リサ
私が彼と出会ったのは、今から十年と百十五日前。
この世に『愛』という、不確かだけど確実に存在する感情を、初めて知った日。
私は物心ついた頃から、両親や同年代の男女と上手く接する事が出来なかった。理由は色々あるけれど、決定的なのは、みんなの私を見る目だ。
別の人種を見るようなみんなの視線。
自分で言うのも何だが、幼い頃から勉強も魔法も人並み外れていて、肩を並べる者がいなかった。
結果、私は上の学校に入る事になる。飛び級というやつだ。現実世界で言えば、小学生が大学へ行くようなものか。必然的に同年代の子と接する機会は少なくなり、年上の同級生とも仲良くなれず、私は孤立していた。
学校に行かなくなるまでに、さほど時間はかからなかった。
手に負えないと判断した両親は、私を祖母の家へ連れて行く。三大魔法使いのひとり、『魔女』の称号を持つアンナの家だ。
ここで過ごした日々は、私の始まり。人生のスタートラインとなった。
祖母のアンナとは、両親以上に波長が合い、何でも素直に話すことができた。
ある日、自分のドアノブを持ったことが嬉しくて、アンナの許可をもらって、現実世界へ行った。目的はあった。アンナが美味しいと絶賛するカフェが、その世界にあったからだ。そこに行きたくて許可をもらったのだ。
料理上手のアンナが言うくらいだ。期待に胸を膨らませて向かった。
あかねさんたちを連れて行った店だ。当時は今と別の場所で経営されていたけど、店の雰囲気は変わっていない。
植物の大好きな店長は(今だ会ったことがなく、顔も知らない)、世界中の草花を飾って、心和む空間を創り出していた。
アンナが褒めるくらいだ。美味しいお茶だった。
「やあ、お嬢さん。君ひとりなの?」
突然声をかけられた。
ちょっと驚いて、体がビクついてしまった。振り返ると、十代後半くらいの青年が立っていた。
以前と少し印象が違っていた。
「・・・アンナを裏切って、家出したせつなさん」
霧野せつなは苦笑した。
「相変わらずだね、リサちゃん」
彼とは何度も会ったことがある。
確か、四年前に突然消息を絶ったと聞いた。
「アンナが心配していましたよ。『出来の悪い弟子ほど、可愛い』、とか言いながら」
せつなは笑顔のまま。
彼は私の対面に座った。
「ちょっとさ、色々あって・・・近いうちに、アンナのところへは謝りに行こうと思っているから」
「私に言われても困ります。直接アンナに伝えて下さい」
私はお茶を飲む。
せっかくのティータイムが台無しだ。
はっきり言って、私は彼が好きではない。『魔眼』の宿主なのに、ナヨナヨしていて自覚がない。魔力が弱くて、大して魔法が使えない。
同じアンナの弟子でも、アマクサリョウとは雲泥の差だ。
なぜ二人共、修行の途中で出て行ったのだろう・・・・
「・・・で?」
「・・・で?」
せつなは、私の問いを繰り返した。
「ここで何をしているのですか?」
彼の目が泳いだ。
私に知られると困る事のようだ。
「えっと、ちょっと人と会う約束をしてて・・・」
歯切れの悪い言葉。
ふと気づくと、私のすぐ横にウェイターが立っていた。ティーセットが乗ったワゴンから、せつなの前にカップを置く。
注がれたお茶は、私のとは違う香りがした。
このお店には、メニューも注文するシステムもない。
お店に入って、好きな席に座るだけ。あとは気配を感じないウェイターがやって来て、好みのお茶を淹れてくれる。
魔法世界の方が経営しているお店だ。
こちらの世界の方には見えないらしい。
出入り口のドアが開く音。
「あ、きたきた」
せつなが言った。
待ち人が来たようだ。
ウェイターが通路を空けて一礼した。私はカップを置いて、顔を上げる。
電撃が走った。
今まで感じたことのない感覚。
彼と目が合った瞬間、私は言葉では表現できない感情がこみ上げてきた。
これは・・・なんだ?
「こんな奴に引っかかったら駄目だよ」
彼はとても柔らかい口調で話しかけてくれた。
「ヒドいな、兄さん」
兄さん?・・・・せつなのお兄さんなの?
輝くような笑顔。
「初めまして・・・え~っと・・・?」
「・・・リ、リサです」
ちょっと声がうわずってしまった。
「初めまして、リサさん。僕は霧野 静(せい)。せつなの兄です」
彼と同じく片手を出す。
握手。
とてもあたたかい手だった。
「同席してもいいかい?」
私は大きくうなずいた。
心臓が異常なくらい激しく動いていた。鼓動が彼に聞こえているんじゃないかと思うくらいに。
二人の会話は、全く耳に入らなかった。
私には絶対無い感情だと思っていた。
これが『恋』というものなのか。
霧野 静の何に惹かれたのか。実は今だによく分からない。結婚していて、奥さんも子供もいる。だけど、そんな事は関係無かった。
出会った瞬間に、恋に落ちたのだ。
二人の視線が私に向けられていた。
私は、二人の会話の内容などに興味がなく、ただ静を見ていた。だから、なぜ二人が私の返事を待っているのか、理解出来なかった。
冷静さを装うだけで精一杯だった。
顔が火照っているのは、赤くなっているからか。
だったら丸分かりだ。
「ここで君に会ったのも何かの縁だ。滅多にない機会だから、見学したらどう?」
静に聞かれた。
私はうなずく。
それが多分、彼と長く一緒にいられると思ったから。
直前になって、事の重大さに気づく。
どうやら私は、『魔眼』の第二段階の覚醒に立ち会うようだ。確かに滅多にない機会だけど、キリノ家と関係ない者が、この場にいてもいいのだろうか。
人気のない河岸。
彼を見上げると目が合った。光の加減のせいか、瞳の色が違って見えた。
カラーコンタクト?
「僕から離れないように・・・」
静は微笑む。
「君は、良い魔法使いになるよ」
彼の言葉は私の心に強く響く。
静がそう言ってくれるなら、私は良い魔法使いを目指す。
「せつなもアンナも、力任せのタイプだから、君みたいな子が近くにいてくれると助かる。色々迷惑をかけるだろうけど、よろしく頼むよ」
思わず泣きそうになってしまった。
出会ったばかりなのに、この人は、幼い私を(九才だった)認めてくれている。
不意に、静が顔を近づけてきた。
変な期待をして、私は緊張する。
「後で秘密の術式魔法を教えてあげる。いつか必ず、役に立つ日が来るから」
静が小声で言った。
この言葉の意味を知るのは、随分経ってからだった。
その後の出来事は、上手く言葉で表現できない程衝撃的だった。
せつなは第二段階の覚醒をして、自我を失い暴走した。『魔眼』の魔力を目の当たりにして、私は怖くて体が震えた。
だけどすぐに治まった。
彼のそばにいると安心だった。
静は顔色ひとつ変えず、冷静な判断と的確な魔法で、暴走を止めてしまった。私が出会った魔法使い達のなかで唯一、彼には一生敵わないと思った。
魔力が特別強いわけじゃない。術式が特殊なわけではない。
でも、彼と同じ年齢になった私が、同じ事をできるか。
できない。
根本的な何か。持って生まれたもの。人間性みたいなところが違う。
『魔眼』の中の魔法使いを説得して、せつなは覚醒に成功した。はっきり言って、静のおかげだ。『魔眼』のとてつもない魔力より、静の手腕に感動した。
私は『魔眼』の発動から覚醒までの過程を、間近で見ることができた。当時は、この経験が役に立つ日が来るとは思っていなかった。
「わたし、静のことが好きです」
全然そんな雰囲気では無かったけど、言うなら今しかないと思った。
彼は私に目線を合わせて微笑んだ。
「ありがとう。こんな素敵なお嬢さんに想ってもらえて光栄だよ」
真剣に応対してくれた。
あなたのためなら、私は全てを捧げます。
上手くごまかす事も出来たはずなのに、彼はまっすぐ受け止めてくれた。
見つめ合う。
私は目を閉じた。
静は、肩に手を置いて、私の額にキスをした。ちょっと残念だったけど、彼には家族があるし、何より私は子供だ。仕方がないと思う。
彼と過ごした時間は短かったけれど、私は一生忘れないだろう。この先、彼以外の男性を好きになることがあるのだろうか。もし無いならそれでいい。私は彼だけを想い続けて生きる。叶わぬ恋でも構わない。
「未来の君を信じて・・・」
静が話し始める。
「ひとつだけ、僕のわがままを聞いてくれないかな?」
「・・・何ですか?」
「僕には五才になる娘がいる。将来、僕に万が一の事があって、彼女に危険が迫った時、助けてやって欲しいんだ。君にこんなお願いするのは、変だと思うだろうけど、未来の君を信じて。君しか彼女を救うことが出来ない・・・」
静は、まるで未来に起こる事が分かっているようだった。それに、もうすぐ死ぬみたいな口振り。
そんなの、冗談でも嫌だ。
「おじいさんになるまで生きて、自分で守って下さい」
私の返答に、静は笑った。
素敵な笑顔。
「そうだよね。僕が生きて守ればいいんだよね。だけど、もし僕が死んだら、その時はよろしく頼むよ」
また言ってる。
そんなに早く死にたいの?
「考えておきます」
精一杯の答え。
「ありがとう」
そう言って、彼は私の頭を優しく撫でてくれた。
「おーい。誰か忘れてないかぁ~?」
遠くで誰かの声がした。
そういえば、修行の途中で家出したせつながいたっけ。存在を完全に忘れていた。
『魔眼』の覚醒は無事成功。
よかったよかった。もうあなたに用はない。
「じゃあ、約束通り秘密の術式魔法を教えてあげるよ」
静が言った。
「はい」
私は、自分の中で最高の声と笑顔で、彼を見つめた。
二年後。静が死んだ。
せつなから聞いた時、悲しいとかショックだとか、そんな感情は湧いてこなかった。
家族旅行に出かけた道中で、車ごと崖から落ちたそうだ。彼の奥さんも亡くなった。娘さんは奇跡的に助かったらしい。
信じられない。と言うより、信じていない。
魔法使いが交通事故で?・・・有り得ない。それに、彼は霧野 静だ。だから私は、十年経った今でも、彼が生きていると思っている。
静と再会した時のため。彼の娘さんを守るため。良い魔法使いを目指して、私は魔法書庫に通い、日々勉強した。
そして、静が魔法世界を去った年齢になった時、あらためて彼の偉大さを実感する。彼に教えてもらった術式魔法。わりと簡単な魔法を組み合わせているけど、発動するためには相当な知識と技術が必要だった。
魔法の意味を理解して、成功したのは、つい最近だった。
やはり、憧れの彼は凄かった・・・・
せつなの時と同じ状態になった。
しばらくは『魔眼』と上手く共鳴していたが、強い魔力に追いつけなくなった。
ここからが本番だ。
「あかねさん、『魔眼』に負けては駄目です。自我を保って」
彼女と目が合う。
大丈夫。
魔法使いとしてまだまだ未熟でも、あなたは彼の子。必ず乗り越えられる。
川に落ちた弓使いが矢を射ったが、あの程度なら問題ない。
ゲルマクワルツェ
あかねさんが何か言った。記憶に残らないが、『魔眼』の真名だろう。
凄い魔力だ。
せつなとは比較にならない。これが『魔眼』に封印された、魔法使いの本来の力なのだろう。
お前が我を呼んだのか・・・・稚児のお前が・・・・?
なんてこと。『魔眼』の中の魔法使いが、あかねさんに乗り移っている。異変に気づいたレイラ姉さまも驚いている。せつなの時とは違う。
さすがの予想外に、私は焦りを覚えた。
冷気の質が変わった。
あかねさんは、氷の巨人と巨体の魔法使いとの対戦を見ていた。
Th(ソーン) Pに似た形のルーン文字
彼女の指が宙にルーン文字を描き、召喚魔法を上書きした。
氷の巨人が腕を振った。
ギルの魔法使いが持つ斧を砕き、その腕は彼の肉体をも貫いた。一瞬で凍り漬けになってしまう。
魔力も魔法も、次元が違う。
卒倒しそうな私を、優しい彼の言葉が呼び止める。
霧野 静の言葉。
『この世に完璧なものなんてない。どんなに魔力や魔法が強くても、誰にだって弱点はある。君は物事を冷静に見つめ、判断できる能力を持っている。それはとても大事な事だよ。きっと強い武器になるから』
大丈夫。私には静がいる。
街灯の上から飛び降りる。風の魔力でゆっくりと着地。凍りついた橋の道路から感じた事のない冷気が上がってくる。
常に魔力を発散していないと、あの巨体の魔法使いのように、凍り漬けになってしまいそうだ。
白い息を大きく吐く。
ミチルさんとレイラ姉さまは、戦闘を止めて状況を見守っている。
あかねの姿をした『魔眼』の魔法使い。
召喚された氷の巨人。
「術式を詠唱します」
私は振り返って言った。
「時間を稼いで下さい。レイラ姉さまはあかねさんを、ミチルさんは氷の巨人を。三分・・・いえ、一分で構いません。何とか気を引いて下さい」
レイラ姉さまの表情が変わった。
「止められるのかい?」
「はい。静に教えてもらった術式があります」
驚きの顔。
すぐに笑みに変わる。
「そうかい・・・静がお前に教えたのかい・・・じゃあ、任せたよ」
レイラ姉さまの指が右手の剣をなぞる。
魔法文字が浮かび上がり、剣の斬撃力が向上する。その仕草も歩く姿も、相変わらず格好良い姉さま。
私はミチルさんに目をやる。
「頼みます」
それだけ言って、その場にしゃがむ。
「え~~。だってあの巨人、熊男を一撃で倒しちゃったんだよ~」
凍った道路に術式を書きながら、詠唱を始める。
聞いてないし、とか言いながら、重い足取りでミチルさんが歩き出す。
大丈夫です。あかねさんの防御魔法がまだ効いていますから。
あなたとの約束。ようやく果たす時が来ました。
私は必ずあかねさんを守ります。
「よう。調子はどうだい?」
レイラ姉さま。
自分の間合いで立ち止まる。あかねさんは無表情のまま。
キリノの者か
あかねさんの声で、『魔眼』の魔法使いが言う。口は動いているけど、頭の中で声が響いている感じ。
レイラ姉さまは、手に持つ剣を数回振り回す。
「少し遊ぼうか」
ためらいなく足を進める。
あかねさんの片手が上がった。
H(ハガル) Nに似た形のルーン文字
氷の矢が空中に現れた。その一本に指先だけ向ける。
矢も姉さまも消えた。
速さは互角のようですね。
振り下ろした刃は氷の壁に阻まれた。魔法ではなく、溢れる魔力が身を守っている。
相変わらず、レイラ姉さまの剣技は素晴らしい。優雅で、踊っているよう。だけど本当は、魔法使いとして素晴らしい方なのに。私としてはそちらに力を注いで欲しいのだけど、彼女の信念まで変えることはできない。
氷の矢が目で追えない速さで放たれる。
魔力が格段に上がって、威力も硬さも上質の矢が両断される。
「急いでおくれよ。あまり長くはもたないよ」
姉さまが言った。
分かっています。
あと半分・・・・
力対力ならとうてい敵わない。だけどミチルさんには素早い動きと洞察眼がある。破壊力があっても、当たらななければいい。
氷の巨人の腕は空を切っていた。
肉体強化の魔法も素晴らしいけど、彼女はあの若さで戦い慣れをしている。今までどんな人生を送ってきたのか、ちょっと興味が出てきた。
せつなと仲が良いのは、似たもの同士だからか。納得した。
大振りの拳をかわして、体を密着させるミチルさん。打撃での効果を期待したようだけど、硬度の上がった氷の肉体は強靭だ。
羽交い締めの腕を抜けて、巨人の背後にまわる。
回し蹴り。
普通の人なら致命傷の一撃。
泣きそうな顔を私に向けるミチルさん。
・・・・よし。
あかねさんから目線を外さず、ゆっくり立ち上がる。
さあ、『魔眼』の魔法使い。勝負です。
あかねさんも氷の巨人も、ほとんど同時だった。不自然に動きが止まった。開いた両手を見つめる姿がそっくりで、何だか滑稽だった。
ミチルさんとレイラ姉さまの視線に、私はうなずく。
漂う冷気が見事なほど消えていった。
あかねさんの顔や手に黒いシミが現れる。生き物のようにうごめき、魔法文字へと形を変える。
故意か偶然か。魔力の弱まったあかねさんを狙う弓使いを、レイラ姉さんの立ち位置が遮っていた。
これは、キリノの・・・
『魔眼』の魔法使いが顔を上げる。
私の事を模索しているようだ。残念だけど、私はキリノ家の者じゃない。あなたを術式で止めた『霧野 静』を、誰よりも愛し尊敬している者です。彼から直に教えてもらった魔法。いかがですか?
正直、完成度には自信がありません。私の記憶と魔法書庫で調べた事を元に、ただなぞっただけの魔法。十年かかってその程度です。効果の持続性とか解除方法は分かりません。不安しかないけど、今はこれしかない。
巨体に変化。
氷の巨人は輪郭を失い、塵となって消えてしまった。
効いている。
上手く抑え込めた、と思ったのも束の間。あかねさんの笑顔が私を凍らせた。
我を止めるには至らぬ
顔に浮かんでいた魔法文字が色を失った。
完璧に再現したはずなのに、何が足りなかったのか。
「これはマズいね」
レイラ姉さまが剣を構えながら後退する。
ミチルさんは私のところへ戻ってきた。
「なになに。どうなってんの? ちょっとヤバイんじゃない」
彼女の力が弱まっていく。肉体強化は時間切れのようだ。限界まで力を使った分、代償は大きい。
ミチルさんは息も荒く、片膝をついて座っている。
私にはもうなす術(すべ)がない。お手上げだ。
結局、初めからこの手段しかなかったのかもしれない。
「あかねさん、聞こえますか?・・・聞こえているはずです」
冷気が押し寄せた。
アスファルトの道路が、また白く凍った。
ミチルさんの悲鳴。
押し寄せた冷気に驚く。
私の服を掴んで無理矢理立ち上がる。あれだけ肉体を酷使して、まだ動けるのは、日頃の鍛錬の成果なのでしょう。大したものです。
「このままでいいのですか。あなたにはまだやる事があるのでしょ? 『魔眼』の魔法使いに体を奪われたままでいいのですか?」
本当は、あかねさんに私の声が届いているのか、確信はない。どういう状態なのか、検討もつかない。信じているだけ。
だって彼女は、あの人の・・・・
「あなたは、霧野 静の娘です。自分の力を信じて。こんな魔法使いくらい、自力で抑え込みなさい」
あかねさんが鼻で笑う。
本人ではなく、『魔眼』の魔法使い。
未熟な稚児に、我を止める事は皆無
あかねさんが片手を上げた。
我の願いは呪縛からの解放
ルーンではない魔法詠唱。これは召喚魔法だ。三つの魔法陣が地に現れて、別々の個体が召喚された。
弓を持った半獣。牙と爪を持った獣。甲冑姿の剣士。
ルーン魔法以外だった事より、召喚された三体に私もレイラ姉さまも驚いた。存在を知っているけど、実物を目にできるとは思わなかった。
魔法世界の歴史に名を残した者たちだ。
『魔眼』の魔法使いは、こんな英雄たちを従えているのか。そもそも、召喚魔法で彼らを呼び起こす事が有り得ないのだけど。
冷気とは違うものが、私の体を凍らせた。
書物の内容が本当なら、彼らは三日でひとつの世界を消したという。魔法世界がまだ混沌としていた時代の話。
英雄たちは、まわりの様子を見て顔を見合わせ、あかねさんを見てさらに不思議そうな顔をした。
『我が主様よ。そのお姿は・・・?』
甲冑の剣士が問う。
我の肉体はすでに滅んだ。魔力と意思がこの稚児の体に宿っている
英雄たちが、言葉にならない唸り声をあげた。
『嘆かわしや。あなた様の美しいお姿を、もう拝見できぬとは』
悲しそうな顔をしている。
冷気が動いた。
あの弓使いは、前回と同じくこの場を去ったようだ。卑怯者だとは思わない。生き残るには賢い選択だ。
レイラ姉さまが横に立った。
「ちょっとシャレにならないよ。あいつらが暴れたら、この世界は終わりだ」
同意見だった。
悔しいが、対戦しなくても力の差は歴然だった。
我、汝らに命ずる。この世界を滅ぼせ
あかねさんの声が響く。
三人の英雄は何も答えなかった。まるで命令の声が聞こえなかったかのよう。
妙な間が開いた。
英雄たちの視線があかねに集まった。
『呼んで頂いた事はありがたいが、残念ながら貴方の命令には従えない』
獣の顔をした弓士が言った。
あかねさんは顔をしかめた。
自分の手のひらを見つめ、また表情を変える。
我の支配を解こうとしているのか
破壊的な魔力が少しずつ小さくなっている気がした。あかねさんの体内で何かが起きている。今の状態ならもう一度術式魔法で『魔眼』の魔法使いを押さえ込める。
術式の準備をしょうとしたら、レイラ姉さまに止められた。
理由は聞かなくても分かった。
あかねさんの顔に魔法文字が浮かび上がった。術式魔法が再び発動した。でもこれは私じゃない。信じられないけど、あかねさんが自力で発動している。
たった半年の修行で使えるはずがない。
「あの子はリサを含めて三回、同じ術式魔法を体験している」
レイラ姉さんが言った。
私の中でひらめくものがあった。
「履歴再生・・・魔法」
同じ魔法を何度か体験すると、術式を知らなくても体内に残った履歴で再生できる。そういう体質の魔法使いがいる。
「ナギがそうだったね。忘れていたよ」
霧野 ナギ。魔法書庫の管理者。
私の上司。
「努力して魔法の技術をいくら磨いても、血筋には敵いませんね」
苦笑した。
見た目はただ怪訝な顔をしているだけ。内では二人の熱い戦いが始まっている。
見守るしかない。
魔力が弱いのか、術式が完璧でないのか。体の支配権はまだ変わっていない。
無(ウィアド) 魔法文字はない。
自身に付加された魔法を無効にできる魔法。
効果は無かったようだ。
召喚された英雄たちはその場にしゃがんで動かない。主が決まるまでは行動しないだろう。まあ、私も同じですが。
静かだけど激しい戦いが始まった。
レイラ姉さまが魔法詠唱する。私の魔法を上書きしてくれた。『魔空間』は永続ではない。私の魔力ではそろそろ限界。
お礼を言ったついでに質問する。
「あかねさんから『魔眼』を取り出して、どうするつもりですか?」
レイラ姉さんがギル・ドに従うとは思えない。
「どうもしないさ。そろそろ独占するのに飽きただけさ」
目を合わしてくれなかった。
きっと本心じゃない。姉さまには前から聞きたい事があった。なかなか言い出せなかったけど、今なら言えそうな気がする。
「静は、本当に死んだのですか?」
私の質問に返事はない。
目も合わさない。
それが全てを語っていた。やっぱりそうだ。何かある。静が交通事故で死ぬなんて有り得ない。ナギも姉さまも、そしてせつなも。何か隠している。
私は確信した。
冷気が風となって押し寄せた。
視線をあかねさんに戻す。静かな戦いは続いていた。
ルーン文字を空中に描く。描いた先から水でにじむように消える。絶対的だった魔力が弱くなっている。
張り詰めていた空気が、緩んだ気がした。
あかねさんの表情が変わった。
こんな稚児に、我が敵わぬとは。だが忘れるな。弱き心を見せれば、その時こそ最後だと思うがよい
全身を凍りつかせるような威圧感が一気に消えた。
三人の英雄たちが服従の姿勢を示した。
真ん中のあかねさんは、小動物のような小刻みな動きをしながら・・・いえ、と言うより挙動不審な態度でまわりの三人を見ていた。
「な、何ですか、あなた達は。私をどうにかする気ですか」
格闘家のような構えをして威嚇。全然威嚇になっていない。
頼りないけど放っておけない。
あかねさんが戻ってきた。顔や手に浮き出ていた魔法文字は消えていた。
『主よ、我らに命令を』
半獣の弓士が言った。
泣きそうな顔で助けを求めるあかねさん。
「あかねの下僕なんだから、なんでも好きなことを言えばいいんだよ」
後ろからミチルさんの意見が飛ぶ。
馬鹿、がつくほど正直で素直なあかねさんは、彼女の言葉にうなずいた。そういう単純な思考は私には無いので少しうらやましい。
「えっと、じゃあ、あの細い人を連れ戻して下さい」
そう言って、『魔空間』の外を指差すあかねさん。
確実に一点を指し示している。
もしかしてあかねさん、離脱した弓士の場所が見えているのですか?
『心得た』
左腕を伸ばす。
空気が振動して大弓が現れる。半獣の弓士もまた、一点を狙っている。魔法使いが契約した召喚者は、能力を共有するから、彼にも見えているのでしょう。
矢が音もなく射たれた。
「うわ~、すごい。ミチルさんリサさん、矢が当たったよ。細い人がビルにぶら下がってる」
あかねさんが言った。
「いやいや、見えないから」
と、ミチルさん。
「え、なんで?」
こちらを向いたあかねさん。左目の青さが濃くなっている気がした。
『バスキー、頼んだぞ』
大型の四足獣に語る弓士。
ひと声唸って足元に魔法陣が現れる。一瞬姿がぼやけて、次に目にした時には、あの細身の弓士を咥えていた。
元々の能力が高いうえに、あかねさんの覚醒した魔力が加味されているから、冗談みたいな事が現実に起こる。
「なな、なんだこれは?」
連れ戻された細身の弓士は、状況を理解できない様子。
私も理解できない。
『今はお前を主として認めよう。いつでも呼ぶがよい』
弓士の言葉を合図に、三人の英雄は消えた。
とりあえずこの世界は破壊されないようだ。ひと安心。
さて、次はどうしますか。
あかねさん、三人が消えた地面を、じっと見ている場合ではないですよ。ミチルさんはもう限界のようですし、私はあくまで傍観者。レイラ姉さまと弓士を負かさないと終わりませんよ。
「まいったね。ほとんど自力で覚醒したよ、この子」
姉さまが小声でつぶやく。
剣を持っているのは、まだ戦闘態勢を崩していない証拠。細身の弓士も同様だ。適度にあかねさんと距離をとって弓を構えていた。
あかねさんは・・・・?
何だろう。自分の両手を見つめて、首を傾げている。
魔力は覚醒状態でも安定している。『魔眼』の力が制御できているのだろう。なのに何故あかねさんは不思議そうな顔をしているのか。
もしかして、扱い方が分からない、とか?
顔を上げるあかねさん。
「何故だか分からないけど、誰にも負ける気がしない」
ほほう。
自信なさそうに宣言する。
姉さまが振り返って私を見た。
笑っている。嬉しそうだ。実は私も同じ気持ちです。
あかねさん。やはりあなたは静の子ですね。
「ワボック。全力で行かないとやられるよ」
レイラ姉さまの声援が届いたかどうか。
細身の弓士は、後退しながら矢を連射した。
あかねさんは手を上げただけ。彼女のまわりの空気が盾となる。冷気で矢は失速して凍りづけになった。
指先が小さく動く。
I(イス)
細身の弓士のうめき声。弓とそれを持つ腕が真っ白になった。
姉さまの行動は迅速だった。彼の腕を切り落とす。あと一瞬遅かったら、氷の魔法が全身にまわっていただろう。
剣を離す。
地面に落下する前に粉々になる。
あかねさんの氷結魔法は、分子レベルまで影響があるようですね。絶対零度に近いのかもしれません。
『魔眼』の魔力が上手く反映されている。
「これでも加減しました。本気出したら大変な事になっちゃいますよ。だから降参して下さい」
あかねさんが言った。
舌打ちする弓士。片腕では矢は射てません。
「わかったよ、もう戦わない。降参するよ」
姉さまは両手を上げる。
賢明な判断だと思います。
潜在能力の高い彼女と『魔眼』の魔力の組み合わせ。加えて、安定した魔力供給。仮に、私と姉さまが共闘しても、今のあかねさんには勝てません。
さすがです、あかねさん
『魔空間』が消えて、姉さまと弓士もいない。
私は暗い空を見上げる。
せっかくいい気分で星を眺めていたのに、あかねさんの慌ただしい声が邪魔をする。
「わわわ、どうしよう。『魔眼』が戻らないんですけど!」
一瞬でもあかねさんを称賛した自分を後悔した。
「なるほど。それは大変だったね」
アンナはカップにお茶を注ぎながら言った。
一気に話したので、口の中がカラカラです。芳醇な香りを楽しんでお茶をひとくち。何が違うのか分かりませんが、アンナの淹れてくれたお茶は、いつ飲んでも美味しい。
気持ちが落ち着いて、自然と笑みがこぼれてしまいます。
あの騒動から数日。私はアンナのところへ事後報告に来ていました。ある程度のことはアンナの耳にも入っているはずですが、直接言わないと気が済まなくて、こうして仕事の合間をぬって来たわけです。
決して彼女のお茶が飲みたかったからではありません。
「あかねさんって普段は頼りないのに、何というか、気持ちが決まると堂々としているというか、突飛な行動に出るというか。まあ、私はそういう性格ちょっとうらやましいのですけど」
微笑むアンナ。
「しかし、まさかギル・ド本部に殴り込みをかけるとはね」
同意してうなずく。
そうなのです。
世界を繋ぐドアが回復して、レイラ姉さまたちと魔法世界へ帰った時、あかねさんも一緒に来たのです。
ギル・ドの幹部の方に会うために。
形式上はアンナたち三大魔法使いが最高責任者ですが、実際の運営は本部に一任しているので、魔法使いの派遣や指示はそこの幹部が行っています。なので、今回の指示も本部の幹部が出しています。
そこへあかねさんが文句を言うために行ったのです。
あの三人の英雄を引き連れて。
『私はアマクサ リョウと決着をつけるまで『魔眼』は誰にも渡しません。これから先も力ずくで奪いに来るなら、全力で戦います。そして負けません』
と、強者が集まるギル・ド本部で宣戦布告をして帰ったそうです。
私はその場に立ち会わなかったので、あとでレイラ姉さまから聞きました。
「魔法の質はナギで、大胆さはレイラか。離れていても似てしまうものなんだね」
アンナが言った。
まったくです。
どうして似なくていいところが似てしまうのか。
どうせなら彼に似ればよかったのに。
物事を正確に判断して行動する緻密さ。少ない魔力で多くを得る無駄のなさ。
心を溶かす優しい微笑み・・・・
今だに彼を超える男性に会った事がありません。
霧野 静。
私が愛した唯一の男(ひと)。
「また静のことを考えているのかい?」
アンナに問われる。
彼のことを考えると、つい顔に出てしまうようです。
「考えるのは自由でしょ?」
苦笑。
「相変わらず、静が好きなんだね」
迷いなくうなずく。
出会ってからずっと、彼だけを思っている。
でも、数日前までの私とは違います。すべてではありませんが、彼の疑問が確信に変わりました。
これでまた彼のために頑張って生きていける。
あ、ちなみに、あかねさんが帰ったあと、レイラ姉さまが色々と謝りにまわったそうです。反省した様子が無かったので(嬉しそうだったとナギから聞きました)逆効果だったようですが(笑)。
「さて、ではそろそろ帰ります」
私は立ち上がる。
これ以上いると、居心地が良すぎて帰れなくなってしまいます。
「今度はゆっくりおいで。ご馳走を用意しておくから」
アンナ最上級のもてなしの言葉。
嬉しくて、自然と笑顔になってしまう。
「必ず時間を作って来ます」
一礼して、片手を胸元のブローチにかざす。
「パイちゃん、お願いします」
指先に軽い痛み。
私の魔力を吸ったブローチは、質と形を変えて胸元から落ちる。八本の脚を器用に動かしながら、アンナの家の玄関へ進む。
魔力を帯びた玄関のドアは、私専用のドアとドアノブに変化した。
「それではアンナ、ごきげんよう」
私はもう一度、西洋風のあいさつをして振り返る。
バルブ弁のような形のドアノブは、ゆっくりと回転してドアを開ける。
私は足取りも軽く、そのドアをくぐった。
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