*


 それからの康平たちは、約二週間後に迫った県高校総体に向けて急ピッチで調整をはじめた。案の定、あれだけ断っておきながらのこのこ陸部に入ってきた康平と翔琉への風当たりは冷ややかなものがあり、言葉にしないまでもあまりよく思われていないことをひしひしと感じることとなった。同じ一年生部員からも遠巻きに見られるほどで、これから一緒にやっていく仲なのにと思うと、さすがに少々ヘコまざるを得なかった。

 だが、入部の本当の理由が〝駅伝をするため〟なのだから、それも仕方がない。

 そのことを知っているのは、顧問の似内。部長にだけは翔琉もあらかじめ短距離には戻らない理由を正直に話していたらしい、友井一馬ともいかずま。それに「ちゃんとした理由を教えてくれないと学校ジャージで出させるわよ」と目を眇めて理由を問いただしてきた、三年マネージャーの藤沢紫帆ふじさわしほ(聞いたところによると彼女には部長だって逆らえないそうだ。自分たちがあっさり理由を話してしまったのも頷ける)の三人だ。

 三人とも、それぞれ思うところがあるのか、ほかの部員には口外しないと言う。打ち明けるならふたりのタイミングで、というわけで、常に後ろめたさが付いて回る。

 特に紫帆なんて部活前の全体ミーティングで議題に取り上げそうなものだったが、いまだ沈黙は破られていない。そのことをありがたいと思う反面、無言のプレッシャーのように思えて無性に落ち着かないのも本当だった。早く打ち明けるに越したことはないのは、康平や翔琉のほうこそ十分にわかっている。けれど、高総体前という時期的問題が康平たちに二の足を踏ませた。〝それぞれ結果を出してからでも〟遅くはないと。

「まあせいぜい頑張れよ」とは、似内の台詞。

「じゃあおれらも、おまえらを利用させてもらう」は、友井一馬。

「あんたたちバカなの?」は、紫帆からもらった言葉だ。

 あの「バカなの?」にはどんな意味が込められているのだろうか? ともかく、彼女のおかげでチームジャージとユニホームが間に合ったことは、感謝してもしきれない。

 けれど、それでなくても駆け込み入部によるその他の部員の心証が最初から悪い中でのスタートは、印象を良くするために多くの時間と労力を必要とする。ましてこちらは、まだ明かせない事情を抱えているのだ。県高総体に出る目的以外になにか別の目的があって入部したんじゃないかと思わせる不自然さは、一朝一夕で払拭できるわけもない。

 それでも康平たちは、がむしゃらに体を仕上げるしかなかった。特に翔琉は半年以上、短距離から遠ざかっていたために、走り込む本数は半端な数ではない。

 幸いだったのは、まだ隆々としている太ももやふくらはぎの筋肉だろう。確かに長距離ランナーも足の筋肉はなによりも重要だが、短距離はそこに瞬発力もプラスされる。

 長距離向きに傾いてきていた体に瞬発力を取り戻させるには、短いランを何本も何本も走り込んで〝短距離の走り方〟を体に思い出させなければならない。したがって、部活後も街灯が灯る高松の池で翔琉の調整に遅くまで付き合う日々が大会直前まで続いた。


「よし。だいぶ体も仕上がったし、いっちょ走ってくる」

「おう」

 そうして迎えた県高総体、百メートル走予選。力強い言葉を残して招集所へ向かう翔琉の背中を、康平は頼もしい思いで見つめながら軽く押して送り出した。

 午後からは、康平が出場する五千メートルの予選だ。二組に分かれてレースが組まれ、一組には三十人、康平がエントリーされた二組には二十八人の出場が予定されている。翌日の決勝は十八人で争われ、そこに残るためには最低でも予選を十六分半で走りきることが絶対条件だ。去年の結果を見ると、長距離に力を入れ、毎年、全国高校駅伝へ出場している一関学園のトップ選手などは十五分を切るタイムを決勝で出している。

 ――でも、いける。翔琉もおれも、いける。

 康平は自分の太ももをジャージの上から軽くさすると、ぐっと顔を上げた。

 五月最終週の金土日を使って行われるこの大会は、いわゆる東北大会や全国大会の予選会という位置づけだ。だが、康平たちの目的はあくまで駅伝である。お互いに戦うフィールドは違っても、いい成績を残してそれの足掛かりにするのが最終目標だ。

 とかく康平においては、他校の選手がどれだけの実力かを肌で感じ、翔琉へフィードバックするという目的もある。だから予選突破は最低ラインだ。目標は高く、決勝でトップグループに入ること。そうやって実際に戦ってみてこそ、自分たちに足りないものを見つけ、どんな練習をしたらそれを補えるかを経験させてもらう、というわけである。

「そろそろスタートね」

 揃いのチームジャージを着た紫帆が、誰にともなく緊張が孕んだ声を空気に乗せた。

 白地に肩から腕にかけて桜色の太いラインが入ったそれは、紫帆みたいな女子が着てこそ様になる。けれど、ひとたび脱げば打って変わって紺碧色に染め上げられたユニホームは、なかなかに雄々しく、中に着込んでいるだけで自然と背筋がしゃんと伸びる。

「部活のあともふたりで練習してたみたいだけど、実際、どうなの? もしここで全国でもトップクラスのタイムが出たら、結局福浦君は二足の草鞋わらじを履くことになる。聖櫻陸上部うちとしては学校の知名度をぐんと上げてくれるような選手がいるのはありがたい話だけど、いつまでもそんなことを続けてたら、身体的にはどうなのかな」

 すると、康平にしか聞こえないように紫帆が言う。

「えっ」

 はっと目を引くほど青く染め上げられた聖櫻のユニホームに身を包んだ翔琉に目が吸い寄せられていた康平は、数瞬遅れて紫帆の横顔に目を移す。しかし紫帆は、スタートラインに立ち、軽くジャンプしている翔琉から目を離すことはなかった。

 ――このままだったら、翔琉になにか起こる……?

 不穏な空気さえ感じさせる発言に、康平の胸は否応なしにざわつく。

 けれど翔琉は、その組を一位で走り抜け、順当に準決勝へと駒を進めた。しばらくして戻ってきた翔琉に「次は康平だな」と言われても、康平は生返事しかできなかった。


 *


「で、やっぱトップは違う? ペース配分とか、ラストのスパートとか、実際に感じてみてどうだった? いろいろと参考になったでしょ、おれにも教えてよ」

 県高総体が終わり、一日の部活休みを経た火曜日の放課後。陸上部の部室前で鍵当番の三年生がやってくるのを待ちながら、翔琉が弾んだ声で康平に尋ねた。

 鍵は部長、副部長、マネージャーの三人で管理するそうだ。自分たちの代は合計五人、マネージャーは今のところいないので、もしかしたら全員で管理することになるかもしれない。勢い込む翔琉から若干身を引きつつ、康平は部活棟が並ぶプレハブ小屋の通路の先に早く誰か現れてくれないかと思う。掃除が終わるとすぐ、転がるようにして翔琉にここまで連れてこられたが、なにもそんなに急がなくても部活も部室も逃げない。

 翔琉の予選前、紫帆に変なことを言われたものの、康平は五千メートルの予選を通り、翌日の決勝に駒を進めた。右も左もわからない中での初の試合でも八位入賞という好成績を収めることができ、タイムも十五分二十七秒ほどと、いいものだった。

 予選よりかなりハイペースで進む試合展開に取りこぼされることなくついていけたのは、自分でも大きな収穫だったと思う。ほとんど独学の状態で臨んだにも関わらず、それなりに通用することがわかった初試合は、確かな手応えとともに実り多いものとなった。

 初めての試合で入賞なんてすげーじゃん、というのが翔琉の見方で、顧問の似内やほかの部員たちも、予想していたよりずっといいタイムと順位でゴールした康平を見る目が明らかに変わったのを肌で感じる。もともと層が薄かった聖櫻の長距離での入賞は康平が初めてだったそうだから、それもひとつの大きな要因だったといえるだろう。

 そうして翔琉ともども、康平は一気に聖櫻陸上部に溶け込んだのだった。

 ただ――。

『いつまでもそんなことを続けてたら、身体的にはどうなのかな』

 紫帆のその一言が、どうにも頭にこびりついて離れてくれなかった。

 おれたちは間違っているんだろうか? 試合中も前を走る選手に食らいついていくので精いっぱいで、確かに無心で前を追っていたはずだったのに。ふと気づけば、いつの間にか紫帆のその一言ばかりを悶々と気にしてしまっている自分がいた。

「……康平? どうしたの、初試合の緊張から解放されて魂抜けちゃった?」

「あ、いや。……悪い、なんだっけ?」

「だから、実際に一学いちがくの選手やほかの選手と走って、どんな違いがあったか聞いてんの。康平にしかわかんないでしょ、そういうの。すぐに聞きたかったけど、疲れてるっていうから今日まで我慢して待ってたんだよ。そろそろ教えてくれたっていいじゃんか」

「あ、ああ。そっか、そうだったな。ええと、まず――」

 現実に呼び戻され、せがむ翔琉に気づいたことを話している今も、紫帆の不穏とも意味ありげとも取れるあの発言が、康平の頭の中心にうざいくらいに居座り続けている。

 確かに、一学――一関いちのせき学園の選手は群を抜いてすごかった。あそこは長距離のエリートが集まるところで、悔しいが県内に右に出る者はいない。逆を言うと、一学にしか粒の揃った長距離選手が集まらないということだ。もっとも、誰だってレベルの高いところで自分の実力を磨きたいに決まっているのだから、長距離を志す者、駅伝や、ひいてはマラソンも視野に入れている者などは、スポーツ推薦、一般入学問わず、一学の名に誘われるようにして集まっていく。それが長年に渡って名を押し上げてきた名門というものだ。

 翔琉に言われたとおり、疲れているのは本当だった。体よりも、初めての試合の緊張で精神的な疲労がものすごい。でも、結果的に少し嘘をついてしまったことは否めない。

 どうしてだか、紫帆の発言に雷に打たれたような気分だったのだ。過敏になりすぎているだけかもしれないけれど、どうしてもすぐに試合の話をできる気分ではなかった。

「じゃあ、一学の人と情報交換とかしてみた? 聖櫻から入賞する選手が出たんだから、みんな『おっ?』って思ったと思うんだよね。中学時代は無名だったわけだし、誰だこいつってなったと思うんだよ。それに実際、顔を広めるのは大事だよ。練習方法もそうだけど、食べ物だったり体のケアだったり、おれたちじゃ考えつかなかったところにまで気を配ってるかもしれない。特におれなんて、まだまだ短距離の体だからさ。すぐには無理でも、徐々に長距離の体を作っていくために必要なことはなんでも吸収したいんだ」

 そんな康平を知ってか知らずか……いや、ひとつのことに目覚めると周りが見えなくなるタチの翔琉は、まったく気づく様子もないままに、さらに前のめりになる。

「あ、ごめん。そういうの、ちっとも考えてなかった」

「マジでかぁー……」

「そんなあからさまに落胆すんなよ。だから、ごめんって」

「いや、おれも最初に言っておけばよかったんだよなー。ごめん、康平が初めて試合で走る姿が見られると思うと、とにかく興奮しちゃって。そこまで頭回ってなかったわ」

「……」

 心底嬉しそうに笑う翔琉に、またひとつ、言葉にするには難しい、もやりとしたものが康平の胸の内側に溜まっていく。この話をすれば、きっと蒸し返すことになるだろう。でも、翔琉にとって駅伝は、二足の草鞋を履かせてまでさせていいものなのだろうかという迷いは、康平の中で日に日に大きくなっていくような気がしてならないのだ。

 紫帆に言われただけで、と思う自分もいる。けれどそれと同じくらい、体の作り方が両極端なことをこのまま続けさせてもいいのだろうかと翔琉を案じる気持ちもある。

 なにより、紫帆に言われて初めて気づいた自分が悔しい。翔琉なら二足の草鞋を上手く履きこなせると無条件に信じていた数日前から、康平はずっと自分が腹立たしい。

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