10-9


 不死鳥ふしちょうは、炎の中から、よみがえる。



「これなら……!」


 身体が、軽い。いやそれよりも、これまで、散々苦しめられた頭痛が、すっかりと消え失せたという事実が、俺の思考を軽くする。


 それは本当に、世界中が晴れ渡ったような、解放感だった。


「――はっ!」


 シュバルカイザー・アマテラス。


 最後の神器である八咫鏡やたのかがみを分解し、その力を組み込み、再構築することで、全身が地表に出たマグマのように赤黒く燃え上がり、背中に広がる外套がいとうが後光のように輝きながら、頭上には小さな太陽のような鏡がきらめく、この新たなカイザースーツなら、本当に、なんでもできそうな気分だ。


 こうして、気合を入れるだけで、俺の身体から力があふれ、吹き荒れる雪の嵐を吹き飛ばし、これまで隠れていた星空が垣間かいま見える。


 さあ、急がないと……!


「はあ、はあ……!」

朱天しゅてんさん!」


 もうすでに、かなり消耗してしまった様子の朱天さんに向けて、俺は即座に、この手のなかに自らのうちからる命の力を凝縮したつくり出し、投げつける。


 そのくれないに輝くリングは、音もなく真っ直ぐに進むと、俺の狙い通り、朱天さんに衝突する寸前、火花のように散らばり、彼女の細い首へと、優しく巻かれた。


「な、なんだ、これは……?」

「ちょっとだけ、我慢してください……!」


 朱天さんの首に装着された光の輪からは、俺の右手へと続く光のなわが伸びている。彼女と繋がっている、その縄を通して、俺は自分の生命力を、全力で送り出す。


 よし、これで……!


「な、なにか,、熱いものが、流れ込んで……! ああっ!」


 俺からそそがれる生命力のねつに、朱天さんが悲鳴にも似た嬌声きょうせいを上げているけど、効果はてきめんだ。見る見るうちに、彼女の全身に活力がみなぎり、その全身から噴き出している炎に、再び勢いが戻っていく。


 そう、朱天さんの、あの力が危険なのは、爆発的な力を手にする代わりに、自らの命という代償を、恐ろしい速度で消費してしまうからに、ほかならない。


 だけど、それならば、解決策は決まってる。


 要するに、今の朱天さんは、とんでもないパワーが出せるけど、あまりにも燃費が悪すぎるエンジンに、限りあるガソリンを、ありったけ注ぎ続けている状態だ。


 ならば、どうすればいいのか? 答えは簡単。


 代わりとなるガソリンを、生命力を、外から注ぎ足せばいい。それも、朱天さんが瞬時に燃やし尽くしてしまう量よりも多く、そして、素早く。


 そのための方法なら、俺は持っている。


「それは、俺の命気プラーナです! どうぞ、思う存分、使ってください!」

「……っ! ははっ! そうか! そういうことか!」


 俺からの簡単な説明を受けた朱天さんが、自分の身に、なにが起きているのか理解してくれたようで、再び全身から激しく炎をのぼらせながら、快活かいかつに笑う。


「――吹き飛べ!」

「グギャアアア!」


 そして、まるで、その効能こうのうを確かめるように、握り締めた巨大な金棒に、さらなる火炎をまとわせて、朱天さんが全力で振り抜くと、果たして、こちらに飛びかかろうとしていた敵の群れは、雪男と化したジンゾウたちは、獣のような悲鳴を上げながら、彼女の宣言通り、木っ端のように吹き飛びながら、激しく燃焼している。


 どうやら、効果は抜群だったようだ。


「お見事、朱天さん!」

「はっ! このくらい、どうってことない!」


 俺はその隙に、ひらりと跳躍ちょうやくして、朱天さんの隣に着地する。


 うん、本当に、身体が軽い。


「……それより、そっちは大丈夫なのか?」

「ええ、もちろん! むしろ絶好調ですよ!」


 その身を燃やしがらも、特に熱くはないのだろうか。変わらぬ様子の朱天さんが、気づかうように尋ねてくれたので、俺は胸を張って、自らの好調をアピールする。


 とはいえ、これは別に、無理をしているわけでも、虚勢きょせいってるわけでもない。


 ただ単に、俺自身が驚くほどに、今の俺が、本当に絶好調なだけなのだった。


 どうやら、八咫鏡の力を使っているおかげなのか、この身体の内側から、まさしく無限にも思えるほどの命気が、恐ろしいほどの勢いで、湧き出しているのが分かる。


 さらには、三つの神器を、全て手に入れたことで、このそれぞれ規格外な力たちのバランスを保つことが、非常に簡単になったようだ。


 長い棒の端っこに、二つのおもしだけつけるよりも、真ん中にもう一つ、重心を置くことで安定する、ヤジロベエの原理とでも呼べばいいのか……。


 もしくは、三位一体さんみいったいとか、なんか、そういう感じの、アレだろうか。


 まあ、その辺りは、個人的には、どうでもいい。


「そうか、そいつは、よかった……」

「いえいえ、ご心配を、おかけしました!」


 こうして、これまで心配をかけてしまった朱天さんを、安心させてあげることが、今の俺にとっては、一番大切なのだから。


「……でもな」

「はい?」


 というわけで、ようやくうれいもなくなったのに、なぜだか朱天さんが、ぷるぷると震えながら、恥ずかしそうに、その首に巻かれている光の輪と、そこから伸びた輝く縄をまんで、なにか言いたそうにしているので、俺は首をかしげてしまう。


 なんだろう? なにか、ダメなとこでも、あったかな?


「こいつのおかげで、助かってるっていうのは分かるんだが、その、なんだ……」


 いやはや、まったく、その通り。この縄を通して、俺の命気を送り、あの輪っかをかいして、体内へのスムーズな伝達を行っていることは、それを受けている朱天さんが感じている通り、純然たる事実である。


 でも、それがどうか、したのかな?


「首輪はないんじゃないか! 首輪は! これじゃ、まるで……!」

「ま、まあまあ、落ち着いてくださいよ!」


 なんて、とぼけてみようとした、その前に、ただでさえ赤い顔を、さらに紅潮させた朱天さんに、思い切り怒鳴られてしまったので、これはまずいと、俺は慌てて、その怒りをしずめるために、高速で言い訳をひねす。


 でも、いや、うん、ごめんない。


 正直、咄嗟とっさのこととはいえ、俺も思わず、あれって、まるで、犬の首輪というか、そういうプレイみたいだよなって、ちょっと興奮……、じゃない、後悔してます。


 はい、本当です。


「命気の流れを考えると、首が一番効率的なんですって! 頭と身体を繋ぐ場所で、全身を循環じゅんかんするための血管とか、一ヵ所に集まってますし!」

「むう……、そうなのか? 本当に、そうなのか?」


 というわけで、俺の理路整然りろせいぜんとした、それっぽい説明を聞いて、朱天さんは、けむかれたような顔をしながらも、なんとなく、怒りが霧散した気がする。


 まあ、俺の言っていることも、完全な嘘というわけじゃないので、そこはどうか、許していただきたい。ご容赦ようしゃいただきたい。ごめんなさい。


 でも、真実は、ただなんとなく、そこに付けると似合うかな、なんて、ちょっぴり思っただけなんですとは、今の俺の勇気では、言えそうになかった。


「ええ、もちろん! ちなみに、第二候補は丹田たんでんがある臍下せいか……、つまりは、おなかなんですけど、それだと、それはそれで、色々と物議をかもす感じの、子供に使うリードみたいになりますけど、そっちがよかったですか?」

「う、ううん……、それはそれで、ちょっとというか、かなり嫌だな……」


 なので、卑劣な俺は、より微妙な案を提示することで、現状は少しでもマシだと、錯覚させるための詭弁きべんを繰り返す。


 ふっふっふっ、これぞまさしく、悪の総統らしい所業といえよう。


「というわけで、これが最適なので、どうか、ご容赦くださいね?」

「ふん、まあ、いいだろう。許してやるさ」


 よかった。最終的には、全力で土下座までする覚悟だった俺に、朱天さんは抑揚よくよううなずいて、肝要かんような心を見せてくれた。


 本当に、ありがとう! そして、ごめんなさい!


 でも、その細い首をいろどる、真っ赤な首輪は、とってもセクシーだと思います!


 なんて、おふざけは、このくらいにしましょうか。


「なんにせ、これで……」

「ええ、これで……」


 獰猛どうもうな笑みを浮かべた朱天さんに、俺もたっぷりの余裕を持って、頷き返す。


 さあ、もうすっかりと、いつもの調子なのは、確認できた。


 それでは、ここからは……。



 ちゃんと身体が動くのか、試してみよう。



「こいつらを、ぶっ飛ばせる!」

「グオオオオオッ!」


 俺と朱天さんが、声を揃えて、気合を入れると、先ほどから、俺たちの周囲を再び囲み、グルグルと回っていた雪男のような怪物たちが、威嚇いかくするようにえながら、こちらに向けて、一斉いっせいに襲い掛かってきた。


 だが、その程度、今の俺と朱天さんなら、なんの問題にも、なりはしない。


「――燃え尽きろ!」

「ギエエエエ!」


 まばゆいばかりに燃え上り、巨大な金棒を振り回した朱天さんの周囲で、圧巻なまでのほむらが吹き上がり、あたりの雪男を、灼熱地獄へと引きずり込んだ。


 それでは俺も、始めましょうか!


「さーて、どいつがハットリジンゾウなんだか、もうすっかり分からないけど……」


 俺は自らの身体から噴き出す命気を、朱天さんを見習って、炎へと変換しながら、その推力を使って空中に浮きつつ、すっきりした頭で、好きなだけ魔方陣を構成し、ありったけ展開してみせる。


 うん、まったくもって、どこにも不調は感じない。いやむしろ、感動的なまでに、清々すがすがしい気分であると、言い切ってしまってもいいだろう。


 本当に、こんな気分はひさしぶりなので、なんだかテンションが上がってしまう。


「とりあえず、全員まとめて、退治してやる!」


 そして、俺の展開した無数の魔方陣から、レーザーのように収束した業火ごうかたばが、まるで太陽の光のように照射され、地表でうごめく雪男たちを、蹂躙じゅうりんしていく。


「グアアアアッ!」

「ほらほら、こんなもんじゃないぞ!」


 これだけの魔術を使っても、俺に負担があるどころか、むしろ余力が有り余って、困ってしまうくらいだが、ちゃんと気は抜かずに、きちんと標的のみを薙ぎ払う。


 やっぱり、俺の調子は、悪くない。


「それじゃ、さっさと片付けましょうか、朱天さん!」

「ふっ、お前の方こそ、遅れをとるなよ!」

「グギャアアアアア……!」


 それならばと、一気呵成いっきかせいの攻勢に出た俺が、さらに追加で展開した巨大な魔方陣によって、まるで夜が明けたかのような光のうずが舞い踊り、灼熱に燃え滾る金棒を振り回した朱天さんが、縦横無尽じゅうおうむじんに駆け巡る。


 怪しい忍者モドキから、ただの化物へと成り果てたハットリジンゾウたちの絶叫を背景に、まるで、この火口が噴火したかのような、炎の饗宴きょうえんが巻き起こる。



 気兼きがねなく、全力を出した俺と朱天さんよって、奴らが蹂躙され尽くされるまで、それほど時間は、かからなかった。



「ふう、こんなもんかな」

「ああ、そうだな。戦果としては、上々じょうじょうだろう」


 そして、全てが終わった静寂の中で、地面に降り立った俺のつぶやきに、金棒をかつなおした朱天さんが、満足そうに頷いてくれた。


 それだけで、俺の気分は、さっきまでよりもずっと、晴れやかになれる。


 とにもかくにも、勝負はついたのだ。


 ハットリジンゾウを筆頭とした公儀隠密こうぎおんみつたちは、俺たちに打ち倒され、ぴくりとも動かなくなっているけれど、当然ながら、まだ息はある。奴らには、あの黒い液体のことだとか、色々と聞きたいこともあるし、調べたいこともある。


 なので、こうして制圧したわけであり、これはもう、完勝と言ってもいいだろう。


 うーん、俺たち、頑張った……。


「さてと……」

「あれ? その右目、やっぱり隠しちゃうんですか?」


 なんて、俺が感傷にひたろうとしていたら、どこからか、見覚えのある黒い眼帯を、素早く取り出した朱天さんが、その輝く右目に、さっさとかぶせようとしている。


「当然だろう。確かに、お前がいれば、もう大丈夫なんだろうが、だからといって、四六時中くっ付いてるわけにもいくまい」


 やっぱりこれまでは、あの眼帯を使って、爆発的だけど危険な力を封印というか、制御してきたのだろう。朱天さんの行動には、迷いがない。


 でも、俺の方としては、ずっと彼女とつながっているというのも、実は悪くないと思ってるんだけど、それを言ったら、怒られるかな?


「うーん、なんだか、もったいないなぁ。そんなに綺麗な瞳なのに……」

「よ、よせっ! 世迷言よまいごとを、言うんじゃない!」


 とりあえず、次はもう、いつ見られるのか分からないし、朱天さんの、美しく輝く真紅の右目を、記憶に焼き付けておこうと顔を近づけたら、なんだか慌てた様子で、あっという間に、いつもの眼帯で隠されてしまった。


 その瞬間、朱天さんの全身をおおっていた炎が、見る見るうちに小さくなって、煙のように消え失せてしまう。


 どうやら、その眼帯の機能は、きちんと果たされたようで、しかも朱天さんには、疲労感のようなものは、まったく残っていないようだったので、俺は彼女に装着していた首輪と縄を、解除する。


 このままでは、命気の過剰投与に、なりかねない。


「さてと、それじゃあ、俺も……」


 というわけで、もう八咫鏡の力を発現している必要もなくなったことだし、新たなカイザースーツの形であるアマテラスを、俺が解除しようとした、その時だった。


統斗すみとさまー! 朱天ー!」

「……っ! 姫様! おおっ、姫様だ! 姫様! こちらですよ! 姫様ー!」


 この火口のふちから、こちらに向けてやってくる、びた仲間たちの先頭に立つ少女の声が聞こえた瞬間、その表情を柔らかく崩した朱天さんが、嬉しそうに自らのあるじを呼びながら、可愛らしく飛び跳ねた。


 でも、その気持ちは、よく分かる。


 なぜなら、俺だって、こんなにも、嬉しいのだから。


「みんな!」

「ごめんね、統斗くん! 頂上で戦闘が起きてたのは、分かったんだけど、なかなか雪道が厳しくて、間に合わなかったよ……」


 こちらとあちら、お互いに駆け寄って、合流した途端、エビルピンクの格好をした桃花ももかが、いきなり謝ってきたけれど、そんな必要は、まったくない。


 同行していた戦闘員たちも含めて、みんな怪我もないようだし、こうして無事に、大切な仲間たちと再会できたことこそが、なによりの幸せだ。


「大丈夫、大丈夫。別に問題なんて、なかったからさ」

「本当に、ごめんなさいね、統斗君……」

「この失態は、身体でつぐないます。どうか存分に、責めてください。夜のベッドで」


 だから、樹里じゅり先輩に、そんな顔をされると困ってしまうし、むしろ俺の方が、悪いことをしたなと、反省の一言である。


 でも、真面目な顔をしながら、とんでもないことを言い出すあおいさんは、なんだか普段通りって感じで、癒されてしまう。


「およ? 統斗ってば、なんだか、新しい力を得たって感じじゃん?」

「へえ、あんたにしては、やるじゃない!」


 俺のカイザースーツが、新しい形に変化したことに気付いた火凜かりんが、興味深そうに近づいてきて、その後ろからは、元気なひかりが、顔をのぞかせている。


 それはなんだか、とっても落ち着く空気だった。


「まあ、統斗さま、八咫鏡を、手に入れられたのですね! 素晴らしいです!」

「ええ、姫様。こいつにしては、目覚ましい活躍でしたよ」


 そして、その瞳をキラキラとさせながら、竜姫たつきさんが俺の側までやって来て、その背後を守る朱天さんが、優しく微笑みながら、珍しく俺のことを、褒めてくれる。


 なんだか、むずがゆくなんてしまうけど、それは絶対に、悪い気分なんかじゃない。


「いやあ、別に俺は、そんな……」


 そして、みんなに囲まれて、幸せに埋もれて、俺が口を開こうとした……。



 その時だった。



「ひょひょひょっ! なるほど、ほんに、見事なもんじゃのう!」


 仲間たちの輪に混じって、少しの違和感すら感じさせるともなく、俺のすぐ隣で、見覚えのある老婆が、べたべたと、このカイザースーツを撫で回しながら、まるで、怪鳥のように甲高く、不気味に笑っていることに……。


 まったく、少しも、誰一人として……。


 気付けなかった。


「――っ!」

「おやおや、おさわりは、もうおしまいかい? ずいぶんとれないねえ。ひひひっ!」


 その瞬間、弾かれたように距離を取った俺たちに、ぐるりと囲まれる格好となった老婆は……、八百比丘尼やおびくには、ぞっとするほど余裕の表情で、ただ笑う。


 その姿に、俺の全身が、一瞬であわった。


「いつの……!」

「いつの間に、なんて、間が抜けた質問はするでないぞ? このばばあはいつだって、にいるんじゃからな。ひゃーっひゃっひゃっひゃ!」


 思わず、俺の超感覚が最大限で鳴らす警告に……、簡潔に言ってしまえば、恐怖に突き動かされて、考えもなしに口を開こうとしたら、その枯れ枝のような指を振り、天を地を、そしてこちらの足元を、というか、辺りを適当に指し示しながら、意味の分からないことを言い出した老婆に、思い切り笑われてしまう。


 しかし、でも、だけれども……!


「なにをしに来た、八百比丘尼! 八咫鏡が目的なら、それはもう……!」

「ああ、そんなもんは、どうでもええわい」


 それでも、じっとしていられず、黙っていられなかった俺に対して、まるで近所のわらしに世話話でもするみたいな気安さで、老婆は笑う。


 的外れなことを言って、駄々をこねる子供を、いさめるように。


「ここに来たのは、ただちょっと、野暮用を、片付けるためじゃよ!」

「なっ!」


 止めることも、それどころか、見咎みとがめることすらも、できなかった。


 俺は、俺たちは、老婆の足元から伸びた、ドロドロと蠢く黒いナニカが、もはや、真っ暗な夜だというのに、影法師のように伸びると、この火口の中心……、八咫鏡が埋まっていた黒い巨岩に振れ、破壊したのだと、全て終わってから、さとる。


 これまでと、同じだ。


 八百比丘尼が、なにかしようと、それを認識することができない……!


「ふう、スッキリしたのう。まるで、長年のどに引っかかってた小骨が、ようやっと外れたような心地良さじゃわい。ひひひひっ!」


 しかし、そんなこちらの戦慄せんりつなんて、お構いなしに、どこからか、いきなり現れた怪しい老婆は、どこか無邪気にも見える笑顔を張り付けながら、ふらふらと、まるで踊るように、まったく自然な流れで、俺へと近づき、その手をこちらに……。


「――統斗さまから、離れてください!」


 その仕草が、あまりにも自然すぎて、誰にも止められなかった老婆の行動に、この場にいる誰よりも速く反応できたのは、竜姫さんだった。


 彼女にしては珍しく、その顔に怒りを浮かべて、ひらりと舞った竜姫さんにこたえるように、地面から噴き出した光の龍が、八百比丘尼を襲う。


 しかし……。


「ひひっ! おお、おお、こわや、こわや……、ほいっとな」


 まさしく龍の如く、背筋が凍るような咆哮を上げながら、その身に迫る龍脈の力の奔流ほんりゅうを、老婆は笑いながら、あっさりと片手で掴み、魚でも持ち上げるみたいに、高々たかだかかかげてみせた。


 まるで、当り前みたいに、飄々ひょうひょうと。


「そ、そんな!」

「ふむふむ、これはまた、立派な龍じゃないか。感心したぞ?」


 驚きの声を上げた竜姫さんを無視して、あまりにも正体不明な老婆は、品定しなさだめでもするかのように、その手の中で暴れている龍を、笑いながらもてあそぶ。


 そして、さながら師匠が弟子を褒めるかのように、破顔はがんした。


上澄うわずみだけとはいえ、よく使役しておるわ! これなら十分、十分じゃろうて! ひひひひっ! ひゃーっひゃっひゃっひゃっ!」


 よく意味が分からないことを、その狂ったような笑い声に包みながら、どこか芝居がかった仕草で、老婆は夜空を仰ぐと、くるくると回りながら、その手に掴んだ龍の首に、黒い巫女服のそでかられた真っ黒い液体を注入すると、まったく苦労する様子もなく、高笑いを上げながら、にぎつぶす。


 その異様な光景に、この場にいる誰もが、息をんだ。


「さて、野暮用も済んだことじゃし、確認もできた。これは大収穫じゃな。さっさと帰って、酒でも飲むか。しっかし、よりにもよって、不死ふしやまとは、気分が悪い」

「ま、待て……!」


 そして突然、まったくの真顔に戻った老婆が、あっさりと、撤退を宣言したので、俺は慌てて、引き留める。まだ奴には、聞かなければならないことが……!


 しかし、だがしかし……。


「待たんよ。もう待たん。ああ、


 それまでの過剰かじょうな振る舞いを、嘘みたいに引っ込め、まったくの無表情で、ただ、ぽつりと、それだけ呟いた老婆の異様いように、俺は圧倒され、動けない。


 まったく正体不明の不安感が、俺を襲う。ゾッとする。背筋が凍る。冷たい手で、心臓を鷲掴わしづかみにされたように、動けない。


 俺の目の前にいるのは、恐ろしいほどの、虚無きょむだった。


「……ひひひひっ! それではな! 神器を宿やどした王様よ! その選択を、せいぜい後悔せんように、必死になって、生きることじゃな!」


 眼前の老婆が、いつもの調子に戻って、適当な口上をまくてているというのに、この場にいる誰も動けない。動くことができない。


 どう動けばいいのかすら、分からない!


「お前たちに残された時間は、思ったよりも少ないかもしれんからの? それでは、また地獄で会おうぞ! ひーっひっひっひっひっ!」


 たただた、俺たちに混乱だけをもたらしながら、突然やって来た老婆は、去る時も突然に、その足元からズブズブと、大量の黒い液体を吐き出して、この火口で完全に伸びていたハットリジンゾウたちを包み込み、回収すると、そいつらと共に、まるで水面みなもに落ちる水滴すいてきのように、地面の底へと、とぷりと沈む。


 しかし、俺たちが、それに気付けたのは、もう、なにもかもが過ぎ去って、いまだ真っ暗な夜の闇に包まれた、この富士山の頂上に、静寂が戻った後だった。


「……消えた」


 それだけしか、今の俺には、言うことができない。


 確かに、相手の狙いは、まったく分からないけれど、あの黒い液体という共通点を見る限り、どうやら国家守護庁こっかしゅごちょうと、あの不気味な老婆には、なんらかのつながりがあるということを、想像することはできる。


 しかし、それだけだ。


 分かったことは、ただ、それだけ……。


 盛大な炎によって、俺たちを襲っていた吹雪は晴れたとしても……。


「……八百比丘尼、か」


 漆黒の夜は、まだ明ける気配すら、見せてはいなかった。


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