「あら、相変わらず早いね、ふたりとも」

 そんなときに限って、顔を合わせずらい人が現れる。

「お疲れ様です」

「……お疲れっす」

「もしかして、けっこう待った? ごめんね、今鍵開けるから」

 そう言って小走りに駆け寄ってくるのは、康平の胸を搔き乱した紫帆だった。どうやら今日の鍵当番は彼女だったらしい。康平たちの前まで来た紫帆からは、彼女が起こした風圧で、ふわりと女子らしい甘い香りがした。俯いて鍵穴に鍵を差し込むときに耳にかけたセミロングの黒髪がはらりと頬にかかり、その白く小さな横顔を難なく隠す。

 顔は間違いなく綺麗系に入る。下ろした髪と、やや長めの前髪の奥にある瞳は涼やかな印象で、少し大きめの赤のフレーム眼鏡も、どこかほかの女子にはない魅力がある。

 なのに少しも心がときめかないのは、康平だけに言ったあの台詞と、なにを考えているかわからない節があるからだ。部長だって紫帆には逆らえないと聞くけれど、けしてそれだけではない一種独特の空気感が、常に彼女の周りを覆っている。

 まだ制服姿のところを見ると、鍵だけ開けに来たのかもしれない。陸部の部室は、女子部員がいないこともあって男子専用と化している。けれど、どうか今日はこのまま部活に出ないでほしいと康平は思う。きっと紫帆なら、康平がどんなに平静を装っていても、様子が普段と違っていることを目ざとく見つけるだろう。でも、気づいていながらなにも言わないのだ。それはべつに構わないが、今はその目で見ないでほしい。

「いえ、それほど待ってないですよ。けど、今も制服ってことは、今日はまだこれからなにかあるんですか? 鍵だけ開けに来たんなら、なんか逆にすみません」

「ああううん、今日は私が当番だから、それはべつに。ちょっとこれから塾があるの。ほかのみんなはそろそろ来ると思うし、部長にも言ってあるから」

「あ、そうなんですね。うわー、受験生っぽい」

「ぽいじゃなくて、正真正銘、受験生だから」

「ははは、そうでした」

「本当はまだまだ部活がしたいんだけどね。こればっかりは、どうしようもないよ」

 翔琉と紫帆の会話がなんだか遠い。傍目には先輩後輩のなんでもない会話なのに、紫帆がなにを考えているかわからないところがあるぶん、康平はどうも身構えてしまう。

「じゃあ、私はこれで。福浦君も戸塚君も、練習頑張って」

「先輩も。塾、頑張ってくださいね」

「まあ、ほどほどに頑張るよ。鍵は部長に直接渡しておくから」

「はい」

 そうして紫帆は軽く片手を上げて去っていく。右手に握られた鍵が制服のポケットに入れられる瞬間、小さくカチャリと金属同士がこすれ合う音がした。

 なんでもない音。普段からよく聞く音なのに、やけに冷たく聞こえるのは気のせいだろうか。その目で見られたくないのに、行ってしまうと妙に拍子抜けする。塾があるのは本当だろうけれど、それさえも紫帆の計算に思えて康平の胸は搔き乱されていく。

 一体なんなんだよ、あの人……。

 そう思ったところで、唐突に「こーへー」と肩に腕を回された。妙に馴れ馴れしく、それでいて、からかってやる気満々の翔琉の口調に嫌な予感しかしない。

「紫帆さんが来てから急に黙っちゃって。もしかしなくても好きなんだろー?」

「はぁ? んなわけないだろ。ちょっと考えごとをしてただけだっつの」

「うっそだぁ。どう声をかけたら気が引けるんだ、みたいな顔してたよー? おれと康平の仲じゃん、相談に乗れることもあるかもしんないし、とっとと白状しちゃいなよー」

 その予感は見事に当たり、翔琉に盛大に茶化される。

 ほんっと、どいつもこいつも人の気を知らないで……。てか、どんな仲だっつの。

 知り合って二ヵ月弱。その間の時間は、何年ぶんもの時間をぎゅっと押し固めたように濃密なものだったのは言うまでもない。ただ、翔琉に恋愛相談をしている自分の姿があまりにも想像できなさすぎて、康平は早々に途方に暮れてしまう。

 それだけ部活に集中できている証だと捉えたらいいのか。それとも、健全な男子高校生としてどうなんだろう?と疑問視すればいいのか。……よくわからない。

 そしてそれは、向こうにも言える。翔琉が本気で恋愛相談をしてくる場面が見事に想像できない。モテるかモテないかと言われれば、背も高く、その人懐っこさからモテるだろうし、顔だっていい。聞いたことはないが、付き合ったことくらいあるかもしれない。

 ただ、本気で相談を持ち掛けてくる翔琉ともども、相談を受ける自分の姿が想像できない。恋愛相談ができる仲って、どんな仲だ? 少なくとも、今の康平には遠い遠い話だ。

「……あれ、マジで怒った?」

「いや。でも、万が一そうだったとしても、絶対に翔琉には相談しない。こうやって茶化されるのが目に見えてるうちは、おれだって人を選ぶぞ」

「うわ、ごめんー。で、結局どっちなの?」

「知るかバカ。……ったく。そんなことばっか考えてる暇があるなら、ちゃっちゃと着替えて走りに行ったほうが全然いいだろ。普段は藤沢先輩がしてくれるけど、器具の準備とかスポドリの準備とか、今日は一年が率先してやんなきゃなんないんだから」

 ちゃっかり話を戻してくる翔琉をばっさり切り捨て、康平はロッカーに荷物を詰め込みバサバサと制服を脱いでいく。そんな康平に翔琉は「ちぇー」なんて言ってちんたらロッカーの前に立つが、本当にそうだ。今日はいつにも増して一年の仕事が多い。

 少人数に加え、マネージャーは紫帆ひとり。全員で協力し合ってハードルや高跳びのマットにポールなどを運ぶ光景が聖櫻陸上部ではよく見られる。でも、だからといって一年生が率先してやらない理由はない。なにも無駄話とまでは言わないけれど、まったく想像できないことで話を長引かせるくらいなら、さっさとグラウンドに出たかった。

 ……けして痩せ我慢とか、そういうんじゃない。

 そうこうしていると、徐々に部室に人が集まりはじめた。まだ制服の部員もいる中、そう経たずに最後に顔を出した似内によって、今日は部活前ミーティングが行われる。

 話は県高総体についてのことに終始し、百メートル走で東北大会への出場権を得た翔琉だけが部室に残され、あとは各々練習をはじめろ、ということだった。

 結局、部活前になにも準備できなかった。ぞろぞろと部室をあとにしてく中、康平は友井の横に並び、そのことを詫びる。翔琉が変な勘違いをしたおかげで時間を食った。

「おまえ、大丈夫か?」

 しかし、まったく脈絡もなく聞かれ、康平は咄嗟の言葉に詰まってしまった。

「あの、どういう……」

「なんか、めっちゃ思い詰めた顔になってる。福浦の体のこと、紫帆からなんか言われたりしたんじゃないの? あいつ、言い方ってもんを考えないところがあるから」

 なんとか声を絞り出すと、友井は苦笑しつつ声を潜めた。

「そんな顔すんなよ、べつに取って食おうなんて思ってないし。でも、もし気になることを言われてたんだとしたら、部長としてフォローは入れておくべきかと思って。紫帆と戸塚と、両方にさ。……高総体のときの福浦、やっぱすごかったし。つい数週間前まで高松の池の周りを走ってたやつのできることじゃないよ。それで東北大会だもんよ、一体福浦はどんだけのものを持ってんだろうなぁ。くっそ羨ましくてなんねーわ」

「……っ」

 見ていたわけではないだろう。まして、康平にだけ聞こえるように潜めた声が、少し離れた場所にいた友井の耳にも入ったというわけでは。けれど、まるで近くで見聞きしていたかのような的確な指摘に、康平は従順に動揺してしまう。頬がピクリと痙攣し、心臓がドクドクと早鐘を打った。笑顔も上手く作れず、ぐっと押し黙ってしまう。

 ――東北大会。

 八位入賞を果たした康平や、友井を含めたその他の部員は、他校の選手に埋もれ残念ながら上の大会へ進めるだけの成績は残せなかった。当然、国体に召集されることもない。

 普通なら三年生は受験に専念するためにここで引退となるのだが、聖櫻陸上部では七月末の県民体育大会まで競技を続けてから引退するのが通例になっているという。

 もちろん、県民大会への参加は強制じゃない。でも毎年、三年生の全員が七月末まで引退を伸ばすらしい。今年の三年生も、マネージャーの紫帆を含めた全員が最後の大会に県民大会を選んだ。だから今日も陸部は少人数ながらそれなりに騒がしい。

 確かに五月で引退するにはあまりに早すぎる幕引きだ。だって二年、競技に打ち込んできたのだ。まだまだやり残したこと、消化しきれていないことがあって当然だと思う。康平にはまだわからない青春の積み重ねが、きっとそこにはあるのだろうから。

 そんな中、翔琉は順当に決勝まで勝ち残り、東北大会への出場枠を手に入れた。

あれからずっと胸の中に爆弾を抱えたような気持ちの康平のことなど知らずに、半年ぶりの本格的な短距離にも関わらず、一位でゴールラインを駆け抜けたのだ。

 二百メートルのほうは、決勝まで進んだものの中盤でやや失速してしまい、振るわずだったが、それでも翔琉の実力は誰の目から見てもすごいものとして映るには十分だった。

 ふと翔琉の様子が気になった康平は、部室のドアを振り返る。途端に胸と口の中に苦いものが広がり、そのドアの中にいる翔琉から目を逸らすように俯いた。

 見えているわけがないのに。どういうわけか翔琉の視線を感じるような気がして。

「まあ、話くらいは聞いてやれると思うから。どうにもなんなくなる前に吐き出しておくのも、ひとつの手だと思う。ただし、間違ってもケンカすんじゃねーぞ」

 無言の康平に再び苦笑すると、二年に呼ばれた友井は「おう」と駆け出してく。

 けれど康平は、しばらくその場から動けなかった。いろいろなことが頭の中を駆け足で渦巻き、コンクリートの地面にずぶずぶと沈んでいくように足が動かなかった。

 似内がわざわざ人払いをしてまで翔琉と話をするのは、康平と翔琉の入部があくまで『駅伝』のためだと知っているからだ。友井と紫帆が今もなお話を止めてくれているおかげで、ほかの部員たちはまだそのことを知らないけれど。これで聖櫻が唯一得た東北大会への切符を翔琉が破り捨てるようなことがあれば……さすがの似内や友井、紫帆でも、理由を知らない部員がどう思うか、想像に容易いかもしれない。

 自分たちなら、なにを言われても構わない。それだけのことをしている自覚を持って陸部に入ったのだから、どんなに言われても受け止める覚悟しかない。ただ、あらかじめ知っていた三人に火の粉が降りかかるようなことだけは、どうしても避けたい。

 ――おれたちは最初から間違ってたのかな。

「あの一言さえなければ……」

 そうやって紫帆に責任を押し付けてみたところで、お門違いなのは最初からわかっているだけに虚しさしか残らなかった。次の瞬間には紫帆への罪悪感が雪玉のように膨れ上がり、それもまた康平の胸を重く苦く、どんよりとした気持ちに落ち込ませていく。

 ……本当にどうしたらいいのだろうか?

 新たに浮上した問題に、康平はしばらく、その場に立ち竦むしかなかった。

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