8-7


「あの、統斗すみとさん。ちょっといいですか?」

「えっ、あおいさん?」


 そして、昼食を食べ終えて、とりあえず仕事場に戻ろうとした俺が、廊下を歩いていたら、エレベーターの前で、静かにたたずんでいた少女に、声をかけられた。


「もちろん、いいですけど、どうかしたんですか?」

「いえ、特になにか起きたというわけでは、ないのですが」


 さっきまで、食事を一緒に楽しんでいたのだけれども、なぜか突然、桃花ももか火凜かりん、そして葵さんの三人が、用事があるとかで先に戻ってしまったので、俺はてっきり、なにか不測ふそく事態じたいでも起きて、葵さんだけ残ったのかと思ったのだけれど、どうも、そういうわけではなさそうだ。


 さっと周囲を見渡しても、ここには、俺たちしかいない。


 だとすれば、桃花と火凜だけ、葵さんを残して、どこかに行ってしまったのだろうけども、それは一体、どんな事情で……。


 なんて、俺が考えをめぐらせていたら、まったくいつもの調子で、気負きおうでもなく、緊張するでもなく、恥ずかしがるでも、興奮するでもなく。


 葵さんが、つぶやいた。


「これから、私と、ホテルに行きませんか?」

「……はい?」


 俺の理解は、あっという間に置き去りで、まったく追いつきやしなかった。



「えーっと、ホテルというのは……」

「はい。まだお昼休みは残っていますので、丁度いいと思いまして」


 なるほど、確かに、お昼ご飯は食べ終えたけど、一般的に考えて、まだ仕事に戻るには少し早いし、休んでいても、誰にも文句は言われないだろう。それに、俺の仕事は午前中の段階で、もう一段落しているし、ある程度なら、時間は自由にできる。


 しかし、一体なにが、丁度いいといいのだろうか?


 なんて、とぼけてみたところで、状況は変わらない。


「そうですね、いわゆる、ラブホテルと呼ばれるものが、手頃かと……」

「あっ、うん、葵さん、ちょっとストップで」


 まったく表情を変えない彼女に、いきなり核心に踏み込まれてしまい、内心焦っている俺は、心を落ち着けるために、相手の言葉をさえぎってしまう。


 これは、失礼にあたる行為だけど、どうか許していただきたい。


 俺だって、いっぱいいっぱいなのである。


「あの、その、なんで……?」

「いえ、ただ単純に、連日同じ場所では、そのための準備や片付けが、色々と大変になってしまうのではないかと思っただけなのですが。それに、統斗さんも新しい場所の方が、新鮮味を感じて、よろしいかと」


 うん、聞きたいのは、そういうことじゃ、ないんだなぁ。


 俺が聞きたかったのは、なぜホテルかじゃなくて、なんでいきなり、そんなことを言い出したかなんだなぁ……。


「……って! あ、葵さん!」

「はい? どうかしましたか、統斗さん」


 どうかした、なんてもんじゃない。


 あまりの急展開に、俺の気が抜けているうちに、音もなく近づいてきた葵さんが、いきなり、ぴたりと、正面から、こちらの胸に張り付いてきたのだから。


 俺が慌てた声を出してしまうのも、無理からぬことと、ご理解いただきたい。


「うっ!」

「……統斗さん、あたたかいです」


 そして、そのまま、俺に密着した葵さんが、こちらの胸板に頬を付けつつ、繊細なタッチで撫で回してくるわけだけど、抵抗はできない。


 驚きすぎて、頭の中が真っ白になってしまったからというものあるけれど、ここで強引に引き剥がすなんて、思い付かないくらいには、幸せな状況だからというのも、いつわりない真実というやつである。


「あ、あのっ! ど、どど、どうして、こんなことを……?」

「……?」


 というわけで、消極的な解決をはかった俺の、抽象的すぎる質問に対して、葵さんは首をかしげながらも、表情を変えることなく、こちらを見ている。


 そして、まったくいつもの調子で、当り前みたいに、続けてくれた。


「それはもちろん、私が統斗さんのことを、好きだからですが」


 それが、彼女の本心ということは、いくらマヌケな俺にだって、分かる。


 分からないと、いけないことだ。


「それとも、私にこういうことをされるのは、おいやですか?」


 葵さんの表情は、変わらない。

 

 だけど、その静かな瞳の奥にひそむ揺らめきに、俺の心は、平静ではいられない。


「……私のことが、おきらいですか?」

「そ、そんなわけないじゃないですか!」


 だから、俺はこうして、慌てて本音をらすしかない。


「葵さんのことは、俺も……、好きですから」

「そうですか。よかったです」


 でもやっぱり、こういうことをハッキリと口にしてしまうのは、俺としては、少し気恥ずかしいわけだけど、どうやら葵さんにとっては、そうでもないようだ。


 彼女は、表情こそあまり変えないものの、そのあけすけな好意を隠そうともせず、俺の背中に手を回して、強く強く、抱き締めてくれる。


 のは、いいのだけれども……。


「た、ただちょっと、ここは、時と場所がですね……」

「大丈夫ですよ」


 もちろん、こうして葵さんと密着すること自体は、俺にとって、なんの不満があるわけではない。むしろ、喜ばしいと言い切ってもかまわない。


 とはいえ、一応まだ、俺にも常識という名の鎖が残っていたようで、こんな公共の場所というか、誰に見られているか分からないというか、いつ誰が来るともしれないところで、こういう熱烈なボディタッチには、どうしてもあしんでしまう。


 だがしかし、そんな情けない俺に対して、真剣な表情の葵さんは、まったく堂々とした様子で、これっぽっちもおくすることなく、自分の行動に胸を張っている。


 そのブレない姿勢は、正直とてもうらやましいのだけれども、だけれども……。


 一体なにが、大丈夫だというのだろうか?


「好きなもの同士なら、どこでなにをしてても自由だと、先ほど桃花と火凜が、私に教えてくれましたから」

「なに言ってんの、あの二人!」


 いや、本当になに言ってんの?


 それって全然、大丈夫の根拠になってないよ!


「流石に、一歩進んだ女性の言うことは違うなと、感銘かんめいを受けました」

「そんな甘言かんげんけて、変な影響を受けないでください……」


 いや、いやいや、まあ、あくまでも、落ち着いて考えるならば、俺なんかよりも、葵さんと付き合いの長いあの二人は、先ほどのランチにおいて、葵さんの様子から、俺には分からなかった機微きびを感じ取り、葵さんのために、なにがしかのアドバイスを送ったのだろうということは、分かる。


 もしかしたら、あまり感情を表に出さない葵さんを後押しというか、発破はっぱをかけたかったのかもしれない……、くらいは想像がつく。


 だけど、それにしたって、もう少し、やり方がさ!


獅子ヶ谷ししがやさんからは、統斗さんなら、どうせ全員に手を出すだろうから、それまで大人しく待ってろと、我慢しろと言われましたが……」


 いや、いやいや、いやいやいやいや、千尋ちひろさん。あの人はあの人で、なにを言っているのですかというか、みんなを言い聞かせたって、そういうことだったんですかというか、もうちょっと、言い方があったんじゃないですかというか!


 まあ、千尋さんの言うことにも一理いちりあるというか、むしろ真理しんりなので、本当は文句なんて、言う資格はないんだけど……。


「私は、我慢できません」

「……葵さん」


 そして、真剣な顔をして、俺の目をじっと見つめている葵さんに、真っ直ぐそんなことを言われてしまえば、俺としても、なにも言えない。


 彼女の気持ちと同じくらい、俺も葵さんのことを、思っているつもりなのだから。


「ですので、私としては、ここで始めていただいても、一向いっこうに構わないのですが」

「いや、構います。俺は構ってしまいます!」


 とはいえ、だからといって、いきなりそんな、大胆すぎることをされても、困ってしまうのだけれども!


「それでは、失礼しまして……」

「あっ、ダメ、ダメだって!」


 しかし、ぴったりと身体を押し付けながら、こちらのベルトに手を伸ばそうとする葵さんに、俺は抵抗できない。色んな意味で、彼女に押されて、身動きが取れない。


 なんて、あきらめかけてる場合じゃない!


 ここは断腸の思いで、なんとか、なんとかしないと……!


「……あっ、ああっと!」


 しかし、焦るばかりで、なにもできなかった俺を救ってくれたのは、自らの勇気を持った行動ではなく、このふところで鳴り響いた電子音だった。


 いや、もう、この際、なんでもいいや!


「ちょ、ちょっと待ってください、葵さん! 通信! 通信が入ってますから!」

「……そうですね。残念です」


 よかった。俺から離れる様子はないけれど、それでも葵さんは、こちらを、無理に止めようとまではしてこない。


 これなら、まだ希望は残っているぞ!


「も、もしもし?」

『おう、統斗か! 昼休み中に、悪いの!』


 というわけで、なんとかこの状況を打破してくれと、他人任ひとまかせな祈りをささげながら取り出した携帯から聞こえてきたのは、お気楽な祖父ロボの声だった。


「あ、ああ、それは別にいいんだけどさ、どうしたんだ?」

『いや別に、大した問題じゃないんじゃがな』


 むっ、まずい。大した問題じゃないのなら、電話で用事が済んでしまって、少しの時間が稼げただけで、終わってしまう。それじゃあ、俺はどうすれば……。


 なんて、思っていたら。


『例の、マーブルファイブとかいう正義の味方が、攻めてきおったぞ』


 それは、あまりにあっさりとした、戦闘開始の合図だった。


「お、おおっ! そうなんだー!」

『うん? なんだか嬉しそうじゃな』


 いや、正義の味方に攻撃を受けているのだから、俺は決して、嬉しくない。


 嬉しくないけど、これは早急に対応しないと、いけない事案だなー!


『まあ、なんでもええが。とりあえず、採石場まで誘い出して、ローズたち怪人組に相手してもらっておるが、これからどうする?』

「ああ、俺が行くよ。他のみんなは、仕事があるだろうしさ」


 とりあえず、初めての相手ということで、マニュアル通りに対応はしているけど、万が一の事態に備えて、幹部以上が現場にいた方が安心だろう。


 そうなると、みんな仕事をかかえて忙しいこの状況では、とりあえず午前中に仕事を片付けて、時間に余裕がある俺が出るのが、もっとも効率的なはずだ。


 悪の総統だからと、ふんぞり返って、なにもしないでいいなんてわけがない。こういうことは、立場とか関係なく、やれる人間が、やるべきなのである。


『そうか、分かった。なら向こうには、お前が到着するまで、適当に、時間稼ぎでもしておくように、言っとくぞい』

「ああ、頼んだよ。それじゃあ……」


 祖父ロボとの通話を終えて、俺は気持ちを整える。急展開の連続で、なんだか頭が痛いけど、ここは落ち着いて、ひとつひとつ解決していこう。


 さあ、いくぞ。


「えーっと、そういうわけだから、葵さん。残念だけど、この続きは、正義の味方を撃退した後ということで……」


 とりあえず俺は、この胸にぴたりと張り付いている葵さんに、勇気を振り絞って、状況の仕切り直しを提言ていげんする。まあ、提言というよりは、懇願こんがんに近いけど。


 正直にいってしまえば、俺としては、今いるこの場所が問題なのであって、それをクリアしてしまえば、彼女と同じ思いなのだ。


 だから、もう少しだけ、葵さんには我慢してもらうことになるけれど、その分は、後々の頑張りで取り戻すとして、今はお願いだから、俺のお願いを聞いて欲しい。


「そうですか、分かりました」


 などと、俺が脳内で言い訳を並べ立ててるうちに、葵さんは、静かに頷く。


「それでは、私もご同伴どうはんいたします」

「……えっ?」


 そして、まったくおくすることなく、俺の手を取り、にぎめた。


一刻いっこくも早く、統斗さんとの愛を成就させるため、不肖ふしょうですが、この私、粉骨砕身の覚悟で、頑張らせていただきます」


 ……そう言われてしまうと、こちらとしても、断る理由がない。


 いやむしろ、感謝を感じずにはいられない。


 なぜなら、俺だって、彼女と同じ気持ちなのだから。


「さあ、一刻も早く、さっさと、早急に、その邪魔者どもを、排除しましょう」

「うん、そうだね、頑張りますか!」


 こうして、なにやら完全に、悪の女幹部のようなことを言い出した葵さんと共に、悪の総統である俺は、新たな正義の味方が待つ戦場へと、急ぎ向かうのだった。


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