6-9


 まったく、少しも、気が付けなかった。



「――っ!」


 八咫竜やたりゅうの総本部である龍剣山りゅうけんざんの中心……、神授しんじゅと呼ばれる火口底にて、いよいよ黒縄こくじょうを追いつめていた俺は、あまりにも唐突な乱入者の登場に、いきむ。


 当然だ。


 確かに、俺は黒縄への対応に集中していたが、それでも、気を抜いていたつもりはない。それなのに、結果はこれだ。


 俺には、あの火口の壁面から飛び出している岩に乗って、まるで怪鳥のような笑い声を上げている老婆が、最初からあそこに隠れていたのか、それとも、突然、どこかから侵入してきたのか、それすらも、分からない。


「そんな……! この神授の間に、どうやって!」

「貴様! 一体どこから!」


 竜姫たつきさんと朱天しゅてんさんの驚きも、もっともだ。


 この厳重に封印されていた空間に乗り込んだとき、俺たちは誰一人として、ここに黒縄以外の気配があることに、気付けなかった。


 そして、その後も同様だ。あの老婆が、自ら存在感を示すまで、やはり俺たちは、誰一人として、気付かないままだった。

 

 つまり、その侵入者の存在に、俺も、竜姫さんも、朱天さんも、デモニカも、レオリアも、ジーニアも、エビルセイヴァーも、ローズさんたちも、さらに、あれだけの人数がいる八咫竜の構成員たちも、誰一人として、気が付けなかったことになる。


 これは、もはや、ちょっとした怪奇現象だ。というか、どれだけの手練てだれが、ここに揃ってると思ってるんだよ!


 いや、落ち着け、落ち着くんだ、俺!


 確かに異常事態だが、俺はこの状況に、既視感きしかんを覚えている。そう確か、少し前に俺たちの街で行った祝勝会に、竜姫さんたちが、突然やって来て、驚いた……。


 まさか、これは、竜姫さんと同じ、龍脈りゅうみゃくの……?


「ひょひょひょっ! そんな熱い目で見られると、照れてしまうのう!」


 こうして、この場にいる全員から、凄まじい注目を浴びているというのに、乱入者であるはずの、あの老婆は、余裕の態度で笑っている。


 それは、きもわっているというよりも、まるで、俺たちの動向に、なにも感じていないかのような不気味さだった。


「……あんたは一体、何者だ」


 俺は、最大限の緊張感を持って、あの謎の老婆と向き合う。


 正直、あの小さな身体の、頭に小汚いほっかむりをかぶった、黒い巫女服を着た老婆の正体が、俺にはまったく、つかめない。


「おうおう、れないことを言いなさるな! お前さんとは、前にも一度、ちゃんと会っておるじゃろうが。うひひひっ! 伝道師じゃよ! 伝説の、案内役の!」


 そう、それは分かっている。そんなことは、見れば分かる。あの強烈なビジュアルを忘れるなんて、ありえない。


 俺が聞きたいのは、そんなことじゃない。


「知ってるよ! あたしたちは、直接会ってるんだから!」

「どうやら、やはり、只者ただものではなかったようですね」


 俺と同じように、以前、あの老婆と遭遇したことがあるエビルレッドとブルーは、警戒を強めている。


 やはり彼女たちも、あの神社で、まるで幽霊かなにかのように、いきなり老婆の姿が見えなくしまったことを、思い出しているのかもしれない。


「あれが、レッドとブルーの言ってた……。でも、いきなり、こんなところで!」

「確かに、ピンクの言う通り、タイミングがおかしすぎるわね……」

「うう~! なんだか恐い~! あのお婆ちゃん、本当に人間なの?」


 他の仲間たちから、きちんと報告連絡相談を受けていたエビルピンクに、グリーンとイエローも、同じような反応だ。


 じわじわと、いきなり現れた不気味な老婆を囲むように、立ち位置を変えている。


「ああ、そういえば、教えたのは肩書きだけで、まだ名乗ってはいなかったのう!」


 しかし、エビルセイヴァーだけじゃなく、この場にいる全員に、その一挙手いっきょしゅ一投足いっとうそくを注目されているというのに、老婆は笑いながら、こちらを見下みおろしていた。


 そのたたずまいに、どこか風格のようなものを感じてしまい、俺の背中に、ピリピリと電流のような警告が走る。


「それでは、このオババのことは……」


 そして、そんなこちらの緊迫なんて、まるで意にも返さない様子で、謎の老婆はあっさりと、口を開いた。


八百比丘尼やおびくにとでも、呼んでくれ!」


 珍妙なポーズを決めながら、老婆は自らのことを、そう紹介してみせたけど、当然ながら、それが真実だとは、限らない。


 というか、八百比丘尼って名前は、少ない俺の知識の中でも、昔話というか、伝説として、どこかで聞いたことがある気がする。


 確か、人魚の肉を食べたとかで、年を取ることも、死ぬこともなくなってしまった女性の話だったような……。


「八百比丘尼ねえ、不老不死にしては、ずいぶんと、しわくちゃじゃないか」


 とりあえず、あの老婆から出てくる言葉は、まったく信用しないことにして、俺はあえて、余裕の態度を見せながら、軽口を叩く。


 こちらの不安を、悟らせるわけにはいかない。


「うひょひょ! なんじゃ、そんなことが気になるのか! だったら……、こいつでどうかのう?」


 だが、そんなこちらの三文芝居を見透みすかすように、老婆が笑った瞬間……。


 それは起こった。


「……なっ!」

「ほうら? このくらいの年齢の方が、あなたのお好みかしらね? うふふっ」


 思わず、驚きの声を上げてしまった俺の目の前で、どう見ても、長い年月を重ねていたはずの、あの小さな老婆の姿が、いつの間にか、長身で、若々しい、妖しい空気をただよわせた美女へと、変貌へんぼうしていた。


 確かに面影は残っている気はするが、プロポーションや、年齢だけではない。どこからどう見ても、完全に、骨格からして別人だ。


 そして、さらに、変化は続く。


「それともー、このくらいちっちゃ方がー、おにいちゃんすきー?」


 妙齢の美女から、今度は幼い子供へと、八百比丘尼が姿を変えた瞬間を、驚くべきことに、俺は見逃してしまう。


 そう、この八尺瓊勾玉やさかにのまがたまの力を使っても、なにが起きているのか、分からない!


 まるで、映画のフィルムをツギハギでもしたみたいに、気が付いた瞬間には、もうすでに、バッと姿が変わってしまっている。


 ただ分かるのは、あれが幻覚や、錯覚のせいなどではなく、本当に、実際に、あの老婆の姿形すがたかたちが、変わってしまっいるという、薄気味の悪い事実だけだった。


「……なんてな! うひょひょひょひょっ! どうじゃ、驚いたかな?」


 そして、いつの間にか再び、元の老婆の姿に戻った八百比丘尼を見ながら、俺は声を出すことすらできない。驚きどころか、恐怖すら感じる。


 いくら目を凝らしても、目の前の老婆の正体が、分からない。


 こうして初めて、を持って対峙して、ようやく分かった。


 あれは、人間ではない……!


 俺の目に見えるのは、人の形をしてうごめく、ドス黒いナニかだけだった。


「姿形になんぞ、なんの意味もない! ああ、あるものか! うひょひょひょっ! そうよ、全ては曖昧あいまい曖昧あいまいじゃ!」


 なにやら興奮したように、甲高くわめいている八百比丘尼を前にしながら、俺は動くことができない。


 奴の正体どころか、ここに来た目的すらも、分からないのだから、動きようがないないというのが、本音だが、しかし本当に、なにしに来たんだ、あの老婆……。


 どうする? どう動けばいい……?


「……び、比丘尼びくに! 貴様、貴様……!」

「おお、なんじゃ、黒縄。ずいぶんと、追い込まれとるじゃないか、ひひひっ!」


 しかし、そんな妙な膠着こうちゃく状態を打ち破ったのは、意外な人物だった。


 いや、あの老婆がやって来たタイミングを考えれば、決して、意外ではないのかもしれないが、なんにせよ、完全に既知きちの相手に対する態度で、黒縄は叫び続ける。


「ふざけるな! 私は、お前に言われて……!」

「なに……? おい、それは一体……!」


 なにやら黒縄が、聞き捨てならないことを言い出したが、俺がそれをとがめようとしても、こちらに見向きもしやがらない。


 そんな俺たちを、楽しそうに見下みおろしながら、老婆は笑う。


「おいおい、甘い話に、自分から飛びついてきて、失敗したら人のせいとは、王様にしては、なんとも情けない話じゃないかい! まあ、王様は王様でも、あんたは裸の王様ってところかのう? ひょひょひょっ!」


 その様子を見れば、黒縄と八百比丘尼の間で、一体どういう取引があったのかを、おおよそさっすることはできる。


 できるけど、本当に、一体なんなんだよ、あの老婆の暗躍は……!


「比丘尼いいいい!」

「うひょひょっ! さあ、さあ、どうする? 分不相応ぶんふそうおうな夢を見る、あわれな男よ! このまま負けて、道化どうけに落ちるか? それとも……!」


 侮辱ぶしょくされ、怒りに狂う黒縄を、さらに嘲笑あざわらいながら、不吉な老婆は、しわだらけの手を差し伸べる。


「王になるためならば、全てを捨て去る、覚悟はあるか!」


 その姿は、まるで、その手を取った者を破滅させる……、死神のようだった。


「……や、やってやる! やってやるぞ! 私は、私は……、王になる男なんだ!」


 しかし、もうすでに、俺たちによって極限まで追い込まれていた黒縄は、あきらかに嫌な予感しかしない八百比丘尼の提案に、飛びついてしまう。


「さあ、比丘尼! 教えろ! 私は、なにをすればいい!」


 そこには、どう見ても、地獄しか待っていないのは、いくら奴にだって、分かっているだろうに……!


「うひょひょひょひょっ! 確かに! うけたまわったぞ!」

「おい、ちょっと待……!」


 さすがに、まずい流れだと思った俺は、口を挟もうとしたのだが、遅かった。


 荒ぶる老婆が、狂ったような笑い声を上げると同時に、奴の足元から、黒いナニかがあふし、まるで地面をう影のように伸びたかと思うと、俺たちの間を、あっという間にすり抜け、そして……。


 これまで天叢雲剣あまのむらくものつるぎが突き刺さっていた黒い巨岩を、木っ端微塵に吹き飛ばす。


 反応が、できなかった。


 八百比丘尼の動きが、、奴がなにをしたのか、なにが起きたのか、俺が理解できたのは、全ての結果が、訪れた後になる。


「なっ、なんだ……!」


 破壊された大岩の下から、まるで間欠泉の如く、あの老婆が放ったのと、まったく同じような、黒い力の奔流ほんりゅうあふし、空に渦巻く。


「なに、お前さんは、別になにもせんでええ。ただ黙って、受け入れろ……!」


 そして、まるで指揮棒を振るかのように、不気味な笑みを浮かべた八百比丘尼が、その枯れ枝のような指を動かすと、夜よりも暗い力のうずが、蛇のように蠢き、月明りを遮るように、空を這いずる。


「そりゃ! 存分に、喰らうがよいぞ! 黄泉の果実ヨモツヘグイを!」

「ぐ、ぐおおおおおおお!」


 そのまま、八百比丘尼が操り、うなりを上げている黒い力の奔流を、自ら手を広げ、その身に受け入れた黒縄の絶叫が、龍剣山の火口に響く。


「グアアアアアアアアアアッ!」


 変化は、すぐに訪れた。


 正体不明の力に飲み込まれた黒縄が、命が壊れるような絶叫を上げると共に、その身体の内側から、ドス黒いナニかが溢れ出し、見る見るうちに膨張したかと思えば、全長が数十メートルはありそうな、巨大な怪物へと、形を変える。


「うひょひょひょひょっ! 八つ首の大蛇おろちとは、これまたずいぶんと、らしい格好になったじゃないか! ひょひょひょっ!」


 変貌した黒縄を眺めながら、比丘尼が笑う。


 奴の言うように、普通の人間だったはずの黒縄は、気が付けば、凶悪な牙と、醜悪な長い舌を持つ顔を八つも並べ、手も足もない代わりに、まるで大河のような胴体をくねらせる、巨大な蛇と化していた。


 それはまさに、八岐大蛇やまたのおろちと呼ぶに相応しい、怖気おぞけが走るような異様いようである。


「八百比丘尼! 貴様、一体なにを……!」

「さあ、なにをしたんじゃろうな? そういうのを自分で考えるのも、伝説を知るということにおいては、大事なことじゃぞ? うひょひょっ!」


 正面から聞いたからと言って、素直に答えてくれるとは、限らない。いやむしろ、こういう状況においては、はぐらかされるどころか、こちらを騙すための嘘をつかれても、なんの不思議もありはしない。


 それでも、聞かずにいられなかった。


 それだけ、あの老婆のしたことは、正体が掴めない……!


「そらそら、そんな問答なぞしとるうちに、伝説の大蛇が、動き出すぞ!」

「シャアアアアー!」


 悪夢のように笑う老婆の声に応えるように、耳障りな鳴き声を上げ、完全に怪物の姿となった黒縄の瞳には、十六にも増えた蛇の瞳には、まったく理性が見られない。


 どうやら、あの黒い力に飲み込まれた結果、自我すら失ってしまったようだ。


「――ちっ!」


 こうなったら、仕方ない……!


「みんな、黒縄の方は、俺をなんとかする! だから……!」


 規格外の大蛇と化した黒縄は、確かに脅威だが、それよりも、あの不気味な笑みを浮かべている老婆の方が、なにをするのか、なにをしているのか、分からない。


 あの八岐大蛇モドキよりも、八百比丘尼の方が危険と判断した俺は、不確定要素の監視をみんなにたくし、怪物退治を決意する。


 求められるのは、あの不吉な老婆が、またなにか仕出かす前に、即座にこの状況を打開できるだけの、破壊力だ……!


概念がいねん掌握しょうあく!」


 やるべきことと、そのための覚悟を決めた俺は、天叢雲剣から手にしたばかりの、破壊の概念に手を伸ばす。


 制御については、先に八尺瓊勾玉で、同じような経験をしていることが、どうやらこうをそうしたようだ。これなら、同じような感覚で、問題なくあつかえる……!


神器じんき創造そうぞう!」


 俺という存在の内側にひそんだ、あまりに純粋で、破滅的な力を、カイザースーツに組み込み、発現し、同化させ、最適を目指し、ありったけの魔素エーテル命気プラーナそそみ、新たな創造に足を踏み込む。


 さあ、いくぞ……!


「シュバルカイザー・スサノオ!」


 いつものカイザースーツよりも、かなり薄くなった装甲の上から、まるで、大嵐が荒れ狂う平原のような、真っ暗な緑のローブを羽織はおり、取り回しなんて、微塵も考えていない、ただただ巨大で、武骨な剣を創り出し、この手に掴む……。


 極限まで防御を削ぎ落し、攻撃にのみ特化した、この姿こそ、カイザースーツの、新たな力だ……!


「ほらほら、こっちよん! ぼやぼやしないの!」

「近づくと危ないっスよ! ここは逃げの一手っス!」

「……総統に任せておけば、安全安心……」


 見上げるほどの怪物に成り果てた黒縄が暴れれば、どこにどんな被害が出るのか、分からない。それを事前に察知して、自力で対処することが、どうしても難しそうな八咫竜の構成員たちを、素早く動いたローズさんたちが、避難させている。


 本当に、ありがたい……!


「――はあ!」

「シャアアアアアー!」


 もはや、人の言葉も忘れてしまったらしい黒縄に向けて、俺は巨大な剣を振って、その場から動くことなく、威嚇いかくしてきた大蛇の首を、二つほど切り落とす


 よし、成果は上々だ。この大剣は、自分なりのアレンジを加えたオリジナルの神器みたいなものなのだが、この通り、効果は抜群……。


 これなら、天叢雲剣と同じように、俺が望むものだけを、自由自在に切り裂ける!


「シャアアア!」

「ちっ!」


 だが、俺がせっかく切り落とし、地面に落ちた蛇の頭は、あっという間に黒い液体のようになって溶け落ち、まるで大地に染み込むように消えたかと思えば、その切断面から、即座に新たな頭が生えてきた。


 しかし、気落ちしている暇はない。むしろ、情報を得られたことを喜ぶべきか。


 今の様子を見るに、やはり、あの怪物の巨体は、黒縄の肉体が実際に変化したものではなく、奴を飲み込んだ黒い力の奔流が、溢れ出し、具現化したものなのだろう。


 つまり、あの巨大すぎる大蛇の体内……、そのどこかに、まるで核のような役割を果たしているであろう黒縄がいるということになる。


「このっ、面倒な……!」


 しかし、いくら目をらしても、あの大蛇の内側に見えるのは、なにやらドロドロとした黒いナニかだけで、どこに黒縄がいるのかまでは、分からない。


 だったら……!


「……こいつで、どうだ!」


 俺は再び剣を振るい、今まさに暴れ出そうとしていた八本の頭を、全て同時に切り落とし、相手の動きを注視する。


 当然、切り飛ばした端から、あの大蛇の頭は、即座に再生してしまうのだが……。


「シャアアアアっ!」

「……見えた!」


 八本の頭が、あっという間に生え変わり、再び咆哮を上げるまで、じっくりと観察した結果、その中身の正体こそ分からないが、あの黒い力が、全ての頭を再生させるために、大量に補充されるドロドロとした流れは、バッチリと見えた。


「――そこだっ!」


 よし、手応えあり!


 蛇というやつは、どこまでが胴体で、どこからが尻尾なのか、判断は難しいところではあるけれど、とにもかくにも、その付け根の辺りを狙って振るった俺の斬撃は、あの黒い力の根源を……、そこにいる黒縄を、確かに斬った……!


「……っ! シャアアアアァァァァ………」


 その刹那、恐るべき巨大さを誇った大蛇の肉体は、まるでコールタールのように、ドロドロと崩れ落ちたかと思えば、まるで最初からなにも存在しなかったみたいに、全てが地面に溶けて、消えた。


 後に残されたのは、倒れ伏している黒縄だけだ。


「…………」


 しかし、俺の斬撃は、あくまでも、あのドス黒い力を斬り捨てただけで、奴自身の肉体には、かすり傷一つ付けていないというのに、黒縄はうめき声を上げる素振そぶりすら見せず、目覚める気配が、まったくない。


 命に別状はなさそうだが、あれでは……。


「いやはや、お見事、お見事! その雄姿ゆうし、まさに英雄のごとしじゃな!」


 そして、恐ろしいことに、これだけの事態を引き起こした諸悪の根源であるはずの老婆は、最後まで高みの見物を決め込み、こうして、自らの手駒のように操っていた黒縄が倒されたというのに、動揺するどころか、手を叩いて喜んでいる。


 その姿には、寒気さむけしか感じない。


「……悪の総統に対して、英雄だなんて、侮辱ぶじょくのつもりかな?」


 俺は油断なく、この手に握った大剣を構えながら、老婆の動向に注意を払う。


 気を抜けば、俺たちも、あの謎の力に、飲み込まれかねない……!


「まさか! どこかで悪と恐れられても、また別のどこかでは、英傑えいけつとしてあがめられているなんて、伝説の中では、よくある話じゃよ! うひひひっ!」


 そんな、こちらの警戒心を小馬鹿にするように、変わらぬ様子で、老婆は笑う。


「そう、かの有名な、須佐之男命すさのおのみことのようにの! うひょひょひょっ!」


 なにやら皮肉めいたこと言いながら、飛び上がるようして喜んでいる老婆の目は、開いた口は、うつろな洞窟を思わせる。


 暗いばかりで、底が見えない。


「八百比丘尼……、お前の目的は、一体なんだ?」

「さあ、どうかの? そもそも目的なんてものは、最初からないのかもしれんぞ? ひょっひょっひょっひょっひょっ!」


 完全に、ふざけているとしか思えない態度を取る老人を相手に、歴戦の悪の組織であるはずの俺たちが、一歩も動けない。


 いや、どう動いていいのかすら、分からない。


 目の前にいるというのに、あの老人の存在は、まるで影か空気のように、なんとも曖昧な印象でしか、とらえることができなかった。


「それではな、しき英雄よ! これからも、精進しょうじんするがよいぞ!」

「ま、待て!」


 なんて、手をこまねいているうちに、もう気が済んだとでもいうのか、怪しい老婆がニヤリと笑うと共に、これだけ注目してるというのに、どんどんと、相手のことが認識できなくなっていく。


 やはり、これは龍脈の……!


「うひょひょひょひょっ! 伝説に語られる英雄は、色々と悲惨ひさんな末路を迎えることも多いでな! おぬしもせいぜい、死にいざなわれぬように、気を付けることじゃ!」

「なにを……!」


 余裕からか、上から目線の忠告なんてしてきた老婆を、俺は咄嗟とっさに、なんとか引き止めようとしたが、もう遅い。


「ひーっひっひっひっひっ……!」


 気が付いた時には、老婆は……、伝説の八百比丘尼を名乗る老婆は、まるで、影が闇に溶けるように……。


 ただ高笑いだけを残して、消えていた。


「くっ! 逃げられてしまいましたか……。申し訳ありません、統斗様……」

「うえっ、気配が消えた……? というか、消えたタイミングが分からない?」

「仕込んでた追跡機と盗聴器の反応も~、全部ロスト~。どうなってるの~?」


 驚くべきことに、俺だけではなく、デモニカも、レオリアも、ジーニアも、そして周囲の様子を見る限りでは、この場にいる全ての人間が、最後の瞬間まで、あれだけ目立っていた老婆の存在を、完全に見失ってしまったようだ。


 それはまったく、信じがたい現実だった。


 しかも、見失っただけならまだしも、最後の手段として、ジーニアが周到に送り込み、奴の身体に取り付けていたマイクロマシンまで、どうやら全滅したらしいので、もはや、老婆がどこに行ったのか、知るすべはない。


 完全に、してやられた格好だ。


「八百比丘尼、か……」

「くそっ、なんなんだ、あいつは!」


 朱天さんの怒りは、もっともだ。


 ようやく、本当にようやく、今回の騒動の首謀者を倒し、八咫竜に関する問題を、まるっと解決できそうだったのに、いきなり乱入者が現れたかと思えば、場を荒らすだけ荒らして、なにも分からぬまま、消えてしまったのだから。


「す、統斗すみとさま……!」

「大丈夫、大丈夫ですよ、竜姫さん」


 しかし、今の俺では、不安そうな竜姫さんを、慰めるのが精一杯だ。少なくとも、今この場所で、これ以上できることがない以上。気持ちを切り替えるしかない。


 そう、俺たちの心に、重いしこりを残しはしたが……。


「もう、全て終わったんですから」


 決着は、ついたのだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る