8-6


 状況は、またもや激変していた。


「はい、統斗すみとくん! あ~ん!」

「……あ~ん」


 すぐ右隣にいる桃花ももかが、ミネストローネをすくったスプーンを、こちらに差し出してくれたので、俺は素直に、ひな鳥のような気持ちでくわえる。うん、美味しい。


「もう、統斗ってば、子供みたいみたいに甘えちゃって、情けないわ~」

「……申し訳ないです、はい」


 そして、すぐ左隣にいる火凜かりんが、俺の口の端についていたらしいスープの痕跡こんせきを、その指でぬぐってくれたので、仏のような気持で感謝する。本当に、ありがたい。



 状況は、あまりに激変しすぎて、なんだかよく分からなくなっていた。



 ここは、今度オープンする予定の、ヴァイスインペリアル中央総本部ビル内に用意された食堂で、俺たちは、そのプレオープンに招待されている。


 うん、そこまでは、特に問題がない。


 火凜と深い関係になってから、一夜が明けて、今はもう、お昼時。一人で机仕事をしていた俺は、二人から連絡をもらって、この食堂にやってきた。


 よし、ここまでも、問題なしだ。


 みんなで、わいわい言いながら注文を済ませ、俺たち以外には、まったく利用者のいないテーブルに、それぞれの料理を置いて、着席したのが、つい先ほど。


 なるほど、問題なんて、あるわけがない。


 そして気が付けば、俺の両隣に座った桃花と火凜が、その椅子を動かして、なぜか俺にぴったりと、息がかかるほどに密着したかと思えば、甲斐甲斐かいがいしく世話を焼いてくれるので、俺はほとんど自分で動くことなく、昼食をとって……。


 あっ、ここか。


「あのですね、二人とも……」

「えへへーっ、お昼を統斗くんと一緒だなんて、嬉しいな!」


 しかし、過保護なまでに俺の面倒を見てくれている二人に、なにか言おうと思ってみても、眩しすぎる笑顔の桃花を見てしまうと、どうにも言葉が出てこない。


 というか、その様子が可愛すぎて、もう胸が一杯です。


「あっ、これもジューシーで美味しー! ほら、統斗も食べなよ。あーん……」

「あむっ……。うん、デリシャス」


 そして、自分が注文したトンカツを半分かじり、満足そうな火凜から、残りの半分を差し出されてしまえば、俺はそれをいただくしかないじゃないか。


 だって、悪い気はしないし。むしろなんだか、ドキドキするし。



 というわけで、今の俺は、こんなまるで、桃源郷のような状況に、真っ昼間から、のんびりとかっていていいものかという疑問が、脳内をチラチラとよぎるものの、自分だけでなく、桃花も火凜も幸せそうだからという言い訳を免罪符に、この自堕落じだらくな幸福というやつに、どっぷりと肩まで埋没して……。



「なにをしてるんですか、三人とも」

「あっ、あおいさん……」


 なんて、駄目すぎる俺が、謎の自己弁護を完成させようとしていたら、一人の少女がやって来て、まるで冷や水のような声を、ありがたいことに、ぶっかけてくれた。


 うん、本当に、なにをやってるんだ、俺は。


「私も、ご一緒させていただきますね。よろしいですか?」

「は、はい、もちろんです」


 当たり前だけど、昼食をとりに来たのだろう葵さんから、これまで以上の真顔で、なんだか真剣に聞かれてしまったので、俺は慌ててうなずく。


 いや本当に、よろしくないことなんて、あるわけがありません。


「あっ、葵はサンドイッチにしたんだ。おっ、それも美味しそうじゃん!」

「わっ、本当だ。そうだ! わたしたちのご飯と、ちょっとづつ交換しようよ!」

「ええ、もちろん、構いませんよ」


 俺の丁度正面に、運んでいたトレイを置いて、腰を下ろした葵さんが、仲間である二人からの提案に、静かに頷きながら、こちらの様子に、ちらりと目を光らせる。


 なんというか、桃花と火凜をはべらせながら、そんな様子を、真正面から葵さんに、じっと見つめられているというは、正直にいえば、やっぱり落ち着かなかった。


 とはいえ、それもこれも、俺自身に、原因があるのだけども……。


 つい昨日は、あれだけ切羽せっぱまっていたというか、強引にでも、俺との関係を前に進めようとしていた葵さんが……、というか、実際に、関係が進んでしまった火凜を除いたみんなが、今はこうして、表面上だけでも落ち着いて、強行というか、凶行に走る様子を見せなのは、ひとえに千尋ちひろさんのおかげによるものだった。


 なんでも、実際に本人から聞いた話では、俺のことを血眼になって探していた三人を見つけ、説得しようとしたけれど、なんやかんやあって戦闘になり、それを優しく鎮圧した後で、しっかりと言い聞かせておいたのだそうだ。


 いや、俺なんかのせいで、そんな悲しい事態になってしまった葵さんと、そして、もちろん樹里じゅり先輩と、ひかりには、本当に、申し訳ない気持ちで一杯すぎて、正直なことをいえば、どんな顔で謝ったらいいのかすら、分からない……。


「どうしたのですか、統斗さん。まるで、怯えたチワワのような顔をして」

「えっ、俺って今、そんな顔してる?」


 眉一つ動かすことなく、小さなサンドイッチを口に運んでいる葵さんに指摘され、思わず自分の顔をぬぐってしまったけれど、俺に自覚症状はない。


 しかし、こうなってしまうと、謝ることすら失礼な気がして、重傷だ……。


「ところで、火凜は昨日、どこにいたのですか?」

「うん、統斗の家だけど。ああ、このビルの屋上じゃなくて、実家の方ね」

「ごぶあっ」


 なんて、俺が情けないことを考えていたら、いきなり、いつもの調子の葵さんが、致命的な質問をしたかと思えば、火凜が気軽に、致命的な答えを返してしまう。


 あまりに致命的すぎて、俺はおかしな叫び声を上げるので、精一杯だった。


「ああ、なるほど、そこで」

「うん、そこで~」

「ちょ、ちょっと待て! 待ってくれ! 待ってください!」


 静かに頷いた葵さんに、嬉しそうな火凜が、いきなり致命的というか、あまりにも壊滅的な事実を、あけすけに話そうとしているようなので、俺は慌てて、ストップをかけるしかない。それしかできない。どうにもならない……。


「でもさ、かなり大変だったのよ? 統斗のご両親が、いつ帰ってくるか分からないから、あんまりゆっくりできなかったし、身体もだるいのに、後始末は大変でさ。そういえば、桃花の時は、どうだった?」

「あたしは、一晩眠れたから、けっこう大丈夫だったよ。でも、シーツの洗濯とか、自分の家の洗濯機じゃなかったから、それは難しくて……」

「やめてー! もうやめてー!」


 あまりといえば、あまりに生々なまなましい会話を、平然と続けている火凜と桃花に、俺は悲鳴を上げることしかできない。


 というか、本当に、勘弁してください……!


「なるほど、そういうものなのですね」

「やめてください、葵さん……。こんな話で、なにかを学ばないで……」


 しかし、そんな二人の、ある意味では衝撃的な、惚気のろけにも聞こえる報告を耳にしながらも、葵さんは、その表情をまったく変えることなく、深く頷いているだけだ。


 そこには、あせりも、苛立いらだちも、いかりもかなしみも、まったく見えない。


 いつも、あまり感情を表に出さない葵さんだから、こういう時に表情だけ見ても、ただ普通に、話に感銘かんめいを受けて、納得してるだけに見えて、困ってしまう……。


 もっと彼女の、心が知りたい。


「それで、統斗さんは、いつになったら、私のことを抱いてくださるのですか?」

「ぐはっ!」


 というか、せめて葵さんの言動を、もう少しでも、読めるようになりたい……。


「あ、あの、まだ日も高いですし、そう言う話は、また後でですね……」

「そうですか、それもそうですね」


 いきなりノータイムで、突拍子とっぴょうしもないことを言われて、内心ドギマギしてしまった俺は、そんなつまらない返事しかできなかったわけだけど、葵さんは特に食い下がるようなこともなく、小さく頷いて、再びサンドイッチを口に運んだ。


 なんというか、それはそれで、不安になるというか、もっとちゃんとした答えを、ハッキリと言うべきだったと、後悔すらしてしまう。


 さっきから、俺ときたら後手後手ごてごてで、情けない限りである……。


「はは~ん……」

「なるほど~……」


 しかし、そんな俺と葵さんの様子を見ていた火凜と桃花が、なにやら不穏な空気で笑いながら、こちらを見ている。


 な、なんだろう、微妙に、いやな予感というやつが……。


「ねえねえ、統斗~。今度はいつ、二人で過ごせるの~?」

「あ~、火凜ずる~い! 次はあたしがいいよ~!」

「お、おい、二人とも、いきなりなにを……」


 なんて、思った瞬間には、まるで示し合わせたかのように、ただでさえ近くにいた二人が、俺の腕をとって、自らの身体を押し付けるように、密着してきた。


 うわ、柔らかくて、あったかくて、いい匂い……、じゃなくて。


 そのあまりに突然な、しかも微妙に、いつもの彼女たちらしくない口振りと行動に困惑してしまい、俺はもう、されるがままになっているわけだけど……。


「…………」

「あの、えっと、葵さん……?」


 そんな、だらしない俺を、葵さんは相変わらず、まったく表情を変化させることもなく、じっと、ただじっと、見ているだけだ。


 そう、少なくとも、表面上は、そう見える。


 だけど、彼女の目を見れば……。


「いえ、なんでもありません」


 あきらかに、なんでもなくはないということは、いくら俺でも、理解ができた。


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