「わかった――なんて言うと思った?」

「え?」

 けれど翔琉は、康平の顔を覗き込むとひどく真剣な目をして言った。

「康平はおれの体がどうのって言うけど、いくらひとつのことに集中すると周りが見えなくなるおれでも、県総体から康平の様子がどこかおかしかったことくらい気づかないわけないでしょ。……ねえ、本当は、おれが速かったから迷いはじめてるんじゃないの? やっぱりおれには短距離のほうが合ってるんじゃないかとか、もっと打ち込んだら二〇〇でも勝てたんじゃないかとか、そんなふうなことを思ったり考えたりしてない?」

「……」

 翔琉があんまり悲しそうに言うものだから、康平は咄嗟の言葉を返せなかった。ただ口をパクパクするだけの康平を見て、翔琉はさらに悲しげな顔を深める。

「……やっぱ康平は素直だね。わかりやすいよ、ほんと」

「い、いや――」

「言葉に詰まったときは図星を指されたとき。それくらい、おれじゃなくてもわかる。心配してくれてるのもわかってる。確かにこれじゃあ、オーバーワークだし」

 ありがとね。

 小さな声で言って、しかし翔琉は「でも」と続けた。

「おれが本当にやりたいのは長距離。駅伝なんだよ。一度見ただけの康平に憧れて、いろいろ情報を仕入れてここまで追いかけてさ。そんでやっとのことで康平と同じ場所に立てたんだ。……おれ、康平にだけはそんなふうに思われたくなかったよ」

「……っ」

 その瞬間、康平の胸に鋭い矢を突き立てられたような痛みが走った。伝わらないもどかしさや歯痒さと、改めて突き付けられた翔琉の意志の固さに感情が一気に二分する。

 康平は翔琉の体を本気で心配している。でも、翔琉だって本気なのだ。

 たとえ県総体で一位になっても、東北大会へ行けても、康平にだけは短距離のほうが合っていると思われたくない――その気持ちが痛いほど伝わり、胸が苦しい。

 振り返ってみれば、康平が長距離をやると頷くまでの翔琉は、本当になりふり構わない様子だった。どんなに邪険にされても、真っ向から否定されても、まるでスッポンみたいにしぶとく食らいついて、こちらが根負けするくらい離れてくれなかった。どうして長距離に転向したのかや康平を誘い続ける理由を聞いて、嬉しかったし道の先に明るい光が灯ったような気がした。翔琉と一緒に走りたい。襷を繋ぎ合いたい。今までどうにもならずに押さえ込んできた〝勝ちたい〟という思いが、その瞬間、一気に膨れ上がった。

 南波の言葉を借りれば、まさに『体中の細胞が〝これだ!〟とわななく感じ』だった。

 おれのために。おれに長距離を走らせるために、全国レベルのトップスプリンターは才能の発揮場所を間違えていた自分に光を当ててくれたんだと。心の底から、そう思った。

 それがあるから、今の康平がある。

 陸部内でも長距離専門の選手は二年生にひとりだけという状況の中、それでも腐らずに練習に打ち込めているのは、翔琉との〝一緒に駅伝を走る〟という約束があるからだ。その約束を実現させるためなら、ほかのなにを犠牲にしてもいいとさえ思う。

 ――でも。

「……だからこそだ。このままじゃ翔琉はダメになるかもしれない。おれはそれが一番怖いんだよ。無理な練習を見てるだけで、いつも胸が押し潰されそうに痛いんだ」

「康平……」

 おれの気持ちもわかってくれよ。

 固い意志を見せつける翔琉に微苦笑して、康平は続ける。

「今まで翔琉は、おれのために急いで長距離用に体を作ってきた。それでも、陸部の名前が欲しくて出た県総体では百メートルで一位になった。ほんと、どんだけのものを持ってんだろうなって思う。だから、今だけは短距離だけに集中してほしいんだ。こんなことを続けてたら、本当に体がおかしくなるかもしれない。自分の体を過信しすぎちゃいけないんだ。翔琉にもしなにかあったらって考えると、おれだってやってらんない」

 本当にやっていられない気分だ。

 あくまで可能性の域は出ないし、紫帆も言っていたとおり、彼女のように突然選手生命が絶たれてしまうこともないかもしれない。でも、不安要素はできるだけ潰しておくに越したことはないと思う。今はそれが、短距離に集中してもらうことだと思う。

 あとのことは、あとで考えればいいじゃないか。

 問題を先延ばしにしているだけだが、でも、翔琉になにかあってからじゃ遅いのだ。だって未来のことは誰にもわからない。わからないからこそ、とてつもなく怖い。

 翔琉になにかあれば、嫌だと思い込もうとして、それでもどうしても好きで好きでたまらなかった陸上が今度こそ嫌いになりそうだ。それは翔琉が一番望まないことのはずで、そして翔琉自身も康平にそうさせてしまったことに深く深く傷つくことになる。翔琉のほうこそ陸上が嫌いになってしまう可能性だって大いにあるのだ。陸上に愛されていただけに、とんでもない裏切りに遭ったような、やりきれない気分になるだろう。

 ――きっと表にはおくびにも出さないだけで、足と心に大きな傷を負った彼女のように。

 せっかく見つけた仲間なのに。せっかく灯してもらった光なのに。

 それが一瞬で吹き消えてしまうかもしれないことが、康平にはただただ恐怖だった。

「……康平の気持ちはわかった。でも、おれの気持ちもわかってほしい」

 長い長い黙考の末、翔琉はたった一言それだけを言った。それからすぐに腰を上げると、尻に付いた砂粒を軽く払い落しておもむろに荷物をまとめはじめる。

 その様子をぼんやり見ていると、荷物を肩に掛けた翔琉が振り返った。

「今日はもう帰ろう。腹も減ったし、電車に乗り遅れる」

「……ああ」

 康平ももそもそと荷物をまとめ、ふたり、駅へと足を進める。

 その日の会話はそれっきりなかった。黙々と駅まで歩いて、定期を見せてホームに入ってからも。やがて線路にそれぞれの電車が滑り込み、ドアが閉まってからも。

 この日だけは、もう二度と目が合わなかった。


 それから翔琉とは、どこかギスギスした感覚が常に付きまとうようになった。磁石が反発し合うように、くっつきそうでくっつかない微妙な距離ができ、今まで翔琉に感じたことのなかった感覚が、吐き捨てたガムのように康平の胸の内側にべったりと張り付く。

 今まで順調だった歯車が突然ガタガタしはじめたような、噛み合わせの悪さ。ちょっとした気持ちのズレが生む、大きく致命的な不協和音。それに伴い、あれだけ合っていた翔琉との波長がどんどん食い違っていく確かな感覚があの日を境にずっと抜けない。

 けれど康平は、それでも言ってよかったと思った。

 今は翔琉との関係がこんな調子なので、部活後の高松の池での個人練習はなあなあのうちに取りやめとなったけれど、そのぶんオーバーワークも解消されたし、練習を見ている限りでは、本腰を入れて短距離に集中している様子を窺い知ることができた。

 ――『康平の気持ちはわかった。でも、おれの気持ちもわかってほしい』

 あれ以来、その話はお互いに避けている。タブーになっていると言い換えてもいいだろう。ただ、紫帆の言葉とあの傷のおかげで闇雲に突っ走っていた自分たちの在り方を見つめ直すことができたと思えば、それも大きなギブアンドテイクだと思う。

 のちに駅伝チームを組むため、まずは陸上部の肩書きが欲しくて自分たちで差し出せるものは差し出した県総体。ひとつ上の大会へ出場を決めた翔琉に今の康平がしてやれることは、明らかなオーバーワークを止めて体を短距離の体に研ぎ澄まさせてやれるだけの環境を提供すること。そのためなら、一時的に翔琉との仲が悪くなってもよかった。

 東北大会は、県総体から数えて三週間とあまり間がない。その次は一ヵ月半ほど空いて七月末の全国大会と、どんどんレベルが上がっていく。コンスタントに試合が組まれる中で、練習に打ち込める時間がどれほど貴重か。翔琉ならそれがよくわかるはずだ。

 翔琉が全国大会を見据えているかはわからない。でも、そうなれば、その頃には友井をはじめとする陸部のメンバーや康平も、県民大会へ出場となる。翔琉も自分たち陸部も、これからますます自分の競技に打ち込んでいかなければならない時期だ。

 詰め込めるものはなんでも詰め込み、自分の体をそれに順応させていかなければ、本番でベストなパフォーマンスなんて到底望めない。何度も全国の舞台で戦った翔琉のほうこそ、照準を合わせてピークを持ってくるやり方を知っているはずなのだから。


 *


「戸塚。おまえ、長距離はほんっと速いな。それだけの力があれば一学でも十分通用しただろうに、どうしてそっちに行かなかったんだよ。単に遠いからか?」

 六月も中旬に入り、翔琉の東北大会まであと六日と迫った部活中。校外へ出て三十分のランニングを終えた休憩中に、聖櫻では康平のほかに唯一の長距離選手である川瀬竜人かわせりゅうとが、はあはあと息を弾ませる合間にそんなことを尋ねてきた。

 序盤の後半以降、康平に置いていかれる形になった川瀬は、二年の先輩だ。県総体では予選落ちを期し、悔しい結果に終わっている。けれど自分の結果とは関係なく康平の決勝進出を喜び、八位入賞を遂げると「すげー!」と目をキラキラさせて喜んでくれた。

 気のいい先輩、というのが康平の印象で、けれど、このとおりちょっと決めつけてものを言うようなところがあるのが玉に瑕だ。その点は康平も苦笑するしかない。

「いえ。本格的に長距離をはじめたのが高校に入ってからなんで。家から近いとか遠いとか以前の問題というか。聖櫻ここだってべつに近いわけじゃないですし、どうせなら電車通学をしてみたいなーっていう軽い気持ちで入ったようなものだったんです」

「へー。じゃあ、どうして長距離をやろうと思ったわけ? まあ、やってるおれが言えるようなことじゃないけど、すっげー苦しいしつらいじゃん。そんな思いまでして長距離をやろうだなんて、なにかよっぽどの理由でもないとできないんじゃないの?」

 康平の横にどっかりと腰を下ろし、川瀬が興味津々に聞いてくる。手にはタオルと、走る前に作ったスポドリのボトルが握られている。額に滲む汗を拭いつつボトルから勢いよくドリンクを口内に噴射する川瀬は、身長百七十八センチと、一般的にも長距離ランナー的にも高身長だ。康平と同じようにして体育座りをすると足の長さが際立つ。

 ただ、その足の長さを活かしきれていないのが、なかなかタイムが縮まない原因だ。身長百六十六センチの康平より十センチ以上背が高いのに早いうちから周りの選手や康平に置いていかれてしまうのは、股関節の可動域がほかの選手と比べて狭く、どこかドタドタ走っているような格好になってしまうからだ。それさえ改善すれば、ぐんと伸びる。

 それが似内の見方で、康平もそれとほぼ同じ印象を受けている。

「よっぽどの……そうですね、駅伝、ですかね」

「駅伝?」

「やってみたいんです。個人で競うのも楽しいですけど、仲間と一緒に戦ってる実感が一番あるのって、やっぱり駅伝だと思うんですよね。襷を繋ぐわけですし、なんか、重みがあるっていうか、違うっていうか。学校を背負ってる感じ、しませんかね?」

 康平は、若干の照れくささを感じながら駅伝に感じるままを伝える。ほとんど翔琉からの受け売りだったことに遅れて気づいて、チリ、と胸が焼けるような痛みが走った。

 やや面白半分な顔をして聞いていた川瀬は、しかし康平が尋ねると「ほう」とため息混じりの声を漏らした。少し遠くを見るような目をしたので、康平もなんとなく目線を遠くする。その先には、直線トラックを使ってダッシュしている翔琉の姿があった。

 やっぱ、めちゃくちゃ速いわ……。どんだけなんだよ、と心で悪態をつきながら、

「なんていうか……これを言ったら笑われるかもしれないんですけど。駅伝に体中の細胞がわななく感じを覚えたんですよ。どうしても〝これだ!〟って思っちゃって」

 康平は、これは南波からの受け売りだと思いながら口にする。

 その南波は、今日はちょっと遠くの草野球場に練習に行っている。サッカー部とグラウンドを反面ずつ使う日や、陸部とサッカー部、野球部と陸部など、校庭は曜日ごとに持ち回りで使用できる部活が決まっているのだ。今日は陸部とサッカー部の日だ。

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