■4.身体的にはどうなのかな 1

「おまえらの熱意はわかった。校内マラソン大会でも一位、二位だったし、どれだけ本気かも伝わった。ただな、まだふたりだけなんだろう? 何度も言ってるけど、せめてあと三人。全員で五人になんなきゃ、規則上、同好会は認められないんだよ」

「それはそうですけど……」

「そこんとこ、どうにかなんないんですか、似内にたない先生」

 それから約二週間。

 ゴールデンウィーク前半の連休を挟んだ五月一日。今日も懲りずに顧問になってくれと頼みに来た康平と翔琉を前に、体育教師の似内は心底弱り果てた様子で短く刈り込んだ白髪混じりの頭をさすった。「規則は規則だからな……。おれには、どうにも。それと、ついでに言うと同好会じゃ駅伝の大会には出られない。わかっちゃいるとは思うけど」

「……わかってますよ」

「知ってます」

 不貞腐れ気味の康平と翔琉の声が、苦笑する似内に同時にぽとりと落とされた。

高松の池の決闘の翌日、ふたりはさっそく新入部員の勧誘と顧問を引き受けてくれそうな教師を探して、休み時間のたびに校内を走り回ることとなった。

 顧問のほうは康平の走りを「もったいない」と言っていた、あの体育教師――陸上部顧問も務める似内以外に頼める先生はいないことで認識が一致し、頼みはじめたのだが。肝心の部員のほうが、このとおり全然集まらない状況がずっと続いている。

 しかも『駅伝同好会』にレベルを落としても誰も見向きもしない。ゆくゆくは正式に部として認めてもらい、大会にも出られるようになる予定が、ものの見事に躓いた。

 あれだけ康平と翔琉の間を取り持とうとしていた南波でさえ、誘うと「マジで野球部のほうでいっぱいいっぱいだから」とすぐさま断った。たった一回、試しに誘ってみただけなのに、最近では微妙に距離を置かれている気がしてならないオマケまで付く。

 野球部は本当に忙しい部活だ。それはわかっている。だからどうしても駅伝同好会に南波が欲しいわけでは、けっしてなかった。でも、フリでもいいから少しくらい考える素振りを見せてほしかったのが本音だ。あの即答はなかなか胸に痛いものがある。

 それでなくても、誰が好き好んで苦しい苦しい駅伝をやりたいと思うだろうか。ランニング同好会やジョギング同好会なんていう、もっとふわふわした感じものだったらまだしも、たいていの人は「駅伝」と聞いただけでイコール〝苦しい〟と直結する。

 長距離に人が集まらないのは、そのせいだと思う。足の速いやつだと、百メートルや二百メートルを十三~四秒ないし二十秒ほどで走れば終わるのに、二十分も三十分もほとんど全力で走らなければならない長距離は、その過酷さから敬遠されがちだ。中学時代の陸部も似たような感じで長距離が常に人手不足だったし、聖櫻の陸上部も、聞いたところほとんどが中短距離やハードル、走り高跳びなどの競技に集中しているそうだ。

 こんな状況なので、たとえ陸上部に入っても結果は見えていた。だったらおれたちで駅伝のための部活を作るしかない。それが康平と翔琉の共通認識だった。

 でもふたりとも、同好会名義では正式な大会に出られないことは百も承知だった。だからといって、最初から駅伝部として部員集めをしたら、ますます誰も耳を傾けてくれなくなってしまう。康平と翔琉にとって『同好会』はなかなかに不本意なスタートの仕方だったが、それ以外に方法がないことも、十分にわかった上でのことだった。

「まあ、駅伝のシーズンは秋から冬にかけてだから、気長にやることだと思うぞ」

 そして似内は、決まって最後をそう締めくくる。

「それに、おまえらはまだ一年生なんだ。今すぐどうこうしようと躍起になるな。焦らず地道に辛抱強く。早く部に昇格させたい気持ちもわからないでもないが、もう一度、陸上部に籍を置くことも考えてみたらどうだ? それならおれも顧問としておまえらの指導に当たれる。なにもふたりだけで頑張ろうとするな。利用できるものは利用しないと」

「……はい」

「わかりました」

 ふたりも、そうして決まって職員室を辞するのだった。


 *


 その日の放課後。康平と翔琉は学校からほど近い高松の池にいた。

「なあ康平。おれら、やっぱ陸部に入ったほうがいいのかな」

「は? でもそれは翔琉が嫌なんだろ? じゃあ、今までどおりの方法しかないだろ」

「いや、似内にああ言われて一理あるなって思って。陸上部の肩書きとか、顧問のある無しとか……おれの名前とか。利用できるものは利用しないと、このままじゃ、いつまで経っても同好会どころか駅伝部にもなれないじゃん。それもどうかと思ってさ……」

 ストレッチの最中、そう言った翔琉に康平は目を瞠った。

 部員集めも大事だが、自分たちの練習も手を抜くわけにはいかない。高松の池はコース的にも場所的にも、もってこいの要素を十分に兼ね備えている。校内では規則だなんだと縛られることも多いし上手くいかないことだらけだが、今のところ練習場所もない自分たちには、学校の立地の良さだけは感謝といったところだろうか。

 それはそうと――。

「おまえの名前で人集めすんの? ふざけんな」

 ストレッチを止め、康平は露骨に嫌な顔をした。

「しかも、ずっと断り続けて、やっと諦めてもらったんじゃねーか。今さらどの面を下げて陸部に入ればいいって言うんだよ。おまえの心証が悪くなるだけだぞ」

 翔琉は自分の名前の大きさをよく知っている。だからこそ陸上部には入りたくないと言っていたのに、似内に言われたくらいで簡単にその気持ちを曲げないでほしい。自分の名前まで人集めの材料にすることはないんだと強く思う。翔琉はそれが一番嫌なくせに。

 翔琉とともにもう一度走ることを決意してすぐ、康平は、翔琉の周りには常に入れ代わり立ち代わり先輩が話しかけに来ていることを知った。どっと疲れた顔で先輩を見送る翔琉に聞けば、もう新入部員勧誘の時期は終わっているのに、陸上部に来てくれないかという誘いが後を絶たないという。翔琉がいれば聖櫻は絶対に強くなる――勧誘に来る陸部の誰しもがそう口を揃えるそうだ。当たり前だ、だって〝あの福浦翔琉〟なんだから。

 康平には想像することしかできなかったが、もう短距離に未練を残していない翔琉にとって、それは紛れもない罪悪感と苦痛を伴うものに違いなかった。

『もうこいつのことは放っておいてもらえませんか。こいつは〝北園中の福浦翔琉〟とか〝あの福浦翔琉〟って言われるのが嫌なんです。わかってやってください』

 今までの康平なら、ふざけんなと思っただろう。だが、もう違う。先輩相手に強く断れずに困っている翔琉を押しのけ、代わりにそう啖呵を切ったこともある。

 それが連休前まで続き、ようやく先輩の姿がなくなったのだ。

 本当に今さらな話である。康平だって、ここまで上手くいかないとは思っていなかったので多少弱気になる部分はある。けれど翔琉が自分で自分の名前を利用することだけは、どうしても許せないのだ。成績が伸びるにつれて県内に広く知られるようになった自分の名前の大きさに、翔琉は常に苦しんできたのだろう。これからもそれは続くかもしれないが、一度その名前で人を集めたら、もっと苦しむことになるんじゃないのか?

 親に付けてもらった名前は、死ぬまでその人の一番のアイデンティティーだ。死んだあともずっと残り続ける。それは変えようがないけれど、翔琉がひとり歩きしてしまった自分の名前に縛られるなんてことが、あっていいとは思えない。それだけは確かだ。

「康平って、けっこう口は悪いけど、実はめちゃくちゃいいやつだよねえ……」

「……あのな」

 しみじみ言う翔琉に口の端がヒクつく。翔琉もこれまでのことを思い出しているのだろう。康平の言葉の裏を的確に読んだ言い方に、こっ恥ずかしくて言葉が続かない。

 言っとくけど、口が悪いのはおまえ限定だからな。

「あー……。ここで誰か救いの手を差し伸べてくれる人が現れないものかなー」

「ほんと、それなー」

 ぐーっと伸びをする翔琉のぼやきに、康平もしみじみ思う。

 つい先日の校内マラソン大会で、康平と翔琉は一位二位をもぎ取った。三位を走る上級生を大きく引き離してのデッドヒートは、まだ全校生徒の記憶に新しいはずだ。

 結果は、今度はつま先の差で康平が辛くも一位の座を射止めた。今度こそ勝てると思ったのにと翔琉はめちゃくちゃ悔しがったが、小遣いをはたいてこっそりシューズを新調した甲斐がある。お互いに健闘を称え合った固い握手に自然と教職員から拍手が起こり、似内は「ふたり揃って陸上部に来い」と、本格的にスカウトマンの目を向けた。

 レース後の表彰式でコメントを求められた際にも、ふたりは口を揃えて「一緒に駅伝をやってくれる人を募集している」と、ちゃっかり宣伝も行った。しかしいまだ自分たちの話に乗ってくれる猛者は現れない。もはやふたりのぼやきは、神頼みに近かった。

「仕方ねえ、走るか」

「そうだね。こりゃもう走るしかない」

 そうして走り出すものの、本当にどうやって人を集めたらいいものか……。

 せめて同好会設立に必要なあと三人ぶん、名前を貸してくれるやつがいてくれれば。そうすれば、多少なりとも動き出せるとは思うのだが、結局「駅伝」と聞いただけでイコール〝苦しい〟と直結する競技には、誰も名前を貸したがらないのが現実だろう。


 やがて夕暮れが迫り、遊歩道にぽつぽつと街灯が灯りはじめた。春先に比べてずいぶん日が伸びたが、周りを桜の木に囲まれているため、やはり少しの薄暗さは否めない。

 荷物を置いた場所からちょうど半周したところを並走していた康平と翔琉は、目配せをすると残りの半周にスパートをかける。電車の時間もあるので、無言の了解で自分の体を最後の最後まで追い込むのだ。このデッドヒート感が康平は好きだった。ちらりと横目で見ると、翔琉の横顔もワクワクしている。間違いなくこの勝負を楽しんでいる顔だ。

 なかなか上手くいかない現実を払拭するように目まぐるしくギアを入れ替え、康平はぐんぐんトップスピードを速くしていく。翔琉も難なくそれについてくる。

 走り終わるなり、なだれ込むようにして体を地面に投げ出し空を見上げるのは、もう習慣のようなものだった。無心で走ると、少しだけ胸の中がすくような気がする。

 はぁはぁと荒く息をしながら、星を掴むように手を伸ばす。目に見えているのにどこまでも遠い星は、当然、まだ天高く瞬いていた。手を開いてみてもそこにはなにもなく、まるで自分たちの無謀さを突き付けられているようで、少しだけ胸が痛かった。

「……康平。やっぱ、もうちょっと現実的に考えようよ」

 制服に着替え、駅へと向かう道すがら、ぽつりと翔琉がこぼす。

「まだ言ってんのかよ?」

 康平はまた露骨に嫌な顔をする。これでは練習後の清々しい倦怠感もどこかへ吹き飛んでしまう。また自分の名前で人を集めるなんて言い出したら、今度こそキレそうだ。

 康平のことを考えての発言だろうが、あまりにもらしくない。

「でもさ、部の肩書きと指導者は大きいよ。康平もそれは思うでしょ?」

「……」

「ほら。康平って、実はけっこう嘘がつけないタチだよねえ」

「んだよそれ。素直って言えよ、素直って」

「はは。そうとも言う」

 しかし、咄嗟に否定できなかったのは、康平も薄々、そう感じていたからだ。天秤にかけるまでもなく、いつ現れるともわからない、本当に現れてくれるのかさえ定かではない救世主の登場を待つより、頭を下げて陸上部に入れてもらうほうが現実的だと。

「……けど」

 散々断り続けた挙げ句、結局のこのこ陸部に入ることが、部員にとってどんな心証をもたらすことになるのか。それを考えると、康平はどうにも二の足を踏んでしまうのだ。

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