富豪の夢

ネロヴィア (Nero Bianco)

【富豪の夢】

 今日も10時丁度に私は起き上がる。自分では規則正しい生活をしているという気はないのだが、体が覚えているというか、生まれてから今までの26年もの間続けてきた癖のようなモノと言っても良いだろう。ぼーっとしたままの頭をゆっくりと動かしながら一階へと降りていく、トースト2枚にスクランブルエッグとサラダの乗ったプレートが真っ白なテーブルクロスの上に置かれている。カトラリーは寸分の狂いもなく平行に並べられ、卓上花は昨日の白いガーベラと代わって、今日は黄色のユリの花が甘い芳香を漂わせていた。

「ご主人様、既に料理は仕上がっております。」

と、白髪に長い髭を蓄えた60代の紳士風の男がシワ1つ無いスーツを着込んで壁際に控えている。表情は柔らかく、一切崩す事のない姿勢には、彼の高い資質が見て取れる。

「あぁ、いつも助かる。君のような優秀な執事が居てくれてとても嬉しいよ。」

そう私が呼びかけると、彼は毎度のように「はい、光栄です。」と決まって返した。口癖なのか、それとも慣れの結果なのかは分からないが、とにかくそれが私にとっての日常の始まりに交わすある種のやりとりだった。


 まだ湯気が立ち上る食事を取りながら、最近良く見る夢について考え事をしていた。その夢の中に限って言えば、私はどこかの企業に務める労働者であり、毎日残業を繰り返しながら死んだような目で自宅と職場を行き来しているのだ。たっぷりのバターとシラップを載せたトーストを切り取って口に運びながら、この事を彼に話すと、「そうですね…」と暫く考え、うぅーんと唸ると、何か合点がいった様にパッとこちらを見て答えた。

「もしかして、ではありますが…ご主人様が若い頃に苦労なさった事を思い出しているのではありませんか?ほんの一時期ですが、お父様の命により社会勉強と称して企業にお勤めになった事、私めは未だにしっかりと覚えておりますよ。」


「あぁー、確かにそんなこともあったな…。でもあの時はこんな小さな企業では無かったはずだ、待遇だって夢の中身とは比べ物にならないぐらいで…。」


「はい、働くと言っても貴方様はこの財閥の大事な跡取りです。あの時にお父様がご用意されたのは我らが直下の証券に係る一大企業でした、私めも到底その夢に出てきた企業だとは思えません。」


 残念だが結局の所、さっぱり答えは出なかった。ボーン、ボーンと11時を知らせる柱時計の音が屋敷中に大きく響いた。考え事をしながらの食事はいつだって短く感じられる。何も無くなった皿にナイフとフォークを置いて席を立つ、壁掛けの電子カレンダーは土曜を示している。いつもの様に着替えて屋敷を出ようとしていた自分にハッと気がついて、休みであったことを思い出す。いくら財閥の息子であれ、傘下企業の視察や、記者団への会見などやるべき事は多々あった。それなりに多忙な毎日に追われ、いつしか日付感覚を失った自分に少しばかり反省することになろうとは、

だからといって今からゴルフやテニスに出かける気にもなれない。執事に言い訳を含めた断りを入れると、「たまには休日を寝て過ごすのも悪くはないでしょう、後で新鮮なフルーツを届けさせます。どうかごゆっくりお休み下さい。」と心よく許してくれた。またも2階に戻り、ミニコンポの電源を入れ、流れるクラシックを聞きながら目を閉じる。開けっ放しの窓からは時折、穏やかな風が入って来る。こんな時を幸せと形容するのだろうかと何となしに考えながらふーっと息を吐いた。


 …体中が酷く痛む、心拍は不思議なほどに高鳴り、その一言で現実に引き戻される。「…君…。おい!聞いているのか!何度言ったら済むんだ?今日までにあと8件の契約を取って来いとあれほど言っただろう?出来なかったのか」


「すみません…すみません…。明日までには…明日までには必ず…。」


「あぁ?そう言って出来た試しがあるか?忙しいのはお前だけじゃ無いんだよ、皆そうだ、だからお前だけがただ一人休んでいい理由が何処にある?今日中に取って来い、ノルマはプラス5件だ、さっさと出て行け馬鹿野郎。」


「はい…すぐに向かいます…。」


強面の上司に半ば脅されるようにして私は事業所を後にした。と、いっても最早この辺りに行くアテは無い。大型FAXの販売を行う部門の所属ではあるが、今時何処もそんなものを必要とはしていないのは明白だった。小さな食堂のショーケースに反射した私の姿は、シワだらけのシャツに死んだような目とその下のクマ、今日で12連勤の体はもとい、精神すらもすり減り、ボロ雑巾のようにまで使い尽くされていた。


「はぁ…。あと13件かぁ…。…そういえばこの辺りに幾つかボケ老人が住んでいた

ような、その人達になら適当にはぐらかせば買ってもらえるかも…。」


頭のなかに一つの妙案が浮かぶ、マトモな場所に売れないのならそうしてしまえばいい、相手は何も知らないだろう、少し小突いてやればすぐに乗り気になってくれる。型落ち品のこの機種でさえ、あるいは、もしかして。


「ああっ!もう!俺にそんなこと出来る訳がない、人を騙して買わせるなんて…そんな事は死んでも御免だ。それならいっそのこと…。いや、今は次の顧客を見つけるのが先だ、こんな所で何を呟いてもどうこうなる訳じゃない。」


路地裏で独り言を話し、思いの丈を洗い浚い吐き出すと、また次の営業先開拓へと向かう。きっとまた断られるだろうが、ここで失敗したらそれこそ職を失う羽目になる。なんとかここを耐えきれば…なんとか…。覚悟を決めて一歩踏み出そうとするがどうしてもその先に足は進まない。それどころか帰りの駅の方面へと勝手に進んでいく。自分の意志から体が離脱したような例えようのない不快感に胃の中に残った何かを路上へ吐き出してしまいそうになる、私なのに私ではない何かがいるように。


「―――っ…!?」

『また』だ、ここ何日も繰り返される悪夢に私は魘されて目覚めた。ベッドにはシミを作るほどの冷や汗がべっとりと付着し、額を拭った右手は青白く震えていた。相変わらず開いたままの扉から見えた陽は大きく傾き、枕元の時計は5時を指していた。

真横の低いテーブルに手を掛けて起き上がろうとすると指先で何かがぐしゃりと潰れた。それと同時に広がる酸の効いた甘い香り、整理のつかなかった脳内を一度にリセットさせるように芳しいそれは紛れも無いグレープフルーツであった。

「あぁ、そういえば後でフルーツを届けさせると言っていたっけ。やっぱり彼以上に信頼できる人間はそうそう居ないな。」


「お目覚めで御座いますか?」


物陰から聞き慣れた低い声が聞こえる。父の言葉のように優しく抑揚のついた声の先にはあの執事が穏やかな顔をして立っていた。

「え…?いつから…ここに?」


「先程2階から苦しむような声が聞こえたので、何事かと思い馳せ参じた次第です。

その様子ではどうやらまたも同じ夢に苦しんでいるように思えますが。」


「…あ…それは…。」


「どうやら図星だった様に御座いますね?あれから私も私なりに考えたのですが、もしかして…と言うのが一つ…之ばかりは私一人ではどうも判断出来かねますので、専門の精神科医をお呼びしております。」


「医師だって?待ってくれ、私はそんな物に係る気は無い、第一この何処に障害があるって言いたいんだ?至って健康そのものじゃ無いか!いい加減にしてくれ!もう滅入ってしまいそうなんだ。これ以上私を苦しめてどうなる!」


「しかし…」


私の激昂したような態度に萎縮したのか彼は何か言いたげな口を閉ざして、ただただ「では、そのようにしておきます。」とだけ話して部屋を後にしていった。陽は先程よりも傾き、地平線に底部を擦るように沈みかけていた。重い体を無理やり引き起こして立ち上がると吹きっぱなしの窓をバタリと閉めて外を眺める。濡れた体をシャワーで洗い流して外向きのシャツに着替える。

「こんなことでは折角の休日が台無しじゃないか、運動も兼ねてリフレッシュしにでも行こう…。こんなんじゃいつまでも不快なままだ。」

誰に言い聞かせるでもなく放った独り言で自分自身を鼓舞しながらテニスラケットの入ったバッグを背負って家を出た、夕焼け空の今日は心地よく、何時ものコートに着くと何人ものプレイヤーが今まさに試合を繰り返しているまっただ中だった。

「やぁ」と右手を上げて挨拶すると、一人のレフェリーがこちらを見てにっこり合図すると試合予定表に私の名前を書き込んでくれた。「さぁ、もうすぐ出番ですよ」と言う彼に小さく会釈をすると、そこからはあっという間に時間が過ぎていった。周りな闇に包まれ始めると周囲のライトが驚くほどの鮮明さで辺りを照らしだした。直視できない程の明るさに包まれながら何ゲームかプレイすると先ほどまでの感情はもう何処へ行ったのか、爽快感と満足感へと変わっていた。乳酸でパンパンに膨れ上がった足に冷却スプレーを吹きかけて家路につくと、玄関では執事が私の帰りを予知していたかのようにドアを開けて出迎えてくれたではないか。「先ほどは済まなかったね。」と一言呟くといつもの態度で「いえ、お気になさらずに。」と彼は答えた。

いつもの場所へ戻るとベッドライトがまるでさっきのコートのライトの様に強く強く光り輝いていた。だがそれは同時に不思議なまでの安堵と懐かしさのような感覚を呈していた。私はその光に身を委ねるように体を投げ出した。目の前には言われえぬ程の幸福と快楽が満ちた世界が待っているのだと心の何処かで何故か確信していた。


都会の喧騒に紛れ、都心の中央にある大きなスクリーンは一人の死を伝えている。

「本日午後8時、都営地下鉄で発生した飛び込み事故で都内在住の26歳の派遣労働者の男性の死亡が確認されました。…男性は上司から過度のパワハラを受け、統合失調症を発症していたと見られ、警察では企業への一斉捜索を…


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