■5.ターゲットはそこにしないか 1

「先輩、この間のあれはどういう意味ですか?」

「この間って?」

「だから、高総体でおれに言ったことです。……翔琉の体がどうのって」

「ああ」

 そこまで説明してようやく顔を上げた紫帆に、康平は寸前まで出かかっていたため息をかろうじて飲み込んだ。ため息なんて先輩に対してしていい態度じゃないことくらい、康平だってよくわかっている。が、それにしても紫帆の態度も雑すぎる。

「まあ、とりあえず座ってくれる? 立ったままだと目立つから」

「……はい」

 目で促され、康平は渋々と紫帆の向かいの椅子に腰を下ろす。会議用長テーブルをふたつくっつけただけの簡素なそれは、普段からひと気のない図書室の中央に鎮座している。

 図書室には、図書委員とほかに数人の生徒がいるだけだったが、突っ立っていると確かに目立つ。パイプ椅子が軋み声を上げた音が、静かな図書室に少しだけ響いて消えた。

 自習室もあるけど、あんまり殺伐としすぎているから嫌なのよね。

 それが紫帆の言葉だった。ここへ来る前、康平もちらりと自習室の前を通ったけれど、本当にそのとおりで顔が勝手に「うげー……」となった。なるほど、殺気すら漏れ出てきそうな自習室は自分が三年になってもあまり使いたいものではないかもしれない。

「で、簡潔に言うと、戸塚君は私になにを聞きたいの?」

 ペンを置き、広げたノートや参考書の上に手を組んだ紫帆は、艶やかな黒髪を少しだけ揺らして首をかしげた。あれから数日経って、カレンダーは六月に変わった。けれど東北の梅雨入りはもう少し先で、図書室の窓から差し込む午後の陽が眩しい。

 受験生になると昼休みの時間も惜しいのだろう。まして陸部は七月末まで引退しないのだから、部活に充てるぶんの時間をどこかで補わなければならない。そのことに今さら申し訳なく思いつつも、改めて紫帆と向かい合うと、康平は単刀直入に聞いた。

「このままのことを続けてたら、翔琉の体はどうなりますか?」

 さっきはどういう意味かと聞いたが、知りたいのは翔琉の体に及ぼす影響だった。意味なら、あれからずっと考えていた。その先のことが康平は知りたい。

「ちょっとこれを見てくれる?」

 すると紫帆は、立ち上がるなり康平の隣に回り込むと、おもむろに右足を覆っていた紺色のハイソックスを足首まで下げた。こんなところでいきなりなにをするんだとギョッとしたのも束の間、康平の目は自分の意思とは関係なくそこに吸いつけられていく。

 白く細いふくらはぎの下。ハイソックスを半分脱いだ踵の上。

 ――アキレス腱のあたりに、今もまだ生々しい手術痕が現れたのだ。

「ど、どう……」

「切れたの。突然、なんの前触れもなくブチンッって、ものすごい音を立てて」

 動揺を隠せない康平の言葉を引き継ぎ、紫帆が淡々と説明する。

「こう見えて私、昔から運動神経がよかったの。小さい頃から男の子に混じって暗くなるまで走り回ってたから、小学校のクラブ活動でも迷わず陸上クラブに入ったくらい、本当に体を動かすことそのものが好きだったの。中学でも当たり前に陸部に入って、ちょっとした短距離のエースだった。そんなとき、二年の冬に中学駅伝を頼まれたの。どうしても人が足りないからって頼まれて。三キロの区間だった。三キロなんて部活で毎日走ってたし、特に長い距離でもなかったから、私ならいい順位で襷を渡せると思った。一回走るくらいなんでもないと思ったの。……でも、本番でアキレス腱が突然切れた。次の子まであと百メートルくらいのところだった。当然、それまで繋いできた襷も渡せなかったし、短距離での選手生命もそのとき絶たれて、あとは長くてつらいリハビリが待ってた」

「っ……」

「この傷を見たら、みんな同じ顔をするよ。だから今さら同情とか励ましはいらない」

 言葉を飲むことしかできない康平に、しかし紫帆はまるで他人事のように言う。声から彼女の感情が少しも読み取れず、康平は背筋にゾクリとした薄ら寒さを覚えた。

 もう過ぎたこと、運が悪かったこととして紫帆の中で決着がついているのか、ただ単に感情を読み取らせまいとしているだけなのか。康平に踵を見せているために表情がわからないから、なおさら彼女の意図する言葉の輪郭がはっきりしなかった。

 そんな康平を置いてけぼりにしたまま、すぅと息を吸い込むと紫帆は言う。

「……でも、私は考えるよ。福浦君が私みたいになる保証なんてどこにもないけど、もし大事な大会で襷を渡せなかったら。目の前で戸塚君が待ってるのに、そこまで襷を運べなかったら、福浦君はどう思うのかなって。それよりは、もともとすごい力を持ってる短距離にだけ集中したほうが、彼のためになるんじゃないのかなって」

 それから紫帆は、振り向きざまにとどめを刺す。

「私から言わせれば、欲しいものだけ手に入れたいだなんて、虫がよすぎる話なのよ。未練がましく陸部のマネージャーなんてやってるのは、オーバーワークする部員に目を光らせるためなの。私みたいに、なんでもかんでも欲しがる人を止めるためよ」

「……」

 とうとう言葉を失った康平は、窓から差し込む逆光で黒く塗り潰されたような紫帆の顔を呆然と見つめるしかなかった。なにも言葉が浮かばなくて、ただただ胸の奥が痛い。喉の奥がきゅっと締まり、溺れていくような柔らかな窒息感が康平の思考を完全に止める。

 それからどれくらい経っただろうか。

 気づくと紫帆の姿はもう図書室のどこにもなく、さっきまで勉強道具が広がっていたテーブルの上は、小さな埃の粒がキラキラ光りながら降り積もっていくだけだった。

 ふと図書室内にもチャイムの音が鳴り響き、康平は反射的に立ち上がった。のろのろと図書室の出入り口へ向かい、ひと気のない廊下を教室へと戻る。

 どうやら、すっかり固まっていた間に昼休みが終わってしまったらしい。二ヵ月経って聞き慣れてきた間延びしたチャイムは、昼休みの終わりと五時間目の予鈴だった。

 聞きたいことはもっとあったはずなのに、傷を見せられた瞬間、すべてが吹っ飛んだ。いや、見せられたからこそ、言葉以上の説得力になにも言えなかったのかもしれない。

 ――どっちにしても、翔琉と話をしなければ。それも、できるだけ早く。

 紫帆が示した〝形〟は、あまりに残酷だ。

 欲しいものだけ手に入れようとしていたら、こんなことになる。

 これ以上ない衝撃と説得力をもって、それが康平の中に突き刺さった。


「……あれ? 康平は今日はもう走らないの?」

 その日の部活後、いつものようにふたりで高松の池へ向かうと、すでにTシャツ姿になっている翔琉が不思議そうに尋ねてきた。足には長距離用シューズ。足首や太もも、ふくらはぎのストレッチも万全で、早く走りたくてウズウズしている様子が簡単に窺える。

「ごめん、ちょっともう一回ストレッチしながら聞いてほしいんだけど」

「うん?」

「大きな大会の前なんだし、短距離にだけ集中したほうがよくないか?」

 アスファルトに無造作に投げ出された、スポーツバッグからのぞく翔琉の短距離シューズにちらと目をやると、康平は言われたとおりストレッチを再開した翔琉に向き直った。

 あれから翔琉から聞いた話では、東北大会へは出ることにしたらしい。似内が人払いをしてまで説得するまでもなく、翔琉本人がすぐに「出ます」と一声上げたそうだ。

 もしかしたら長距離に集中したいと言うかもしれないと思っていたらしい似内は、途端に拍子抜けし「……あ、ああ」なんて面食らった様子で頭を掻いたそうだ。翔琉はその様子を康平にも見せたかったと面白おかしく話して聞かせ、しかしスッと表情を変えると、

「でも目標は駅伝だから。それまで待ってて」

 白い歯を見せてニッと笑った。

 そうして東北大会の練習がはじまった翔琉は、部活中は短距離に集中し、そのあと康平とともにこっそり長距離の練習をするのが毎日のこととなった。場所は言わずもがな、地理的にもコース的にももってこいの高松の池の遊歩道だ。電車の時間を遅らせて一時間ほど走り込みながら、翔琉は二足の草鞋を上手く履きこなそうとしている。

「……え、待ってよどういうこと?」

 途端に翔琉の声に緊張が走った。顔は笑っているが、ストレッチが止まっている。

 それに気づかないふりをして、康平は続けた。

「どうもこうも、オーバーワーク気味だろ。翔琉だって東北大会でいい成績を残したいだろ? だから今は短距離に集中したほうがいいと思うんだ。あくまで目標は駅伝の大会に出ることだけど、その前に体を壊すようなことになれば、翔琉だって悔しいだろ」

 言いながら、紫帆に言われたことをそっくりそのまま繰り返している自分に反吐が出そうだった。おれには自分の〝言葉〟ってもんがないのかよ。そう思うとひどくもどかしい。

 けれど、悔しいが紫帆の言っていることはひどく正論で、あんな傷を見せられてしまっては、今はただただ翔琉の体のことだけが心配でならなかった。

 それでなくても、こんなことは明らかなオーバーワークだ。しかも体の作り方からなにから違う両極端な競技のために、ひとつしかない体を二分割するようなことは、できるだけさせられない。紫帆の目が届かないところでなら、なにをやってもいいというわけではないのだ、けっして。翔琉のオーバーワークを止められるのは、今は康平しかいない。

「それはそうだけど……え、どうしたの、この間からなんか変だよ、康平」

 気が削がれたらしく、ふぅと息を吐くと翔琉は近くに投げ捨てていたジャージを羽織る。

 部活後はそのまま陸部のジャージを着て電車に乗るのが常だった。たいていの部員は律義に着替えていくけれど、電車に乗って家まで帰るだけなのにと思うと、康平も翔琉もあまり着替えの必要性を感じなかったし、正直ジャージのほうが動きやすかった。

 顎までファスナーを上げた翔琉を一瞥し、康平もふぅと息を吐く。

 友井にも言われている。ケンカはしてはいけない。ケンカになるためにこんな話をしているわけではないのだ。ここまで言っているのにわからないやつだな、と若干湧いてくる苛立ちにも似た感情を抑え込むように、康平は口の中に残った空気を飲み込む。

「変っていうか、おれはただ、翔琉の体が心配なだけだ。ほかに意味はない」

「でも、話しかけても上の空だし、あんまり県総体のことは話したくなさそうじゃん」

「それは、まだ疲れを引きずってるからだって。体力的にはもう回復したけど、今まで一度も大会に出たことがなかったんだ、しばらくは腑抜けになっちゃうだろ」

 紫帆に図星を指されたから。あの傷を見せられたから。とどめの一言を食らったから。もっともらしい躱し文句を並べて、翔琉と約束した駅伝に今だけ消極的になっているだけだと自分に言い聞かせる。翔琉が何事もなく無事に東北大会を終えてくれさえすれば、この迷いも不安も一気に晴れる。晴れてくれると、そう思いたい自分を奮い立たせる。

「そっか。だったらいいんだ、おれも初めて大会に出たときはそうだったし」

「だろ? で、さっきの話に戻すけど。体を壊したら元も子もないのは、翔琉が一番よくわかってるはずなんだ。だから、長距離の練習はひとまず休んだほうがいいと思う」

 やっぱり翔琉もそうだったのかと笑って、康平は強引に話を戻す。

 紫帆の足のことは、とうてい翔琉には言えなかった。いくら相手が翔琉だからって、無闇に言えるようなことではないと思う。それに、自分にだから紫帆はあの傷を見せてくれたのだと思った。翔琉の一番身近な存在として、その抑止力になれるように。

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