ep.02 味覚
夜半過ぎ。
すでに施設内の生徒たちは寝床につく時間だ。
海衝(カイツ)は”三〇四号室”の自室に戻り、熱いシャワーを浴びてベッドに座った。
部屋は三つほどあり、それぞれ五畳ほどの広さだ。
居住できる部屋はAからEのランク(階級)や功績ごとにそれぞれ割り当てられており、海衝の部屋はその中でも最底辺のEランクである。
何となく腹が空いたのでインスタントの固形栄養食に手を伸ばしたが、やめた。
有機合成肉のステーキが冷蔵庫にあったはずだが、それも食べる気がしない。
ひとまず水をコップに入れて、またベッドに座った。
海衝は今まで、食物を”美味しい”と感じた事が一度たりとも無い。
巷では味障(味覚障害)などと呼ぶらしいが、この時代ではよく見られる症状であり、別段珍しい事ではない。
半世紀以上前の文献によると、味を”感じる能力”が低下したのではなく、味を”脳が作り出す能力”が低下したのだと締めくくられている。
だが、海衝は特になにも思わない。
生活で不便を感じることも無いから、「そんなものか」と思う。
今日を生きる分の栄養を摂取する。そのための食事である。何の過不足もない。
むしろ味覚などという余計な情報があるがため、人々は本来の姿を忘れてしまうのではないか、などと考えるほどだ。
「誰だい?」
気がつくと、窓が少し開いている。そこに不気味な長身の人影があった。
視線――――か
「さすが海衝だ。よく気付いたな」
「ああ、いや。兵陰(ヴェイン)だとは解らなかったさ」
俺の気配に気付く奴なんてこの施設にもそうそう居ないぜ、と呟きながら、ぬるりと黒い影が窓から入ってきた。兵陰である。
短く整えられた黒髪。涼やかな目元。体は服の上からでも引き締まっているのが分かる。
海衝はふわりと笑った。
「また随分と唐突な訪問だね。あ、Bランク昇格おめでとう」
手を叩きながらそう言うと、男は何やら困ったような表情で笑い返した。
「お前は本当に、変わった奴だよ」
「兵陰も、人のこと言えないさ」
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「そういえば今日、貝紋(ガイモン)教官が探してたよ」
「ああ。”四角アタマ”か。あんな奴に関わってもロクな事ないな」
「でも、来週の式には出ないと。今回も総司令が昇格証を渡すそうだよ」
「それは当然行くさ……総司令なんて待たせたら、どんな罰を受けるか分かったもんじゃないしな」
言いながら、震える真似をする。
「貝紋教官は?」
さあな、まだ探してるんじゃないか?言いつつ、くく、と低く笑った。
兵陰は昔から愚鈍な性質の人間を嫌った。当然、貝紋もその範疇に漏れない。
海衝は、そんな兵陰の人柄が――――嫌いではない。
「ああ、腹減ったな。何かあるか」
言いながら、いつの間にか冷蔵庫を開いて勝手に物色している。
「お、ステーキがあるじゃないか。これ、食ってもいいか」
「いいよ。僕には何だって同じだし」
ああ、お前”味障”だったっけ。と言って顔を少し歪めた。同情の気持ちの表れだろうか。
海衝にとって特に、同情を受ける要素は見当たらないのだが。
パッケージには、”再現率九十九・八%”と下品な色使いで記されている。
本物の肉にできる限り似せたのだろうが、それ以前にまず牛や豚といった動物そのものを知らない。
数十年前に絶滅寸前にまで追い込まれ、今は地下のシェルターで養殖されているとか、ほんの一部の高級レストランでのみ流通している……といった話は聞いた事がある。
今やほとんどの国が内乱やテロの渦中にあるご時世、そんな呑気な真似をしている物好きが居るのかと呆れかえったものだ。
ステーキのパックを無電磁式レンジで温めると、独特の油っぽい臭いがした。
兵陰はそれにソースを掛け、無造作に口に放り込む。
「うむ、やっぱり美味いな……おっと、すまん」
ちらりとだけ、視線を向けて言う。
――――嫌いではない。
「いや、本当に気にしないでいいさ。僕にとってそれが良いものかどうかすら解らない」
そう言って、コップの水に口をつけた。
透明な、無の味がした。
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