13-10
怪鳥のように
まるで、全てを飲み込むように、ただ、
「ひーっひっひっひっ! どうだい、元気にしてたかい? お前さんたちが無事か、
突然、いきなり、なんの前触れもなく現れた謎の老婆……、
そのあまりにも気安い口調とは裏腹に、あの老婆から発せられる底知れぬ空気に、俺の背筋が一瞬で凍り付いた。
正直に言えば、奴と目を合わせるだけで、ゾッとする。
「……ああ、おかげさまで、元気そのものだよ」
「そいつは
そんな内心を
この雰囲気に飲み込まれたら終わりだと、俺の本能が告げていた。
「そちらのお嬢さんも、相変わらず
「くっ! なんて気配……! やはり、あのお婆さまは……!」
「姫様! お気を付けください……! 尋常な相手では、ありません!」
こちらの緊張なんて、お見通しだろうに、意にも
当然だ。
この屋敷の結界を破った時から、八百比丘尼が来ることは予想していたし、細心の注意を払って、用心もしていた。
だからこそ、先ほどの攻撃を、全員が無事に、回避することもできたわけだけど、それはつまり、用心をしていなければ、その最初の一撃で、全てが終わっていたかもしれないということでもある。
そう思わせるだけの異様を、あの老婆は放っているのだ。
これで警戒するなという方が、無理な話というやつだろう。
「それにしても、どこにいるのかと探してたら、まさか、この屋敷で見つけることになるなんて、なんとも運命的だねえ! もしかして、会いに来てくれたのかい?」
しかし、俺たちのピリピリした空気なんて無視しながら、余裕たっぷりの老婆は、ニヤニヤと笑いながら、意味不明なことを言い出した。
いや、もしかしたら、あれか。なんだか、俺が頑張った
まあ、それは別に、いまさらどうでもいいんだけど……。
あの老婆が、俺たちを探していたという事実からは、嫌な予感しかしなかった。
「だったら、どうする?」
「そうだねえ。あんまり嬉しいから……」
こちらから、正直に目的を話す理由もないので、適当に返した俺に対して、問題の老婆が、さらに適当に笑って見せる。
それを見る者の心臓を、握り潰すような笑みを……!
「まずは、熱烈に歓迎してやろうかね!」
その瞬間、全身を貫く悪寒に……、誤魔化さずに言えば、恐怖に突き動かされて、俺は全力で障壁を展開しつつ、脈絡もなく地面から
そう、ギリギリではあるけれど、その動きを認識し、避けることができた。
今までは、あの老婆が、なにかしようと動いても、俺たちは、それを認識することすらできず、全てが終わってから、結果だけを知るのが、精一杯だったということを考えれば、これは、大きな一歩と言っても、いいはずだ。
「朱天! 私の近くに!」
「申し訳ありません、姫様!」
もちろん、大丈夫なのは俺だけではなく、竜姫さんが引き出した輝く龍脈の力が、彼女を中心に半円型のドーム状に広がり、不気味に
やっぱり、竜姫さんならば、あの異常な黒い力にも、しっかり対抗できるようだ。俺の障壁と、彼女の操る龍脈によって、庭の
よし、これなら……!
「ほう! やるじゃないか!」
「いつまでも、あんたの好きにできると、思うなよ!」
これまでとは違うこちらの動きを見て、
八百比丘尼の目的は、分からないままだけど、ここで奴を倒してしまば……!
「うんうん、若者が自信を付ける
しかし、意気込む俺を、屋根の上から見下ろしながら、小馬鹿にしたような笑みを浮かべた八百比丘尼は、
「ただし……」
その瞬間、しわがれた老婆の声は、俺の背後から、確かに聞こえた。
「それが、ただの勘違いだと、悲しくなっちまうけどね」
「――なっ!」
見えなかった……!
いや、認識できなかったというべきなのか、気が付いた時には、一瞬前まで屋根の上にいたはずの八百比丘尼が、今は確かに、俺の後ろにいる。
まったく、少しも、
その事実が、俺の心臓を引きつらせる。
「分かるようになったと思ったかい? 見えるようになったと思ったかい? 対処ができようになったと思ったかい? 残念だねぇ……」
不気味な老婆の、
しかし、つい先ほどまで、絶対に背後にいたはずの、その声が、もはや、どこから
しかも、それはどうやら、俺だけの問題ではなく、驚愕の表情を浮かべて、周囲に目を配っている竜姫さんと朱天さんも同じように、あの老婆を見失っているらしいという事実が、ただひたすらに、俺の心を
やばい、やばいやばいやばいやばい……、やばい!
「そいつは全部、勘違いだよ」
「くっ、くううううっ!」
優しさすら感じる八百比丘尼の声が聞こえたと思った瞬間、あれだけ警戒していたはずの、あの黒いドロドロが、全身に
くそっ、本当に、どうなってるんだよ!
「あんたたちは、根本的なところで、思い違いをしてる。今までは、コイツの正体が分からないから、対応ができないとでも考えたんだろうけど、そもそも、そんなこと関係ないのさ。どうでもいいとも言えるけどね」
そして、魔方陣を盾にしつつ、黒い泥の包囲から、強引に抜け出して……!
「話は、もっと単純よ! 人間ってやつは、見たくないものは、自分で見ないようにしちまう。だから、見えない。見ることができない。どうしようもない恐怖や嫌悪が邪魔をして、認識することすら、本能が
あの老婆が発している言葉の意味が、俺にはまったく、分からない。
しかし、分からなくても、実感として、理解してしまう。分かりたくない事実が、逃れられない現実として、今まさに、襲い掛かってくるのだから。
確かに、俺は、あの老婆どころか、先ほどまでは、しっかりと認識していはずの、黒い力まで、その動きが、見えなくなっている……!
どうなってるんだ……?
これも、八百比丘尼という存在が、ここにいるせいなのか?
とめどなく疑問は出てくるけど、そんなことに
「コイツは、あんたらが命ある生物である以上、決して受け入れらものだからね!」
「きゃああああっ!」
先ほどまでとは、あきらかに勢いが違う、まるで濁流のような黒い力が、あまりに不吉な老婆の絶叫と共に、竜姫さんたちに襲い掛かり、無残にも、飲み込もうとしていることに、俺は彼女の悲鳴で、ようやく気付く。
「悲しいねぇ……。かつては同じものだったのに、引き裂かれたせいで、こんなにも差が生まれちまうんだから、まったく皮肉だよ」
「く、くうっ……!」
さらに、意味不明な老婆の言葉通り、
竜姫さんが、苦しんでいるというのに、俺にはないも、できないのか……!
「光と影、
状況は、まさに最悪だというのに、まるで、それが当然、それこそが必然なんだと言わんばかりに、感動もなく吐き捨てる老婆に、
しかし、今の俺では、自分の身を守るために、全方位に展開した魔方陣が、抵抗もできずに崩壊したことを認識してから、必死になって、あてどもなく博打のように、その場から逃げ続けるのが、精一杯で、竜姫さんの元に、向かうことすら……!
「
だがしかし、それが同情にも似た、勝利宣言だということだけは、俺にも分かる。分かってしまう。分かりたくないのに、認めたくないのに……!
現実は、ただ残酷だった。
「残念だけど、あんたの力じゃ、どうにもならないよ!」
「あ、ああっ!」
老婆の鋭い
彼女の悲鳴が、役立たずな俺の頭に、一気に血を上らせた。
「おいっ! 竜姫さんを、離せ……!」
「悪いね。あんたの成長を確かめたくて、さっきは
しかし、俺の怒りを込めた叫びを、突然、空中に現れたかと思うと、当然のように浮いている老婆が
もうこちらには、興味がないとでもいうように。
「本命は、こっちの嬢ちゃんさ!」
「きゃあ!」
そして、まさしく老婆の手足のように、竜姫さんを縛り上げていた黒い力の
認識できない行動には、対応できない。
そして、
致命的なまでの現実が、俺の心をかき乱す。
「――貴様あああっ!」
「おっと、止した方がいいよ」
そんな俺よりも早く、当然ながら
「怒りや憎しみは、コイツらの大好物だからね」
「なっ、くうっ!」
「つっ! 朱天さん!」
まるで、そこに石があるから、気を付けなとでも告げるみたいに、あっさりと言い放った老婆の言葉通り、先ほどまでより、さらに速度を速め、もはや目にも止まらぬスピードになった黒いドロドロが、正確に朱天さんの脳天を撃ち抜くという、確信に似た悪寒に貫かれ、俺は全てが終わる前に、無我夢中で動き出す。
無数の魔方陣を展開し、強引に朱天さんを包み込んで、こちらへと引き寄せる。
ギリギリの賭けだったけど、それだけは、上手くいった。
そう、それだけは……。
「さてと、これにて最後の鍵は、この手の中に……! ひ、ひひ、ひひひひっ!」
朱天さんと同じように、魔方陣を使って、竜姫さんの奪還も試みたのに、そちらは全て、狂ったように笑い出した老婆の手によって、失敗に終わってしまった。
やっぱり、このままじゃ、届かないのか……!
「ようやく、ああ、ようやく、ようやくようやくようやく! 我が
絶望に押し潰されそうな俺たちとは対照的に、まるで、希望そのものを掴んだかのように、老婆は
そんな異様な光景を、俺は正しく、見ることすらできない。
「ひひひひひっ! ひひひひひひひひっ! ひーっひっひっひっひっ!」
狂ったように、老婆が笑う。笑い続ける。
その悪夢のような哄笑を破壊しようにも、奴の周囲で竜巻のように渦巻く黒い力のせいで、相手を正確に
でも、闇雲に破壊しようとしても、あの老婆のすぐ近くに、竜姫さんがいる以上、下手なことをすれば、彼女ごと
「ああ、朱天……!」
「ひ、姫様! 姫様、姫様ー!」
漆黒の渦に巻き込まれ、その姿を見ることすらできない竜姫さんから、なんとか、絶え絶えになりながらも聞こえた声に、
無暗に近づいても、意味はない。いやむしろ、危険なだけだ。
分かってる。
そんなことは、分かってるんだよ……!
「……
「――竜姫さん!」
なんとか、なんとか、気持ちを押し殺し、砕けんばかりに奥歯を噛み締める俺に、もう顔も見えない竜姫さんから、いつもとなにも変わらない、優しい声が届く。
その声は、どこまでも
まるで、なにかを覚悟したかのように。
「どうか、どうか私のことは、お気になさらずに……!」
そんなこと、できるわけがない! できるわけが、ないじゃないか!
あの声を聴くだけで、俺には分かる。
彼女と過ごした時間の全てが、俺に教えてくれている。
あまりにも絶望的な、黒い力に飲み込まれながらも、竜姫さんはいつものように、優しい笑顔を浮かべているということを。
ああ、だったら、俺は……!
「……なに、別に心配することはないさ」
「あううっ!」
しかし、だがしかし、俺が決死の行動を起こす前に、先ほどまでの不気味な笑みを微塵も感じさせない冷たい声で、老婆が
それだけで、俺の心は
「この嬢ちゃんには、またすぐに会える……」
そして、俺がなにかをする前に、声の一つすら出す前に……。
「あんたら全員、黄泉の国でね! ひひ、ひひひひっ、ひーひっひっひっ!」
老婆は消えた。
ただ不快な笑い声だけを残して、
「ああ、ああああああ……!」
後に残されたのは、もはや老婆にとっては、興味がなかったのか、変わらず無事な様子で眠ったままの忍者たちと、涙を流しながら
「…………」
そして、なにもできなかった、俺だけだった。
だけど、まだだ。まだ終わらない。
この心の奥で
「……総員、緊急事態だ。計画を、変更する」
俺は覚悟を持って、本部への通信を再開する。
そう、絶対の、覚悟と共に。
「ヴァイスインペリアルの……、俺たちの総力を
もはや、手段を選んでいる余裕なんて、なくなった。
だったら、やることは決まってる。
そう、決まりきっている。
「決着を付けるぞ……!」
『――ジーク・ヴァイス!』
ここからは、俺たちの全身全霊を持って、死力を尽くそう。
この悪夢のような時間を、終わらせるために。
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