■2.じゃあさ、勝負しない? 1
速く走るためには、ストレッチや柔軟性のほかに、筋肉も必要だ。体の可動域を広げるにはストレッチで柔軟性を養うとともに、それを最大限発揮できる筋力が伴わなければ、試合でいいパフォーマンスはできない。――それが、中学時代の顧問がいろいろな指導教本を読んで部員たちに教えた、効率的にタイムを縮めるための近道だった。
はっはっはっ、と一定のリズムで呼吸をしながら、康平は意識的に顎をぐっと引き、ストライドを大きく保ちつつ最後の一周に先頭で入っていった。
さっきまでは後ろからいくつか足音が聞こえていたが、今は自分が砂を蹴る足音しか聞こえない。周回遅れの同級生をコーナーの外側から追い抜く際にちらりと斜め後方を見てみれば、二位の生徒はまだ、スタート地点でありゴール地点でもある鉄製の演台の前に立つ体育教師の前を顎を上げ険しい顔つきで走り抜けていくところだった。
あれ、思ったよりみんな、本気出してない感じ? ラスト一周になっても自分だけ飛び抜けて元気がいいことに、康平は不思議に感じつつも、やっちまったなと思う。
これじゃあ、おれだけ変に目立つだろ。でも今さら走りを変えたら余計なところに力が入って疲れるだけだし……。康平の頭の中は、どういう走りをするのが正解なのか瞬時に計算をはじめる。その間にも、また別の周回遅れの生徒の背中がぐんぐん近づく。
四月も半ばを過ぎ、少しずつ学校生活に慣れはじめてくると、数回に分けて行われるスポーツテストのほかに、ゴールデンウィーク明けに開催される校内マラソン大会に向けて校庭をぐるぐる走る練習がはじまった。男子は十キロ、女子は確か五キロだったはずだ。
今日の体育は、一周三百メートルの校庭を十五周がノルマだった。本番の約半分の距離、計、四.五キロを走り、終わった生徒から順に自由時間となる。先に一五〇〇メートルの持久走や、二〇メートルシャトルランなどのきついものから消化し、前の授業では握力テストや前屈といった楽なものをやったので、今日はマラソン練習になったらしい。
やってしまった感と二位の男子の明らかなペースダウンに若干苛立つ気持ちをリズミカルに吸っては吐き出す呼吸に混ぜ、康平はまた、目前に迫った周回遅れの男子を外側から抜き去る。もうこうなったら、ひとつしか考えないことにしようと思った。
早く走り終わって、残りをダラダラする。その特権を一番に勝ち取ってやる。
正解を見つけるには脳に酸素が足りなかった。それにもうすぐゴールだ。うだうだ考えるより、このままのペースで走りきってしまったほうが断然いいと体も言っていた。
それにしても、どうして急にこうなってしまったのだろう。ついさっきまでは、体力が有り余っていそうな運動部系の男子たちとひと塊になっていたはずなのに。
自由時間を多く確保するために本気で走りすぎたのか、それとも、ほかの男子の体力が当初の見込みよりなかったのか。はたまた、康平の持久力が群を抜いていたのか。
――どちらにせよ、
「はい、お疲れさーん。あとは自由にしてていいぞー」
「っす」
という間に、一番でゴールラインを切る。振り返ると、二位の姿はまだ小さかった。
「しかし戸塚は細っこいし体幹もブレないし、理想的な長距離ランナーの体つきだなあ。今度のマラソン大会は、もしかしたら一位を狙えるかもしれないぞ?」
腰に手を当て弾んだ息を整えていると、やけに興奮した様子で体育教師が言う。
それから、はたと思い出したように、
「そういえば持久走も一番だったし、シャトルランも最後まで残ってたもんな。シャトルランは百二十五回以上できれば十点だが、あの様子じゃ、まだまだ走れそうだった。中学は長距離をやってたのか? 中学駅伝じゃあ、ずっとエース区間を走ってただろ」
まるで自分が手塩にかけて育てた選手のように誇らしげに言った。
しかし康平は、その断定的な言い方にわずかに眉間にしわを寄せた。息が上がって苦しいからじゃない。そうとは知らずに康平の地雷をバンバン踏んでいったからだ。
「んなことないです。おれ、短距離を専門に走ってたんで」
だが、教師相手に歯向かったところで、なにもいいことはない。ここ最近、ずっと我慢が絶えないな、と辟易しながら、眉間のしわを悟られないように簡潔に答える。
「そうなのか? もったいない。絶対、長距離だと思ったんだけどなー。でもまあ、やりたいことと得意なことは違う場合もあるしな。で、部活はもう決めたのか?」
「帰宅部っす」
「そうか。もったいないなー」
体育教師はさらに「もったいない」と繰り返すと、康平に背を向け後続に「ラストきばれよー!」、何周か残っている生徒には「お前ら根性だぞー!」と声を張り上げる。
白髪交じりの短髪は年相応の清潔感があり、中学時代の陸上部顧問のごま塩頭とは比べるまでもなく嫌味な印象は受けない。けれど二位の男子でさえまだゴール手前百メートルくらいを走っているからって、だいぶ世間話が過ぎるんじゃないかと康平は思う。
別に体の線が細いことは、コンプレックスに感じているが気にしないようにしているから軽く受け流せる。体育教師は部活に入ってほしそうな口ぶりだったが、必ず入らなければならない決まりもない以上、康平の選択は帰宅部一択だった。
あとは体がなまらない程度に自主的に運動すれば、そのうち自然と体が厚くなると思う。そこに適度に筋トレも加えることで、さらに体つきもしっかりしてくるはずだ。
けれど、今の体を〝理想的な長距離ランナーの体〟と言ったり、当たり前のように駅伝の話を出したりされると、たまらない気持ちになった。どういうわけか、あの福浦翔琉にわけのわからない勧誘をされた記憶がまだ鮮烈すぎる今においては、なおさらだ。
お前までそんなことを言うのか。
内心で思いっきり体育教師をお前呼ばわりする。
康平はなにも好きで長距離が得意になったわけではない。ごま塩頭に「戸塚は線が細いから筋肉をつけるために長い距離を何本も走り込め」と自主練を命ぜられて、部活から帰ってからや休みの日も家の近所を走りはじめたら、どういうわけか体の線はそのまま、体育教師が言うところの〝理想的な長距離ランナーの体〟になってしまっただけだ。
そのおかげで、事実上の引退宣告を受けた十ヵ月前から今でも、ある程度の距離を走らなければ体がなんだか落ち着かず、受験勉強中もずっと雪道を走っていたくらいだ。
やりたいことと得意なことは違うとは、よく言ったものだと思う。やりたいことをやるためにごま塩を信じてはじめた長距離に足元をすくわれるなんて、とんだお笑い種だ。
「うあー、死ぬー……」
ひとりで皮肉じみた笑みを浮かべていると、ようやく後続のひとりが帰ってきた。
どうやら残り百メートルにずいぶん手こずったらしく、ドタドタと倒れ込むようにして校庭に体を投げ出すその顔は、だいぶ頬が上気していて額には玉の汗が光っていた。
「おいおい、
すかさず地面に転がる南波の上に顔を覗き込ませ、ニヤリと得意げに笑ってみせる。
南波――南波
「野球部は瞬発力勝負なの。五十メートルを五秒台で走れれば立派なもんなの!」
すると南波は、弾む息の合間にそう言い、少しだけむっとした顔を作る。
まあ確かに。野球中継の実況の中でよくアナウンサーも言っている。盗塁に定評のある選手に「五十メートルを五秒台で走る俊足ですからね、今回も期待できます」とか。
「え、じゃあ、あの外周は? 体力をつけるため?」
「それ以外になにがあるよ。ああ、あと、結束力だな。おれら、チームプレイだから」
「へぇ」
続けて質問を投げると、すぐに南波の持論が返ってきた。あのやたらと威勢よく「ファイッ、オー」する外周にそんな目的もあったとは、と康平は素直に感心する。
とすると、サッカーやラグビーなどのチームスポーツも、すべからくそうだということになりそうだ。筋力アップのためにいつもひとりで走っていた康平には〝結束力〟という言葉はどこか照れくさく、ずっと個人競技の中にいたため、自分には縁遠いものに思えていた。しかし、当たり前に言い切った南波を見ていると、すっと胸に落ちるものがあったし、純粋に羨ましくもある。陸上での結束力といえば、せいぜいリレーくらいだ。
「なんかいいな、野球部」
「そう? 今からでも戸塚も入る?」
「遠慮しとく。でも、結束力って言葉がすぐに出てくるところが、なんかいい」
「……おまえ、そんなに結束力に飢えてんのか? なんか可愛いな」
「はぁ⁉」
その気持ちを素直に口にすると、さっきのお返しだと言わんばかりにイシシと笑われ、康平はすぐさま後悔することになった。……結束力に飢えていると可愛いのか? ひょっとすると、翔琉のとんちんかんな勧誘より意味がわからないかもしれない。
でも、こんなふうに、ちょっとしたじゃれ合いの中でほかの部活のやつから話を聞くたび、折に触れて康平は思う。おれにももっと合う競技があったんじゃないかと。意地を張らずにあのまま長距離に転向していれば、もっと違った今があったんじゃないかと。
ただ、大きな挫折を味わった今では、もうどこの部活にも入ろうとは思わないけれど。
タイムが伸び悩みはじめてから少しして、ごま塩から何度か長距離に転向しないかと言われたことがあった。中学一年の夏休み前から秋口にかけての二ヵ月弱のうち、何度か。
でもその頃の康平は、同じ一年生ながら表彰台のてっぺんに立った福浦翔琉にすっかり魅了され、同時にメラメラとライバル意識を燃やしていた。すぐに〝彗星のように現れた俊足〟と二つ名が付くほど本当にすごい走りで一躍脚光を浴びた、あの福浦翔琉に。
オリンピックのあの舞台は、さすがに遠すぎる。だからせめて近くの俊足、と目標を変えたのだ。頑張れば、もしかしたら追い抜けるかもしれない。そう思って。
自主練の成果も現われはじめ、長距離を走ることは苦にならなくなっていたが、それはあくまで〝速く走るための効率のいい練習〟に過ぎなかったし、単なる通過点だった。
転向を勧められるたび、いや自分は短距離がやりたいんですと首を横に振っていると、そのうちごま塩はなにも言わなくなった。二年に進級する頃には自分は目をかけている生徒の枠から外されてしまったんだなと、なんとなく感覚でわかるようになり、そこからはひたすら落ちこぼれ街道を進むことになった。そして、中三初夏の引導となる。
でも康平は、それならそれで構わないと思った。自分がやりたいのは短距離なのに、どうして顧問はそれをわかってくれないんだという反発心のほうが強かったし、第一、長距離は苦しい。福浦翔琉と同じレースで走るまでは、ほかのことは考えたくなかった。
さらには、これでかえって自分自身に集中できるとさえ思った。目をかけている生徒の枠から外したことを後悔させてやる。おれはひとりでも速くなってみせると。
今振り返れば、ただ躍起になっていただけだったのかもしれない。
ふいに著しく傷つけられた自尊心。不本意な転向を勧められた屈辱。どんなに渇望してもオリンピックの舞台は夢のまた夢でしかない現実。自分の能力の限界値に達してしまっている感覚。走るたびに自分は短距離には向いていないと訴え続ける体……。
康平はただ、それらをがむしゃらに振り切りたいだけだったのだ。タイムを縮めさえすれば、認めたくないことを認めずに済む。顧問を見返すこともできる。
けれど、その思いとは裏腹な結果が康平を挫折させた。学校の焼却炉に履き古したスパイクシューズを投げ捨てたときにはもう、康平の陸上に対する情熱は燃え尽きていた。
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