第1話 少年の感情

 生徒会の業務を終わらせると、ユキの待っている屋上へ向かった。夏の日差しが窓から差し込み、廊下を明るく照らしている。茹だるような暑さの上に風はなく、それがどうにも僕を不安にさせる。風のない不快感が、まるで感情を無くしたかのような無気力を誘う。だから、屋上で待つユキのところへ行くのが楽しみでもあった。屋上なら、こんな夏の日でもきっと風が感じられるから。


 ドアを開けると、ユキは網状のフェンスに凭れかかり手を掛けながら、物憂げにグラウンドを見つめていた。僕は柔らかい風を肌で感じながらユキの元へ歩み寄った。ユキはスカートを叩きながらゆっくりと立ち上がり、僕の瞳をじっと見据える。


「そろそろ来るころだと思った」

「待った?」

「全然、待ってないよ。……今日は穏やかだね」

「え? 何が?」

「風が」


 それからユキは無理やりに笑顔を作ろうと、口角を釣り上げた。でも、目は笑っていなかった。僕はユキのそういうところが苦手だった。そう思いたくないのに、この表情を見ると気が滅入ってしまうのだ。そして無性に苛々してしまうのだ。ユキが悪いわけじゃないのに。でも、ユキにはちゃんと笑って欲しいのだった。昔のユキに戻ってほしいというのが僕の本心だった。


 穏やかだった風が僅かに強くなり、ユキの長い黒髪を揺らした。ユキはその黒髪を押さえながら泣きそうな顔を浮かべた。


**************************************


 僕とユキは風から逃げるようにして、屋上から玄関口へ早足で降りた。昔は躊躇いなく繋げていた手も、今では気恥かしさが勝って繋げない。だから歩幅に気を配らなくちゃいけなくて、じれったく思ってしまう毎日。いつからこうなってしまったんだろう?


 僕は昔のことを思い出す。ユキと約束を交わした、あの日のことを。


 それは5歳の時の話だった。僕とユキは2人で仲良く公園で遊んでいた。お互いに追いかけ合ったり、砂場で一緒に大きな山を作ったり、鉄棒での遊び方を教え合ったり、決して飽きることなく毎日のように遊んでいた。中でも2人の間で一番人気だったのは、高さ2メートル程の滑り台だった。交互に滑っては急いで梯子を登り、また滑っては急いで登るのを何度も繰り返していた。しかし、その日の僕は少し疲れていた。梯子をゆっくり登っていたのだった。必然、急いで登ってきたユキとバッティングする。そうして、次どっちが滑るかというので取り合いになったのだ。順番を考えれば僕になるはずだったのだが、ユキは「はやいものがち!」と言って譲らない。僕はカッとしてユキを小突いた。そう、僕はちょっと小突いてやっただけだったのだ。


 しかしその時、が吹いたのだ。ユキはよろめいて後ろに一歩踏み出した。梯子しかない、後方へ。


『あぶない!』


 僕がそう叫んだ瞬間、ユキの足は虚空を踏みしめた。それからユキの身体が傾いた。僕は大人に怒られたくなくて、そして何よりユキに嫌われたくなくて、心の中で強く願った。『かみさま、ユキをたすけてください』と。しかし願いも虚しく、ユキの身体はそのまま地面へ落ちていった。


 僕は床にへたりこみ、泣きべそをかいた。頭の中は『どうすればいいんだろう』という言葉で占領されていた。だから、いつまで経っても衝突音が聞こえてこないことに気がつかなかったのだ。風が吹き、梯子が揺れるのに合わせて水平台がガタガタと震えた。その震えは、不自然なほど大きかった。そして、梯子のところから小さな顔がひょっこりと現れた。


『ねえ、すごいんだよ! きいてきいて!』


 ユキだった。泣きべそをかいてる僕を不思議そうに見つめていた。


『なんでないてるの? それともおこってるの?』

『ユキこそ、どうして……』

『あのね、あのね! したからぶわってかぜがでてきて、ふわってなったの! ふわって!』


 ユキは興奮した様子でそう捲し立てた。そして、満面の笑みを浮かべた。


『ケンちゃんの、のおかげだね』

『でも、でも、まさかこんなことになるなんて、ごめ――』

『これからもユキのこと、こっそりまもってね』


 ユキは僕の謝罪を遮るようにしてそう言うと、悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。


 ――。そう、は2人の間の秘密だった。


 に気づいたのはユキの方が先だった。その日から更に1週間ほど遡った、蒸し暑い夏の日のことだ。最高気温は今年最大と言われ、熱中症に予防しましょうと大人が口々に呼びかけていた中、僕らはいつものように公園へ出かけた。しかし連日の遊び疲れが溜まっていたのか、すぐにバテてしまったのだ。僕らはベンチに座り、手遊びに興じることにした。するとユキがいつにも増して僕をからかってくる。最初の方はムッとするだけだったが、あんまりにも執拗にからかうものだからついに限界に達し、声を荒らげて拗ねた。


『もう! ちょっと、もう! どうしてそんな、いじわるなこと、いうの?』

『だって、すずしいんだもん』

『すずしい?』予想外の答えに僕は面食らった。

『ケンちゃんがおこるとね、びゅうって、かぜがふくの』それからにんまりと得意げに笑った。『そんなこともしらなかったの?』


 僕は全く涼しくなかった。風なんて1ミリも感じなかった。しかし、ユキの短い前髪は確かになびいていた。今朝からずっとそうだと、ユキは言った。。それはとても不思議な事実で、しかしどことなく気味の悪い発見だった。だから、その時の僕は色んなことを考えた。過去の子供らしい悪事のせいなんじゃないか。自分が悪い子だから、どこかで見ている神様が罰を下したのではないのか。もしそうだとしたら父や母にすごく怒られてしまうんじゃないか。大人に怒られるのが何より怖かった。だから僕はユキに頼んで、それを2人だけの秘密にした。


 それから1週間、2人きりになるとユキはしきりにからかうようになった。扇風機代わりというわけだった。僕の方もわざと怒ってみせたりして、一緒になってで遊んだ。そしてその矢先に起きたのがあの事故だったのだ。


 あの時、ユキが落ちたのはどこまでも僕のせいだった。小突いたのも僕のせいだ。ついカッとなって、あんなに強い風が吹いたのも僕のせいだ。そしてユキは滑り台から落ちた。僕もユキもそれがわかっていた。なのにユキは笑って僕を許してくれた。そして自分が、誰かを助けるための力を持っているんだということを教えてくれた。僕にはそれがたまらなく嬉しくて、だからユキのための自分でありたくて、ずっとユキの隣にいることを決意したのだった。


 その気持ちは中学3年生になった今も変わらないはずだった。ユキに対する思いも。それなのに、どうして今の僕は、こんなにもユキを鬱陶しく思っているのだろう?


**************************************


「あれ……? ない……」靴箱の中を覗いたユキは消え入りそうな声で呟いた。

「ないって?」

「靴が……」

「靴が無いって、られたのか?」

「……多分」

「はぁ……未だにそんなくだらないことする奴がいるのか」僕は溜め息を吐いた。「ちょっと外探してくるから、ここで待ってて」

「いいよ、探さなくて。わたし、靴下で帰るから」

「ガラスとか踏んだら危ないだろ。大丈夫、すぐ見つけて来るから」


 隠し場所に心当たりがあった。というのも、最近この手の悪戯――いや、いじめの手口を生徒会の会議で何度か聞いていたからだ。物を隠すならあの場所、という評判でもあるのだろうか。流行りの手口で目撃情報も多数ある。ユキのつっけんどんに見える態度が、誰かのプライドを刺激して標的になったのだろう。奴らはいつも陰湿なのだ。


 そして、その場所はスニーカーを隠すのに最も適した、最低の場所だった。


 さて、嫌がらせ目的でスニーカーを隠すとすれば、どこが最適か? それは、だ。というわけで僕は校庭の隅っこにある石囲いの池に手を突っ込んでいた。非常に浅い池だが、水面には藻が沢山浮いていて、奥までは見通せない。仕方ない。僕は藻をかき混ぜるようにして腕を動かした。すると、靴紐のような何かが手に引っ掛かる感触があった。僕はそれを掴み引っ張る。ビンゴ。藻を掻き分け引き上げられたのは、ユキの可愛らしいスニーカーだった。


 水を吸ってしまっているからか、あるいは中に詰められているもののせいか、スニーカーはずっしりと重かった。僕はそれを逆さにひっくり返した。すると中から大量の砂利が流れ出て、緑色の水面に吸い込まれていった。ご丁寧なことに、ちゃんと沈むよう詰め込まれていたということらしい。


 僕は濡れたスニーカーを片手にしばらく思案した。


 ――このままユキに渡すというわけにもいかないだろう。ユキはきっと気を遣って、濡れたままでも履こうとするに違いない。だから今ここである程度乾かした方がいい。


 僕は周りを見渡して、近くに誰もいないことを確認すると、精神統一するようにゆっくりと目を閉じた。さて、何を思い浮かべようか。風が起こるのは何も怒っている時だけではなかった。笑っている時も、悲しんでいる時も、何かを切望している時も、気持ちの強さに応じて風は起こるのだ。風が自分の感情を汲み取るかのように。あるいは、風自身が感情の一部であるかのように。だけど、苛立ちや怒りに身を任せた時に吹く風が、やっぱり1番強く、そして鋭いのだった。


 きっと、苛立つことに慣れてしまったのだろう。そして何かを憎むことにも。


 僕は瞼の裏に悲しそうなユキの顔を思い浮かべた。スニーカーが見つからなくて困惑するユキ。瞳に浮かぶ小さな涙。それでも真一文字に結ばれた唇。


 風音が聴こえた。両手に握ったスニーカーも揺れる。だが、。だから、スニーカーに砂利を詰め込む誰かの姿を思い浮かべた。ユキの靴箱を開け、スニーカーを掴み、慌てて校庭に出て、地面に手を当てて、石粒を掻き集めて――。そうしている内にまるで自分が詰め込んでいるような気分になって、慌てて振り払う。


 木々がささめき合い、肌がチクチクと痛んだ。

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