魔法の森

「おいおい。辛気くさいのがひとり来やがったぜ」


 立ち枯れた木の枝に止まったカラスが、首を振って嫌そうに呟きを漏らした。その隣に伏せている、明るい茶虎の猫が澄んだ緑の瞳を細めて笑う。


「良いカモが来たと思っているくせに」

「人聞きが悪いこと言うなよ。チェシャ」


 カラスは猫を振り向いて小さく舌打ちをした。

 チェシャと呼ばれた猫は立ち上がり、大きく伸びをしてあくびをした。『本当の事じゃない』そう言いながら座り直して顔を洗う。


「俺は迷い人に救いの手を差し出そうとしているんだぜ。邪魔するなよ」


 釘を指して飛び立つカラスの背を見送りながら、チェシャは口の端しに笑みを浮かべた。


「あらあら、クロウはご親切ですこと」


 冷やかしの言葉を述べると腰をあげる。

 気まぐれな足取りで、カラスが飛んでいった方向へ枝伝いに歩いていった。


 頭上でそんなやり取りがされているとは露知らず。

 色白の痩身中背の青年は、その悩みの深さを表すような隈を目の下に張り付け、足元に視線をおとし歩いていた。優しげな榛色の瞳は淀み、明るい茶色の髪は乱れて櫛が通されたかも怪しいようす。

 下草もたいして生えてない、ガランとした木々の隙間をさ迷う亡霊のように、男はふらふらと歩き回っていた。


 彼が寂しいこの所を訪れた理由は単純で、誰にも会いたくなかったから。


 それなのに、この苦しい胸の内を誰かに打ち明けてしまいたいと言う矛盾も抱えていた。もし、寄る辺ないこの気持ちを聞いてもらえるなら、相手が魔女でも構わない。


 急に足元の感覚が変わり、自分が白い砂利の上を歩いていることに気がついた。こんな変化に気づかないほど、心のうちにこもっていたらしい。その砂利は色彩の乏しい森のなか、彼を誘う道標のように奥へ奥へと続いていた。

 白いラインに導かれ、やがて古い家にたどり着く。


 レンガ造りの壁に傾斜の強い屋根、尖り帽子の小さな塔のついた建物は緑の蔦に覆われている。一見教会のようにも見えるが、屋根の頂きに特有のシンボルは掲げられていない。かつては布の日除けがかけられていたであろうテラスに、今は鳥たちが止まって珍しい客を眺めていた。


 軋みながら開いたドアのおく、声をかけるも返事はない。

 覗けば、微風に波打つ蜘蛛の巣のカーテンの向こう、埃を被った椅子やテーブルが幾つも並んでいるのが見えた。褪せた壁紙の色に、傷んでささくれた床板、それでも人が暮らしているらしい気配はまだ微かに残っている。埃っぽい床を踏みしめ恐る恐るなかを見回すも、留守なのか魔女の姿は無かった。


 自分でも気づかないうちに、幾分か期待していたのだろう。

 気落ちした心を慰め、所詮うわさなどそう言うものだと思い直し、建物を出ようと踵を返した。


「よぅ、もう帰るのかい?」


 突然聞こえた自分以外の人の声に、ぎょっとして男は振り返った。

 そばにあった木製の椅子の背に、大鴉が止まってこちらをみていた。辺りに人がいるようすもなく、まさかこの鳥が喋ったのかと驚いていると、カラスはまたもや人の声を発した。


「よせやい。他に誰がいるって言うんだ?」


 青年が驚いて後ろによろけ転びそうになるのを見て、カラスが鳴き声をあげた。


「おい。気を付けろ! まぁ、少し落ち着いて座ったらどうだ?」


 青年は信じられないといった表情のままだったが、ひとまずカラスの言うとおり近くの椅子に腰かけた。


「俺はクロウ。この森の魔女に仕える使い魔さ」

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