Ogre(オグル)

よるの獅子

ep.01 視線

人の目を憚るようにして生きてきた。


それで良いのだ。他者からの視線など、それが善意であろうと悪意であろうと結局は重荷になるだけであって、それ以上でも以下でもない。


だから笑う。


笑えばほとんど閉じてしまうような細い目なのだ。笑えば人の視線が消える。顔も消える。輪郭も消えて、全てに境界線が無くなる。


――――何と、心地のつく瞬間だろう。


海衝(カイツ)はそう思う。


しかしそのように感じるのは海衝本人だけであって、周囲の人間がそんな内面の蠢動を感知できるはずがない。


否、”感知されてはいけない”のだ。それはそう、絶対に。


かつ、かつ、と硬い足音が響いてくる。闇の奥から人影が浮かぶ。誰か来る。


――――視線が来る。



「おお、やはりここに居たか」


にっこりと、笑う。


「こんばんは教官。はい、いま先日習った型の復習をしていました」


「ほう、殊勝だな。もう覚えたのか」


「いえ、なんですか、こう……腕を伸ばした時に、手首が攣りそうになります」


教官が鼻で笑う。あごが張って、妙に四角い顔をしている。


「ふん、お前は真面目なんだがな、いかんせん筋が固くて融通がきかんな。

 まぁ……さすがにお前の兄と比べる訳ではないが。どれ、型を見せてみろ」


兄。それは海衝のこの世でただ一人の家族であり、血を分けた兄弟である。


海衝は兄が好きだった。褒められると、まるで自分の事のように嬉しくなった。


いつもその話を聞くのは、自分と比較される時だったけれど。


「ではいきます」


「うむ」


海衝は右手の短刀を逆手に構え、目の前に突っ立っているワラ人形と向き合った。


中身は圧縮木材でできた頑丈な丸太である。


以前練習していた者でも居たのだろう、あちこちにワラ屑が飛び散っていて、人形もボロボロだ。


「えい!」


殴りかかるようにして短刀を人形に当てる。しかし刀身が少ししか入らず、海衝は大げさに手首を振った。


「あ、いたた……」


四角い顔の教官が笑う。


「ははは、硬いもんだ。それでは実戦でなんの役にも立たんぞ。いいか、まず……」


教官が短刀に手を伸ばす。海衝は申し訳なさそうに笑いながら手渡す。これでいい。順当だ。


「いいか、この動作は…………によって…………であるから…………姿勢を低く、膝はやわらかく、より素早く」


深緑の軍服をひるがえすと、人形の右胴からワラが飛び散る。流石に手際は悪くない。正確だ。


「そして振りきる前に、逆に戻して後ろからも刺す」


どしん、と人形が揺れる。見ると、人形の中心に深々と短刀が刺さっていた。


「なるほど」


「覚えておけ、バランスを崩さないようにするのが重要だ」


「どうもありがとう御座います、大変勉強になりました」


「ふ、まったく困った奴だな。まあ次の授業までに覚えておけば良い」


と、より愉快そうに笑った。


この手の男は、自分が優位な立場にある限りは上機嫌なものだ。褒めれば舞い上がり、おだてれば乗る。


まったくもって愚鈍である。


しかし、少しばかり愚鈍というだけで、別段悪い男ではない。と、海衝は思う。


実際、この男が兄へと向ける視線はつねに暗く、僻みと畏怖と劣等感で歪んでいる。しかしそれも仕方のない事だと思う。そういう人間には、それしか選択肢が無いのだから。


だから仕方ないし悪くもない。それで当たり前だ。


海衝はそう思う。



「あれ。そういえば教官、自分に何か用があったのでは」


「おっと……そうだった」


ぽんと手を打った。他愛の無いものだ。


「いや、な。あの兵陰(ヴェイン)がBランクへの昇格が決まったのでな、探していたんだ。お前たち仲良いだろう。何処へ行ったか知らないか」


「はあ、ついに兵陰もBランクですか」


「そうだ。お前も早くDランクぐらいには上がらんとな。で、何処に居る?」


「知りません」


なんだそうか、と言って教官は鼻白んだ表情を見せた。せめて心当たりでも言えばよさそうなものだが、海衝はそれをしない。


「なら他を当たろう。しっかりと復習しておけよ」


「はい、ありがとう御座いました」


深緑の軍服をひるがえし、四角い顔が廊下の闇へと消えていった。


視線は去った。


僅かな風が頬をかすめ、何も思わず空を見上げると、そこには真っ暗な空間が馬鹿馬鹿しいまでのスケールで広がっている。


昔、あの暗い空間には”星”と呼ばれる光が点在していたそうだ。それは一体どのような光景だったのだろう。それを見て人は、何を思ったろう。


大気汚染やスモッグが深刻な問題だった時代にも、星は出ていたそうだ。


何の感慨も無い夜空から目を逸らす。原型を忘れたワラ人形が目に入る。ここは訓練場の一角。広大な敷地をブロック塀で切り分けられた一つ。


”刀槍訓練場”と名づけられた荒野。


人形に刺さった短刀を引き抜き、全身を弛緩させたままぶらりと右手を上げた。


草葉の音がかすかに聞こえる。


周囲には何の視線もない。ひどく安心する自分が居る。


するりと、右手を三度振り抜いた。



(星になら、見られてもいいかな)



短刀を鞘に収め、背を向けて廊下へと進む。


ごろりと、後ろの方で三つの木片が転がった。







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