カラスとルカ
「わ、私は《ルカ》と言います」
ぎくしゃくと名乗ったルカのようすを見て、『主は不在だが話だけなら聞いてやってもいいぞ』と、カラスはしゃがれた声で笑う。
「《森のご婦人》に会わせてもらえませんか?」
「話によるな」
小首を傾げるカラスの目は少しずる賢そうに輝いたが、ルカに鳥の目に浮かぶ真意を読み取れるわけもない。
ルカは関を切ったように、苦しい境遇について、あれこれと彼に打ち明けてしまった。
信じていた友人の裏切りにあい、父から受け継いだ店を奪われた。
あらぬ嘘を振り撒かれ、友人の信用や恋人の愛情さえも失い。もう、何もかも嫌になった。
悪しき者を蔓延らせ、正しくあろうと努力した者を苦しめるとは。運命はなんと冷たいのだろう!
ルカはその目に深い苦悩を滲ませて、クロウを見つめた。
「そうかい、そうかい。そりゃあ運がなかったな」
悪人は何処にでも居るもんだ。
そう言って、クロウはルカの災難を労った。胸のうちを語ったルカは少し解放された気持ちになっていた。また、クロウに苦しみを肯定されたことによってささくれ立った心が幾分か慰められた気がした。
「今のお前さんに必要なのは、どうやら居場所のようだな」
クロウが翼をひとつ羽ばたかせると、テーブルの上にグラスがひとつ現れた。その底に注がれたワインはガーネットよりも深い赤。
「あんたが望むならここに居るといい。魔女に会いたいならそれが一番だろう? 歓迎するぜ。あんたがこの森に無事にたどり着いた祝杯をあげようじゃないか」
カラスはルカにグラスを手に取るように促した。
「待って」
ルカがグラスに手を伸ばそうとしたとき、女性に声をかけられた。
驚いて声の主を探して辺りを見回す。脛に何かが当たるのを感じて足元を見ると、そこに緑の目をした茶色の猫が彼を見上げていた。
「あなたそれで本当に良いの?」
「邪魔するな。こいつはその為にここに来ているんだよ」
家も家族も恋人も、友人さえも失って、もう何も未練はないはずだ。
ここに留まったところで誰が心配する?
クロウの鋭いナイフのような言葉がルカの心をチクリと刺した。
そう、彼の言う通りだ。自分ひとり消えたところで誰が気にするものか。ルカはグラスを手にとった。
グラスの底に揺れるワインは魔物の住まう沼のように底知れず、どす黒い水面にルカの姿をとらえていた。
「いるべき所は本当にここなの? 誰もあなたを想ってないの?」
チェシャの問いかけに、ひとりの面影が脳裏に浮かぶ。
今度はひどく胸が痛んだ。失った穴をもう埋めることは出来そうにない。
歓迎の杯を受けてしまうといい。
そうすればもう二度とお前を苦しめる世界へ戻ることはない。
カラスは声色もやさしく彼に囁きました。
ルカは魅入られたようにグラスを傾けると中身を一気に飲み干した。
クロウは楽しそうに目を見開き、チェシャはため息をついて目を伏せる。
ひどい味の紅茶を飲んだときのように、口の中へ痺れが広がっていいく。ワインじゃない。毒だろうか? なるほど毒と言うものに味はないのかもしれない。しかし、毒だとしても今更何だというのだろう。
例えこの液体が死を招くものであったとして、なんの不都合も思い付かなかった。それほどに、彼は度重なる不幸に打ちのめされていたのだ。
グラスをテーブルに戻すと、ルカの感覚がとんでもないものを口にしたと告げる。部屋の四隅から忍び寄る影が、今にも彼を掴んで暗闇の世界へ引きずり込もうとしているような、そんな空寒い不安がわき上がって背筋を凍らせた。今まで感じたことのない強い胸騒ぎに思わず椅子から立ち上がる。
やはり死ぬのだろうか?
そんなことを思った。
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