月の兎 太陽の烏
TACO
第0話 ウラシマの話
男の名はウラシマといった。
平均寿命が40歳に満たないこの時代において、ウラシマはすでに30を超えている。もう初老にさしかかっているといっても過言ではなかったが、背が高く、筋骨隆々。その背筋の伸びた立ち姿からは「老い」などと言う言葉はみじんも感じられない。
ウラシマは、西の浜辺にある、小さな村の長だった。
朝早くから起きて村人とともに漁に出る。夕暮れ時になると海から帰ってきて、そしてこうして一人になって、西の空を見つめる。空に浮かぶ太陽が西の海に沈んでいくさまをじっと見つめ……太陽が西の空に七割方顔を沈ませたところで、ようやく娘たちの夕飯の支度を思い出し、急いで家路につく。
それが、ウラシマの毎日だった。
ウラシマには、娘が二人いる。
上のトヨは10歳になる。
ウラシマは背が高く、均整の取れた美しい体つきをしていたが、顔の方は人々が気を遣って視線をそらすほどに残念な顔立ちをしていた。腫れぼったい目、ニキビの痕跡がくっきりと浮かぶ大きく膨らんだ団子鼻、過度に突き出たあごと頬骨……ウラシマの顔の残念さを挙げればキリがないが、何より、幼い頃に鬼ヶ島に迷い込んだときに付けられたという、顔の真ん中に横一文字についた傷が、彼の顔の醜さを際立たせていた。
だが、12年前、そんなウラシマ「人柄に惚れた」と言って、最初の妻が嫁いで来た。村の長老たちは諸手を挙げて喜んで、二人の結婚を盛大に祝福した。
最初の妻が子を孕んだときにはどちらに顔が似るのか……村人たちは余計な心配をしたのだが、生まれてきたトヨは美人の妻にしか似たところのない美しい赤ん坊で、長老たちはほっと胸をなで下ろした。
下のタマは四つになる。
最初の妻は、トヨを産んでから十日もしないうちに産後の肥立ちが悪くて亡くなってしまったが、生まれてまもなく母を亡くしたトヨを不憫に思った村の娘が、押しかけ女房としてウラシマの元に嫁いできた。
六年経って後妻がタマを産んだが、やはり後妻もタマを産んで一年もしないうちに厳しい冬の流行病で亡くなってしまった。
それ以来、村の長老たちがいくら「次の妻を」と勧めても、ウラシマは首を縦に振らず、男手ひとつで娘二人を育てている。
小さなタマは、いつも大事そうに小さな箱を抱えていた。
父がまだ若い頃、この西の村にたどり着く前に住んでいた村で出会った、初恋の少女にもらった箱だという。
鮮やかな緋色の組紐で封じられたその箱を気に入り、タマはいつも、どこに行くのにも抱えていたから、いつしか村人たちはその箱を「玉手箱」と呼ぶようになった。
箱は、タマが振るたびにカラカラと美しい音を奏でる。タマは「この中には何が入っているのか」とウラシマに尋ねるのだが、母と会う前の恋の話など娘に聞かせることが恥ずかしいウラシマは「この箱を開けると、中から煙が出てタマを包み、タマはたちどころにおばあさんになってしまう」などと教えるもので、幼いタマは怖がって箱を開けようとはしない。
だが、姉のトヨはその箱の中身を知っている。
箱の中には小さな櫛がひとつ。
おそらく、その初恋の少女からもらったものだろう。
――お父様が、毎日海を眺めているのだって……
トヨは、いつも父が眺めている方角の海を眺める。
太陽が沈むその方角には、小さな島があった。
ウラシマはその島を「鬼ヶ島」と呼び、村人たちがその周辺で漁をすることを禁じ、自らもあの島に近寄ることはなかった。
トヨは、思う。
おそらくあの島が、父がこの村にたどり着くまで、幼少期を過ごした島なのだ。初恋の美少女ともきっと、あの島で出会ったのだろう。
二度目の母を亡くしてタマを育てるようになった頃から、トヨはあの島に想いを馳せてきた。
自分はもう10歳になる。
もうあと二年、三年もしないうちに、村の長者の家に嫁いでいくだろう。小さなタマと、ひとりでは満足に食事も作れない父を残して嫁に行くのは気がかりだった。
――あの島にいらっしゃる初恋の姫君が、父のお嫁様になってくださったら……。タマの母君になってくださったら……。
そんなことを思いながら、トヨはひとり……ただ、海を見ていた。
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