2-7
「やれやれ……」
とりあえず、撃退した侵入者たちは、適当に
残念ながら、今の俺たちに、反抗的な捕虜を養うような余裕はない。ここは正義の味方に押し付けて、せいぜい奴らの負担になってもらおう。
とにもかくにも、問題を一つ片付けた俺たちは、なんだか微妙な空気のまま本部へと帰還し、それぞれ自分たちの仕事へと戻っていった。
俺と
とはいえ、俺の仕事なんて、そう大したものじゃない。みんなが考えてくれた事業計画書を読んで、承認するかどうかを決めてから、ハンコを押すくらいだ。
それなのに、これだけ時間がかかってしまったのは、ひとえに自分が未熟なせいなわけだが、さらに情けないことに、慣れない仕事をしたせいで、すっかり気疲れしてしまった俺は、自宅へ帰ることすら諦め、この本庁舎にある仮眠室へ向かっている。
まあ、仮眠室といっても、六畳くらいの小さな和室で、置いてあるのも、せんべい布団くらいなものなので、基本的には人気がない……、というか、自分以外の利用者を見たことがないのだが、そのレトロな感じがなんだか気に入ってしまい、この建物を使うようになってから、俺はちょっくちょく愛用しているのだった。
「あー、今日も終わった、終わった……」
というわけで、俺はシャワー室で軽く汗を流し、あらかじめ用意していたラフな部屋着に着替えてから、ようやく憩いの時間を過ごすため、到着した仮眠室のドアノブに手をかけて、特に
それが、いけなかったのかもしれない。
「お待ちしておりました、
「……へっ?」
完全に、気を抜いていた俺の目の前に、とんでもない光景が広がっている。
まず、この仮眠室に入ってすぐ、履物を脱ぐための土間を上がったところで、綺麗に三つ指をつきながら、うやうやしく頭を下げているのは、先ほど自分の宿に戻ったはずの、竜姫さんだった。
なぜか薄暗いこの部屋に、彼女の透き通るような肌と、純白の和装がよく映えて、なんだか
そして、そんな竜姫さんの後ろでは、なぜかもうすでに、きっちりと布団が敷かれている。なぜだか知らないが、布団は一つで、枕は二つだ。本当に、なんでだろう。
さらに不思議なことに、そんな布団のすぐ横には、なぜか背筋をピンと伸ばして正座している朱天さんがいる。なんだか、これから切腹でもしそうな雰囲気だが、大丈夫だろうか? とりあえず、こちらのことをそんな殺意に満ちた目で睨みつけるのだけは、
というか、なんだ、この状況?
「えーっと、竜姫さん?」
「はい、なんですか?」
うーん、そんなに可愛らしく微笑まれると、理由は聞かなくても、全て受けいれていいかな、なんて思ってしまいそうだが、そういうわけにもいかない。
俺は勇気を振り絞って、聞かねばならぬことを口にする。
「あの、どうして、こんな場所に?」
「それはですね、統斗さまのお母様に、今日は遅いから、ここに泊まるのではないかとお聞きしまして」
ああ、どうやら質問の意図が、正確に伝わらなかったようだ。聞きたかったのは、どうして俺が、この仮眠室に来ると分かったのかではなく、そもそもなぜ、竜姫さんがここにいるのか、その理由の方なのだけれども。
というか、切実に、そこら辺のことを、聞きたいのだけれども。
「いえいえ、そうじゃなくてですね、その、一体なにをしに、来られたのかな、と」
「まあ、私ったら、これは失礼いたしました……」
俺からの再びの質問に、自分が勘違いしていたことに気付いたらしい竜姫さんが、恥ずかしそうに頬を染めてしまう。うん、可愛い。
そして、俺が止める間もなく、再び深々と頭を下げてしまうと、いきなり、本当にいきなり、とんでもないことを言い出した。
「この
……う、うん? 突然なにをおっしゃってるんですか? このお嬢さんは?
「よ、夜伽? あ、ああ、警護や、看病や、お通夜とかで、夜通し一緒にいるという意味での、あれですね。はははっ、大丈夫ですよ、今の俺には、そのどれも必要はありませんから、はははははは」
「あら、ふふふっ、統斗さまったら」
どうやら、俺の現実逃避は見事に失敗したようで、竜姫さんは顔を上げて、上品に口元を隠して笑いながら、あっさりと真実を告げてしまう。
ああ、告げてしまう……。
「このたびの夜伽とは、男女のまぐわいのことですわ」
まぐわい……、それは惹かれ合う男と女が、目と目で通じ合い、刺激的に繋がり、情熱と共に絡み合い、情念とパトスを交わし合う愛の営み……。
ぶっちゃけて言ってしまうと、性交渉のことである。
「いや、だからなんで!」
「大丈夫ですよ、統斗さま……」
ううっ、状況が把握しきれず、思わず声を荒げてしまった俺も悪いが、そんな
「話は全て、朱天から聞きました」
しゅ、朱天さんから? なんで? なにを? どうして?
ますます、意味が分からないのだけれども……。
「統斗さまは人一倍、性欲の強いお方であると」
「……えー」
なにその、とんでもない誹謗中傷。
だけどこれで、話の出どころというか、流れというのは、大体分かった。
要するに、
それはもう、色んな脚色も交えて、口汚く、竜姫さんが俺に幻滅して、結婚しようなんて考えなくなるように。
いやしかし、そこまでは簡単に想像がつくのだが、そこからどうして、こんな状況に
「なんでも、毎夜毎晩……、いいえ時には昼夜問わずに、様々な女性たちと、ところかまわず情交に及び、その激しさに、相手をした者たちの方が音を上げても、やめることはないそうではありませんか」
なんだ、その性欲の塊というか、性欲が全ての性欲魔人みたいな人間。というか、人間なのかも疑わしい生物は。
……えっ、もしかして、俺のこと?
いやいやいやいや、朱天さん! どれだけ話を盛ったんですか! いくら俺でも、そんな年がら年中、頭の中はそれしかありませんみたいな、破廉恥な脳ミソはしていませんよ!
……してませんよね?
「これは、いけません。そう思いました」
はい、俺もです。
本当に、心から、そう思う所存です。
「統斗さまの抑えきれない性欲は、近い将来に妻となる、私が受け止めるべきだと」
いや、いきなりなんなんですか、竜姫さん。その謎の自己犠牲精神は。
もはや感動を通り越して、困惑しかありませんよ、俺には。
本当に、意味が分からないよ!
「……ちょっと、朱天さん!」
「……こっちを見るな!」
完全に混乱してしまった俺は、思わず、今回の件の元凶だろう人物に、説明を求めようとしたのだが、むしろ怒鳴られてしまった。
どうやら、あちらもあちらで、主君の暴走に困り果てているようなのだが、正直、そんな態度を取られても、俺の方が困ってしまう。
くそ! 助けは期待できそうもないし、自分でなんとかするしかないのか!
「はっはっはっ、どうやら情報の行き違いがあったようですね。安心してください、竜姫さん。俺はそんな性欲に振り回されたりしない、理性的な人間です」
こうなっては、仕方ない。俺はなるべく穏便に、この場をやり過ごそうと、努めて紳士的な態度を心がけることにする。
というか、もっと単純に、俺に対する竜姫さんの誤解を解いておきたい。
彼女の中で、俺という人間が、まるで野獣のような変態であるというのは、かなり耐え難い苦痛というか、悲しみだった。
「誰になにを言われたのかは、分かりませんが、どうやらその人物は、かなりの悪意を持って、俺のことをお話したのでしょうね」
俺の弁明を聞いて、朱天さんが再び凄まじい目で睨んでくるが、口を挟んだりはしてこない。どうやら彼女も、このまま自分の
まあ、そう思っているのなら、もっとしっかりと、竜姫さんのことを止めておいて欲しいのだけれども……。
「まあ、そうなのですか?」
「ええ、そうなんですよ。だから、竜姫さん、どうかご安心してお帰り……」
なんにせよ、俺はこの問題を解決するために、説得を続けようとした……、のだけれども、途中で口が止まってしまう。
いや、口だけではない。
動きも、思考も、全てが止まる、止まらざるをえない。
だって、竜姫さんってば、なんの脈絡もなく立ち上がったかと思えば、いきなり着物の帯をするりと解いて、そのまま全てを脱ごうとしてるんだもんなあ……。
いや、だもんなあ……、じゃねえよ!
「竜姫さん!」
「あっ、はい、なんでしょうか?」
あ、危ないところだった……。
なんとかギリギリ、露出してしまった彼女の華奢な肩に手を置くことで、竜姫さんの動きを制することができた。
うう、なんてすべすべなんだ……、頑張れ、頑張れ、俺の理性……。
「あ、あのですね! だから、俺は大丈夫なわけですけど! なぜにいきなり、裸になろうとしてらっしゃるのでしょうか!」
いかん、混乱している。というか、
だって、仕方ないじゃない。竜姫さんは、この着物の下に、なにも身につけていないようで、乱れた布の隙間から、その、色々と、見えてしまっているんだもの。
ええい、負けるな! 俺は我慢強い子だ! 理性的な人間なんだ!
「あっ、はい。どうやら誤解があったみたいですけれど、それはそれとして、やはり統斗さまの夜のお相手をするのは、妻となる私の役目ではないかと」
「それはそれとしてって!」
いかん、どうやら竜姫さんは、本気のようだ。
なんとかしないと、なんとかしないと、ヤバいぞ、これは!
色んな意味で! 特に、俺の理性とか!
「で、出会ったばかりの男女が、すぐにこんなことするなんて、どうかと思うな!」
「まあ、統斗さまったら。愛の深さに、時間なんて関係ありませんわ」
駄目だ! 竜姫さんは止まらない!
ああっ! そんな可憐な感じで、ふわりと正面から抱きつかれたら、彼女の体温で俺の理性が溶けて、溶けてしまう! くうっ、小さい! 可愛い! 柔らかい!
「……それとも、私じゃ、お気に召しませんか?」
「いえ、お気に召してしまいます! しまいますから、もう許して!」
ぐふっ! そんな悲しそうな瞳で、下から俺を見つめないでください! な、なんて破壊力だ! 思わず竜姫さんを抱きしめてしまったじゃないか!
俺の理性は、すでにボロボロだった。
き、気をしっかり持つんだ! なにか、なにか突破口を……!
「そ、それに、朱天さんが見てますし!」
よし、これだ! そういうプライベートな秘め事というか、愛の営みというか、裸で乳繰り合うような行為を、第三者に見られるのを嫌がるというのは、至極まっとうな感情の動き! そこを主張すれば、いくら竜姫さんといえど引かざるを……。
……って、ちょっと待ってくれ。
「そもそも、なんで朱天さんが、ここにいるんですか!」
そうだ。そうだった。もっと早くから、そこに疑問を持つべきだった。
少なくとも朱天さんは、あの竜姫さんの忠実な護衛役は、自らの主が、ここで俺を相手にして、どういう行為に及ぼうとしているのか、知っていたはずだ。
にもかかわらず、あの俺を嫌っている女傑は、一体どういう心境で、この場に待機しているというか、今にも舌をかみ切りそうな表情で、こちらのことを死んだ目で睨んでいるのだろうか。
「姫様の望みを叶えるために、貴様が逃げたりしないよう、見張る必要があるからに決まってるだろうが……!」
「いや、止めろよ! こんなことになる前に、もっと必死に止めて下さいよ! そんな今にも血の涙を流しそうなくらい嫌ならさあ!」
どうやら、朱天さん本人は、俺と竜姫さんがこんなことになるなんて、それこそ死ぬほど受け入れ難いようなのだが、主の命令ということで、逆らえないようだ。
そこまで自分を殺すとは、なんとも立派なことだと思うが、それは果たして、忠心と呼べるのか? なかなか興味深い疑問ではあるが、ぶっちゃけ、今はそんなことを考えている余裕も猶予もない!
「私、こういうことは初めてですので、統斗さまのお好きなように……」
ああああああ!
そんなに密着しないでください。柔らかい身体を押し付けないでください。良い匂いをさせないでください。愛おしそうに抱きしめないでください。嬉しそうな笑顔を見せないでください。耳元で優しく囁かないでください!
いかん! 据え膳食わぬは男の恥、みたいな呪詛が、脳内で渦巻き始めている!
俺はそろそろ、限界だった。
「ぐぎぎぎぎぎ!」
まさに鬼のような形相をした朱天さんが、歯ぎしりをして耐えているが、唸り声を上げたいのは、こちらの方だ。
いや、マジでヤバいって!
ああっ! どこの誰でもいい! この状況から逃れられるなら、俺はどんな苦しみだって、喜んで受け入れてみせるぞ!
だから、だから、誰か助けてくれ!
なんて、俺の情けない願いが、天に聞き遂げられたのかは分からないが、救いの手というやつは、本当にいきなり訪れた。
この仮眠室のドアを、蹴破って。
「統斗様! あの小娘と婚約したと聞きましたが、どういうことでしょうか!」
「なんだよー! めでたい話は、ちゃんと聞かせろよー! 寂しいだろー!」
「ワタシたちに内緒なんて~、水くさいわ~。ちゃんと~、お話聞かせて~?」
まずは、契さんと千尋さんにマリーさんという、いつもの悪の女幹部三人が、怒涛のように押し寄せてくる。
「統斗くん! ちゃんと話をしてくれないと、分からないよ!」
「ちょっと、統斗! あんた、そんな大事なこと、なに勝手に決めてるのよ!」
「
「ふふふふふふっ……、認めない……、認めない認めない認めない認めない……!」
「このバカ! アホ! マヌケ! トーヘンボク! ひかりは許さないんだから!」
さらに続いて、
狭苦しい仮眠室が、あっという間にぎゅうぎゅう詰めになってしまう。
「ちょ、ちょっと待て、みんな! どうしてそのことを……!」
「全部、統斗様のお母様からお聞きしました!」
ああ……、そうですか、そうなんですか、契さん……。
なにしてんだよ! 母さん! 本当に、なにしてんだよ! みんなには、後で俺から話すって言っておいたじゃん!
なんで全部言っちゃうんだよ! というか、絶対面白がってるだろ! 竜姫さんたちに俺の居場所を教えた後に、契さんたちにもとか、悪意しか感じないよ!
なんて、文句を言うべき相手は、ここにはいない。
ここにいるのは、色んな意味で激情に
「……あっ」
ああ、それが一体、誰の呟きだったのか、俺には分からない……。分からないが、それは呆然とした俺が、半裸の竜姫さんと抱き合っているのを見た誰かの口から
そして、阿鼻叫喚の地獄が、始まった。
一瞬だけ訪れた静寂が頼りなく吹き飛び、火山の噴火のような喧騒が巻き起こり、背筋が凍る怒号が飛び交い、殺気が
契さんたちは、再び朱天さんと対峙し、剣呑な空気を……、というか、有り体に言えば殺し合い寸前みたいな睨み合いをしているし、俺と竜姫さんは、桃花たちに揉みくちゃにされて、もうなにがなにやら分からない。分からないんだ……。
ついさっきは、この状況から逃れられるなら、どんな苦しみだって、喜んで受け入れてみせるなんて言いましたが、ごめんなさい。あれは嘘です。全部自分の身から出た錆だということは分かっていますが、これは無理です。
というか、逃れるどころか、悪化してるし! ここが地獄か!
誰か、いやマジで本当に、誰か助けて!
なんて、俺の都合のいい祈りは、どうやらまたもや、天に通じたようだった。
『おう、統斗! だからお前、ちゃんと携帯持っとるのか! 呼んどるんじゃから、さっさと出んかい! ……まあ、ええわ』
祖父ロボだ。
祖父ロボの声が、この市庁舎の館内放送として響いている。
どうやら、予想外の
これはもしかして、千載一遇のチャンスになるかもしれない。少なくとも、この混沌としすぎた現状に、一石投じる出来事であるのは、確かだろう。
ああ、しかし、決して気は抜けない。
なぜなら……。
『八咫竜から、緊急の通信が入ったぞ! そっちにおるらしいお姫様を連れて、今すぐ地下の基地まで来るんじゃ!』
救いの手にすがった先は、新たな地獄なのかもしれないのだから。
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