第2話








 露路さんは、自分は玉の井という土地に住んでいるのだ、と言った。

「玉の井…… 聞いたことないですねぇ。駅はあるんでしょうか? 何線ですか?」

「省線の駅があったはずなんです。でも、どうしても乗り換えがむつかしくって、駅が見つからないんです。どうすればいいのか……」

 ためらいながら歩いていく露路さんは、なんだか、ずいぶんとおびえているというか、困惑しているみたいだった。あたりをハトみたいにきょろきょろ見回しているということが感じられるし、やたらと僕の腕にしがみついてくる。そんな露路さんの頭は、たぶん、僕の肩くらいの高さにしかならないだろう。ずいぶん小柄だ。声は可愛いけど、いったい何歳なんだろう。

「省線って、私鉄ですかねぇ? はて、僕には見当も付きませんけど…… 駅員さんに聞いてみますか?」

「だめ!」

 僕が言うと、露路さんは、びっくりするような大声を上げた。僕が思わず白杖をとりおとしそうになると、露路さんは、慌てて声を低くする。

「あ、すいません…… あの、でも、駅員さんは危ないんです」

「危ない?」

「わたしのことを攫った人たちの、仲間かもしれないんです」

 ……いやまさか、そんなことはないと思うけれども。

「現に、わたしが道を聞いたら、人攫いたちを呼び寄せてきたことがあるんです。警察も油断できません。やっぱり、わたしのことを探している連中の仲間だったりするんです」

「失礼なことを聞くかもしれませんが、なにか、心当たりがおありで?」

「わかりません……」

 露路さんは、しょんぼりと言った。

「でも、もしかしたら、人買いの仲間なのかも」

「人買いっ?」

「ええ。……あの、学生さんなのにご存じないのでしょうか? 玉の井あたりには妓楼がたくさんあるんです。うちの家も、そういう妓楼のひとつなんです」

「ははぁ……」

 妓楼? もしかして、京都のほうの人なんだろうか。あ、でも深川あたりにはそういう家がまだあるという話も聞いたことがある。どっちにしろ、今の時代だともったいないくらいの高級な座敷じゃないと、そういう人たちは置かない。どっちにしろ露路さんはずいぶんなお嬢様らしい。

「わたしは人買いの人を何度も見たことがありますけれども、みんな、田舎のまずしい家あたりから、綺麗な娘さんたちをさらってくるんです。そうして芸を仕込んで芸妓にするんです」

 露路さんは、なんだか、とても切なそうな声で言った。

「わるいことなんだと思います。そういうことをしないと、実家が立ち行かないのです。でも、そういう悪いことをしていたから、わたしが人攫いなんかにかどわかされたのかもしれません」

 ―――かどわかす。うーん、なんだかいちいちレトロな響きだ。

 露路さんの謎の正体に僕が悩んでいると、「あ!」と声が横から聞こえた。露路さんが僕の腕をひっぱった。

「みつけました、浅草がありました!」

「浅草ですか。近いんですか?」

「あんまり…… でも、浅草からバスに乗れば玉の井までいかれます」

 なるほど、浅草だったら、まだ芸者さんがいても不思議はない。えーっと、浅草にいくのは何線だったっけ、と僕は考える。あんまりいかない場所だったからなぁ。目が見えれば携帯の検索でいっぱつなのに、と思うといちいち不便で腹が立つ。ああもう。

「えーっとですねぇ、都営浅草線に新橋で乗り換えて、新橋に行くには…… 山手線?」

 山手線は偉い。山手線は無敵だ。こういうとき、とりあえず乗れば大きい駅にたどりつくというのがありがたい。

「じゃあ、僕には料金が見られませんので、とりあえず新橋までの切符の料金を調べてもらえますか? えーっと、そうですねぇ、切符売り場にいけば、上に料金表があるはずなんですけれども」

「切符売り場…… 切符売り場が、ありません」

 露路さんの困惑した声。僕は度肝を抜かれる。

「ええっ!?」

「どこにも売り子さんがいないんです……」

 うーむ。

 こりゃ深刻だ、と僕もまた、おもわず考え込んだ。

「露路さん」

「はい?」

「アナタはもしかして、とほうもないお嬢様なんじゃないでしょうか? おうちにメイドさんはいませんか。お手伝いさんでもけっこうです」

「は、はあ、お手伝いさんなら何人もいますけれども」

 ―――決定だ。

 僕はこのときほど、自分の目が見えなくなったことを呪ったことはない。いや、何度もっていうか、実は毎日のように呪っていたんだけれども、この程度の表現は修辞的に許してもらいたい。

 僕は、なんと、『お嬢様』という生き物と、腕を組んで歩いているのだ!

 家にはメイドさんが何人もいて、しかも、古くから伝わってきた芸事を守り続ける家の娘さんときている。そして小柄で声も可愛い。どんなに美人だろう! というよりか、美少女だろう!! 僕はギリギリと歯軋りをしてくやしがりながら、万歳をしてよろこびたい気分にかられる。友人どもにココロから自慢してやりたい。僕はなんと、本物のお嬢様ってもんと偶然知り合ってしまったのだ。しかも(本人曰く)人攫いにかどかわされたところを、すんでのところで助けてあげたのだ。僕はヒーローだ。白杖をもったヒーローだけれども。

「露路さん!」

 僕は、露路さんの手を、ぎゅっと握り締める。

「僕のことはこれから『セバスチャン』とおよびください」

「は、はぁ?」

「……いえ、冗談です」

 まあ、やめておこう。オタクがバレる。そういえばアキハバラにもずっと行ってないなあ、などと思いながら、僕は辺りを見回した。どうせ何も見えないからって、習慣くらいは許して欲しい。

「ええっとですねぇ、そのあたりに自動券売機があるはずなんですけれども…… あのうすいません、そこのお方ー」

 とりあえず、適当なあたり、人のいそうなところに呼びかける。すると、ちょっとずれたあたりから、「なんですか?」というおびえた声が返ってきた。お、見事一匹ゲット。

「すいませんが、新橋までの切符が欲しいんですけれども、残念ながら料金が分かりませんので、切符が買うのを手伝ってはいただけないでしょうか?」

 日本人というのは基本的にボランティア精神がたりない、というのは僕がこの一年で学習したことの一つだった。

 でも、同時にある程度なら、日本人は親切である、というのも真実だ。

 僕が声をかけた相手(推定、善良だけどボランティア精神にかけたサラリーマン)は、僕のお金をパクることもなく、ややおびえながら、でも、丁寧な態度で切符を買うのを手伝ってくれた。僕はていちょうにお辞儀をして彼を見送った。お辞儀の方向がずれていたとしても、まあ、気にしないでくれるだろう。

「どうですか露路さん」

 僕は芝居っけたっぷりに、露路さんを振り返った。

「日本人というのは、意外に冷たいが、礼儀ただしくて親切です。真理だと思いませんか」

「な、なるほど……」

「まあ、彼らがおびえているのも理解は出来ます。ようするに障害者にたいしてどう対応したらいいのかが分からないわけですからねぇ。社会の課題というかなんつーか…… まあ、電車に乗りましょう」

「はい、乗りましょう」

 しかし、そう答えた露路さんの足が、けれど、またぴたりと止まる。どうしたのかと思いきや。

「……改札がありません」

 うーむ。無いはずがないんだけどなあ。

 僕は耳を澄ましてみる。いろんな音が聞こえてくる。そのなかに改札の音がないだろうか? いや、そもそも券売機の隣にはたいてい改札がある。たぶん、露路さんには、それが改札だと分からないだけなのだ。

「露路さん。あなたにひとつがんばってもらいたいことがあります」

「はい、なんでしょう」

「ええとですねえ、このあたりに、何か細長い機械がいくつもならんでいて、門みたいになってるところがあると思うんですよ」

「はい、ありますね」

「そこにですね、僕をこう連れて行って、横のほうの細長い隙間に、切符を入れて欲しいんです」

「……いれると、どうなるんですか?」

「ガシャコンと切符に穴が開いて、向こうの隙間から出てきます」

 しばし、露路さんは絶句した。

「それはつまり、機械で出来た車掌さんが、切符を切ってくれるということですか」

「そのとおりです」

 僕が重々しく言うと、露路さんは、しばらく黙っていた。感動していたのかあきれていたのかは知らない。ちなみに僕はその両方だった。露路さんのあまりの箱入りっぷりへの感動だった。

「まあ、とにかく参りましょう。ちなみにアレは『自動改札』というモノなのです。実は切符を裏返しにして入れても、なぜか表向きになって出てきます」

「どうしてですか!?」

「わかりません。そういうものなのです」

 僕は重々しくうなずいた。露路さんは、またしばらく黙った。しばらくたって言った。

「まるで、ここは、違う国みたいです」

 まったくもって、そのとおりだった。



 僕たちは紆余曲折あって、なんとか電車に乗り込む。僕たち二人の周りにはなんとなく空間が出来た。まあ、経験済みだ。夕方の込んだ山手線にもかかわらず、僕らの側からはなんとなく離れていこうとするような気分が回りに感じられる。

 そうだよなあ。僕だって、晴眼者だったころは、あんまりこういう人には近づかないほうがいいなと思っていた。なんというか、ちょっと怖いというのがそのココロだった。なってみると噛み付きもしないのになんでだろうと思うけれども、まあ、たしかに地面がぐらぐらするのに弱いから、転びやすいというのは真理かもしれない。

「日下部さん、ここ、手すりですよ」

「おお、ありがとうございます」

 露路さんが金属の手すりに手を導いてくれるので、僕はありがたくそれに従った。露路さんは気が利く。さすがお嬢様だ。

 でも、僕は手すりを持っても、露路さんの手を離さなかった。

「ええとですね、露路さん。ここからしばらく行くと、新橋の駅があると思われます」

「はい」

「そこでおりて、地下鉄に乗り換えると、浅草まで行かれます」

「あの、すいません、質問なんですけれども、『ちかてつ』ってなんですか?」

「地下を走っている電車です。こう、モグラのごとく、アリのごとく、地面に掘ってある穴の中をすすむのです。残念ながら新しい路を掘り進むことはできないようですが」

「……それは……」

 露路さんが絶句するタイミングがだんだん分かってきた。うん、分かってくるとなかなか面白いし、可愛いな、これは。

「……鉄道省がそんな技術を開発していたなんて、知りませんでした」

 露路さんは心から困惑し、嘆息する。僕はそんな露路さんの手をこっそり握り締める。露路さんは気付いているのか、いないのか。

 ひんやりとしてて、小さくて、華奢な手だった。

 僕は露路さんの顔が見られない。だから、僕にわかるものはこの手と、露路さんの声だけ。ちょっと低いけど可愛い声と、それから、すべすべしたこの手。

 ―――想像して欲しい。僕の世界に何があるか。

 片手には握り締めた鉄の手すりがある。世界はごとごとと音を立ててゆれている。人がたくさんいる気配があるけれど、誰も僕たちのほうを見ようとしない。なにかひっそりと黙り込んだ視線を感じる。……とても、居心地が、悪い。

 でも、そんな中で、露路さんの手だけはためらいなく僕の手を握ってくれている。露路さんは、少なくとも、僕のことを疑わない。僕のことを頼ってくれている。

 真っ暗な世界。ごとごとゆれる闇。見えないどこかからの視線。そして、露路さんの手。

 露路さんの手。



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