第09話 人知れぬ命の衝突。

 シェーラは、波打つ神秘的な湖の、中心に立っていた。


 ここ六〇層の構造はそれまでと比較すると、明らかに異質であった。

 迷路ではなく、一つの広大なドーム状の空洞から成り、その半分以上を透き通った水が満たしているのだ。照明は無いが、代わりに壁面を覆うように《ヒカリゴケ》が生育し、それの放つ燐光が水面に反射して洞窟全体を薄青く照らしていた。


 陸と呼べるものは、湖の真ん中に顔を出す直径20メートル程度の円形の足場のみ。

 おそらく、水に沈んだ足場の内部は螺旋階段になっており、下層へと繋がっているのだろう。が、足元にある円形の入り口は十字に分割された四枚の石盤によって固く閉ざされていた。


 階下へ進むには。

 目の前の敵――つまりヌシを倒さねばならない。

 ぬめぬめと光る青灰色の鱗に覆われたその敵は、《ドラゴン種》と呼ばれ、モンスターの中でも特に恐れられる分類であった。現在は体が水中に隠れているため全姿を拝む事が出来ないが、その全長は30メートルを下らない。


 レベル60モンスター《水竜アクアドロス》。


 シェーラの眼前に聳えるドラゴンが天井高く頭をもたげ、長い首をS字型にたわめた。

 今にもはち切れんばかりに膨張した喉元には、一体どれだけの水が蓄えられているのか。そこに秘められた破壊力の絶大さは計り知れない。


「……良いでしょう。すべて、受け止めて差し上げます」


 その言葉の意味を理解したわけでもなかろうが、ドラゴンが細長い顎にずらりと並んだ鋭い牙を剥き出して、ふるる、と笑ってみせた。

 シェーラは重心を低く落とすと、左手に携えた盾に身を隠し、攻撃に備えて防御姿勢を取る。

 それに合わせて水竜がゆっくり、そして大きく、顎門(あぎと)を開く。

 次の瞬間――その喉元が急速に収縮した。


 しゅばっ!!


 と音を立てて、ドラゴンの口から超高圧の水流が一直線に解き放たれた。

 直後、金属質な衝撃音とともに盾の中心に一筋の激流が炸裂。亜音速で突き刺さった水が無数の飛沫しぶきとなって四散する。シェーラの想像を遥かに凌駕りょうがする圧力だった。


 だが一方で彼女の盾も、その攻撃に対抗し得るほどの硬度を有する至高の一品であった。世界中を探しても、同等以上の質を持つものは恐らく三〇と無いだろう。

 ゆえに水竜の攻撃が盾を貫通する事はなかったが――。

 如何いかんせん、装備者の体重が軽すぎた。


「くっ……」


 きつく歯を食い縛り懸命に抗おうとするがシェーラの体はみるみる押され、靴底から火花を散らしながら地面に一対の平行線を刻んでいった。数秒と経たず、足場の反対端にまで追いやられてしまった。

 このまま湖に落ちれば、バランスを崩したその瞬間に狙い撃ちされるだろう。

 シェーラは死を覚悟して、固く眼を閉じた。


 ――ここまで、か……。


 そもそも、戦闘における彼女の役目は《盾》ではないのだ。

 だが今、《盾》はいない。《支援》も、そして《回復》も。

 彼らは皆、シェーラを守って。その度に彼女が胸を痛めていることも知らずに、ただ『王の命令だから。役目だから』と、身代わりとなって。だから《回復》に魔力の限界が訪れたとき、シェーラは言ったのだ。


『お前たちは転移結晶で先に脱出して下さい。私もすぐに後を追います』


 嘘だった。

 元より、《水竜アクアドロス》を倒さずして、成果を上げずしてダンジョンを脱出する気など、さらさら無かったのだ。今ここで諦めたらそれこそ全てが水の泡となってしまう。

 国民の税から調達された、貴重な道具類も。

 シェーラたちの努力も。


 ここまで仲間と協力することで、なんとか敵HPの八割を葬ってみせた。三本あるHPバーの内、既に二本は消失している。残すは二割。

 たったそれだけをも削り切れずして、一体どのような顔をして戻ればいいのか、シェーラには分からなかった。だから、何としても負けられない。『死への覚悟』など何の役にも立ちはしないのだ。先にあるのは滅びだけ。

 だったら――――命が尽きるその瞬間まで、足掻いてやる。


「や……あああああ!!」


 シェーラはかっと見開いた瞳の奥に炎をたぎらせながら、己のものとは思えぬほど猛々しい雄叫びを上げて、盾を薙ぎ払った。そのとき彼女自身は意識していなかったが、盾全体が眩い白光を放っていた。

 バチィッ! とスパークが迸ったような乾いた音が響く。同時に、激流がほんの一瞬だけ押し返されたように見えた。


 だがそのごく僅かな間隙が与えた時間は、シェーラが反撃へ転じるに十分だった。

 ――右腕が火のように熱い。

 そしてその温度が伝染したが如く、剣もまた熱を帯び、空洞に満ちる青光を掻き消すほどに力強く光り輝く。焼き切れんばかりに限界まで加速された神経が、頭の中を白く染める。視界がちかちかと瞬いた。


「せえぇぇ――――いッ!!」


 烈帛れっぱくの気合と共に、文字通り目にも留まらぬ速さで剣を振るった。

 この時――。

 シェーラは何も考えていなかった。

 ドラゴンを倒さねば。という激しい使命感に埋め尽くされた脳に、『どの技を出そう』とか『どう剣を振ろう』などといった思考を巡らせる余裕は、一つまみすらも無かったのだ。意思ではなく、潜在意識に染み込んだ感覚が体を動かしたのである。


 火属性魔剣技《弐斬十字にぎりじゅうじ》。


 垂直に交差した唐紅のライトエフェクトが、空を裂いて飛翔し、ドラゴンの口から迸る水槍の先端と衝突した。

 ドンッ! と大気を叩いた衝撃波は、光景に相違無い激烈なものだった。連続的な輪となって炸裂し、壁面に亀裂を生み、洞窟全体を揺り動かし、空気を激しく震わせる。

 両者は数秒を中空でせめぎ合ったのち、弾けるようにその均衡を崩した。


 競り勝ったのは――シェーラの斬撃。残存魔力の全てと自身の意識までも乗せた、まさに全身全霊の一撃。


 赤々と輝く一対の光の帯は、止めどなく噴出し続ける高密度の白槍を、四の細流と幾千の雫に変えていった。驚異的な水の圧力にも屈することなく、それを切り裂き、発生源へと襲い掛かる。

 ついに水の源までさかのぼり――。

 ズバァ!! という歯切れのよい効果音を響かせて、ドラゴンの頭部に鮮やかなクロスラインを刻み込んだ。




 その一撃は間違いなく、アトラール王国史上最大の威力を孕んだ魔剣技であった。

 ダンジョンには十層ごとに、無限湧出モンスターとは一線を画す強さを持つ《ヌシ》が存在する。その一種たる水竜アクアドロスの有するヒットポイント量は、膨大と呼ぶに相応しいものだった。例えば、一万を超える国の下級兵士が同時に槍を突き刺して、ようやく抹消可能なほどに。

 だが、それの二割を消し去るだけの威力を、シェーラの《弐斬十字》は確かに内包していたのだ。

 減殺されることなく、命中していたならば。




 地面へ倒れ込む瞬間に、シェーラは見た。

 水竜のHPゲージががくっと減少し赤く変色した後、3本目のほんの一分にも満たない僅か数ドットを残して、停止するのを。


 ――ああ、ダメだった……。


 深い悲哀と、皆に対する謝罪と、そして圧倒的なまでの絶望が、彼女の中で渦巻き膨らんだ。『ギョオオオオッ!!』という水竜の咆哮が耳朶じだを打ったが、それももはや、どこか遠い世界での出来事のように感じる。

 体中の感覚が薄れゆく中――最後に、


「……ぉぉおおお!!」


 という、明らかに水竜のものでも、ましてやシェーラのものでもない雄叫びが、微かに聞こえた気がしたが――。

 それが幻聴かどうか確認する事さえ叶わず、彼女は意識を手放した。

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