*


 かくして翌日、康平と翔琉は放課後を待って一触即発の空気を醸しつつ高松の池へと向かった。南波からは再三、どっちもどっちだよ、と呆れた顔をされたが知るものか。

 どうやら南波は、七キロも走るくらいなら平和的に和睦しようよ、という考えのようだった。そして、駅伝だのなんだののために生死を分けた決闘感すら漂わせる康平たちに、武蔵と小次郎の『巌流島の戦い』をもじって、『高松の池の決闘』と少々揶揄した。

 その南波は、まあふたりとも頑張れよ、と気のないエールを送って早々に部活へ向かった。もっと親身になってくれよとも思ったが、当然南波には関係ない。部活前の忙しいときに一声かけてもらえただけ、まだマシといったところだろうか。

 それはともかく、高松の池に着くと、時刻はちょうど午後四時だった。適当な場所に荷物を置いて辺りをぐるりと見回すと、柔らかな春の薄茜色がほんのりと池を染め、その中を、通年して見られる野鴨たちが群れを成して気持ちよさそうに泳いでいた。

 池を囲むように植えられた約百本の桜の木は、もうすでに花を散り終えていた。満開時の校舎からの眺めは言葉にならないほど壮観で、平日の日中もよく親子連れだったり老夫婦だったりが遊歩道を散歩する微笑ましい姿が見られたが、今は夏に向けて芽吹きはじめた幼葉おさなばが枝の隙間からちらほら見えるだけで、少しだけ物悲しく、人影もない。

「念のためだけど」

 陸上用シューズの紐を固く結び直している翔琉が、目線はそのままに康平に確認を取る。

「一周、一.四キロを五周。おれが勝ったら康平には駅伝をやってもらう。康平が勝ったら勧誘もやめるし、潔く短距離に戻る。そういうことで大丈夫だったよね?」

「ああ」

 康平は足首と手首を同時に回しながら、気のない返事をした。頭の中ではすでに七キロの距離をどう走るかシミュレーションがはじまっている。律義に応じている暇はない。

 ウォーミングアップをしながら改めて池を見回す。遊歩道用に整備されただけあって起伏はないだろう。ただ、相手はド素人とはいえ、あの福浦翔琉だ。一周の目標タイムをどう設定し、どこで勝負を仕掛けるか、綿密に練っておくに越したことはない。

「なんだよ、ツレない返事だなぁ」

「おまえこそ余裕ぶっこいてていいわけ?」

「それを言うなら康平だって。それ、指定シューズでしょ。長距離用じゃなくない?」

「うっさい。おまえなんて学校用で十分なんだよ」

 ふたりの間に、また一触即発感が生まれる。

 陸上用シューズは去年の夏のあれっきり、家に置いてあった使えないものもひとつ残らず処分した。今履いているのは体育で使う学校指定シューズだ。けれど、学校が指定するだけあってものは悪くなかった。だいたい康平は、短距離用のシューズはあっても、長距離用なんて持っているはずがなかったのだ。自主練をしていたときだって、軽さと値段の妥協点上にいくつか浮上したものの中からシューズを選ぶだけだった。

 あくまで自主練用だから、特別気合いが入ったものでもない。履き潰したりサイズが合わなくなるたびに新調したシューズは、だんだん安いものに変わっていったくらいだ。

「ふーん。ま、ハンデってことにしておくよ。おれ、長距離に関しては素人だし」

「おい、〝ド〟を付けるの忘れてんぞ」

「康平だって専門にやってたわけじゃないんだからド素人じゃん」

 一方、じわじわと挑発してくる翔琉の足下は、一目でいいものだとわかるシューズで覆われていた。適度に使い込んだベストタイミング。悔しいが、顔を合わせるたびにうざいくらいに誘ってくるだけのことはあると唸らされる。もしこのためだけに新品を用意していたら、やっぱバカにしてんじゃねーかとぶん殴るところだ。ぶっつけ本番で七キロを走るなんて、どこまで人のことをバカにしたら気が済むんだ、と。

 その本気度を見て、康平の胸に少しの動揺が走る。

 ちょっとばかり見くびりすぎていたかもしれない。有名スポーツメーカーのロゴが大胆に入ったロイヤルブルーのシューズは、もう翔琉の足にしっかり馴染んでいる。

 ――でもおれは負けるわけにはいかないんだ。

 気持ちを奮い立たせ、康平はド素人と挑発した翔琉を睨み返す。今からおまえはそのド素人にコテンパンに負かされるんだ。せいぜい酸素を貪りながら格好悪く走れ。

「……じゃあ」

「おう」

 やがてそれぞれ体が温まりきると、ふたりは前方を見つめ、前傾姿勢をとった。

「よーい」

スタートの号砲はない。翔琉の声に、さらに前傾姿勢が深くなる。

「――スタート」

 同時にふたりは走り出す。高松の池の周りを反時計回りに五周、計七キロを。

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