「……なあ南波。南波はなんで野球だったんだ? どうして野球をやろうと思った?」 続々とゴールラインに帰ってくる同級生たちを眺めながら、康平は口を開く。

 大差こそついたが、やはり自分たちはほかの生徒に比べて早く走りすぎてしまったらしい。中盤を走っていた生徒がゴールしはじめたときには、康平の滲む程度の汗も、南波の玉のような汗もすっかり引き、ダラダラできる自由時間を持て余しつつあった。

「は? なに、人はどうして走るのか系の哲学的な? なんだよ、言ってみ」

「いや、例えばだけど、自分が伸び悩んでるときに、こいつには敵わないと思うやつがひょっこり現れたりすると、このまま続けてても意味あんのかな、とか思ったりすることってない? しかも、しばらくしてから『おれ、本当はサッカーがやりたかったんだよね』なんて言って、さっさとそっちに行こうとしてたら、南波だったらどう思う?」

 ぐっと眉間にしわを寄せて難しい顔で聞き返す南波にふっと笑ってしまいつつも、康平はできるだけ自分の境遇を南波に置き換え、質問を続けた。南波は根が素直で真面目なのだ。突拍子もない質問にも真剣に考えようとしてくれるところがありがたい。

 このとおり気さくで陽気で、しかも情に厚い南波なら、違う考えを示してくれるかもしれない。むしろそれを期待している。あれからずっと福浦翔琉に対して気持ちの落ち付けどころがないままなのだ。向こうに期待できない以上、自分で探るしかない。

「うーん、それはそれで難しい質問だな……。どれだけ親しいかっていうのも関係してくるとは思うけど、そんときになってみなきゃ、どう思うかなんてわかんねーし」

「まあ、そうだよな」

 しかし、南波の性格をもってしても、そう容易く答えは出ないらしい。

 確かにどれだけ親しい間柄かも関係してくる。なんでも打ち明けられるほどの関係であればあるほど、本気で野球をやっていたんじゃなかったのかと裏切られた感覚も強い。仲がいいと思っていたのは自分だけだったのかと怒りも湧くし、寂しいし悲しい。

 そしてなにより一番は、言葉にならないほど、ひどく虚しいのではないだろうか。

 たとえ特別親しくはなかったとしても、センスのあるやつがあっさりほかに移ろうとする行為は、十分に裏切り行為に値する。じゃあなんで野球をやってんだ、という話だ。

 ――せっかく才能があるのに。

 結局は、そこに行き着くのだろう。体育教師の言葉じゃないが、もったいないと。

 そしてそれは、きっと頭一つも二つも抜きん出ているやつには絶対にわからない感情だ。だから康平は、あれから二週間近く経つ今でも福浦翔琉にプスプスと腹を立てている。

「あ、でも、なんで野球だったのかって質問には答えられるぞ」

 すると南波は、ニシシと笑って得意げに胸を反らした。

「なんも難しいことはねーんだ。おれの場合、これだ! って思ったからだし」

「やっぱそうなんだ」

「おう。って言っても、おれは上手いほうじゃないから年中伸び悩みまくりだし、上手いやつには当たり前に嫉妬する。でも、夏の甲子園とか見てると、どうしても心が揺さぶられるわけよ。おれには野球だって体中の細胞がわななく感じっていうの? あんだよね」

 そうしみじみ言ってひとつ頷く南波の横顔は、一種の悟りを開いているようだった。上手く言葉で言い表せないが、どんと肝を据えて野球をやっている説得力がある。

「体中の細胞がわななく感じ、か……。ちょっと怖そうだけど、おれも一度なってみたいかも。そういうのに巡り合えれば、きっと人生単位で変わるんだろうな」

「そうだなぁ。そうかもしんないな。康平も巡り合えるといいよな」

「そうだな」

 ニッと口角を持ち上げる南波に笑い返しながら、康平はふと思う。

 ひょっとして、翔琉は短距離に向いているとわかっていながら、それでもどうしようもなく駅伝に全身の細胞がわななく感覚を覚えたのだろうか、と。

 対して自分は、鳥肌は立てど南波のような感覚はなかったかもしれない。

 いや、康平だって、オリンピックで日本代表の選手たちが初めてメダルを獲った映像を見たとき、めちゃくちゃ〝これだ!〟って思った。その感覚に嘘はない。

 それがきっかけで自分から進んで陸上競技に飛び込み、結果は振るわなかったが、どの競技よりも強烈に憧れた短距離走に中学の三年間をつぎ込んだ。でも、きっと南波はどんなに挫折感を味わったり上手いやつに嫉妬し続けたとしても、根本から野球を嫌いになることはないんだろうと思うと、そもそもの〝はじめ方の違い〟を痛感させられる。

 康平は陸上そのものがもう嫌になっている。スパイクシューズを投げ捨てるほどに。

 けれど南波は、たとえ三年間レギュラーになれなかったとしても、スタンドから同級生に混じって後輩がプレーする姿を応援するだけだったとしても、悔いは残らないのではないだろうか。大人になっても草野球とかで普通に野球を続けそうな気がする。

 なんだかなぁ……。

 胸にもやもやしたものが広がり、康平は無意識に頭を掻いた。

 全身の細胞がわななくほど〝これだ!〟というものに巡り合った、年中伸び悩みまくりだという南波と。せっかく短距離の才能があるのに、それを捨てて好きな駅伝をはじめようとしている福浦翔琉と。それから、もしかしたら花開いたかもしれない芽を自分で摘み取り続け、目を逸らし続けて最終的に陸上が嫌になってしまった自分と。

 まるで人生のままならなさの縮図を見ているようで、乾いた口の中に苦みが広がる。

「……おれ、ちょっと向こうで水飲んでくるわ」

「おーう。ついでにおれのぶんも飲んできてくれ」

 腰を上げつつ南波に断りを入れると、すかさず変な返しをされた。

「なに言ってんだ、ばーか」

 笑って言ったその顔は、きっと自分でもままならない笑みだと康平は思った。


「見てたよー、さっきの走り。ね、一緒に駅伝やろうよ」

「……」

 なんとか時間内に全員がゴールラインを切った授業後。四時間目だったのでそのまま昼休みに入った教室でダラダラ制服に着替えていると、康平の姿を見つけるなり嬉しそうに破顔して駆け寄ってきた福浦翔琉に開口一番そう言われた康平は、無視を決め込んだ。

「康平……? なんかまた、今日も話しかけられてるけど」

「ほっときゃいいんだよ、こんなやつ。顔を合わせれば二言目にはこれなんだ、おれはやんないって言ってんのに入学式の日からしつこいったらありゃしねー」

「……お、おぅ」

 数秒ののち、南波が間を取り持とうとするが、康平から放たれる刺々しい空気に詰まった声を出した彼は、もう慣れたのか、微苦笑しながら肩を竦めるだけだった。

 こんな場面がもうずっと続いていて、康平はそのたびに我慢を強いられている。今は開き直ってクラスが違うだけありがたいと思うようにしているが、まるで自分の教室のように出入りする自由すぎる翔琉を見るにつけ、それもいつまで持つかわからないと康平は思う。南波に対しても毎度申し訳ない。ほんと、早くどっか行ってくんねーかな。

「あ、南波も興味あるなら一緒にやらない? 野球部と掛け持ちでいいからさ」

 しかし翔琉は、康平の無視をもろともせずに南波に話しかける。

 南波とよく話すようになってから、翔琉はだいたいこんな調子だ。まさかおれの知らないところで誘ってきたりしてないよなと聞けば、あいさつ程度だということなので、そこは翔琉なりの誠意だとは思う。けれど「いや……」と言葉を濁す南波の困った顔が全然目に入っていないところは、相変わらず気持ちいいくらい空気の読めないやつのままだ。

「おい、南波が困ってんだろ。おまえもこれから昼飯だろ、教室に帰れ」

「それよりおれ、どんな練習をしたら、あんなふうに無駄のない伸び伸びしたストライドになれるか詳しく聞きたいよ。いろいろ本を読んで試してはみてるんだけど、指導してくれる先生もまだ見つからないし、走り方を見てくれる人もいなくてさ。自己流と変わんない状況なんだよ。康平がどう走ってるのかだけでも聞かせてくんないかな」

 たまらず間に割って入ると、キラキラした瞳がこちらを向く。

「ほんと、おまえは……」

「ん?」

「いい加減、誰も相手にしてないってわかれよ。見ててイタいんだって」

 もはやため息も出ないとはこのことだった。指導者も見つからず、友達でもなんでも走りを見てくれる人もいない状況で、よくそんな目ができるものだと思う。

「ちょっ、言いすぎだって」

 南波が横から窘めてくるが、はっきり言わないとわからないのがこいつだ。

 とはいえ、どれだけ言っても効き目がないのはこのとおりなので、今は一時的に追い払うために言っているところもある。でも、二週間経っても話が少しも前に進んでいないんだから、少しくらいへこたれていてもいいはずなのだ。それが翔琉からはまったく感じられないから、康平はつい、どうしようもなくイライラして辛辣な言葉を投げてしまう。

「福浦も福浦だけど、康平も康平だよ……」

 そして毎度板挟みに遭う南波は、両手のひらを上に向け、犬も食わない顔をする。

「じゃあさ、勝負しない?」

 すると翔琉が突飛なことを言い出した。いつもなら「また来るよ」と一時撤退するタイミングなのだが、どういうわけか今日は引き下がるつもりはないらしい。

「は?」

「勝負?」

 康平と南波の怪訝な声が重なった。ふたりで顔を見合わせ、首をかしげ合う。

「そう。高松の池の周りって遊歩道になってるでしょ。市のホームページとかで調べてみたんだけど、一周がだいたい一.四キロなんだって。五周走ればちょうど七キロでキリがいいし、学校とも目と鼻の先。マラソン大会の予行演習にもなるし、一石三鳥でしょ。ってことで、明日の放課後に五周勝負でどうだろう? おれが勝ったら、康平はおれと一緒に駅伝部を作る。康平が勝ったら、もうこんなふうにしつこく誘いに来たりしない」

 そんな康平たちに向けて、翔琉はぐっと顎を上げると挑発的な顔をした。その自信満々な顔に当然康平はイラっとさせられる。が、同時に本気なのも嫌でも伝わった。

 不敵に見下ろす翔琉の瞳は、相変わらずキラキラと輝きを放ったまま、諦めることを知らない色をしている。ただただ澄んでいて、思わず圧倒されてしまいそうなほど力強い。

 康平は、翔琉のこの目が嫌だった。その目に捉えられると、胸の奥をくすぐられるような、なんとも言えないむず痒さに襲われ、無性に胸を掻きむしりたくなる。心の奥底にしまい込んだものを無理やり引きずり出されそうで、それがとても怖くもあった。

 ――でも、勝てばいいだけなんだ。

「……わかった」

 しばしの黙考の末、康平はまっすぐにその目を見返し、ひとつ頷いた。

 そう、ただ勝てばいいだけなのだ。中学時代、その名前を聞かない日はなかったほどの名スプリンターだった福浦翔琉も、駅伝をやりたいなんて言っている今は、ただのド素人だ。どれだけ走り込んでいるかはわからないが、康平の三年間に敵うはずがない。

「ただ、もうひとつ条件がある」

 こちらも負けじと不敵に笑うと、康平は続けた。

「なに?」

「おれが勝ったら、駅伝はスッパリ諦めて短距離に戻れ。それを呑むなら勝負してやる」

 自主的に走っているとはいえ、帰宅部に負けたとなれば、いくら翔琉でもプライドが許さないだろう。帰宅部に負けて吠え面をかくところを、とっぷり見てやろうじゃねーか。

「わかった。それでいい」

 そう言った翔琉も、さらに不敵な笑みを返した。

「もう勝手にやってくれ……」

 ふたりのやり取りを見ていた南波が、また犬も食わない顔をした。

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