第壱章
ー壱ー
午前の授業終了を告げる鐘が鳴り、クラスメートに誘われて識也は食堂に向かった。
笑顔で雑談に応じながら廊下を歩き、他愛のない会話に興じながら日替わりのランチを胃に運ぶ。言葉を交わしながらも些かも知人の話す内容に興味は惹かれなかったがそんな素振りは全く見せない。適当に相槌を打ち、適度に話題を提供しながら普通の高校生を演じてみせる。
本質的に識也は一人を好み、他者との触れ合いを精神面では必要としなかったが、それだけで生きていくことは出来ないこともまた理解している。大勢が居る中で一人で過ごすのに不満は無いし、むしろ他者と交わりながら生きる事の方が不満であるが、ぽつねんと交流を拒んでいるとそれが他者には歪に見えてしまう。そうすると――識也には理解が不能なのだが――要らない気を回してくる人間も存在するのだ。
不満を一切抱いていない識也からしてみれば余計なお世話と言う他無いのだが、だからといって完全に拒んでしまうのも軋轢を産んでしまう。そして然る後に自身に振りかかる事柄は些事と片付けるには面倒である事を中学の時に学んでいる。だから高校入学以降は人懐っこい歳相応の顔を作ることを心掛け、そしてそれが苦もなく可能である程度に識也は器用であった。
「じゃあ俺はジュースと菓子でも買って戻るわ」
「おう、んじゃ俺らは先に戻ってるな」
時期はすでに十月。同じ教室で時を過ごすようになって半年以上が経過するが未だに名前さえ曖昧な友人もどきと手を振って別れて自動販売機へと向かう。器用さは持ち合わせていても演じるという精神的な疲労は如何ともしがたかった。
「ふぅ……」
誰かと共に生きる事は煩わしい。それどころか不快ですらある。だがそれも後一年と半年の我慢だ。
(……そう考えると長いな)
缶ジュースを大きく傾けると、建物の
「こぉら! 昼間っから溜息なんかつきやがって!」
背後から楽しそうな声が掛けられ、直後の衝撃を直立して受け止める。後ろからこっそり近づいて飛び掛かり、傍若無人にもヘッドロックをかましてくる人間など一人しか居ない。識也はこれ見よがしにワザと大きく溜息をもう一度吐いてみせた。
「重い。人が見てる。さっさと俺から降りろ、良太。そしてすぐに半径六,四〇〇キロ離れろ」
「地球から追放っ!?」
驚愕したような声を頭の後ろで聞きながら、識也は空になった缶をゴミ箱に投げ捨てた。
「いつもながらつっめてぇ奴だなぁ、おい。単なるスキンシップだろ? 俺とお前の仲だし良いじゃねぇかよぉ」
「ダメだ。暑苦しい。主に存在が」
「ひどくねっ!? ……ってへぶぅっ!?」
親友からの酷評に衝撃を受けている隙に識也は背中の同級生を全力で投げ捨てた。軽やかに芝生の上を転がり、止まった場所は偶々歩いていた女子のスカートの中が見える位置。
背中の痛みも忘れてだらしなく鼻の下を伸ばした良太だったが、スカートの中身を目に焼き付ける間もなく顔面を上履きで踏み潰され、そのまま大の字になって動かなくなった。そんな良太を見て識也は小さく鼻を鳴らし、庇の奥から降り注ぐ日差しに眼を細める。
暦の上ではとうの昔に秋を迎えたというのに日中の気温は今日のようにまだ三十度を越えている。朝晩こそ幾分涼しくなってきたためTシャツの上に冬服の学生服を着ているが、そこに男から抱きつかれるなど拷問だということがこの男は分かっているのだろうか。
「分かってたら抱きつくはずがないか。
おい、バカ。さっさと起きろ。そのままミミズみたく黒く焼け焦げたいなら構わんが」
「いつつ……誰のせいでこうなったと思ってやがる」
「さあ? 酷いことをする奴もいたもんだ」
「お前っだっつってんの!」
「冗談だ」
表情筋を動かす事なくそう言ってのけて、識也は良太に手を貸して立ち上がらせた。
藤巻良太は今の識也にとって本当の意味で唯一と言ってよい友人であった。
中学時からのクラスメートであり、人に興味を失った直後の、表面を取り繕う事を覚える前の識也を知っている。その為に識也もまた良太の前で特段態度を取り繕うようなことはしない。
無論全てを曝け出すような事は無いが、必要以上に何かを演じるということに疲労を感じる識也にとっては、素で良太とじゃれ合える時間は貴重なものだった。
(そういえば、最初に俺に話しかけた時も同じように跳びかかってきたんだっけな)
初対面の、それもクラスで浮いている様な根暗な奴に突然じゃれついてくる程に人懐こい性格の友人をマジマジと見る。当時から変わっていないな、と成長しない友人を残念に思う。だがその視線の意味は伝わらなかったようで、良太は首を傾げた。
「どーした?」
「いや、別に」
識也は視線を良太から外して教室へ向かって歩き始め、隣のクラス――2年C組の良太もまた並んで歩く。廊下を歩き階段を昇っていくが、その最中であちこちからギョッとしたような視線をひしひしと感じる。もういつもの事だが、いい加減にうざったいそれの原因を識也は横目で睨むとこれみよがしに溜息をついた。
「おいおい、さっきから人を見て溜息ばっかつきやがって何なんだよ。
――ハッ! まさか!」
「聞いてやるから言ってみろ」
「俺に惚れた?」
「バーカ。ただ相変わらず浮いた格好だって思っただけだ」
随分とイイ性格をしていると自覚している識也と友人関係を続ける程に面倒見が良くて明るい良太。少々ふざけた性格ではあるが何処に行っても友達に困らないはず。だがその実、良太もまた友人と呼べる人間は少ない。
その主要因は見た目だ。どちらかと言えば「イケメン」と呼んでも差し支えない部類に入っているはずだが、短い髪はオレンジと表現するのが適切な程に明るい色に染められ、耳や唇にピアスが付いている。未だ学ランではなくワイシャツで過ごしているが、だらしなく裾をズボンから出して腰にはジャラジャラとチェーンを垂らし、指にはいかついドクロの指輪がはめられている。加えて、今はシャツの下に隠れているが背中から左腕に渡って刺青が刻まれていた。
「そっかぁ? 自分では結構イケてると思ってんだけど」
「TPOをわきまえろ。どこのライブ会場に来てるつもりだ、お前は」
そちら系のロックバンドのライブでは目立たないだろうが、今居る場所は曲がりなりにも表面上は大人しい生徒の多い普通の高校内だ。深く考えるまでもなくひどく目立つ――浮いた格好であり、彼の本質を理解する以前に見た目の印象だけで敬遠されている。
それでも良太自身は気にしていないどころか、逆に見た目だけで判断するような連中はこっちからお断りだと言わんばかりに敢えて友人を作ろうともしていなかった。
「いいだろ? これが俺なんだ。俺が俺であろうとするのを何人たりとも止めることは出来ねーんだよ!」
「さよか」
「むしろ識也の方こそ疲れねーのかよ? そんないい子ちゃんの仮面を被り続けて」
「いいんだよ。ちょっとの苦労で平穏に過ごしてる方が、人前で素の自分で居る時の煩わしさよりよっぽど楽だ。
お前だって中学の俺を見てきたんだから分かるだろう? 望んでもないのに『みんな、水崎くんと仲良くしてあげて』だの『貴方の方からも心を開いてあげて』だの、うざくて仕方ない。親切の押し売りにはうんざりだ」
「まー、そりゃそうだな」吐き捨てるような識也の言葉を咎めるでもなく、あくびしながら同意してみせる。「ありゃ確かに面倒だ。『普通』からズレてただけでちょくちょく先公にゃ呼び出されるしな。俺もこのカッコ始めてどんだけ呼びだされた事か」
「お前はちっとは自重しろ。それで、俺に何か用があったんじゃなかったのか?」
識也が水を向けると良太は「そうだったそうだった」と頭を掻くと、ポケットからCDを取り出した。
「ほれ。こないだ言ってた俺おすすめバンドのアルバム。パソコンにコピーすりゃ家で聞けるだろ」
「ああ、悪いな。明日には返すよ」
良太の手からそれを受け取ると識也は自身の胸ポケットにそれを仕舞った。
クラスメートとの話題で最近の音楽やアイドルのネタは欠かせない。だが自宅のテレビは乾燥した作り笑いを垂れ流すだけで見向きもされず、たかが数千円とはいえCDの購入に遺産を使う気も起きない識也はこうして良太経由で得たデータで流行りを勉強するのが常であった。
「別にイイけどよ、そこまでしてクラスの連中と話を合わせる必要も無くね?」
「かもな。だが流行りを知って損は無いし、それに、たまに興味をそそられる曲に当たる事もある。いい気分転換にもなるからな」
「なら自分で買えばいいじゃん」
「そもそもお前に教えてもらわなきゃ流行りの歌手さえ分からん」
「このダメ人間め」
「褒め言葉だな、それは」
識也は勝ち誇った様に良太を鼻で笑い、全く堪えた様子の無いその様に良太はがっくりと項垂れてみせる。
「まったく……未来ちゃんもこんな奴の何処がいいんだか」
「知らん。俺の方こそ知りた――」
「あー! しーちゃんだっ!」
識也の後ろから女の子の叫び声が聞こえたかと思うと、振り返る間も無く識也の背中へと飛び掛かる。決して軽くはない衝撃に識也はたたらを踏むもなんとか踏み留まる。
これが良太であれば下が硬いタイルだろうが問答無用で床に叩きつけるところだが、流石に彼女を投げ飛ばす訳にもいかない。彼女の尻を片手で支えながら空いている左手で顔を覆い、この短時間で何度目か分からない溜息を吐いた。
「お前もか、未来……」
「しーちゃぁーん! スキスキスキスキスキ~!!」
未来、と呼ばれた栗毛の少女は識也の背に乗ったまま、楽しそうに顔を識也の首元に擦りつける。その様子はさながら犬がじゃれついているようだ。未来を何とか振り降ろそうと識也はもがくも、彼女の両腕はしっかりと彼の首を掴んで離れる素振りは見えない。
「あ、りょーちゃんも居る! おいっす~!」
「おいっす、みーちゃん。今日も相変わらず識也への愛で溢れてるね」
「うん! しーちゃんに対するね、愛情がね、溢れて溢れて止まらないんだ!」
「みーちゃんは良いよな~。識也に優しくされて。俺だってみーちゃんに負けねぇくらいにこいつへの愛が溢れてるってのによ、さっきなんか思いっきりぶん投げられて顔面踏み抜かれたんだぜ?」
「人の背に乗ったまま気持ちの悪い会話してるんじゃない。それに最後は俺じゃない。未来はさっさと降りろ」
「え~、やだ~!!」
「こ、こら! やめろ! 首が……」
識也のことなどお構いなしに、未来は腕に思いっきり力を込めてしがみついた。結果、識也の首が絞まり顔色が青から紫に変わっていく。
震える手で未来の腕を引き剥がそうとするが、識也の死にそうな状態に気づいてない未来はイヤイヤと首を振って余計必死にしがみついた。そしてそのまま識也の髪に鼻を埋めてクンカクンカと臭いを嗅ぎ、恍惚と顔をトロけさせた。
「あ、あのよ、みーちゃん?」
「ハァハァ、しーちゃんの臭いhshs……ん、なに、りょーちゃん?」
「大切なしーちゃんが死にかかってるぜ?」
流石に見かねた良太が声を掛け、識也の青黒くなった顔色に気づいて未来は慌てて背中から飛び降りた。
「しーちゃん大丈夫!?」
「……」
未来の呼びかけに識也は応えない。空気を取り込む事に必死でそれどころではなかった。
「反応がない……! はっ! しーちゃんを殺しちゃった! こうなったら私も後を追って……!」
「勝手に人を殺すな」
「はうあっ!?」
未来の額でパシーン、と景気のよい音を奏でその一撃に未来は崩れ落ち、その場にプルプルと震えてうずくまった。
「まったく……生まれて初めて良太に本気で感謝したよ」
「いや、もっと感謝してくれよ」
「冗談……なのか?」
「なんで俺に聞く!?」
改めて「冗談だ」と軽く口元を緩めると、識也は未来の手を引いて立ち上がらせた。
「うう、おでこがヒリヒリ……」
「自業自得だ。ほらシャキッと立てって……ああもう、腕はキチンと袖から出す! だらしないだろ」
「えー、可愛いからいいじゃん。しーちゃんだって可愛いって前に言ってくれたし」
「確かに言ったけどな……」
「おう、俺は可愛いと思うぜ? どんなカッコでもみーちゃんは可愛いけどな!」
「ありがとー、りょーちゃん! りょーちゃんもちょー個性的でカッコイイよ!」
「俺の個性を理解してくれんのはみーちゃんだけだぜ!」
互いを理解し合ってヒシっと抱き合う良太と未来。識也は疲れたように肩を落とし、そして未来の顔を見る。
未来は可愛い。その点については識也も同意せざるを得ない。
識也が考える一般的な観点から評価すれば、
明るく、容姿の評価は難しいが画像で見るそこらのアイドル並みに顔のレベルは高いうえ、識也と違って人付き合いも良く男女問わず友達も多い。識也は好きでは無いが、ダボダボのカーディガンは腕よりも長く、常にだらしなく腕の先から垂らしているがその姿も男子から人気が高いらしい。
実際に未来はこれまで数多くの男子から告白されている。識也自身も何度かその現場を目撃したし、告白してきた男子の中には未来とお似合いだと誰もが認める程に顔の整った上級生もいた。それを周りで見ていた女子生徒たちが黄色い悲鳴を上げていたのを、良太と共にただ眺めていた記憶は識也には新しい。
だが未来はその全てを断ってきた。それどころか告白が増えていくにつれて今の様に所構わず識也に対する好意を示すようになった。
識也と未来はもう十年以上の付き合いになる幼馴染ではある。一時は家族ぐるみでの付き合いも多く、中学の頃からそれとなく好意を伝えられていたが、公衆の面前での告白事件以降は今のように憚ること無く「好き」や「愛」を口にするようになってきた。
豊満な胸を識也に押し付けたり今の様に抱きついてきたりという行為は、今やこのフロアの日常の一コマと化していて、その度に識也は男女問わず冷たい視線に晒されていた。良太であれば勝ち誇ったように胸を張るのだろうが、識也にとっては居心地悪い事この上ない。
「二人で勝手にやってろ。それから『しーちゃん』も止めろって。袖をぶらぶらさせてるのと合わさって頭悪い女に見えるぞ」
「ぶーぶー。別にいいもーん。周りにどう見られたって。それにしーちゃんは別に見た目で好き嫌いを決めたりしないでしょ?」
「そりゃそうだが……ってこら! 腕に抱きつくな! 恥ずかしい! 暑苦しい!」
「へっへー! まーまー、良いではないか良いではないか。減るもんじゃないし」
「あ、じゃあ俺も。しーちゃぁん、左腕をちょうだい!」
「きもい! ひたすらきもい! てか、さっさと離れろっ!!」
両脇を美少女とパンク野郎にガッチリと固められて識也は悲鳴を上げた。柔らかい胸と硬い胸。正反対だがどちらもノーサンキューだ。識也は二人から逃れようと両手を振り回し、だが良太が捕まった左腕の拘束は剥がれそうにない。
「あっ――」
一方で未来の方は抱きつく力が弱かったのか、識也が右腕を振り上げたのと同時に体がすっぽ抜けて軽い体が小さく浮き上がった。何とか未来は着地したものの、バランスを崩してそのまま背中から倒れてゆく。
「未来っ――」
慌てて識也は手を伸ばすが空を切り、固い床に頭を打ち付けるかと思われた。
「おっと」
だがそれは、直前に未来の背中を支える手によって免れた。
「――音無先生」
「良かった、怪我は無いか?」
長身に白衣を纏った女性化学教師、
「元気なのは結構だが、廊下は飛び跳ねる場所ではないぞ」
「はい……すみません」
「すんません、ちっとばかし調子に乗りすぎたっすわ」
「申し訳ありません。それと、ありがとうございました」
三人がそれぞれ謝罪と感謝を口にすると、音無教諭は顰め面をすぐに解いて小柄な未来の頭に手を置いて軽く撫でる。
「生徒が元気いっぱいなのは私としても見ていて気持ちが良いし、元気を貰ってるからな。以降節度を守ってくれれば構わんさ。何かあった際に痛い思いをするのは君らだが、ちょっとしたことが大怪我に繋がる。取り返しのつかない事にならないようにな」
「はい」
「よろしい。それでは、な。もうすぐ午後の授業が始まるから遅れないように」
小さく微笑みながらそう言い残すと音無は流し目を残し、白衣を翻して颯爽と去っていく。さながらその姿は――
「相変わらず望ちゃんはイケメンだな」
「女性だけどな」
長い黒髪で線も細く、後ろ姿を見ても女性だが時折今の様なデキる男性のような仕草を見せるため、男性だけでなく同性である女子生徒からも音無教諭の人気は高い。加えて最後に見せたような流し目も、識也には良く分からないが、格好いい「らしい」。例えるならば『宝塚の男役』という表現が適当だろうか。
実際、去っていく彼女には男女問わず多くの視線が注がれており、そのほぼ全てが憧れと恋慕だ。漫画的に表現すればさぞやハートマークが乱れ飛んでいることだろう。未来の話では、クラスの『いつかお嫁さんになりたい男性』ランキングでぶっちぎり一位なのだとか。それはそれで年頃の男子としては悲しいものがあるな、と識也は未来のクラスメイトの男子陣に同情してみせた。
視線を望から未来へ落とすと、彼女は俯いていた。
「大丈夫か、未来」
「え、あっ、うん……てへ、怒られちゃった」
怒られて肩を落としていた未来は、識也に肩を叩かれて振り向くとハッと表情を取り繕って舌を出して戯けてみせる。識也は軽く頭を掻いて、犬にする様に未来の頭をワシャワシャと乱暴に撫でてやった。
「気にすんな。お前にそんなシュンとされるとこっちの調子が狂う」
「そーそー。怪我も無かったんだし、気にするこたないって」
「……うん、分かった! じゃあ改めて……」
「それはもういいっての」
「ぐえ」
再び抱きつこうとして識也に顔を抑えられ、不細工に整った顔が歪む。が、当の本人はそんなじゃれ合いさえも楽しいらしく短い両腕をバタつかせながら笑っている。
「未来~。そろそろ教室に戻るよ~」
「あ、ほ~い!」
識也たちとは別に談笑していた友人から声を掛けられ、未来はようやく離れた。スカートを翻しながら小走りで友人たちの元に戻り、輪に加わる。その直前で識也の方へ向き直るとブンブンと元気に手を振った。
「んじゃしーちゃん、じゃ~ね~っ! どうせ放課後は先に帰っちゃうんだろうけど浮気しちゃダメだよっ! りょーちゃんもしっかり監視をお願い!」
「そもそも付き合ってねぇし……」
「おうっ、まっかしとけって! 最近物騒だからみーちゃんも気をつけてな!」
識也は頭を抱え、対照的に良太は未来に呼応して大きく手を振って見送り、談笑しながら未来の姿が教室に消えていく。やがて良太は手を下ろし、眉を八の字に歪ませて識也に向かって溜息を投げつけた。
「未来ちゃんもどうしてこんな野郎を好きになったのかねぇ……あんだけ可愛いのにこんな無愛想で気の利かない男を。あれだけ可愛けりゃ男なんて選り取りみどりだろうに、まったく、人生損してるぜ」
「同意だ。俺の事をほっといてアイツはアイツの幸せだけ考えてればいいのに」
どうして自分なんかを好きになってしまったのか。本気で首を傾げる識也に、良太は「処置なし」と肩を竦めて自分の教室に脚を向けた。
「なあ、良太」
「あん? なんだ?」
「さっき未来に『物騒だから』って言ってたけど、最近何かあったのか?」
「あ? 何だよ識也、もしかして知らねーの、噂?」
「噂?」
オウム返しに聞き返した識也の様子に、本気で知らないのだと察した良太はクルリと踵を返して戻ってきて、そして再び識也の頭をヘッドロックする形で頭を自身の方へ引き寄せた。
「ちょっと、何だよ?」
識也は抗議の声を上げるが、良太は気にした素振りも見せずに耳元で囁いた。
「実はよ、最近この近所で女性行方不明事件が起きてるらしいんだよ」
「行方不明事件? そういえばそんな事があったな……」
言われて識也は記憶を辿った。テレビは見ないがラジオは聞く。毎朝起きたらラジオのニュースを聞き流しながら登校準備をするのが識也の日課だが、一ヶ月前くらいに近所でそんなニュースを聞いたような気がした。
良太はそれを心配しているのだろうが、昨日や一昨日にも未来と顔を合わせている。その時はそんな事を言っていなかったのにどうして今更気にしているのか。それに――
「どうしてそんな小声で話す必要があるんだ?」
「それはだな……」
良太は話を区切って周囲を見渡す。近くで聞き耳を立てている生徒が居ないかを確認したようで、識也は「相変わらず見た目によらずに慎重なやつだな」と内心で感心した。
「こっちが噂話なんだけどよ、どうやら昨日か一昨日からウチの三年が一人行方不明になってるらしい。どうやら事件に巻き込まれたんじゃねぇかって三年の間じゃ知らねぇ奴はいねぇくらい噂になってるんだよ」
「そういう事か」
得心した、と識也は頷いた。その行方不明になった生徒を識也は知らないが、彼女の友人たちからすればそんな噂を聞いて心穏やかではいられないだろう。
であれば良太が今日に限って未来に注意を促したのも分かる話だ。識也と未来は幼馴染だが、良太と未来も中学以来の友人だ。そんな物騒な事件が起きているのであれば注意を促すのも宜なるかな、と気の回らない自分を棚上げして再び感心した。
話は分かった、と識也は良太の肩を叩くが良太は識也を離そうとしない。まだ何かあるのか、と顔を見上げれば良太は幾分顔色を悪くして続きを口にした。
「でだな、こないだ隣の市で死体が見つかったようなんだが、どうやらその事件と今回の行方不明事件、警察は同じ犯人と考えてるらしくて……そのウチの生徒もすでに殺されてるって話だ」
「そうなのか……ならお前の言う通り物騒な話だな」
「嘘かホントかは知らんが、ほら、お前ん家に行く途中に焼け焦げた廃ビルあるの知ってるか?」
「……ああ、建設途中で火事になってそのまま放置されてるあそこか」
「そうそう。あそこ、確か立入禁止になってるだろ? にもかかわらず忍び込んでその生徒の死体を見たって野郎が居るみたいなんだよ」
「へえ……」
ここに来て漸く識也は興味を示した。僅かに口端を釣り上げ、付き合いの長い良太にしか分からない程度の喜色を見せた。小さく口の中でだけ舌を打ち鳴らし、だがその様子を見た良太は眉間に皺を寄せる。
「この話をした俺が言うのも何だが……お前のその趣味、他の人には見せんなよ?」
「分かってるよ。だからこうしてボロが出ないようにお前と違って普段から猫を被ってるんだ。
それはおいといて。面白そうな話だけどさ、それってガセだろ?」
「ンなこたねぇよ。現にだな……」
「だいたい、死体を見つけたっていうんなら警察に通報すべきだし、通報してんならそれこそニュースになってるはずだ。それに、その話が本当なら噂ってレベルじゃないしな」
「……そりゃそうだな」
「『友達から聞いた話だけど』なんて、よくある怪談話の件と同じだしな。幽霊見たら死ぬ。ならなんでその友達は生きてんだよ、ってな」
「あー、まあ確かにな……
そっか。ちっ、なんだ、ガセかよ。ちっとは面白え話かと思ったのによ」
「ニュースじゃ毎日の様に聞く話だからってそうそう俺らみたいな一般人が事件には遭遇するわけないしな。そんなのは一生に一度あるかないかくらいの相当なレアケースだよ」
「ちぇっ、このネタなら付き合いの悪いお前でも食いつくかと思ったのによ」
「俺がどれだけこの手の話を集めてると思ってるんだ? 興味をくすぐられたのは事実だけど、嘘か本当かくらいはすぐに分かるさ」
放課後には真っ直ぐ帰宅して引きこもりがちな識也と遊ぶ目論見が外れ、良太はつまらなさそうにオレンジに染めた髪を掻きむしった。
識也はクツクツと喉を鳴らし、ちょうどそこで予鈴が校舎に響く。
「へいへい。ま、でも三年が一人行方不明になってんのは事実だからな? それに学校の近くを変な野郎がうろついてるらしいぜ。みーちゃんは可愛いからな。ンな変態野郎の毒牙にかかんねぇよう識也も気にかけとけよ」
「分かった分かった」
適当な返事をして良太と別れ、識也はまたいつも通りの仮面を顔に貼り付けて自分の教室へと戻っていく。程なく午後の授業開始を告げる鐘が鳴り、数学の教師がやってくるとすぐに問題を板書し始め、真面目な生徒たちはそれをノートに書き写し始める。
識也もまたシャープペンをノートに滑らせていく。だがその口元には愉悦が浮かんだままだった。
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