4-2


「ふぅ……、あ~、ここが天国か……」


 重たい服を脱ぎ捨てて、生まれたままの姿になって、チラチラと舞い散る真っ白い雪を、ただのんびりと眺めながら湯につかるというのは、それだけで至上の幸福だと言い切ってしまっても、なんの支障もありはしない。


 しかも、温泉というだけでも最高なのに、それが露天風呂だというのだから、本当にたまらない。もうこうなってしまえば、雪が降るほどの寒さだって、丁度いいアクセントくらいにしか感じないのだから、人間とは現金なものだ。


 いやあ、極楽、極楽……。


「どうっスか、統斗すみと様! 気持ち良いっスか! 気持ち良いっスよね!」

「うるさい、黙れ。俺の極楽を、邪魔するな」


 ああ……、後はこの、なんとも面倒臭いサブさんさえいなければ、なにも言うことなしなんだけどな……。




 無事に宿まで到着した俺たちは、それぞれの部屋に荷物を置いて、まずは旅の疲れを癒そうということで、ゆっくり休息を取ることにしていた。


 ちなみに部屋割りの方は、俺が個室で、他のみんなが一緒に大部屋ということで、今回は穏便に決着している。実のところ、この宿を利用しているのは、俺たちだけという貸し切り状態なので、やろうと思えば全員個室のようなこともできたのだけど、これは前回の宿泊で、大勢との同部屋を気に入ったらしい竜姫たつきさんの希望だ。


 いや、竜姫さん的には、本当なら俺も含めた全員で、同じ部屋がよかったらしいのだけれども、それは流石にまずいというか、具体的にいうと、彼女の後ろでこちらのことを、まさに鬼のような形相で睨む朱天しゅてんさんの殺気に負けて、丁重にお断りさせていただいたことは、ここだけの秘密である。


 ともあれ、なんにせよ、まずは体を休めようと考えた俺は、この旅館には露天風呂があることと、男湯と女湯が時間で入れ替えになることを、先ほど仲居さんから聞いていたので、それでは時間が合う今のうちにと、こうして夕食の前に、のんびり温泉を楽しもうと、一人でやって来たというわけなのだけれど……。


「どうして、お前が、ここにいる」

「はっはっはっ、いやいや、まあまあ、いいじゃないっスか!」


 いやいや、全然、よくないわけだが。


 とはいえ、別に俺だって、なにもこの素晴らしい温泉を、絶対に独り占めしたいというような、そんなわがままを言うつもりは、これっぽちもありはしない。当然だ。温泉というのは、みんなのものなのだから。


 ただ単に、一緒にいる相手が、隙あらばこちらの貞操を強引に狙ってくるサブさんだというのが、問題であるというだけで。


 しかも、この裸がフォーマルなはずの温泉で、なぜかふんどし一丁という、どう考えても寒いだろうよそおいで、湯にも入らず膝立ちで、白々しい笑顔を浮かべながら、俺の方をじっと見ているというのが、微妙に恐い……。


「……っていうか、なんなんですか、その格好?」

「あれ? 統斗様、知らないんスか? これは三助さんすけっスよ! 三助!」


 三助というと……、確か、こういう銭湯関係のサービスをする人のことを指す言葉だった気がするのだが、詳細までは、流石によく分からない。


 分からないけれど、サブさんの口から出てくると、不穏な空気しか感じないので、正直なところ、勘弁して欲しい。


「というわけで! お背中流しますっス!」

「いや、いいから。サブさんの手を借りる理由なんて、微塵みじんも存在しないから」


 なるほど……、なぜか俺が温泉に入ってからしばらく後に、のこのこやって来たと思ったら、それが目的だったのか。どうやら、脱衣所に入るところでも、偶然見られていたのだろう。不覚である。


 しかし、残念だったな、サブさん。俺がこうしてもうすでに、湯船につかっているということは、それは即ち、ちゃんと身体を綺麗にしているということだ。


 そう、これは当然のエチケット……。


 俺という人間は、温泉のマナーというやつを、ちゃんと守る男なのであった。


「そんなっス! とっておきの褌まで締めてきたのに、残念無念っス!」

「なんだよ、そのこだわり……」


 しかし、俺の後を追って来たにしては、微妙に遅かったというか、俺がしっかりと準備を整える時間はあったから、なにをしていたのかと思えば……。


 なんというか、言葉もねえよ。


「……それにしても、なんだか、もうすっかり、この旅館の一員って感じで馴染んでますけど、一体どうしたんですか?」

「どうしたって、決まってるじゃないっスか! 潜入っスよ! 潜入! この辺りの地方を調査するのに、身分を隠して、ここを拠点にさせてもらってたんス! まあ、統斗さまたちのおかげで、もうその必要もないんスけど、なんとなくノリで、まだ働いてるだけっスよ! はっはっはっ!」


 ノリでって……、いや、本人がそれでいいなら、こちらとしても、そこは別にどうでもいいんだけれども……。


「そうか……、あんまり迷惑とか、かけてないですよね?」

「大丈夫っス! むしろ、この旅館唯一の男手だって、重宝されてるっスよ!」


 まあ、サブさんは黙ってさえいれば、体育会系の爽やかな好青年に見えないこともないので、真面目にさえしていれば、大丈夫か。


 他に男がいないのならば、ボロが出るということも、なかっただろうし。


「って、いきなりなにしてるんですか!」

「ナニって、決まってるっス! 寒くなったから、自分も温泉に入るっス!」


 そう宣言したサブさんが、ご自慢だったはずの褌をさっさと脱ぎ捨てて、恥じることなく堂々と、むしろ誇るように、全力で全裸になったかと思えば、俺がもう入っている温泉に、侵入を試みてきた。


 くそっ! 確かに温泉につかるなら、タオルや布のたぐいを、湯につけないようにするのがマナーだが、不穏な空気しか感じない!


「……いいだろう、貴様の入浴を許可してやる。ただし! それ以上無為むいに接近してくるなら、敵対行動とみなし、即座に排除してやるから、そのつもりでいろ!」

「いやだなー! そんなにピリピリしないで欲しいっス! もう、別になにもしないに決まってるじゃないっスかー!」


 あくまでも、その白い歯を輝かせた笑顔を張り付けながら、サブさんは一応動きを止めて、こちらへの接近を停止した。


 脅しが効いたのか……? いや、安心するのは、まだ早い。


「よし、それじゃあ、その距離を保ったまま、今回の調査の結果を報告してくれ」


 俺はサブさんに仕事の話をさせることで、その動きを牽制けんせいしようと試みる。そう、まだ気を抜くな。気を抜けば、待っているのは、凄惨せいさんな未来というやつだ。


「いいっスよ! お任せくださいっス!」


 サブさんは爽やかに笑っているが、油断はできない。俺は心の中で、この温泉にデッドラインを引いておく。


 もちろん、このラインを踏み越えたら、デッドするのは向こうの方なわけだが。


「自分たちよりも先行して、敵地に潜入しているローズの姉御あねごからの最新情報によると、どうやら八咫竜やたりゅう地固じがためは、かなり進んでるみたいっス! とりあえず、主要な空港や駅なんかは、もう軒並み抑えられてるっスよ!」


 どうやら、今のところはサブさんにも、真面目に報告をする気があるようなので、俺は自分の感情に折り合いをつけて、警戒を続けながらも、仕事の話を開始する。


「そうか……、そうなると、飛行機や鉄道を無策で使うのは、危険ってわけだ」

「そうっスね! 公共の移動手段だと、到着場所が決まってるっスから、相手の目を誤魔化すのは、かなり難しいと思うっス!」


 まあ、最悪その待ち伏せを叩き潰してしまえばいい……、みたいな、強引な方法もあるのかもしれないが、リスクは少しでも、小さい方がいい。


 それに、八咫竜側の対応によっては、一般市民にまで被害が出る可能性のある行動というのは、可能な限り避けたいというのが、本音といえば本音だ。


 例えば、俺たちが乗った飛行機が撃墜された……、なんてことになってしまうと、大惨事もいいところだし、情報操作でもされて、その責任を、全て俺たちに押し付けられでもしたら、目も当てられない上に、気分も悪い。


 ヴァイスインペリアルがいくら悪の組織といえども、自分たちが天下を取った後のことを考えれば、無駄に火種は増やしたくはないし、下手に泥沼に足を突っ込むような真似も、避けるべきだろう。


 ちゃんと地域の皆様に、満足していただける環境を提供してこそ、末永い征服も、可能になるというものだ。


 そう、地元の皆様に愛される悪の組織こそが、俺の目標なのだから。


「だとすると、後は自分たちで、車でも用意するか、それとも徒歩か……」


 しかし、車はともかく、歩いてとなると、ちょっとしんどいなぁ……。


「それがっスね。こっちから八咫竜の支配している地域に上陸するための最短ルートである海峡は、もうすでに、奴らにガッチリ抑えられてるみたいなんすよ」

「なんと」


 いや、考えてみれば、それが当然か。


 地形的なことを考慮すれば、そこをしっかりとふさいでしまえば、後は空を飛ぶか、海を渡るかしなければ、八咫竜の根城へはたどり着けないのだから、むしろ最優先で監視されて、しかるべき場所であるといえる。


 どうやら、敵の動きの方が、こちらよりも幾分か速かったようだ。


「なんというか、防備を固めているってよりは、あそこの海でなにかを探してるって感じみたいっスけど、決して素通りできるような状況じゃないのは、確かっス!」


 あそこの海……、というと、いわゆる壇ノ浦だんのうらと呼ばれる場所か……。


 正直、そこで八咫竜がなにをしているのかは分からないが、急所を相手に守られてしまっていることに、変わりはない。


 つまり、俺たちには、この状況を打破するための、ナイスなアイデアが必要……、というわけなんだけども。


「うーん……、空はダメ、陸は厳しい、そうなると残るは……」

「そう、海っス!」


 まあ、結局のところ、残る可能性は、そこくらいか。


「しかし、海といっても、今の俺たちじゃ、そう簡単に自前の船は用意できないし、フェリーとか使うなら、結局は飛行機とかと変わらないし……」


 さてさて、一体どうしたものか?


 残念ながら、今のヴァイスインペリアルの懐事情ふところじじょうでは、自由に使える船を今すぐに用意するというのは、なかなか難しい。祖父ロボが私物のヨットを持っていた気がするが、あれがまだ残っていたとしても、ここまで持ってくるのは、かなり厳しいと言わざるをえないだろう。


 だからといって、ここでビッグブラッグや、新たに傘下に加わった他の組織の皆様を頼るというのも、これまた厳しい。


 単純に、まだみんな、疲弊ひへいしているのだ。レッドオイスターの支配から脱した直後だということもあるが、そもそも、その前には、あの悪魔が率いるワールドイーターによって、散々に蹂躙じゅうりんされていたのだから。


 まさに搾取さくしゅに次ぐ搾取、暴挙ぼうきょに次ぐ暴挙、焼きはた農業じゃないのだから、そんなに過酷な状況に置かれ続けていたら、どうしたって消耗し、地力は落ちる。


 このままの戦力では、八咫竜が待ち構えているという海峡に、正面からぶつかるというのも、得策とは言い難い。


 そもそも八咫竜という組織は、その長い長い歴史の中で、ただひたすらに自分たちの領域を守ることに専念していた集団なのだ。


 いわば、防衛戦のスペシャリスト。まともに戦えば、どうしたって時間が食われるのは、目に見えている。


 それは、困る。確かに八咫竜の攻略は重要だが、あくまでもヴァイスインペリアルとしての目的は、この国の西から南を手に入れることで、東から北を制圧しつつある国家こっか守護庁しゅごちょうに対して、拮抗きっこうできるだけの状況を、素早く生み出すことだ。


 ここで無駄に時間を取られるような事態は、避けなければならない。


 つまり、今の俺たちに求められているのは、すみやかな解決策なのだ。


「ふっふっふっ……! ご安心くださいっス! 自分にいい考えがあるっス!」

「くっ……! いいだろう、言ってみろ!」


 正直に言えば、サブさんのいい考えなんて、悪い予感しかしないわけだが、だからといって、まだ強引に打ち切るような段階でもない。


 満面の笑みを、不気味に浮かべながら、じわじわとこちらが決めたデッドラインに近づいてくるサブさんを警戒しながら、俺は話をうながす。 


「我らが組織にとって、今まさに、即座に必要なのは、荒れ狂う大海原でも、自在に移動できる手段っス! そこで、今回狙うのは~!」


 そして、微妙に芝居がかった仕草で、なぜかクルクル回っていたサブさんが、ピタリと止まった瞬間に、大音声を張り上げた。


「――トライコーンの海賊団っス!」

「なんだその、ありったけの夢をき集めてそうな集団は……」


 というか、確かトライコーンって、よく映画とかで海賊が被ってる三角帽子のことだったはずだ。


 つまり、その集団の名称を直訳すると、海賊帽の海賊団になるわけなのだが、それでいいのか、海賊的には。なんだか頭痛が痛い感じだけれども。


「実はそいつら、ちょっと前までは、悪の組織の積み荷を狙う悪の組織ってことで、ちょっと有名だったんスけど……」

「いや、待て、待ってくれ。なんだ、つまりそいつらは、悪の組織を襲う悪の組織だっていうのか? おいおい、義賊かよ」


 マジかよ、正義の海賊団なんて、ちょっと格好良いじゃないか。


 なんて、呑気に考えていた俺に、サブさんは続ける。


「いや、違うっスよ。トライコーンが慈善活動してるなんて話は、いくら調べても、聞いたことないっスから。多分っスけど、民間の船を狙うと、国家守護庁に目を付けられて、目のかたきのように追われることになるっスから、それを避けたかったんじゃないっスかね。悪の組織を狙っていれば、正義の味方からはスルーっスから」


 ……あー、なるほど。


「それはまた、残念な理由だな……」


 なんというか、非常に合理的ではあるけれど、非常にガッカリな行動原理である。正義の義賊の正体は、あわれ、ただの小悪党……、というわけだ。


「まあ、そんなわけで、トライコーンの海賊団は、しばらく前まで、好き勝手に暴れ回ってたんスけど、貿易業で利益を上げてたワールドイーターに、いい加減邪魔だとうとまれたらしく、執拗に狙われることになって、しばらく姿を消してたんス!」


 それはまた、難儀なことで……。


 まあ、悪の組織は弱肉強食。いくら調子に乗って栄華えいがを極めようとも、より強い誰かが出てきたら、叩かれるのが道理だ。それは目立てば目立つほど、的にされる可能性が大きいということでもある。


 しかし、強大な敵に命を狙われた時に、状況を冷静に見極め、無謀な戦いをせず、即座に姿をくらませたというのは、なかなか見事な状況判断能力だと、褒めてやっていいのかもしれないな。


「つまり、厄介なワールドイーターが消えたから、どこかに隠れていたトライコーンの連中が、再び活動を開始したってわけか」


 目の上のたんこぶが消えてしまえば、もうコソコソしている必要はない。ならば、また好きに暴れようと考えるのは、悪の組織としては、当然の思考だ。


「そうっス! そして、なんと! その活動を再開したトライコーンの海賊団がいるのが、この近くの海ってわけっス!」


 どうやら、それこそが言いたかったことのようで、サブさんは派手にポーズを決めながら、その場で飛び上がってみせた。


 正直、全裸でそういうことをされると、どうしても不快なものが視界に入るので、やめて欲しいのだけれども、まあいいだろう。


「なるほどね……」


 やるべきことが、決まったのだから。


「要するに、その海賊団とやらをぶっ飛ばして、奴らの船を奪おうってわけだ」


 そう、答えはいつだって、シンプルだ。


 ないものは、奪えばいい。悪の組織らしく、堂々と。


 しかも、その相手が常日頃から、悪の組織から略奪を繰り返していた悪の組織だというのだから、こちらの良心も痛みようがない。


 まさに、因果応報、というやつである。


「どうっスか! どうっスか! 自分からの提案は、統斗様的に、どうっスか!」

「そうだな……、悪くはないな……」


 いや、悪くないどころか、俺たちをこんな場所に呼び出した理由としては、十分に納得できる状況を、お膳立てしてくれたといってもいいだろう。


 だがしかし、俺はそんな忠臣を褒めることなく、相手の動向を注視する。


「よっしゃー! お褒めの言葉をいただいたっスー!」


 なぜなら、一見すると適当に飛び跳ねているだけのように見えて、サブさんの動きは確実に、こちらとの距離をはかり、次のアクションへとそなえたものなのだから。


 油断なんて、できるわけがない。


「というわけでえ……」


 ――来る!


「そのまま、素敵なご褒美も……、いただきたいっスー!」

「ぬう! 小癪こしゃくな!」


 てっきり、いつものように飛びついてくるのか思ったら、サブさんは一瞬で足元の温泉へと潜水し、まるで魚……、というかウナギのように、くねくねと不気味だが、異様に素早い速度で、滅茶苦茶に泳ぎまくる。


 クソッ! 無駄に泳ぎが上手い! なんか怖いぞ!


「さあ、これから男二人の、熱い熱い裸のお突き合いっスよー!」

「させるか!」


 だがしかし、いくら無軌道に動いて、こちらの目をくらませようとしても、無駄な足掻きでしかない。結局のところ、サブさんは一人しかいないのだから、相手の動きを冷静に見極め、俺に向かって飛び出してきたところを狙えば、それで終いだ!


 そして、そのタイミングは、俺自身の超感覚によって、手に取るように分かる!


「風呂を!」

「ぐがっ!」


 俺は握り締めた拳を、まるでトビウオのように突っ込んできたサブさんの顔面に、容赦なく叩き込む。


「泳ぐのは!」

「げはっ!」


 続けて、俺は立ち上がりながら、サブさんの胸を蹴り上げ、相手を浮かす。


「マナー違反だ!」

「どべがぐっスー!」


 そして最後に、俺の命気プラーナをどっさりと込めたアッパーカットを、力任せにぶつけることで、無駄に全裸なサブさんは、まるでメジャーリーガーが放った特大ホームランのように、見事な放物線を描いて、夜空の彼方に吹き飛んで行った。


「ふっ、悪は滅びた……」


 いやしかし、飛んだ、飛んだ。あれだけ飛べば、少なくとも今夜中に、この宿まで戻ってくるのは、幾ら怪人といえども不可能だろう。


 つまり、しばらくは平和……、というわけだ。


「さーてと、どうしようかな?」


 余裕ができた俺は、湯冷めしないうちにと再び温泉に肩まで入り直し、今度の計画を練ることにする。


 提案者そのものは不安の塊みたいな男だが、その内容自体には、一考いっこうの価値があるということまで、忘れてはいけない。


 まあ、幸いなことに、ここが露天風呂だったことで、天高く飛んで行った邪魔者のせいで、施設が破壊されるようなこともなかった。


 宿に迷惑をかけずにすんでホッとしたし、これなら大きな騒ぎになるようなこともないので、ここは落ち着いて、のんびり温泉を楽しみながら、ゆっくりと今後のことを考えよう……。



 なんて、俺が腰を落ち着けた、その時だった。



「え、えーっと……、す、統斗くん、いるー?」

「おっ、おう、桃花ももか? あ、ああ、もちろんいるけど?」


 脱衣所の方から、俺のよく知る少女の声が、聞こえてきたのは。


「えっと、なにかあったの?」

「う、ううん! そういうわけじゃないんだけど……」


 こちらが真っ裸でいる時に、知り合いの女性から声をかけられるというのは、なんとも決まりが悪いというか、ドキドキしてしまうものである。


 しかし、わざわざこんなところまで、俺を呼びに来るほどの事態が、なにか起きたのかと思ったのだが、どうやら、そういうわけでもなさそうだ。


「あ、あのっ! い、いま、そ、そこにいるのは、統斗くんだけ、だよね……?」

「……うん? あ、ああ、そうだけど……、それがどうかしたのか?」


 なんだろうか、話が見えない。


 というか、この温泉にいるのが、俺一人というか、俺一人になったということは、歴戦の勇者である桃花だったら、こちらの気配を探れば、一発で分かるはずだ。


 しかも、逆に俺の方から気配を探ってみたら、こちらからは見えない脱衣所の中からは、桃花以外にも人の気配がするというか、いつものメンバーが全員揃っているのが分かる。あれならむしろ、分からない方がおかしい。


 なんというか、桃花が状況を確認したかったというよりは、まるで自分になにかを言い聞かせているような、そんな不自然さを感じるわけだけど……。


「おーい、一体なにが……」

「う、うん……! 大丈夫、大丈夫……!」


 とにもかくにも、まずは話を聞いてみようとしたのだが、こちらからの問いかけに返答はなく、よく聞き取れない小さな呟きと、ゴソゴソとした物音がするばかりだ。


 うーん、どうしよう……。


 こちらから動きたくても、全裸という無防備すぎる格好では、いくらタオルがあるとはいえど、向こうに行くことすら躊躇ためらわれてしまうのが、人情というものだ。


 なんて、俺がのんびり、ひと思案していたら、状況は突然、急転直下に動き出す。


「そ、それじゃあ! お、おじゃ、おじゃまします!」

「……へっ?」


 完全に気を抜いていた俺は、呑気に温泉につかりながら、動くこともできず、ただただマヌケな声を上げることしかできない。


 だって。


 だって……! 


「な、なんでー!」


 だって、桃花さんったら、脱衣所を出て、こっちに来て、しまったんですもの。


 その身体に、一枚のタオルを巻いただけの、あられもない姿で。


「あ、あわ、あわわわわ……!」


 あまりにも衝撃的な展開に、俺の思考は完全に停止し、ただただバカみたいに開いた口から、声にならない呻き声を上げることしかできない。


 だがそれも、恥ずかしそうに顔を真っ赤にしてうつむきながら、決して大きいとはいえないタオルを使い、自分の身体を一生懸命隠そうとしている桃花に続いて、彼女と同じような格好をした、いつものみんなが、ぞろぞろと出てきたのだから、仕方のないことだと、どうかご理解いただきたい。


 例えどんなに魅力的な光景だろうと、人間が本当に驚いた時には、歓喜よりも恐怖が優先されるのだと、俺はこの時、初めて知った。


 ああ、肝が冷えるとは、このことか……。


「あっ、統斗さまー! お湯加減は、いかがですかー?」

「い、いやいや、いやいやいや、いやいやいやいや……!」


 無邪気に手を振っている竜姫さんは、最後の防壁であるはずのタオルを、その身体に巻いてすらおらず、片手を使って軽く胸の辺りで抑えているだけなので、無防備に揺れてしまって、彼女の細い腰や、白い肌が、チラチラと見えてしまう。


 い、いかん……! これは眼福というよりも、もはや目に毒……!


「むっ! 貴様っ! 姫様を不埒な目で見るなど、許さんぞ! 不審者め!」

「ま、待って! 言ってることが無茶苦茶ですから! ここは今、男湯ですから! 不審者はそっちですから! むしろ、なんで入ってきてるんですか、朱天さん!」


 竜姫さんのすぐ隣で、その忠実な臣下は、俺のことを鬼のように睨むだけでなく、罵声まで浴びせてくるわけだが、そんなことされても、困ってしまう。


 気分的には、罵声よりも冷や水を浴びせらている気分だ。理解が追いつかない!


「姫様がどうしても、貴様と一緒に温泉に入りたいとおっしゃるのだから、仕方なかろうが! ……くっ、そんな好色こうしょくな目で、こちらを見るな!」

あきれてるんだよ! これは呆れてる目だよ! 止めろよ! そんな血の涙をにじませそうなくらい嫌なら、ちゃんと止めろよ! いい大人なんだからさ!」


 烈火のごとく怒り狂いながらも、朱天さんは律儀なことに、あるじと同じく、脱衣所に用意されたタオルだけという刺激的な格好だ。しっかりと自分の身体をガードしてはいるけども、その鍛え抜かれた美しい肢体は、隠しようがない。


 そんな格好で、まるで八つ当たりのように怒られても、俺にはどうしようもないというか、こんな状況では、ああ、朱天さんはお風呂に入る時も、右目のアイパッチは外さないんだな……、みたいな見当違いな思考を巡らせて、現実逃避するしかない。


 というか、なにもできないんだよ! こっちも! 大変で! 温泉から立ち上がることすら、できやしない!


「ふふふっ、竜姫ちゃんたちだけを、行かせるわけにはいかないものね……」

「そ、そうですか……? あっ、いえ、そうですね……、異議なしです……」


 聖母のような微笑みを浮かべている樹里じゅり先輩だが、いかん、本気だ。


 少女でありながらも、成熟した色気を放つ見事なプロポーションを、薄手のタオルのみでしっとりと隠しながら、妖艶な眼差しで俺を射抜くその様子は、背筋が震えるほどに刺激的だが、同時に別の意味で、ゾクゾクとしてしまう。


 まずい、先輩のブレーキが、壊れかけている。


「ふっふーん! ひかりちゃんと一緒にお風呂なんて、統斗にはもったいないご褒美なんだから、せいぜい感謝しなさいよね!」

「お、おお、なんだ、その……、ありがとうございます?」


 裸同然の姿だというのに、堂々と仁王立ちしているひかりには、驚きや色気より、頼もしさすら感じてしまう。


 本当に、なんて安心感だ。胸より確実に上の位置で止めているタオルが、なんの引っかかりも見せずに、ストンと下まで落ちている様子は、むしろ感動的である。


 そうだな……、ありがとう、ひかり!

 いつまでも、そのままの君でいてくれ!


 俺も大概たいがい、限界だった。


「ううっ、なんでもいいから、あっためさせてえ……」

「お、落ち着け、火凜かりん! タオルが落ちる! 落ちちゃうから!」


 寒さに弱い火凜は、まるでゾンビのように、両手を前に突き出して、少しでもぬくもりを求めているのか、ふらふらと温泉があるこちらへと歩き出す……、のはいいのだけれども、申し訳程度に巻いているタオルにまったく頓着していないので、色々な意味で、あやういことになっている。


 くっ! 見えちゃいけないものが、見えそうで見えないような、見えてるような!


「そうですよ、火凜。落ち着いてください。お風呂に入るなら、まずは身体を綺麗にしてからです」

「待って、それは正論ですけど、ちょっと待って、あおいさん!」


 ああ、俺が目の前の光景に気を取られているうちに、いつものように真顔のままの葵さんが、すたすたと洗い場まで歩みを進めると、特になにかを気にするでもなく、あっさりとタオルに手をかけると、ガバッと開いてしまう。


 そう、最後の扉を、開いて、しまった。


「なんで、タオルを、外しちゃうんですか!」

「なんでと言われましても、タオルを外さないと、身体は洗えませんし」


 なんという、ぐうの音も出ない正論。

 確かに、温泉のマナーとしては、それが正しい。


 正しすぎて、涙が出そうだ!


「あっ、そっかー……、ちょっと待っててね、統斗ー、すぐに行くからー……」

「だから、落ち着けって、落ち着いてくださいって、あー! 火凜さん!」


 完全に思考能力が低下している火凜が、こちらに背を向けたかと思うと、ギリギリで引っかかっているだけだったタオルを、モソモソと外しながら、葵さんと同じように洗い場へと向かう。


 ああ、彼女の綺麗な背中から、魅惑の腰つき、そしてその下の蠱惑的な丸みまでの美しいラインが、ハッキリと俺の眼前に……!


 い、いけない! それは、まずいって!


「そ、それじゃあ、わたしたちも行こうか、竜姫ちゃん……」

「はい、桃花さん。あの、実は私、洗いっこというものをしてみたいのですが……」


 そうこうしているうちに、葵さんと火凜以外のみんなも連れ立って、洗い場へと集まってしまうと、各々おのおの恥じらいの差はあれど、それぞれのタオルを外して、ワイワイと雑談なんてしながら、なまめかしく身体を洗い出してしまう。


 その光景は、まさしく桃源郷と呼ぶべきなのだろうけど、残念ながら今の俺には、それを楽しんでいる、余裕も、覚悟も……、ない!


 ど、どうする? 情けないけど、逃げだすか?


 だがしかし、完全に油断していた俺は、自らのタオルを、いまや絶対不可侵な乙女の聖域と化してしまった洗い場に、置きっぱなしにしてしまっている。


 それは、まずい。非常に、まずい。


 位置関係を考えると、この温泉から脱衣所へと向かうには、どうしても、洗い場の近くを通らねばならないのだ。つまり、逃亡を図るにしても、俺は全裸で、あの危険地帯を駆け抜けなければならないというになる。


 残念ながら、そんな強行軍は、今の俺では……、一身上の都合で、走るどころか、この温泉から立ち上がることすら無理そうな俺では、不可能というものだ。


 ああ、落ち着け! 落ち着け、俺! というか、俺自身!


 煩悩退散! 煩悩退散! 煩悩退散!


 だがしかし、いくら頭の中で念仏を唱えてみても、熱くたぎった俺のたけりは、残念なことに、収まってくれそうもない。


 だって、俺だって、男の子なんだから、仕方ないじゃないか!


「ううっ……、俺に一体、どうしろって言うんだー!」


 俺のむなしい咆哮は、この天国とも、極楽とも判断が付かない、地獄のような湯煙を通り越し、チラチラと舞う雪を震わせて、静かに消えてしまうのだった……、


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