8-9


 そして舞台は、整った。


「……そろそろいいかな?」


 まだ座り慣れないソファに、なんとか腰を落ち着けながら、俺はあおいさんがれてくれた紅茶を口に運びつつ、壁にかかった時計を確認する。


 先ほどから、なんども、なんども、その動作を繰り返しているけれど、時間を指し示すはずの、その針が、少しも動きやしないのは、自分が緊張しているせいだということは、この早鐘はやがねのように鳴り響く心臓の鼓動が、教えてくれていた。




 正義の味方を撃退し、採石場から戻ってきた俺たち二人は、葵さんからの希望で、彼女の家をおとずれ、ゆったりと蜜月みつげつの時を過ごしている。


 というわけで、当り前だけど、現在この家にいるのは、俺と葵さんだけだ。彼女のご両親については、お父様は夜までお仕事で、お母様の方は、近所の奥さま友達と、演劇えんげき鑑賞かんしょうに行っているとかで、これまた夜まで帰ってこない……、らしい。


 それでも、リスクはあると思うけど、今回は、葵さんの希望なら、なんでも叶えてあげたいので、こうなれば、万が一の時には、彼女のご両親に、土下座でもなんでもしてみせる覚悟である。うん、そのくらいなら、お安いものだ。


 とにもかくにも、そういうわけで、彼女の家にやって来た俺は、まずリビングで、二人でお茶を楽しんでいたのだけれども、しばらくしてから葵さんに、ちょっと準備がありますので、もう少ししてから、私の部屋に来てくださいと言われて、こうして時が過ぎるのを、ジリジリと待っていた……、というわけである。


 だがしかし、ついにようやく、時は来た。


 どこからか、シャワーの音が聞こえた時は、思わず立ち上がり、そちらに向けて、ふらふらと歩き出しそうになってしまったけれど、俺はちゃんと我慢して、まさに、忠犬のごとく、葵さんの言いつけを守っていたけれど、怠慢たいまんな時計も、ようやく仕事をしたようで、彼女に指定された時間を指し示している。


「よ、よし!」


 こうして、はやる気持ちを抑えながら、俺は葵さんが待つ、彼女の部屋へと、少しだけ急ぎ足で、向かうのだった……。



「え、えっと、葵さん、もうそろそろ、よろしいでしょうか……?」

「はい、お待たせしてしまい、申し訳ありませんでした」


 何度も来たことがあるので、さすがに迷うこともなく、すんなりと到着した扉を、震える手で叩いた俺は、部屋の中から聞こえてきた葵さんの声に、背筋を伸ばす。


 さあ、いよいよだ。


「どうぞ、入ってきてください」


 いつものように、冷静な声色で、葵さんがお許しを出してくれた。


 俺はそのおかげで、幾分か落ち着きながら、冷たいドアノブに手をかける。


「それじゃ、失礼します……」


 さらに、きちんと深呼吸してから、冷静になった俺は、ついに、その扉を開く。


「……って、な、なんですか、それ!」


 そして、次の瞬間、俺の冷静さはどこかに吹き飛び、驚きのあまり、腰を抜かしてしまいそうになりながら狼狽ろうばいし、悲鳴まで上げてしまった。


 でも、それも、仕方ないじゃないか!


「あ、葵さん! どうしたんですか、その格好!」

「はい、統斗すみとさんに、喜んでいただけたらと思いまして」


 俺のことを出迎えてくれた葵さんの様子は、いつもと、まったく同じだったけど、その服装は、先ほどまでと、まったく違う。


 それは、一言でいえば、下着だった。上下共に蠱惑こわくてき刺繍ししゅうレースがあしらわれた黒い下着で、その魅惑みわくてきなアンダーバストからは、彼女の白い肌が、扇情せんじょうけてえてしまうような、薄すぎるすそが広がっている。


 それは確か、ベビードールと呼ばれる下着のはずだ。


 そう、下着。下着姿だ。どこからどう見ても下着姿の葵さんが、それを隠すこともなく、いつもと同じように、静かな瞳で、こちらを見ている。


 そのアンバランスさに、思わずドキドキしてしまう俺だった。 


「……もしかして、似合っていませんか?」

「い、いえいえいえ! そんなことはありません! 」


 しかし、あまりに予想外すぎて、感動よりも、驚きが先に出てしまった俺の様子を見てなのか、葵さんが小首をかしげてしまったので、慌てて弁明べんめいする。


 いや本当に、似合ってないなんて、ありえない。あどけなさの残る、少女な年頃の葵さんが、大人っぽい下着を、色っぽく身につけているなんて、背徳的すぎて、頭のネジが何本か、吹き飛んでしまいそうだ。


 いや、もう実際、吹き飛んでるか。


「でも、どこで買ったんですか、その下着……」

「これは、統斗さんに喜んでいただこうと思いまして、クリスマスの前に、樹里じゅり先輩に教えていただいたお店で、購入しておいたものです」


 しかも、こんな素晴らしいものを、俺のために用意してくれたと聞いてしまえば、嬉しくないわけがない。なんというか、感無量かんむりょうである。


「でも、こうして本当に、統斗さんにお披露目することができて、よかったです」

「葵さん……」


 そう、本当に、感無量だ。


 あの地獄のようなクリスマスと、悪魔の襲撃を切り抜けて、葵さんとこんな関係になれるだなんて、本当に、奇跡のような幸せだった……。


「さて、それでは」

「……うん?」


 なんて、俺がちょっとだけ、感傷にひたっていると、気が付いたら、いつもの調子の葵さんが、彼女のベッドに上がっていた。


 そして……。


「あはーん」


 なんとも、気の抜けたというか、平坦へいたんな声で、あえごえのようなものを上げながら、ほとんど裸みたいな下着姿の葵さんが、色んなポーズをとっている。


「うふーん」


 えっと、その、なんだ、うん……。


「……あの、葵さん?」

「はい、なんでしょうか、統斗さん」


 なんだか、いたたまれなくなってしまって、思わず声をかけてしまった俺の態度を気にする風もなく、謎のポーズをやめてくれた葵さんが、なんてことはない様子で、可愛らしく首をかしげている。


 うん、そっちの方が、さっきまでよりも断然、素晴らしい。


「それは一体、なにをしてらっしゃるのですか?」

「ああ、これはですね」


 そして、普段通り、静かな瞳の葵さんが、眉一つ動かさず、落ち着いた声で、俺の口かられてしまった疑問に、答えてくれる。


「こうすれば、殿方とのがたが喜ぶと、ものほんに書いてありましたので、試してみました」

「だから、それは絶対に、読む本を間違えてますから……」


 なんというか、前にもこんな会話をした覚えがあるけれど、こうなってしまうと、むしろ葵さんが、どんな本を読んでいるのか、気になってしまう。


 いやでも、今はそんなところに、興味を抱いている場合じゃない。


「うーん、なかなか難しいですね……」


 こちらの反応が、どうやら予想と違ったらしく、葵さんが不思議そうにしている。その姿は、それはそれで非常に愛らしというか、思わずキュンとしてしまうけれど、さすがに、このままの調子だと、彼女が望む空気には、なりそうにない。


 そしてそれは、俺としても、望まぬ展開というやつだ。


 だったら、どうするべきなのか?

 そんなことは、決まってる。


「それでは、私はこれから、どうすればいいのでしょうか?」

「えーっとですね……」


 表情こそ、あまり変わらないものの、困ったように動きを止めてしまった葵さんのもとへ、俺は気持ちを入れながら、そっと近づく。


 そう、こういう雰囲気づくりは、二人で一緒に、積み上げていくものだ。


 だから、恥ずかしがってる場合じゃない。


「別に、特別なことを、無理にしなくても、大丈夫ですよ」

「……?」


 俺は、自分が王子様になったつもりで、セクシーな下着に身を包みながら、子供のようにベッドの上で座り込んでいる葵さんの頬に、手を当てる。


 彼女のぬくもりが、俺の鼓動を早くした。


「葵さんは、そのままの方が、絶対に可愛いんですから……」

「あっ……」


 そしてそのまま、自分の素直な気持ちを、彼女にぶつけながら、俺はゆっくりと、ゆっくりと、吸い込まれるように、この顔を近づける。


「好きです、葵さん……」

「んっ……」


 そして、俺と彼女のくちびるが、しっとりと、触れ合った。


「……統斗さんと、キス、してしまいました」

「ええ、そうですね」


 それでも、葵さんの表情は変わらない。


 変わらないけど、真っ赤になった彼女の顔が、俺にとっては、どんな宝石よりも、輝いて見える宝物だった。


「……これ以上も、してくれますか?」

「もちろん、葵さんが、おすままに……」


 彼女が喜んでくれれば、俺も嬉しい。


 そんな単純な原理に導かれ、俺は、俺たちは、ただひたすらに、くちびると共に、お互いの思いを、何度でも重ね続ける。


「はあ、あん……」


 葵さんの口かられる、つやっぽい吐息といきが、俺にとっては、最高の報酬だった。


「……って、そういえば、俺まだ、シャワーとか浴びてないんですけど、汗臭くないですか? なんだったら、すぐに俺だけ……」


 そうして、しばらくってから、俺はようやく、それまで頑張って格好つけていた自分の現状を思い出し、遅すぎる確認をしてしまう。


 なんというか、一応は戦闘の後なわけだし、葵さんの全身からは、ボディソープの良い匂いしかしないわけで、そうなると、なんだか、なおさら、恥ずかしかった。


「いえ、大丈夫ですよ」

「あむっ……」


 しかし、そんなわるい俺に、葵さんは優しく……、優しく微笑むと、今度は彼女の方から、口付けを求めつつ、抱き締めてくれる。


 それだけで、俺の心は有頂天うちょうてんだ。


「お風呂は、この後で、ゆっくりと、二人で一緒に、入りましょう?」

「……ええ、それはいいですね。大賛成です」


 この後で。


 そんな葵さんの言葉に、俺はただ、子供のように喜んでしまう。


 そう、なにもすべてが、この一時ひととき逢瀬おうせで終わりというわけじゃない。お互いが、お互いを望む限り、この関係は終わらない。


 王子様とお姫様が結ばれて、そこでおしまい、終了です、なんて無責任な結末は、こっちから願い下げだ。


 俺と彼女の二人舞台は……。


「さあ、葵さん……」

「ああっ、統斗さん……!」


 幕を下ろすには、まだ早い。


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