ep.05 口紅
夕刻。
濁った太陽がゆっくりと沈み、禍々しい赤と黒のグラデーションを窓から覗かせている。
ここは別館。七階の奥の部屋に、二つの人影がある。
他の部屋と違いかなり広めの造りになっている。上級クラスの部屋である。
広い室内でやけに目を引くのは、家具の上や部屋の至るところに置いてある、大小さまざまな少女趣味の西洋人形である。どれも赤いリボンが巻いてある。
ふう、と細いため息をつく。
「急に、女の子の部屋に押しかけてきてなに言ってるの?」
前髪をそろえたロングの黒髪。幼さの残ったあどけない口元。細くて白い足。可憐な指先。
「な、な、何をって……確かにあの時言ったじゃないか」
「知らない」
片肘を付き、ため息混じりに言う少女。
「困るのだ、お前が居てくれないと……た、確かにこう言った筈だ。自分も同意見だ、と……」
「ごめんね、それ覚えてないの」
男の両肩が、ぐっと強張る。怒りか、悲しみか。
「だ、だが」
「しつこい男の子って、嫌い」
表情までもが強張る。憎しみか、苦しみか。
あのね――――
少女が、初めて男に瞳を向ける。真っ黒な、宝石のような瞳だ。
「私が言ったのはね、キミがね、馬裟羅君と二人で」
――――殺し合うんだったら、味方になってあげてもいいよって、そう言ったんだよ?
「ま、ま、魔理……」
「それなのに、キミってば全然意気地なしでさ。まりあ、ちょっと怒ってるんだから」
殺される。
嫌だ。怖い。
この女は、人の命など何とも思っていない。
この部屋に置いてある人形の数は――――”今まで殺してきた人数と同じ”だ。
人間じゃない。化け物だ。
男は必死で恐怖を堪えた。足の震えが大きくなるのを悟られないよう、椅子に腰掛ける。
「……き、聞いてくれ魔理亜。今日……渡り廊下で馬裟羅(バサラ)の弟に、会ったんだ」
少女がぴくりと反応した。
「ふーん」
「へ、へへへ……そいつをどうしたと思う?俺が、ぶ、ぶん殴ってやったのさ……へ、へへ。
いいか、俺はな、すでにあの馬裟羅を敵に回してるんだ……あの餓鬼は、きっと兄貴に泣きつくだろう。仕返ししてくれってな……だから」
男はごくりと唾を飲み下す。こめかみが脂汗で鈍く光っている。
「ど、どうだ。これで俺が本気だと分かったろう、俺は……い、意気地なしなんかじゃねえ。なあ、その時にお前が居てくれれば百人力なんだ。なあ……」
少女は、汚物を見るような眼で男を見下した。
元々、どこか人を見下すような物の見方をする彼女だったが、その時のそれは、平素の時よりはるかに侮蔑の色が強いものであった。
しかし、男は気付かない。恐怖で完全に余裕を失っている。
「海衝(カイツ)くんを、殴ったの?」
「あ、ああそうだ……生意気だったんだ、雑魚のくせによ」
「ふーん」
少女が足を組みかえて、窓の外に眼を向ける。禍々しい光が、夕闇に飲みこまれていく。
男は少女の白い足を、見つめていた。
「ど、どうだ?あの餓鬼は、きっと兄貴に泣き……」
「泣きついたりしないよ、あの子は」
男は、意外な言葉で遮られて、口を開けたまま弛緩した。
まるで馬鹿な面構えだ。
「それ以前に、相手にもしてもらえないわ。キミなんて」
な――――何を言っているのだこの女は。
男が慌てたように口走る。
「あ、相手にって、馬裟羅にか!お、俺はな、これでもBランクの……」
「違うわ。海衝くんによ」
……本当に何を言っているのだ、この女は。意味がまったく分からない。
男は次第に苛立ってきた。
「な……なんであんな雑魚が、俺の相手なんだ!あ、あんな……人を殺した事もないような餓鬼が、なんで」
くすり。
少女が、嘲った。
「確かに、あの子は誰も殺せないかも。臆病で、優しい子だから」
「……?だ、だから、何なんだよそれは……ま、まあいい。それより、どうだ魔理亜。馬裟羅を倒すのに、きっと協力してくれるだろうな」
うーん、と少女は考えるフリをして、席を立った。男もそれに釣られる。
少女が、どこか妖艶な笑みを口元に浮かべる。
「そうね……」
「た、頼む」
ゆっくりと近づいてくる。
――――キスしてくれたら、いいよ。
そっと男の指に、細い指を絡めてくる。
あの魔理亜が、俺の指を。
男は目の色を変えて、少女の身体を舐めるように見まわした。抱きしめれば、折れてしまいそうなほど華奢な身体だ。
「ま、魔理亜……なんだ、どうしたんだ一体」
するりと身体をあてがってくる。微笑んだまま瞳を真直ぐに向けてくる。
「ふふ」
頭の芯が震えるような、女の香りがした。
やがて男の腹中に、どろどろとした劣情が湧いてくる。
「へ、へへ……そうか、わかった、わかったよ」
男が自らの腰のベルトの留め具を外しかけた、その時。
「あ、ちょっと待って。口紅、してもいい?」
手元でポキリと、乾いた音がした。口紅を持っていたのか。
「へへ、じ、焦らすなよおい……」
「ふふ」
少女が上目で、唇に紅を引いていく。
真っ赤な、真っ赤な、血のような……
否、違う。
これは、口紅ではない。
――――ゆび?
その物体を”それ”と認識するまで、しばらく時間が掛かった。
左手にかすかな違和感を感じ、男が左手を上げると
――――人差し指が、根元から折れて無くなっていた。
「……え?」
「どう?痛みを感じなかったでしょ。うふふ、それ”凍らせ方”にコツがあるの」
少女が無邪気な笑みを向けてくる。よく見ると、指の切れ端がほんのうっすらと凍りついている。
そんな。そんな馬鹿な。なぜ、何故、何故俺の……俺の……指が……
「あっ……ああ!がっ……!ゆゆ、お、おお俺の、ゆゆ、ゆ……」
ねぇ、キスしてくれる?
――――少女の唇から、紅い雫が垂れた。
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