第21話 その時彼女は。

 エイルは走りながら、まだ迷いの中にいた。


 確かにトーマは強くなった。けれど、レベル87で尚且つ《二つ名》持ちモンスターと渡り合えるかと問われれば、否だ。

 普通に考えて、エイルとシェーラ含めた四人でギリギリ倒せなかった、水竜アクアドロスよりも強い計算になる。《ヌシ》とは異なりHPバーの本数は一本だけだったものの、時間稼ぎをするに当たってその値はさほど関係が無い。


 去り際、エイルはトーマのHPを回復させ、肉体の耐久性を上昇させる魔法を使用した。そもそも怪我をしない《窓の使徒》にも効果はあるのかと本人に訊いたところ、純粋に受けるダメージ値が減るらしい。

 しかしそれでも、やはり心許ない。


 二人でかかれば倒せることに賭け、戻るべきか。二人では倒せないと仮定して、助けを呼びに向かうべきか。だがもし後者が正しいのだとしたら、果たして自分が仲間を連れて戻ってくるまでトーマは耐えられるのだろうか。

 と、そこまで思考が至ったところで、エイルはついに、それまで休みなく回転させていた足を止めた。


 無理だ。

 エイルがトーマを過小評価しているわけではない。トーマが、恐らく彼自身を過大評価しているのだ。あのときトーマに指示を受けたエイルは、反対することなく従った。しかし今になって考えてみれば、彼だって判断を誤る可能性は大いにある。なのにどうして素直に従おうと思ってしまったのか。

 それはきっと――……。


 きっと、心のどこかで『少なくとも自分は助かる』と思ってしまったから。

 胸の奥底に、己の身を可愛がる自分がいたから。


(……まただ)

 また、同じことを繰り返してしまうところだった。水竜アクアドロスとの戦いでも、似たような状況に陥ったではないか。結果的には無事だったものの、そうと知るまでは、あのときシェーラの言葉を信じてしまったことを心底悔やんでいた。仲間を置いて行ってしまったことを悔やんだのだ。


 だったら、たとえ自分も命を落とす結果になろうとも、後悔だけは絶対にすまい。そう思ったとき、エイル自身も知らず知らずのうちにきびすを返していた。

 今なら間に合う。

 自分に言い聞かせるように、その一言を頭の中で繰り返す。再び駆け出す。


 一方で彼女の口も、足と同等に高速稼働していた。無意識に紡がれる古代語の羅列は、《窓の使徒》でなくとも腕の一本や二本を容易に再生させるほど上位の、治癒魔法のスペル詠唱だった。それは、どれほどトーマがダメージを負っていようと彼のHPを全快させるだけの効果を内包していただろう。


 けれどそれが、実際に目に見える魔法として発動することは永遠に無かった。

 詠唱自体はトーマの元へ戻るより先に完了していた。あとは杖を振り下ろすだけだった。だがエイルが再び戦場へ戻ったとき、そこに魔法を向けるべき者の姿が無かったのだ。


 ――トーマがいなかった。敵もいなかった。


 激しい戦闘を思わせる痕跡は確かにある。床にはミミックの歯型や、恐らくトーマの魔剣技によるものだろう焦げ痕が残り、無数の氷柱が突き刺さった壁面は広範囲に渡って氷結している。

 しかしその空間はもはや、元から何もなかったように静まり返り、息の切れたエイルの呼吸音だけが岩壁に吸い込まれていった。


「嘘……」


 茫然ぼうぜんと立ち尽くし、力が抜けた手から杖が滑り落ちる。エメラルドグリーンの輝きを保っていた杖は、カランカランと音立てて地面に落ちたあと、光を失った。







 その日――。

 夏風冬馬は、死んだ。

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