き、一歩踏み出す。

 その瞬間を狙って、エノーマスはカティが塞ごうとしていた進行方向とは逆の方向に体を滑り込ませる。

 あっさりとカティ防衛線は抜けられた――はずだった。

「甘い甘い、パンよりも甘い」

 抜けたと思っていた次の瞬間には、カティはエノーマスの前に立ちはだかっていた。

 ――どういう身体能力してるんだ?

 脇をすり抜けたときに、カティは咄嗟に回り込んできたとしか考えられない。

 猟犬のような身軽な動きにエノーマスは舌を巻く。

「はい、これにお店のパンを全部詰めてきて」

 人一人が余裕で入る大きな袋を渡される。

 厄介な人物に絡まれた――エノーマスは半ば諦めにも似た感情を抱き、嫌々ながら袋を手に取った。

「全部でいいんですね」

「おっ? 急に素直になったね」

「あなたのしつこさに根負けしただけです」

 釈然としないまま、エノーマスは店のパンを詰めていく。

 その間にカティは店前の看板を片づけ、店じまいを始めていた。

「終わったら裏口にある荷車に乗せてね」

 カティの指示のまま、裏の勝手口から外に出る。そこは、人気の無い路地裏に繋がっていた。

 木造の古い荷車に袋を乗せると、店じまいを終わらせたカティが裏口から出てきた。

「さあ、しゅっぱーつ!」

 カティが意気揚々とかけ声を上げるが、エノーマスは彼女のペースに付いていけない。

 行き先を問うが、適当なことではぐらかされ、エノーマスは渋々と荷車を引いて、路地裏の奥へと進んだ。

 人気のない路地裏が続く。

 しばらくカティの後を追っていくと、継ぎ接ぎだらけの木材の塀が路地裏を塞ぎ、行き止まりとなっていた。

 しかしカティは歩みを止めず、塀に手をかける。

「よいしょっと」

 カティが塀を押すと、まるで扉のように開いた。

 このような都市の真ん中で、隠し扉があるとは思っておらず、エノーマスは目を丸める。

「さあ、先に行って」

 カティに促され、エノーマスは荷車を引いて扉の先へ進んだ。

 扉の向こう側に、一歩踏み入れる。

 町並みが一変した。

 そこは、すべてが退廃していた。

 人の手から離れて老朽化した建物が視界一面を覆う。道は陥没が酷く、よそ見をしていたら転んでしまうだろう。

 同じ都市にある町並みとは思えない。

「スラム街……」

 領主であるマイル=ギラパールからスラム街の存在は聞いていた。

「ここは危険ですよ」

 淀む空気に顔をしかめ、エノーマスは言う。

「大丈夫大丈夫、こう見えてもお姉さんは強いのだ」

 自衛力を証明したいのかカティが腕まくりをする。しかしエノーマスの目は、周囲へと向けられていた。

 廃屋から汚らしい姿をした現・居住者が出てくる。明らかにエノーマスとカティの来訪を見計らってのことだ。

 数は十を越え、さらに増え続けていた。

 老若男女問わず、飢餓と敵対心に染まった瞳がこちらに向く。

 狙いは荷車だろう。

 スラム街に住む輩の野蛮さは、知っている。貧困さ故に、自分の腹を満たすなら我が子を殺すことさえ厭わない。

 エノーマスは、腰に隠してあるナイフの柄を握った。

 ――誰から仕留めようか。

 この人数を相手で、一番効率的な標的は体格の良い大人からだ。

 その後は荷車を置いて、逃げる。カティも連れて行くことは、エノーマスの算段に入っていた。

 ナイフを鞘から解き放つ瞬間、すぐ隣から破裂音がしてエノーマスはビクリと体を震わせた。

「みんな! 今日の配給だよー!」

 手を叩いたのはカティだった。

 彼女の一声で群衆が緩やかに動く。

「……っ!」

 エノーマスは咄嗟にナイフを取り出そうとしたが、その手はカティに止められた。

「安心して。悪い人たちじゃないから」

 カティはそう言って、またも純粋な笑みを浮かべる。

 エノーマスは戸惑うものの、その間にも群衆はこちらに近づいていた。

 先行するのは4、5歳くらいの子供たちだった。

「カティおねーちゃん! おなかすいた!」

 エノーマスに向けていた笑顔を、子供たちに向ける。

「よーし、カティお姉ちゃん特製パンを、たーんとお食べ!」

 手を差し伸べる子供たちにカティは荷車からパンを一つずつ渡していく。

「はやくはやくっ」

「はいはい、まだ貰ってない子はあっちのお兄さんに貰ってねー」

「え?」

 カティのエプロンを引っ張っていた子供たちの視線が、エノーマスに集中する。

「ちょうらい! ちょうらい!」

「ちょっ……! やめろ……! 服を引っ張るな!」

 警戒心の薄い子供たちが一斉にエノーマスに飛びかかった。

「エノー、一人一個だからよろしくー」

「ボクがやるんですか!?」

「私もやるけど? 二人でやった方が早いじゃない」

「何でボクが……!」

 子供の扱いを知らないエノーマスは、早々に拒否しようとしたが、すでにカティは他の子供の相手をしており、取り付く島がない。

 エノーマスは半ば脱がされつつあるズボンを押さえつつ、パンを子供たちに配っていく。

 二十人はいただろうか。

 全ての子供に配り終えたら、次は老人たちが待ちかまえていた。

「いつも、すまないねぇ」

「いいのいいの、私は好きでやってるんだから」

 一人一人丁寧にパンを渡していくカティを観察し、真似をしていく。

「お兄さん、見ない顔だけど、新しいパン屋さんかい?」

 女児に手を引かれた老婆が話しかけてくる。

「あ、いや、ボクは別に……ただ巻き込まれただけです」

「そうかい、そりゃあ偉いねぇ」

 耳が遠いのか、老婆の受け答えはズレていた。

「偉くはありませんよ」

「そりゃあ、大変ねぇ」

「……」

 会話が、かみ合わない。

 とっととパンを渡してしまおう。

 パンを一つ取り出したところで、カティに声をかけられた。

「エノー! その人、二つ上げてー!」

「二つ?」

「いいからいいからー」

 女児の分のパンかと思ったが、女児は先ほど渡されたパンを、顔を埋めるようにかぶりついている。

 ふと女児が顔を上げた。

 視線が合うが、すぐに老婆の後ろに隠れてしまう。

 エノーマスは差して気に留めることもなく、言われたとおり二つのパンを渡した。

 老婆と女児を見送ると、次の老人が来る。

 エノーマスは荷車からパンを取り出そうとしたが、

「やべっ」

 パンが入った袋に手を突っ込む男児を見つけた。

 荷車から降りて逃げようとする男児の腕を、エノーマスは掴み上げる。

「イテテテテッ! いてぇよ! 離せバカクソ!」

「うるさい、殺すぞ」

 慣れない作業に、ストレスが溜まっていたために、怒りをストレートに男児にぶつけた。

「なっ……! か、カティねーちゃん、なんだこいつ! 殺すとか、ぶっそーなこと言ってんぞー!」

 男児が騒ぐと、カティが足早に近寄ってくる。

 どうやら男児の盗みは初めてではないらしく、エノーマスが事情を話すことなく、カティは男児を叱りつけた。

「あんた、また盗もうとしたのね! パンは一人一個だって、いつも言ってるでしょ!」

「さっき、ババアが二個持ってたぞ! ずりーぞ! バカクソ!」

「あれは、家で動けないおじいさんの分よ!」

「知るかよ! オレは育ち盛りなんだよぉ! 食わせろぉ!」

「だったら、店の手伝いでもしなさい!」

 男児とカティの口論が続く。

 エノーマスは遠巻きに見ていたが、長引きそうだったので配給の作業に戻った。



 それからしばらくして、パンの在庫が尽きてしまう。

 まだパンを渡せない人々には、翌日に優先的に渡すことをカティが言い渡し、配給は終わった。

 パンを貰った人々は、家に帰らずカティを中心に談笑する。

 その光景はエノーマスにとって新鮮に見えた。

 エノーマスの知っているスラム街は、暴力的で無秩序だった。道ばたに子供の死体が転がっていることが当たり前だが、ここにはそんな凄惨で非情な光景は無縁のように思える。

 人の輪からカティが抜け出してくる。

「お疲れさま。いやぁ、助かったよ。これって一人でやるとすごく疲れるんだよねぇ」

「スラム街にパンを配るなんて、悪趣味ですね。パトロンでもいるんですか」

「ふっふっふっ、秘密なのだ」

「そうですか」

 特に興味はないので、簡素に答えた。

 活気のある光景を前に、カティは少しだけ口を塞ぎ、目に焼き付けるように眺めている。

「本当ならさ……」

 ぽつりとカティが呟く。声のトーンは落ち、どこか憂いを孕んだ表情に変わっていた。

「お腹いっぱい食べさせてあげたいんだけど、今の私にはこれが精一杯」

「そう、ですか」

 エノーマスは正当な言葉を見いだせず、おざなりな返事を口にした。

「あのね……、ここにいるのは、貴族に大切なものを奪われた人たちなの。領主の貴族が闘技場を作るために、建設予定地に住んでいた人々の家や店を一方的に取り潰していった。そのせいで、行き場を失った人たちが、ここにいるの」

 大衆娯楽・闘技場の建設は一年ほど前から進められている。マイル=ギラパールが、闘技場についての説明を避けていた理由は、おおよそ見当が付いた。

「闘技場の建設で雇用を増やしたけど、完成を早めるために過酷な重労働を強いられて、怪我人や死者が続出したの。ここで暮らすことになった人の多くが、マイル=ギラパールの悪行によるものなのよ」

 カティがスラム街と闘技場について話してくれたおかげで、エノーマスには、昨晩殺した男たちの正体が掴めた。

 マイルの娘を誘拐した男たちは『ベリオス』という組織の構成員だ。

 ベリオスは大きい組織ではない。この貿易都市アイト・ハルペだけで活動する小さなテロ組織だ。

 マイル=ギラパールからはテロ行為の目的は語られなかったが、おそらくベリオスの目的は不当な扱いを受けた者たちからの復讐だろう。

 断片的な情報が繋がっていき、一つの答えが導き出される。

 ――ここがベリオスの拠点か。

 荒廃したスラム街の町並みを見回す。

 都市の大きさに比例して、スラム街も広大な土地を締めていた。スラム街のどこまでがベリオスに染まっているかは分からないが、少なくともエノーマスのような余所者が長居を出来るような場所ではない。

 エノーマスは弛んでいた気持ちを引き締める。

「――っ!?」

 途端、身の毛も弥立つような鋭い視線を感じた。

 姿は見えない。だが、ここに確かに『敵』がいる。

「隙ありぃ!!」

 声は、予想していた方向とは逆から発された。

 背後――エノーマスが振り返る前に、尻が蹴り上げられる。

「いえーい! このバカクソめ! さっきのお返しだ!」

 先ほどパンを盗もうとしていた男児――テッドだ。

「この……!」

 臀部の痛みに耐えつつ、テッドを捕まえようとするが、逃げられてしまう。

「こらー! テッド! ……よくやった!」

 遠くにいるテッドに、サムズアップするカティ。テッドも、同じポーズを取って応じる。

「ぷぷっ、スカした顔して、ビビりなんだね」

「だっせーだっせー! バカクソ!」

 カティとテッドに嘲笑されるが、ここで相手の挑発に乗ることは情けないと思い、エノーマスはぐっと堪えた。

 カティとテッドから視線を外す。

 すると、視線の先には、一人の女児が歩み寄ってくる姿があった。

 まっすぐこちらに進んでくる女児。先ほどパンを二つ渡した老婆と一緒にいた、あの子だった。

 女児は、半分ほど減っていた食べかけのパンを、エノーマスに渡そうとしてくる。

「……え? なに?」

「おにいちゃん、たべないの?」

 女児が喋ると、頬に付いていたパンの食べ滓が、ぽろぽろと落ちていった。

「ボクは要らない」

「あげる」

「そのパンは君のものだよ」

「だったら、あげる」

 噛み合わない会話は、あの老婆を彷彿とさせた。

「君の分は君が食べるべきだよ。パンは一人一個。そういう約束だろう?」

「でもね、かてぃおねーちゃんはね、こまったひとがいたら、たすけてあげなさいって、いつもいってるの」

 そんなに自分の顔は貧しいように見えたのだろうか。

 ぐいぐいと押しつけられるパンを、受け取るわけには行かない。

 カティに助けを求めようとしたが、彼女は目を弓にしてニマニマと笑い、こちらのリアクションを楽しんでいた。

 半眼で一瞥した後、浅いため息を吐く。

「さっき、ボクもパンを食べたから大丈夫」

 ようやく女児の張っていた腕が、曲がった。

「そうなの?」

「そうだよ」

 まじまじとエノーマスを眺めた後、女児はにっこりと笑う。

「ありがと……」

 パンをかじりながら走り去る女児を見送った。

「あんなちっちゃいのに偉いわねぇ」

「あそこまでいくとお節介ですよ。それに、ボクは何もしてないのに感謝するって、どういう神経してるんですか」

「ここでは助け合うことが常だからね。あの子からしたら、気遣いを気遣いで返してくれたことに感謝したのよ」

「まったく理解できませんね」

「でも、ありがとうの響きって気持ちよくない?」

「ぜんぜん」

「可愛くないなー、きみー」

 何の成果も果たさずに、ありがとうと言われても何も感じない。

 だが、

 ――あのとき、マイル=ギラパールの娘に、ありがとうと言われてたら、ボクはどう感じたんだろう。

 疑問の答えは見つかりそうになかった。

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