13-10


 夕闇ゆうやみの中で、老婆は笑う。


 怪鳥のように甲高かんだかく、悪夢のように凄惨せいさんに、暗闇のように底なしに、老婆は笑う。


 まるで、全てを飲み込むように、ただ、わらう。




「ひーっひっひっひっ! どうだい、元気にしてたかい? お前さんたちが無事か、年甲斐としがいもなく心配しとったんじゃよ! どこかで野垂のたにでもしとったら、色々困ってしまうからの! ひひひひひひっ!」


 突然、いきなり、なんの前触れもなく現れた謎の老婆……、八百比丘尼やおびくにが、嬉々ききとした様子で、鬼気迫ききせまる勢いで、純日本風である神宮司じんぐうじ家の屋根の上で、耳をふさぎたくなるような、高笑いを上げている。


 そのあまりにも気安い口調とは裏腹に、あの老婆から発せられる底知れぬ空気に、俺の背筋が一瞬で凍り付いた。


 正直に言えば、奴と目を合わせるだけで、ゾッとする。


「……ああ、おかげさまで、元気そのものだよ」

「そいつは息災そくさい! よかったじゃないか! まったく、安心したよ! ひひひっ!」


 そんな内心をおさみながら、俺は高い位置にいる老婆を見上げ、対峙する。


 この雰囲気に飲み込まれたら終わりだと、俺の本能が告げていた。


「そちらのお嬢さんも、相変わらず別嬪べっぴんさんで、うらやましい限りだねぇ……」

「くっ! なんて気配……! やはり、あのお婆さまは……!」

「姫様! お気を付けください……! 尋常な相手では、ありません!」


 こちらの緊張なんて、お見通しだろうに、意にもかいさないどころか、軽口を叩き、不気味な笑みを浮かべる老婆に、竜姫たつきさんも朱天しゅてんさんも、警戒を強める。


 当然だ。


 この屋敷の結界を破った時から、八百比丘尼が来ることは予想していたし、細心の注意を払って、用心もしていた。


 だからこそ、先ほどの攻撃を、全員が無事に、回避することもできたわけだけど、それはつまり、用心をしていなければ、その最初の一撃で、全てが終わっていたかもしれないということでもある。


 そう思わせるだけの異様を、あの老婆は放っているのだ。


 これで警戒するなという方が、無理な話というやつだろう。


「それにしても、どこにいるのかと探してたら、まさか、この屋敷で見つけることになるなんて、なんとも運命的だねえ! もしかして、会いに来てくれたのかい?」


 しかし、俺たちのピリピリした空気なんて無視しながら、余裕たっぷりの老婆は、ニヤニヤと笑いながら、意味不明なことを言い出した。


 いや、もしかしたら、あれか。なんだか、俺が頑張った渾身こんしんの潜入作戦が、唐突にバレたと思ったら、どうやらそれは、向こうも向こうで、こちらを探していたせいで起きた、偶然の事故のようなものだったらしい。


 まあ、それは別に、いまさらどうでもいいんだけど……。


 あの老婆が、俺たちを探していたという事実からは、嫌な予感しかしなかった。


「だったら、どうする?」

「そうだねえ。あんまり嬉しいから……」


 こちらから、正直に目的を話す理由もないので、適当に返した俺に対して、問題の老婆が、さらに適当に笑って見せる。


 それを見る者の心臓を、握り潰すような笑みを……!


「まずは、熱烈に歓迎してやろうかね!」


 その瞬間、全身を貫く悪寒に……、誤魔化さずに言えば、恐怖に突き動かされて、俺は全力で障壁を展開しつつ、脈絡もなく地面からにじし、槍のように突き出してきた黒いドロドロを、ギリギリで回避する。


 そう、ギリギリではあるけれど、その動きを認識し、避けることができた。


 今までは、あの老婆が、なにかしようと動いても、俺たちは、それを認識することすらできず、全てが終わってから、結果だけを知るのが、精一杯だったということを考えれば、これは、大きな一歩と言っても、いいはずだ。


「朱天! 私の近くに!」

「申し訳ありません、姫様!」


 もちろん、大丈夫なのは俺だけではなく、竜姫さんが引き出した輝く龍脈の力が、彼女を中心に半円型のドーム状に広がり、不気味にす黒いドロドロを、見事にはじかえしているし、あるじの近くにいる朱天さんも、当然ながら無傷である。


 やっぱり、竜姫さんならば、あの異常な黒い力にも、しっかり対抗できるようだ。俺の障壁と、彼女の操る龍脈によって、庭のはじで寝ているハットリジンゾウたちも、しっかりと守ることもできている。


 よし、これなら……!


「ほう! やるじゃないか!」

「いつまでも、あんたの好きにできると、思うなよ!」


 これまでとは違うこちらの動きを見て、太々ふてぶてしく口端こうたんげた老婆に向けて、俺は防御にてっしていた魔方陣に加え、新たに攻撃用のものを複数展開する。


 八百比丘尼の目的は、分からないままだけど、ここで奴を倒してしまば……!

 

「うんうん、若者が自信を付けるさまっていうのは、いつ見てもいいもんだ……」


 しかし、意気込む俺を、屋根の上から見下ろしながら、小馬鹿にしたような笑みを浮かべた八百比丘尼は、余裕綽々よゆうしゃくしゃくの態度で、ふらふらと身体を揺らし、て……!


「ただし……」


 その瞬間、しわがれた老婆の声は、、確かに聞こえた。


「それが、ただの勘違いだと、悲しくなっちまうけどね」

「――なっ!」


 見えなかった……!


 いや、認識できなかったというべきなのか、気が付いた時には、一瞬前まで屋根の上にいたはずの八百比丘尼が、今は確かに、俺の後ろにいる。


 まったく、少しも、微塵みじんも、その動きに、


 その事実が、俺の心臓を引きつらせる。


「分かるようになったと思ったかい? 見えるようになったと思ったかい? 対処ができようになったと思ったかい? 残念だねぇ……」


 不気味な老婆の、あわれむような嘲笑ちょうしょうが聞こえる。


 しかし、つい先ほどまで、絶対に背後にいたはずの、その声が、もはや、どこからはっせられているのかすら、分からない!


 しかも、それはどうやら、俺だけの問題ではなく、驚愕の表情を浮かべて、周囲に目を配っている竜姫さんと朱天さんも同じように、あの老婆を見失っているらしいという事実が、ただひたすらに、俺の心をあせらせる。


 やばい、やばいやばいやばいやばい……、やばい!


「そいつは全部、勘違いだよ」

「くっ、くううううっ!」


 優しさすら感じる八百比丘尼の声が聞こえたと思った瞬間、あれだけ警戒していたはずの、あの黒いドロドロが、全身にからみついてしまっているということに、まさに今さら気が付いた俺は、苦悶くもんこえしぼすしかない。


 くそっ、本当に、どうなってるんだよ!


「あんたたちは、根本的なところで、思い違いをしてる。今までは、の正体が分からないから、対応ができないとでも考えたんだろうけど、そもそも、そんなこと関係ないのさ。どうでもいいとも言えるけどね」


 朗々ろうろうと、まるで子供をさとすように、もはや、どこから聞こえるのかすら分からないというのに、確かに耳に入ってくる老婆の声を、無視することもできず、ただ漠然ばくぜんと聞き流しながら、俺は必死に、侵食される前に、カイザースーツを解除する。


 そして、魔方陣を盾にしつつ、黒い泥の包囲から、強引に抜け出して……!


「話は、もっと単純よ! 人間ってやつは、見たくないものは、自分で見ないようにしちまう。だから、見えない。見ることができない。どうしようもない恐怖や嫌悪が邪魔をして、認識することすら、本能がこばんでしまう……」


 あの老婆が発している言葉の意味が、俺にはまったく、分からない。


 しかし、分からなくても、実感として、理解してしまう。分かりたくない事実が、逃れられない現実として、今まさに、襲い掛かってくるのだから。


 確かに、俺は、あの老婆どころか、先ほどまでは、しっかりと認識していはずの、黒い力まで、その動きが、見えなくなっている……!


 どうなってるんだ……?

 これも、八百比丘尼という存在が、ここにいるせいなのか?


 とめどなく疑問は出てくるけど、そんなことにかまっている余裕は……、ない!


「コイツは、あんたらが命ある生物である以上、決して受け入れらものだからね!」

「きゃああああっ!」


 先ほどまでとは、あきらかに勢いが違う、まるで濁流のような黒い力が、あまりに不吉な老婆の絶叫と共に、竜姫さんたちに襲い掛かり、無残にも、飲み込もうとしていることに、俺は彼女の悲鳴で、ようやく気付く。


 咄嗟とっさに、魔方陣で援護しようとしても、その全てが効果を発揮する前に、黒い力に侵食され、紙の盾より役に立たない!


「悲しいねぇ……。かつては同じものだったのに、引き裂かれたせいで、こんなにも差が生まれちまうんだから、まったく皮肉だよ」

「く、くうっ……!」


 さらに、意味不明な老婆の言葉通り、怒涛どとうのように荒れ狂う黒い力が、あんなにも輝いていた龍脈の力を、呆気あっけなく飲み込もうとしているという事実が、俺の中にある焦燥しょうそうを、さらに大きくしていく。


 竜姫さんが、苦しんでいるというのに、俺にはないも、できないのか……!


「光と影、いんよう、表と裏……。まあ、なんだっていいけどさ」


 状況は、まさに最悪だというのに、まるで、それが当然、それこそが必然なんだと言わんばかりに、感動もなく吐き捨てる老婆に、苛立いらだちがつのる。


 しかし、今の俺では、自分の身を守るために、全方位に展開した魔方陣が、抵抗もできずに崩壊したことを認識してから、必死になって、あてどもなく博打のように、その場から逃げ続けるのが、精一杯で、竜姫さんの元に、向かうことすら……!


とどまることもできず、流れるしかない光が、深くよどみ続け、延々と堆積たいせきし、永遠に圧縮し、無限に肥大化し続けた闇に、かなわけがなかろう?」


 あいわらず、老婆の言ってることは、意味不明だ。


 だがしかし、それが同情にも似た、勝利宣言だということだけは、俺にも分かる。分かってしまう。分かりたくないのに、認めたくないのに……!


 現実は、ただ残酷だった。


「残念だけど、あんたの力じゃ、どうにもならないよ!」

「あ、ああっ!」


 老婆の鋭い一喝いっかつと共に、さらに力を強めた黒いドロドロが、絶望的にふくがり、ついに龍脈を飲み込んで、崩壊へと導いてしまうと、その内にいる竜姫さんを乱暴につかり、気が付けば、もてあそぶように締め上げていた。


 彼女の悲鳴が、役立たずな俺の頭に、一気に血を上らせた。


「おいっ! 竜姫さんを、離せ……!」

「悪いね。あんたの成長を確かめたくて、さっきは木偶でくを使って試したけれど……」


 しかし、俺の怒りを込めた叫びを、突然、空中に現れたかと思うと、当然のように浮いている老婆が一笑いっしょうして、あわれみの視線すら送ってきた。


 もうこちらには、興味がないとでもいうように。


「本命は、こっちの嬢ちゃんさ!」

「きゃあ!」


 そして、まさしく老婆の手足のように、竜姫さんを縛り上げていた黒い力のうずが、恐ろしい勢いで彼女を中空へと持ち上げ、八百比丘尼の元へと運んだということを、俺は全てが終わってから、ようやく理解する。


 認識できない行動には、対応できない。


 八尺瓊勾玉やさかにのまがたまの力でも、見えず。

 八咫鏡やたのかがみで増大した命気プラーナも、侵食されるだけ。

 そして、天叢雲剣あまのむらくものつるぎの力を使おうにも、見えないものは、破壊できない。


 致命的なまでの現実が、俺の心をかき乱す。


「――貴様あああっ!」

「おっと、止した方がいいよ」


 そんな俺よりも早く、当然ながら激昂げきこうした朱天さんが、その金棒をかまえ、おそらく投げ飛ばして、八百比丘尼を狙おうとした瞬間、老婆は笑う。嘲笑あざわらう。


 洞穴ほらあなのようにからっぽの笑顔で、ただ、わらう。


「怒りや憎しみは、コイツらの大好物だからね」

「なっ、くうっ!」

「つっ! 朱天さん!」


 まるで、そこに石があるから、気を付けなとでも告げるみたいに、あっさりと言い放った老婆の言葉通り、先ほどまでより、さらに速度を速め、もはや目にも止まらぬスピードになった黒いドロドロが、正確に朱天さんの脳天を撃ち抜くという、確信に似た悪寒に貫かれ、俺は全てが終わる前に、無我夢中で動き出す。


 無数の魔方陣を展開し、強引に朱天さんを包み込んで、こちらへと引き寄せる。


 ギリギリの賭けだったけど、それだけは、上手くいった。


 そう、それだけは……。


「さてと、これにて最後の鍵は、この手の中に……! ひ、ひひ、ひひひひっ!」


 朱天さんと同じように、魔方陣を使って、竜姫さんの奪還も試みたのに、そちらは全て、狂ったように笑い出した老婆の手によって、失敗に終わってしまった。


 やっぱり、このままじゃ、届かないのか……!


「ようやく、ああ、ようやく、ようやくようやくようやく! 我が宿願しゅくがんが……!」


 絶望に押し潰されそうな俺たちとは対照的に、まるで、希望そのものを掴んだかのように、老婆はそらえ、てんなみだする。


 そんな異様な光景を、俺は正しく、見ることすらできない。


「ひひひひひっ! ひひひひひひひひっ! ひーっひっひっひっひっ!」


 狂ったように、老婆が笑う。笑い続ける。


 その悪夢のような哄笑を破壊しようにも、奴の周囲で竜巻のように渦巻く黒い力のせいで、相手を正確にとらえることができず、それも叶わない。


 でも、闇雲に破壊しようとしても、あの老婆のすぐ近くに、竜姫さんがいる以上、下手なことをすれば、彼女ごとちりも残さずバラバラに……! 


「ああ、朱天……!」

「ひ、姫様! 姫様、姫様ー!」


 漆黒の渦に巻き込まれ、その姿を見ることすらできない竜姫さんから、なんとか、絶え絶えになりながらも聞こえた声に、すがりつくように、祈るように、ただひたすら盲目的に突進しようとする朱天さんを、力づくでおさえることしか、俺にはできない。


 無暗に近づいても、意味はない。いやむしろ、危険なだけだ。


 分かってる。


 そんなことは、分かってるんだよ……!


「……統斗すみとさま!」

「――竜姫さん!」


 なんとか、なんとか、気持ちを押し殺し、砕けんばかりに奥歯を噛み締める俺に、もう顔も見えない竜姫さんから、いつもとなにも変わらない、優しい声が届く。


 その声は、どこまでもおだやかで、んでいた。



 まるで、なにかを覚悟したかのように。



「どうか、どうか私のことは、お気になさらずに……!」


 そんなこと、できるわけがない! できるわけが、ないじゃないか!


 あの声を聴くだけで、俺には分かる。

 彼女と過ごした時間の全てが、俺に教えてくれている。


 あまりにも絶望的な、黒い力に飲み込まれながらも、竜姫さんはいつものように、優しい笑顔を浮かべているということを。


 ああ、だったら、俺は……!


「……なに、別に心配することはないさ」

「あううっ!」


 しかし、だがしかし、俺が決死の行動を起こす前に、先ほどまでの不気味な笑みを微塵も感じさせない冷たい声で、老婆がつぶやいた途端、竜姫さんから悲鳴が上がる。


 それだけで、俺の心は千々ちぢみだれた。


「この嬢ちゃんには、またすぐに会える……」


 そして、俺がなにかをする前に、声の一つすら出す前に……。


「あんたら全員、黄泉の国でね! ひひ、ひひひひっ、ひーひっひっひっ!」


 老婆は消えた。


 ただ不快な笑い声だけを残して、かすみのように。


「ああ、ああああああ……!」


 後に残されたのは、もはや老婆にとっては、興味がなかったのか、変わらず無事な様子で眠ったままの忍者たちと、涙を流しながらせ、慟哭どうこくする朱天さん……。


「…………」


 そして、なにもできなかった、俺だけだった。


 だけど、まだだ。


 この心の奥でたぎる激情は、そんなことでは、消えやしない。


「……総員、緊急事態だ。計画を、変更する」


 俺は覚悟を持って、本部への通信を再開する。


 そう、絶対の、覚悟と共に。


「ヴァイスインペリアルの……、俺たちの総力をげて……」


 もはや、手段を選んでいる余裕なんて、なくなった。


 だったら、やることは決まってる。


 そう、決まりきっている。


「決着を付けるぞ……!」

『――ジーク・ヴァイス!』


 ここからは、俺たちの全身全霊を持って、死力を尽くそう。



 この悪夢のような時間を、終わらせるために。


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