第1章 Aパート

 いつもの光景、いつもの面子。

 元文芸部部室、現SOS団溜まり場と化した小さな部屋で、もはや日常となった放課後をのんびりと過ごしている。

 宇宙人の長門は部屋の隅っこでパイプ椅子に座りながら、辞書みたいに分厚いハードカバーの本に目を落としている。ぱらり、ぱらりと規則正しくページのめくれる音が耳に届く。何を読んでるのかは分からないが、いっつも本を読んでいるんだから、本当に本が好きなんだろう。長門と出会って数ヶ月経つが、あいつがここで本を読んでいない姿を俺は記憶していない。ヘッドホンを付けながら、リズムを刻んでいる姿とかは間違っても浮かんでこない。それほどまでに文学少女っぷりが板についたショートヘア少女だ。

 視線をややずらす。そこには北高に唯一存在する(俺統計)メイドが給仕に勤しんでいた。朝比奈さんだ。

 未来人の朝比奈さんは今日も今日とて、ハルヒがネットオークションで仕入れてきたメイド服に身を包んでお茶を淹れている。最初はコスプレに抵抗していた朝比奈さんだが、今ではすっかりとメイド姿が様になっており、夏休み中に古泉の知り合いの館で雇われていたメイドさんに会ってから、そのメイドっぷりに磨きがかかっているようにさえ感じる。

「はいどうぞ、キョンくん」

 俺の右手横に湯気の立つ湯飲みを置く朝比奈さん。

 ありがとうございますとお礼を言ってから一口頂く。うん、うまい。お茶自体は普通の緑茶だが、天使のような朝比奈さんに淹れてもらったお茶だ、旨さ五割り増しとなっているのは当然だろう。

「さぁ、あなたの番ですよ」

 そう言って俺の前に鎮座している碁盤へ手を差し伸べているのは、いつものスマイルを崩さない、SOS団の俺の他では唯一の男子古泉だ。

 超能力者の古泉はもったいなくも朝比奈さんからお茶を淹れていただいている。いいんですよ朝比奈さん。そいつには二番煎茶どころか五、六番煎茶ぐらいの、薄っっいお湯みたいなお茶をくれてやれば。きっとそんなお茶でも嫌味なスマイルのままなんですから。

 古泉も朝比奈さんにお礼を言うと、一口お茶をすすった。しかし、その表情に変化はない。おい、朝比奈さんのお茶だぞ? もっと感動に満ちた表情とかして涙ぐらい流さんか。いつもスマイルのお前はそれぐらいしないと感情が伝わってこないんだよ。

 そう思いながら視線をスマイル高校生から碁盤に落とす。

 今古泉とやっているのは五目並べだ。連珠とも言う。昨日最後にやったのは囲碁だったので、碁盤がそのまま机の上に置いてあり、なんとなく碁石を握ったわけである。しかし、囲碁は一局一局がとても長いので、それほど一局が長くない五目並べが始まったのだ。

 ちなみに、古泉は囲碁よりも五目並べの方が経験が長く得意だといっていたが、今のところの戦績は五戦五勝零敗で俺が古泉を圧倒している。

 この局もすでに二十手目に入っており、俺の石である白が三個の連なりを何部隊か編成している。古泉は三まで並べた石をすぐに四にしてしまう為、全て手が止まってしまっている。今置いた黒石もその前の手番で作った三を四に伸ばしたものだった。そのままでは次の古泉の手番で石の連なりを五に伸ばされて、俺が負けてしまうので当然それを防ぐために、白の石を四つ連なった黒石の横に置いてやる。

 しかし、俺のこの守りの一手は同時に攻撃の一手でもあった。

「おや」

 古泉が声を零す。

 どうやら古泉も俺の一手がどういったものか理解したらしい。だが気づくのが遅い。俺の置いた石は三の列と四の列を同時に描いている。この形が完成すればほぼ負けることはない。つまり俺の六勝目が確定したわけである。

「いや、参りましたね。今回は手応えがあったんですが」

 そういって笑う古泉だったが、俺がこの手で勝ったのは六回中四回を占める。気づいていたら何か策を講じてもいいと思うがね。

 茶を一口啜り、盤上の石を選り分けて、それぞれ石を各々の器へと戻す。

「では、もう一戦始めましょうか」

 おいおい。まだやりたりないのか。

「あなたはもう満足なのですか?」

 そりゃあ、六回やって六回勝ちゃあ飽きも来るってもんだ。

 古泉はあまり乗り気でない俺を見ると、ふむと考え事をするかのように腕を組んだ。

 何か別のゲームでもしようと思惑を巡らせているのだろうか。

 そして一時後、スマイル高校生から次のような提案がなされた。

「では、こうしましょう。今度の一戦であなたが勝利したら、数学の宿題を僕が代わりにやりますよ」

 俺の気の抜けた顔が一瞬で昼飯を求めに購買部へと赴くそれと酷似する。

 俺のクラスの数学担当と古泉のクラスの数学担当は同じ大河内のじいさんだ。加えて、このじいさんはとても面倒な宿題を出して来る事も周知の事である。確かに、今日の授業でいつものような、一つの公式を反復させて数をこなす宿題ではなく、その一歩先の応用を使わなければ解けないような宿題が出た。多分、古泉のクラスでも同じものが出たのだろう。

 俺は心の中で顔がにやけてしまう。六回やって勝率百%の俺が負けるとは思えない。この勝負をのめば今夜の面倒が一つ晴れる事確実なわけだ。

 古泉の提案に乗らない手はない。

「その言葉、忘れるなよ」

「ええ。その代わり、僕が勝った時には僕の代わりでおつかいをしてきてください。ちょっと野暮用が出来てしまいまして、どうしようかと思っていたところです」

「ああ、かまわんぜ」

 そんなことはない、と心の内で思いながら適当に返事をする。

「では、始めましょう。実は僕、何か賭けた方が実力が出るんですよ」

 そういって第一手を打つ古泉に俺は眉根をひそめる。

 そういうことは勝負が始まる前に言ってもらいたいもんだ。

 さっきまでの油断は自分の中で消し去り、代わりに火に油を並々と注いだ。気を抜いて宿題の免除がなくなり、面倒な使いなんぞを任されたらたまったものではない。

 俺は一手一手を慎重に打っていった。

 だが………。

「どうもうまくいきませんね」

 二十手目を俺が打ち終わったところで、古泉がこぼす。

 この局も、古泉の手はさっきまでとなんら変わらずすぐに四の列を作っては俺に止められていた。

 こいつ、実力が出るとかいっときながら全然弱いじゃないか。これじゃ気を引き締める必要なんてなかったな。

 すっかり顔から気が抜けていた俺は、新たに古泉が作った三の列の端に石を置いた。

 と、その時その一手がさっきのような必勝の形まで後一手という状態になっている事に気がつく。次の一手で古泉がこの状態に気づかずに関係のないところに石を置けば、俺は今夜ごろ寝でゆっくりとテレビを見ることが出来るわけだ。

 さすがにこの古泉の一手は平静を装いながらも、心中では息をのんで見守る。

 難しい顔をしながらしばらく長考していた古泉は、顔をスマイルに戻すと碁石を握った。

 宙に浮いた黒い碁石は盤上の真ん中辺りに来ると、石の心地よい音を小さく響かせた。

 その瞬間、俺はその一手に心の中だけでなく、外の顔もにやけるのを抑えられなかった。

 古泉が打った一手は俺の必勝の形を阻止する一手とは全く関係のないところに打った一手だったからだ。

 ふふ、これで心置きなくテレビが見れるぜ。

 勝利を確信した俺は躍る心を抑えながら最後の石を握る。そしてさっきから狙っていた場所へと石を運んだ。その時だった。

「おや? 一応最後まで打つんですか?」

 おかしな事を言う。俺はまだ打ってはいない。だからまだ盤面上では決着はついていない。俺は既に決着がついているのは分かっているが、古泉がそれを臭わす事を言うのは理解できない。この必勝の形が分かっていたのならさっきの一手で止めていたはずだ。

 視線をスマイル高校生に移す。その顔は気持ちいつもの笑顔よりも喜びを表しているように見えなくもない。

 俺は嫌な予感が過ぎり、視線を再度盤面へと落とす。

 そこで俺は体の芯が冷たくなったのを感じた。盤上では黒い石が一つの石を頂点に四の列を二つ作った鋭角を描いていた。これも必勝の形の一つだ。そしてそれを描く黒の石はもちろん俺のものではない。

「だから言ったじゃないですか。僕は何か賭けた方が強いんですよ」

 笑顔の古泉。さっきから笑顔だが。

 くそぅ、一番負けたらならんところで負けてしまった。

 もはや免れると思っていた宿題と、よく分からんおつかいとのダブルパンチが俺に重く打ち込まれる。

 そんなうなだれる俺を狙っていたかのように、部室のドアが勢いよく開け放たれた。

「もう! 何よあの教務主任! あんなありきたりな種目じゃあ体育祭が盛り上がるわけがないじゃないっ!!」

 部室に入ってくるなり、誰に言うわけでもない、確実に独り言のデカイ声を上げたのは、言うまでもなくこのくだらない学校未承認団体の首謀者涼宮ハルヒその人だ。

 その発言から察するに、俺の予想通り在り来たりな体育祭の種目について意見を述べたのだろう。しかし、その結果がどうなったのかはハルヒを見れば想像するまでもない。

 ハルヒは本当にブリブリと音が聞こえるかと思うほどに、顔を膨らませて、『団長』と書かれた三角錐の置いてある席へドッカリと座った。

「みくるちゃん! お茶っ! あつぅぅ~~~い奴っ!」

 そう言い放つハルヒの眼光は今にも朝比奈さんに襲い掛からんばかりに光っていた。その圧力に従順に対応する朝比奈さん。そうすることが唯一身の安全を確保する事が出来る方法であると彼女はこの数ヶ月で学んだのだろう。元々の性格の為だとも言えなくもないが。

 ハルヒは机に置かれた百グラム525円の緑茶を喉に流し込んだ。直後、ヒキガエルを轢いたような悲鳴をあげた。

「ちょっと! 熱いじゃないのよ! こんな熱いお茶飲めるわけないじゃないっ!」

 言って朝比奈さんに食って掛かる。もはや滅茶苦茶だ。

 俺はとんでもない言いがかりをつけられて、涙目になっている朝比奈さんを庇う様にハルヒと朝比奈さんの間に割って入る。

「お前が熱い茶をよこせと言ったんだろうが」

「ふんっ! こんなに熱いお茶が欲しいだなんて言ってないわ!」

 ツンと鼻先を窓の外に向けると、口を詰むんで荒々しく椅子に座った。こりゃ相当虫の居所が悪いな………。

 俺は朝比奈さんをゆっくりと危険生物から遠ざけた。

「今日の涼宮さん、なんだかとっても機嫌が悪いみたいですね?」

 手に持ったお盆で声がハルヒに届くのを防ぎながら耳打ちする朝比奈さんに、俺は耳を貸した。

「多分、教員に全然話を聞いてもらえなかったんでしょうね。今更来月やる体育祭の種目を変えろだなんて話、ハルヒじゃなくても聞かないでしょうけど、あいつにはそんな事おかまいなしですからね」

 俺もなるたけ声を小さくして朝比奈さんに耳打ちをした。しかし、

「ちょっと、キョン?」

 この俺の声は運悪くハルヒの地獄耳に届いてしまったらしくお声が掛かる。その目はつまらん交通安全の講習ビデオを見た時のような目だった。

 ここで無視をすれば後が怖い。俺は今後の身の保全の為にハルヒの許に寄っていく。

「なんだ?」

「体育祭っていうのは生徒がやるもんでしょ? その種目を生徒が決められないだなんておかしいと思わないの?」

「生徒会が決めてるんだろ? あいつらは学校の生徒だ。おかしくない」

「あたしだって北高の生徒よ!」

「だったら、生徒会に入るんだな。そうすれば決め放題だ」

「一年は会長になれないじゃない。あたしよりも無能な人間の下になんて付きたくないわ」

 分かりきった事を聞かないで。そう言わんばかりに肩をすくませるハルヒ。それなら一生徒が易々と学校行事を動かせないことも分かってもらいたいもんだがね。

「大体、そんなに体育祭に興味があるなら、もっと早い段階で意見しておけばよかったんだ。今日だってホームルームで寝てやがって。そうやって体育祭の話が出始めた時にも寝てたんじゃないのか?」

 言ってその時の事が頭に浮かぶ。くそ。俺だってもう少し寝ていられたら朝比奈さんとの誓いのキスをすることが出来たというのに!

 そう思うと、余計にハルヒの傍若無人ぶりに腹が立った。

「寝てなんかないわよ! あれはちょっと目を瞑って休んでただけよ」

 それを眠ってるっていうんだろうが。

「うるさいわね。男が細かいことをいちいち。だからあんたはキョンなのよ」

 意味が分からん。俺は高まった腹立たしさが一線を越えて呆れに変わる。肩を落として溜まった息を吐いた。

「とにかく、あたしは寝てなんかないの!」

「そうですかい。それじゃあさぞかし楽しいことを考えてたんだろうな。ニヤニヤしてたぞ。俺はてっきり夢でも見てたんだと思ってたがな」

 俺はハルヒをからかう感じで返事をしてやる。それくらいの嫌味を言ってもいいもんだろ。まぁ、ハルヒにはそんな事おかまいなしに反論してくるんだろうがな。

 そう思って、ハルヒからの反応を心の中で身構える。

 しかし、その反応はいつまで経ってもやってこない。おかしく思った俺はチラっとハルヒを見てやる。そこにはキョトンとしたハルヒが頬をみるみる赤く染めていく姿があった。

 そして酒でも飲んだかと思うほど赤く染まったハルヒは、息を吸いながら喋ろうとして変な声を出した。

「そ、そんにゃの、あ、あんたに関係ないでしょ!!」

 何をそんなに怒っているんだ………? そんなに寝顔を見られたのが恥ずかしいのかこいつは。そんなに嫌なら教室で居眠りなんてしなければいいのによ。

 もはや羞恥によっての赤みか、激昂による赤みか分からない程に騒いでいるハルヒを朝比奈さんが必死になだめようと体を張る。

 こんな状況下でも本を読む手を止めない長門は相変わらずだ。と、俺の視線に気が付いたのか長門の瞳が俺の方を向く。だけど、それも一瞬ですぐにまた分厚い本へと落とされた。

 なんつうか、平和だな。

「ちょっと、いいですか?」

 いつの間に腰を上げたのか、古泉が俺の肩を小さく突いた。

 振り向く俺の視界にスマイル顔が目一杯入ってくる。そんなに整った顔を見せ付けられるとムカツク以外の何ものでもなくなるわけなんだが。

「なんだ?」

 かったるく返事をする俺に、古泉はこちらへと手を差し伸ばして部屋の隅へと招いた。

「今の涼宮さんを刺激するのは、あまりお勧めできませんね」

 俺は古泉の低まった声のトーンにあることが思い浮かぶ。

「なんだ、また閉鎖空間か?」

「ええ」

 古泉が危惧しているのはハルヒの心理状況によって生み出されるとか言う迷惑な亜空間の事だ。ハルヒがストレスを感じるとそのようなトンデモ空間が発生し、その空間に出現するトンデモ巨人が暴れだすのだ。迷惑極まりない。

 古泉はその閉鎖空間の発生を感知できる。古泉がそう言うということは、すでにどこかに生まれているかもしれない。

「まだ完全に発生したというわけではありません。その兆候がある、というわけなんです。なのでこれ以上涼宮さんを苛立たせるのは避けたいんですよ。何事もなければそれに越したことはないですからね」

 困ったものです。と肩をすくめて見せる古泉。まったくだ。

 俺は別に閉鎖空間なぞ発生しても困りはしない。大変なのは古泉達の機関だ。だけど、こいつらがヘマをしないとも限らない。そうなると今度は俺にも被害が及ぶ可能性が出てくる。そんな事になるくらいならハルヒの機嫌をとった方がマシだ。

 とは思いつつも、今のハルヒの機嫌をとるのは至難の業だろう。あいつがああなっているのは、体育祭の種目について自分の思い通りにならないからだ。それをどうこう出来る力も権限も俺には無い。そうなると別の方法でどうにかしなければならないんだが………。

 ハルヒを見る。もし、今のあいつを何かに例えるなら、カンカンに熱くなったヤカンだろう。頭から煙が噴出している。そう思える。

 どんな方法があるというんだ………。ヤカンだったら冷やせばいいが。

 と、そこで思いつくことが一つ。

「古泉、お前のおつかいってやつはどこへ行けばよかったんだ?」

「おつかい、ですか? 隣町の商店街の書店へ行ってもらうつもりですが」

「そうか。じゃあそのついでだ」

 俺はハルヒへと体を向ける。

「おい、ハルヒ」

「何よ? まだからかおうっての? もう頭にきたわ。今度あんたの寝顔に落書きしてやるんだから!」

 勝手に話を進めるハルヒに俺はもう一度ため息をついてから声をかける。

「ちょっと付き合え。隣町へ行くぞ」

「はぁ? どうしてあたしがあんたと隣町へ行かなくちゃならないのよ」

 すんなりとはいかないか。

 俺はハルヒに外の空気を吸わせて、気分転換に誘うつもりだった。そうすればハルヒの気も少しは紛れるだろうと思って。

 ただ、そのままの言葉で誘えば、逆にハルヒを逆撫でしてしまうかもしれない。何かいい誘い文句はないかと言葉を探る。ふと、頭に浮かんだ言葉があった。

「デートだ」

 他に言葉はなかったんだろうかと、言ってから思ったが、色々と有耶無耶にしながら誘えるいい冗談だと思い直した。

 ハルヒはよほど俺の冗談が意外なものだったんだろう。面を食らったようにポカンとしている。

 何か反応をしてくれないと、こっちが恥ずかしくなってくるんだが………。

「ああもう、行くぞ」

 いい加減居た堪れなくなってきた俺は、ハルヒの手首を掴んで部屋の外へと連れ出した。ハルヒが何か言っていたが、今は俺の方がはるかに恥ずかしくて耳には入ってこなかった。

 しかし、こんな恥ずかしい思いをして、ハルヒの機嫌をとった俺の勇者的行動が、まさかあんな事態に発展するとはこの時の俺はおろか、宇宙人、未来人、超能力者の連中だって思いもしなかっただろう。ハルヒを除いては。

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