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「うん。めちゃくちゃ言われることは覚悟の上だよ。でも、強く断れなくて困ってるときに康平が言ってくれたんじゃん。『こいつは〝北園中の福浦翔琉〟とか〝あの福浦翔琉〟って言われるのが嫌なんです』って。あの言葉ですっごい楽になったんだよ、康平は本当の意味でおれのことをわかってくれてるんだーって。それがあれば、どんなに嫌味を言われたり白い目で見られたりしても、陸部でやっていけると思うんだよね」
「……ははっ。どの口がそれを言うって感じだけどな」
「いや。康平のその言葉だけで本当に十分なんだよ、おれは」
けれど翔琉は、康平が無理に茶化そうとしても、まったく動じなかった。どうやら今は康平に断られ続けてもしつこく食い下がってきていた、あの気の強い翔琉らしい。
一体こいつの切り替わりスイッチはいつ発動するんだ……。つい今まで全然翔琉らしくなかったのに、すっと前を見るその横顔は、覚悟を決めたようでもあった。
「それに、ぐじぐじ言われるのは康平も同じだと思うんだよね」
「は? なんでだよ?」
「だって、康平が啖呵を切った相手って、陸部の部長だもん。おれ、よく部長を前にあんな気の強いことが言えるなーってヒヤヒヤしたよ。男の中の男だねえ、康平は」
「はぁ⁉」
嘘だろ……。いたずらが成功した子供のようにニシシと白い歯を見せる翔琉とは対照的に、康平は次の瞬間には深いため息をつきながら頭を抱え天を仰いでいた。
勧誘しに来る先輩たちの中でもよく見る顔だったので、単純に短距離チームのリーダーだと思っていたのだが、まさか部長直々に何度も翔琉のところへ足を運んでいたとは。
でもよく考えれば、どうしても翔琉が陸部に欲しいなら部長が勧誘するのは当たり前のことだ。あのときは翔琉の盾になることで夢中だったが、よく見る顔だと気づいた時点で部長なんじゃないかと疑うべきだったのかもしれない。今となってはもう遅いけれど。
そこで康平は、はたと気づく。
「もしかして、おれが啖呵を切ったあとからぱったり勧誘に来なくなったのって……」
「だろうね。部長自ら正面きって断られたからだろうね。しかも本人じゃないやつから」
「なんてこったよ! それじゃあおれも、めちゃくちゃ心証が悪いじゃねーか!」
「だからさっきから言ってるでしょ。ぐじぐじ言われるのは康平も同じだって」
「あああ……」
もはや口から出る声が言葉の形を成さない。もし仮に、どうにもならなくなって陸部の門を叩くとしても、ふたりとも心証が悪ければ完全に浮きまくりだろう。
もちろんあの啖呵に後悔はないが、考えなしだったとは思う。こんなにも上手くいかないなんて思いもよらなかった今においては、なおさらと言うほかない。
「嫌だ! おれは絶対、あの部長がいる陸部になんて入らない!」
しかし康平は、途端に声を大きくして弱気を払うように頭を振った。
「えっ、いきなりどうしたの」
びくっとした翔琉が、隣でパチパチと目をしばたたく。
「だって、簡単に言っちまえば、部長たち陸部は翔琉を〝商品〟みたいに思ってるんじゃねーか。おまえの名前で学校の名を上げたいだけだ。だからあんな一生懸命、陸部に入ってくれって誘ってたんだよ。……まあ、それだけのために翔琉が欲しいって言ってるわけではないとは思う。けど。おまえが陸部に利用されるみたいで嫌なんだよ、おれは。ギブアンドテイクとは言うけど、こっちから出すギブが大きいだろ、ギブギブだろ」
康平は、今まで溜めていた鬱憤を晴らすように一息で言う。
翔琉がいれば確かに聖櫻は強くなるだろう。あの福浦翔琉は聖櫻に行ったんだと、ほかの学校からも一目置かれるようになる。けれど康平には、それがどうしても翔琉を商品扱いしているように思えてならない。どれだけの思いで長距離に転向したかが骨身に染みてわかっている康平には、翔琉の名前につられているように見えてならないのだ。
その疑惑を持っている以上、陸部には入りたくない。
想像すればすぐにわかる。聖櫻に翔琉が入ったと知って、陸部の人たちは一気に色めき立ったはずだ。けれども一転、本人も入部届もなかなか来なくて焦ったはずだ。
たった一つの競技でも、全国クラスの選手がいるのといないのとでは全然違う。周りが持つ聖櫻のイメージだったり、自分たちのモチベーションだったり、翔琉がいることで来年度以降の部員に強い選手が入ってきたり。翔琉の名前は多方面で効果絶大だ。
「うーん、そう言ってくれるのはありがたいけど、そこまで思ってないんじゃないかな」
「なんでそう言い切れるんだよ」
あっけらかんと言う翔琉に、苛立ちが募る。言い換えれば、まるで他人事のような翔琉が、ちょっと許せない。自分のことなんだから、もう少し本気で捉えてもいいのに。
これだけおれがおまえのために怒ってやってるのに、なんていう恩着せがましいことは少しも思っていないが、他人行儀にも聞こえる言い方が解せないのも確かだ。
けれどそれは、次の一言でなんとなく想像がついた。
「だっておれ、慣れてるし。康平さえわかってくれてれば、おれはそれでいい」
「おまえ……」
「それに、どうせ先輩たちだって遅かれ早かれ気づくんだ。おれの名前が効果あるのは、せいぜい東北大会まで。全国では取り立てて目立つ選手じゃないって気づけば、なおさら自分との差にどうしようもなくなったりするんだよ。それだったら、初めから違う土俵であれこれ言われたほうがいい。そこまで思ってないってのは、そういうことだよ」
「……」
翔琉の持つ闇に触れたような気がして、康平は言葉に詰まる。
きっとそれは、翔琉自身では自分の名前がひとり歩きしてしまっていることを止められなかったという意味だろう。慣れているということは、そのうち諦めたということだ。
それでも翔琉は、どうしても康平を陸上に、長距離の世界に連れ出したかった。じゃなかったら、体を一から作り直してまで、わざわざこんなにも手の込んだことはしない。
でも、もうひとつ。翔琉は逃げたかったのかもしれない。
直接的な言葉は使わなかったが、複雑な上下関係に苦しんできたことを想像させるには十分な言い回しだ。あるいは、同級生の間でもそうだったのかもしれない。
そういえば、初めて声をかけられた日に翔琉は言っていた。
――お互い、陸上が嫌いになる前に一花咲かせよう。
あのときは鼻で笑って真っ向から否定したが、こんなふうにある程度の事情が察せた今なら、その言葉の意味がよくわかる。もしかしたら翔琉は、短距離に未練がないというより、陸上そのものが嫌になりかけていたのかもしれない。三年間、一度も試合に出たことがなかった康平と、途中入部してからずっと試合に出続けていた翔琉と。立場は違うが、先輩後輩や同級生との関係でも複雑な気持ちを味わったのは、ふたりとも一緒だ。
なんにせよ、違う土俵であれこれ言われるほうがいいという気持ちは、あれだけ短距離にこだわっていたのに高校に入って長距離をはじめた康平にも、胸に苦いものを呼び起こすには十分だった。境江二中の連中が今の康平を見てどう思うかなんて、考えたくない。
「……じゃあ、どうすんだよ」
苦々しげに微苦笑する翔琉にどう言ったらいいかわからず、結局、話が一周してしまった。そんなもんに慣れるなよ。そんな台詞も喉の奥にせり上がってきていたが、慣れたくて慣れたわけではないし、諦めたくて諦めたわけでもないことはわかりきっていた。気休めにもならない台詞を吐くくらいなら、これからのことに目を向けたほうがいい。
翔琉もそれをわかったようで、うんと頷くと言う。
「それをもう少しふたりでよく考えようよ。できるだけ感情は抜きにして、ビジネスライクに。利用できるものは利用しないとっていうのは、きっとそういうことだと思うんだよね。陸部側は短距離におれの足と名前が欲しい。おれらは駅伝をするために必要な人と指導者、それに陸部の名前が欲しい。圧倒的におれらの要求のほうが多いんだ。欲しいものを手に入れるためには、おれらのほうでも差し出せるものを用意する必要があるかもしれない。康平だって、これだけ走れるんだから、長距離チームで重宝されるはずなんだ。それぞれ結果を残したあとで駅伝をしても、そう遅くはないんじゃないかな」
「なるほど。それも一理あるかも……」
「でしょ。康平と駅伝をするためなら、けっこうなんでもするよ、おれ」
思わず唸ってしまったのは、翔琉がずっと先を見据えていたからだ。それと同時に、まるで駄々っ子のようだったさっきの自分が途端に恥ずかしくなる。
翔琉と駅伝をするために。その一番の目的を考えていなかったかもしれない。自ら進んで商品になることもいとわない翔琉の捨て身の覚悟に、目が覚める思いだ。
自分たちの思うように事が運ぶわけがない。わかっているつもりだったし、これまでの経緯からも痛感しているつもりだった。だからこそ、こんなふうに堂々巡りになってしまったのだけれど。でも、現実的な案を示されたことで本当の意味では全然わかっていなかったことに気づいた康平の頭は、途端に冷静さを取り戻していく。
「――わかった、陸部に行こう」
やがてすっかり頭が冷えた康平は、しゃんと背筋を伸ばし口を開く。
こちらからの要求が多いぶん、差し出せるものを用意する必要は確かにある。ギブアンドギブでは、自分たちはただの我儘が過ぎるやつだ。しっかりテイクしてこそ男である。
「おう!」
ニッと白い歯を見せて笑った翔琉は、やたらと威勢がよかった。
ふたりの正面から、ひんやりとした春の風が吹いてくる。東北に吹く五月の夜風はまだ少し肌寒かったが、気合いを入れ直すにはちょうどいいと康平は思った。
翌日。
「おまえら、ほんっとギリギリなんだよ……」
朝一番で職員室を訪ね、陸上部に入りたいと口を揃えると、話を聞いた似内は短く刈り込んだ頭をぐりぐりと撫でまわしながら、あからさまに仰々しいため息をついた。
ふたりしてキョトンとした顔で「なにがですか?」と尋ねれば、似内は「知らないのも無理もないとは思うけど」と前置きした上で、書類やらファイルやらが雑多に積み上げられたデスクからホチキス止めされた紙を引き寄せ、パラパラめくった。
すぐに目当てのページを見つけると、疲れた顔で説明をはじめる。
「いいか、おまえら。ここに書いてあるだろ、参加申し込み書は五月七日(月)の昼十二時必着って。今日は何日だ? もう二日だろ? そして明日からまた連休だ。陸部に来ないかって誘ったのはおれだから、来てくれるのはもちろん嬉しい。けど、出場を受理してもらうためにはほかにも書類が必要だったり校長先生からハンコをもらって郵送したりしなきゃならないんだ。入部だけならまだしも県高総体にも出たいなんて……連休明けに今の話を持ってこられてたら、部には入れてもそっちには出られなかったぞ」
そしてまた仰々しくため息をつく。
「……マジですか」
「マジだよ。だからギリギリだって言ったんだ」
「ほんと、危ないとこだった……」
戦慄、といったふうに康平は口の中で声を転がす。「それぞれ結果を残したあとでも」と翔琉に説得されなければ今頃どうなっていただろうと思うと、鳥肌ものだ。
というのも、あれから翔琉と話し合った結果、自分たちで差し出せるものとして県高総体に出場しようという話になった。翔琉は言わずもがな短距離に。康平ももちろん長距離と、それぞれ得意な種目でひとまず〝結果〟を残そうということになったのだ。
康平は、陸上部に入りさえすれば自動的に高総体にも出られると思っていたが……翔琉はこのことを知っていたんだろうかと隣を窺うと、カッと目を瞠ったまま息を止めていたので、まったく知らなかったらしい。危機一髪の状況に冷や汗が噴き出る。
「ぅげほっ!」
翔琉は、康平の視線を感じて我に返るなりむせ込む。その背中を無言でさすってやりつつ、かく言うおれも知らなかったんだけどな、と康平は心の中で詫びるしかない。
「てことで、ほら。入部届はおれのほうで受理しておくから、とっととここで書け」
やれやれといった様子で似内から紙とペンを渡され、それぞれデスクの端を借りていそいそと所属する部活名と自分の名前、クラスや入部動機を書いていく。
「ほんっとラッキーだったぞ、おまえら……。世の中の風潮なんかでは子供だけ連休が分けられてどうのこうのって話もあるが、今回ばかりは感謝することだな」
「はい……」
「なんも言えないっす……」
まったくそのとおりで、返す言葉もない。
かくして、その場で受理してもらったおかげで、康平と翔琉は晴れて陸上部の肩書きを手に入れるに至った。様々な幸運が重なり合って手に入れた駅伝への大きな一歩なだけあって、職員室を出て教室へ戻るふたりの足取りは、それでもふわふわと軽かった。
教室前で翔琉と別れ、野球部の朝練を終えてホームルーム前のわずかな時間に特大のおにぎりを胃に詰め込む南波にそのことを報告すれば、こちらもまた、大きくむせた。
「もういい加減、話が急展開すぎて付いていけないんだけど」
「ぶっちゃけ、おれもだ」
「なんだよそれ」
もっともな感想に、康平も苦笑しか作れない。
でも、これで『駅伝同好会』より、もっと確実に仲間を増やすことができるかもしれない。そう思うと、どうしたって康平の胸は期待に弾むのだ。たとえほかの陸上部員にあれこれ言われようと、今さらかよと煙たがられたり白い目で見られたりしようと、翔琉とひとつの襷を繋ぎ合えるのなら、そんなことは取るに足らないことに思える。
「約束してるんだ、一緒に駅伝を走るって」
なにより、このことが康平の背中を強く押す。
「戸塚、おまえ、変わった……てか、戻った……って言ったほうが正しい感じ?」
力強く言い切った康平に、南波が驚いたように目をしばたたいた。
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