回想列車に乗って

とくぞう

第1話

ちょっとだけ、実験してみてもらいたいことがある。

 人があふれかえった夕方の東京駅で、目を閉じて歩くと、どういうことになるのか。

 目を閉じた最初は、周りの風景も把握できているだろうから、あまり困ったことにはならないだろう。でも、周りはひっきりなしに人が歩いている。四方八方から音が聞こえる。転ばないように注意しながらすり足で進むと、やがて足元になにかが触れる。点字ブロックだ。とにかく、ここで一回安心できる。

 でも、問題はまだ続く。

 点字ブロックをたどってあるいたところで、すぐに、何歩歩いたかなんて忘れてしまう。目をつぶって歩くとどうなるか、の一つの大問題がここにある。目をつぶっている、すなわち、そこには『空間』という概念が存在しなくなるのだ。

 ちょっと難しい話だろうか? 詳しく解説しよう。

 たとえば、道を歩いている。100m先に木が生えている。あなたは一歩で1m進むことになっている。非現実的だとかいうつっこみはやめて欲しい。とにかくあなたは百歩歩く。100m進んで無事に木に到達する。これでいい。問題はない。

 けれど、これが目をつぶっている場合はどうなる?

 あなたは100歩進む。その結果、木に到達する。でも、それがあなたが『空間的に』移動した結果だと、誰に言える? あなたがベルトコンベアーだか歩く歩道だかに乗っていて、100歩あるいたところを見計らって誰かが目の前に木を差し出したのかもしれない。それを見分ける方法はあなたには存在しない。


 つまり、僕にとって、目が見えないというのは、そういうことだ。


「……こまったなぁ」

 僕は困りきり、とりあえず壁際に立ち尽くしている。すぐ横にあるのは、たぶん、コインロッカーだと思う。冷たい鉄の感触からそう分析する。しかし、それだけ分かったって仕方がない。では分析をうつろう。足元、白杖でさぐれば触れるだけのすぐ側には点字ブロックがある。あれを辿っていけばとりあえずどこかにはいけるのだろうと思うが、とりあえず、ブロックは目の前でストップしてしまい、そこからどこか先に行くような様子はない。戻ろうと思えば辿って戻ることも出来るんだろうが…… 残念ながら、僕には、四方八方の人から突き飛ばされるへルター・スケルターの中に戻る覚悟はない。そういう意味だと、この点字ブロックという代物も、なんとも便りない黄色いレンガの道ではある。

 そもそも目の見えない人間が困って立ち尽くしてるんだから誰か声かけろやボケ、とも思うんだけど、自分が晴眼者だったときにそうしたかと言われると、沈黙せざるを得ない。だいたい『晴眼者』ってなんだ。僕も自分が白杖をもつようになって初めて知った言葉である。

「うーん」

 障害者というのは不便という意味である。初めて知った。いや、当然知ってはいたが、ここまで決定的に思い知らされたのは初めてのような気がして少々凹んだ。僕は壁に背中を当てたままずるずるしゃがみこむ。地面は冷たかった。どうやらコンクリートらしい。

 向こうのほうから足音がたくさん聞こえてくる。硬い足音、ヒールの足音、スニーカーの軽快な足音。人間、目をふさがれると聴覚や他の感覚が敏感になる。落ち込みながらも耳を澄ましてみると、案外、人間の足音というのにも風情があるものだ。急いでいる足音、ためらっている足音、困っている足音……

「人間の足音って、意外と風情があるもんだとは思いませんか?」

 そこで、僕は、目の前に立ち止まった『誰かさん』に、そう切り出す。

「は、はあ?」

「足音は人生を語る。たとえば、サラリーマンの磨り減った靴底はくたびれた人生を語り、若い女性のつっかけのヒールの音は瑞々しく張り切った人生を語るわけですよ。つまり、街角でこうやって人の足音を一人聞いている僕は、いわば、街の歌を聞く聴衆という立場に立たされているわけですよ」

 僕はそこで言葉を切る。

 ……反応はない。

 そこで僕は潔く謝った。

「嘘ですごめんなさい。たんに道に迷って困って座り込んでるだけでした」

 僕がそういうと、相手の誰かさん…… 僕の目の前に立ち止まってくれた親切な誰かさんは、「はあ」と言って、それから、可笑しそうにくすりと笑った。

「もしかしてお困りなんでしょうか?」

「はあ、その通りです。お察しの通り。どうにも困り果てておりまして」

「ええと、もうひとつ、もしかしてあなたは目が悪いのでしょうか? つまり盲人さんなんでしょうか?」

「最近の言葉だと通常は『視覚障害者』といいますが、その言葉もなかなか風情があってよいものです。はい、そのとおり、僕は盲人でありまして」

 よっこらしょ、と僕は立ち上がる。相手は見えない(当然だ)けれど、声からすると少女、それもけっこうな美人な気がする。ラッキーだ。見えなくたって、そりゃ、美人のほうがそうじゃない人よりも好ましく感じられるに決まっているのである。僕だって男なのだから。

「聞いてくださいお嬢さん。今をさかのぼること、1年前の話ですよ」

「はあ」

「僕は大学の友人どもといっしょに、旅行に行くことになりまして、バスに乗っていたんですよ」

「はあ」

「そこがバスが、こう、グワッシャーン! バキーン!! という感じで事故ってしまいまして」

「はあ」

「幸いなことに僕の友人どもは最高でも一年の入院で済んだんですが、問題はこの僕ですよ。ちょっと頭を打っただけのはずだったのが、家に帰ってご飯を食べて、歯を磨いて風呂に入って、それから寝ておきたらですよ」

「はあ」

「なんと、きれいさっぱり目が見えなくなっておりまして」

「……それはお気の毒に」

「そうなんです。気の毒な話なんですよ」

 はあ、と僕ががっくりと肩を落とすと、目の前の推定お嬢さんは、しばらくして、ぷっ、と吹き出した。僕はニヤリと笑う。やっぱり、こういう反応じゃなくっちゃ。

「ところで推定きれいなお嬢さん、ええと、僕の中だとアナタは年齢なら15・6歳くらいのうるわしいお嬢さんということになってるんですけど、アナタはもしかしなくても親切にこの僕にお手伝いをしてくださるおつもりですね?」

「ああ、はい。もしもお役に立てるんだったら、と思ったんですけれども」

「そいつは重畳」

 僕はうやうやしく手を差し出した。

「ええとですね、僕のような視覚障害者を案内する場合はですね、こう、腕を組ませていただくのが適切らしいです。もしかしたら失礼に当たるかもしれませんが、セクハラするつもりはちょっぴりしかありませんのでご安心を」

「え、えっと、こうですか?」

 彼女はどうやら僕よりだいぶ小柄らしかった。腕は細い。近くに行くと、なにか、いい匂いがした。何の匂いだろう。香水のように強く主張することのない、ひかえめな、けれども、気持ちのいい匂い。

「で、あなたはどちらへ行かれるのでしょうか?」

「そこが問題でしてね、とりあえず、そこらへんの喫茶店にでも案内していただければ嬉しいんですが」

 僕は重々しく言った。

「実は僕は…… 家出人でありまして」

「まあ」

「積もる話があるので、ここだとかいつまんで話しますが」

「はい」

「ようするに僕は事故以降さまざまモロモロな未来へのイロイロへと悩まされておりまして、家に閉じこもりがちな日々を送っていたんですが、ある日、そのことで母とけんかをしてしまいまして」

「はい」

「バッキャロー目ぇ明かねぇからって舐めんじゃねぇこれでも一人前の男だってんだよぉ! と啖呵を切って飛び出してきたのはいいのですが」

「はい」

「東京駅まできて、はたと思いついたのですよ。僕には行くあてがないし、そもそも、どこでどの電車に乗ればどこにつくのかもさっぱり分からない、と」

「……それは大変ですね」

「大変なんです」

 僕は、またもや、非常に重々しくうなずいた。彼女もどうやら、同意してうなづいてくれたらしかった。なかなかノリのいい人だ。つっこんでくれないのは少々物足りないけれども。

「ということで、どこぞの喫茶店にでもいって、今後どうしようかを検討しようかと思っているのですが…… ところでお嬢さん、お嬢さんはどちらへ行かれるつもりで?」

 そこで、彼女は、はっ、と短く息を飲んだようだった。

「その、わたしは」

「何か事情がおありですか?」

 僕でお役に立てるなら、というと、彼女はしばし逡巡したようだった。けれども、やがて、やや疑りぶかさを残した声で問いかけてくる。

「すいませんが、あなたのお名前は?」

「ああ、すいません。申し送れました。日下部慈郎と申します」

「わたしは正岡露路です。……あの」

 ややためらっているのが伝わってくる。一体なんなんだろう。僕はいぶかしむ。やがて彼女は、きっぱりと言った。

「わたし、家に帰りたいんです」

「は?」

「実はわたし、逃げてきたところなんです。その、人攫いのところから」

「……ひとさらい?」

 お嬢さんあらため露路さんは、僕の手をぎゅっと握り締めた。その手が震えていた。不安が伝わってくる。しかし、こりゃいったいどういうことだと僕はひたすら混乱する。誘拐だって? 誰が? なんで?

「でも、外に出たら、よっぽど遠くにつれてこられちゃったみたいで、どこがどうなってるのかまったくわからなくて…… その、がんばって大きな駅まで来たんですけど、そこから先、どうしたらいいのかがぜんぜん分からないので、困ってたんです」

「よっぽど遠く…… もうしわけありませんが、露路さん、あなた、日本人ですよね?」

「ええ、日本人です」

 きっぱりと答える。

 ……そうだよなあ、言葉にも変なイントネーションはないし。

「家出というのなら、お願いします。日下部さん、もしも助けてくださるんだったら、わたしが家に帰る手伝いをしてくださらないでしょうか?」

 露路さんは僕の袖をぎゅっと握る。必死だ。その心が、手からも伝わってくる。どうやら彼女の言ってることは本当らしいと僕は思う。いや、本当かとにかくは横においておいて、とにかくその『切実さ』は本物だ。うーん、と僕は思った。

 お金はある。時間もある。暇もある。

 家を出るときに、とりあえず、万札を何枚か引っ張り出してきた。母は昔っから同じところに金を保存する癖があるから、盗み出すのは簡単だった。これだけあればとりあえず一泊くらいは出来るだろう、という程度の金額はある。

 それに、僕ひとりじゃあ字も読めないし困ってしまうが、露路さんに手伝ってもらえばそれなりにそこらを歩き回ることは出来るだろう、と思う。


 ……このあたり、実はあとで考えると冷静になれ、という感じなのだが、僕もたいがいヤケだった。


「……わかりました」

 僕は、どん、と胸を叩いた。

「不肖、この日下部慈郎22才、お役に立てるものなら、立たせていただきたいと思います」

「本当ですか!?」

 露路さんの声が跳ねる。僕はちょっとだけドキッとする。女の子のはしゃいだ声なんて、どれくらいぶりに聞いたことか。

「ああ、ありがとうございます。うれしいです。日下部さんみたいに親切な方にあえるなんて、思ってもみなかった」

 僕の手をぎゅっと握り締める露路さんの手は、そして、少し冷たかった。どことなく、懐かしい手だった。


 

 ―――そして、僕たちの奇妙な旅は、そうしてはじまった。


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