第弐~参章




―弐―




 昼休みに良太が言っていたように、最近不審者が高校の近くをうろついているというのは本当らしかった。最後の授業は担任教師で、授業が終わるとすぐに帰りのHRとなり不審者の情報を伝えて注意を促していく。識也はそれを適当に聞き流すとすぐに教室を後にした。

 すでに陽も傾いて、電柱、家屋が細長い影を落としていく。学校から少し離れた商店街の近くに差し掛かった頃には薄い雲の切れ間からの陽光に街がオレンジ色に染まり、夕飯の材料を携えた年配の女性が忙しなく動き回っている。彼女らのエネルギーは、最近は季節外れとも言えなくなってきた昼間の熱気を吸収してそこらに撒き散らしているように識也は思えた。

 肌に合わない熱気にうんざりし、いつもと違って商店街を通過せずにその手前で識也は左手に折れて住宅街に入っていく。そうして三分も歩けば主婦たちの狂騒曲は別世界の出来事の様に遠く離れていった。


「確か、この辺りだったはずだが……」


 うっすらとした記憶を頼りに角を曲がって、住宅街の奥の方へ進む。人通りは殆ど無く一人とすれ違ったきりで、今も周囲には誰一人居ない。辺りには所狭しとぎゅうぎゅうに家やマンションが並んでいるのにどうしてこうも道には人が居ないのか。ゴーストタウンじゃあるまいし、確かに家には人が住んでいるはずなのに。昔から識也にはそれが不思議であったがその疑問はまだ解決されていない。

 その疑問をそもそも否定するようにパーカーを目深に被った男性が向こうからやってくる。すれ違いざまにチラリと識也を見遣り、だがそれ以上何をするでもなく走り抜けていくと、また元の静寂が戻ってきた。


「ここ、か……」


 そんな昔からの謎を思い返しつつ、空き地にできた駐車場に止まっている高級そうな黒いスポーツカーをなんとなく冷やかしている内に目的の場所に辿り着く。識也は脚を止めてその建物を見上げた。

 そこは昼間、良太と話していた五階建ての廃ビルだ。本来はもっと高いビルとなるはずだったが、建設途中に火災が発生して業者が夜逃げしたらしく、焼け焦げたまま放置されている。外壁は生き物が這ったように黒く煤けた跡があり、窓部にはガラスも無く風が吹き抜けている。

 識也は辺りを見渡して誰も居ない事を確認する。敷地の入口に張られたまま汚れきった「立入禁止」と書かれたテープを乗り越え、建物に脚を踏み入れた。何時壊れてもおかしくなさそうな外見だが、作りはそれなりにしっかりしているらしく激しい炎に晒されたにも関わらず崩れ落ちたりしそうな様子はなさそうだ。

 枠だけになった窓から顔を入れ、斜陽に照らされて朱く染まるビル内を見渡せば朽ちた建材が置かれており、だがそれだけ。建物の外を一通り歩いて回ってみても特に目的のものは無さそうだった。

 識也の目的は死体だ。学校ではおくびにも出さないが、識也は死体の観察が趣味だ。自宅のPCにはネットの海を泳いで集めた膨大な死体写真が保存されており、毎日それらを眺めては、生で『活きの良い』死体を見たいなと思いつつ眠りにつくのが日課だ。

 決して良い趣味とは言えないしその事は識也自身も自覚はしている。だが、識也にとって死体とは美術品だ。一般的な人がダ・ヴィンチの作品を称え、ピカソの絵に驚愕し、ダリの作品に慄くのと同じように、どんな美術品よりも識也の感性は死体を賛美していた。識也は魅せられていた。魅入られていた。


「ま、あるとは思わないが」


 良太の話は所詮噂話だ。昼間に伝えたように信憑性は薄いし、そうそう死体に遭遇するものではない。こうして暇さえあれば探し歩いている識也でさえ、現場に遭遇したのは一回だけだ。今回もガセネタだろうと期待はしていない。それでもこうして良太を差し置いて一人探しているのは、万が一にも噂が真実である可能性を逃すまいという貪欲さと、その場合に見つけた美術品を誰の眼にも晒したくないという独占欲の現れだ。

 口にした言葉とは裏腹に、念入りに明るい一階を探して回る。建材の影や今にも崩れそうな建築足場の下も覗き込むがやはり無い。何もはめられていない窓からの光が、顔を上げた識也の顔を赤く照らした。


 識也は徐ろに階段へと向かった。ポケットに手を突っ込み、鼻歌を口ずさみながら二階へと登る。窓から差し込んだ夕陽で頭から茜に染まっていく。

 呑気な様子で一際明るい二階のフロアを探しまわり、だが予想通り何も見つからない。軽く息を吐いて肩を竦めた識也はそのまま三階へ登っていく。そして脚を踏み入れた途端にゾクゾクっとした感覚が背筋を走った。

 一階、二階は眼を焼く程に強く夕陽が差し込んでいたが、対照的に三階は夜かと見紛うくらいに暗かった。階下から漏れる光でかろうじて足元は見えるが、橙の陽は窓枠の前にうず高く積まれた廃棄物の山で遮られて識也の元まで届かない。足元で鳴り響く風切り音が不気味に旋律を奏でる。風が建材の隙間を吹き抜けてギシギシと建物が崩れそうな錯覚を一瞬だけ覚える。カタカタとゴミの山が笑い声を上げた。

 識也は身震いした。だがそれは恐怖では無く、期待だ。


「まさかとは思ったけど、これはその『まさか』があるか?」


 埋蔵金を探し当てた探検者の様に、或いはクリスマスの夜にサンタクロースがやってくるのを待つ童子の様に、腐臭の中で識也は嫌らしく無邪気に笑った。

 確信を以て識也は奥へと進む。この手の事にはひどく嗅覚は鋭い。耳を澄ませば、何処からか水が滴る音が聞こえた。反響する音が不格好に歪む。反響音を踏みしめながら音源へ一歩、一歩と近づく。歓喜の瞬間を思い描きながら。

 果たして、識也は廃棄物の山の奥へと身を滑り込ませた。

 途端に鼻を突く、濃くて粘っこい香り。はっきりと聞こえる澄んだ水音が一定のリズムを刻む。

 薄影の中で何かが揺れていた。窓部はシートのようなもので覆われているらしく、微かに明かりが漏れ入ってくる。しかし揺れているそれが何かを正確に判別するには至らない。ただ、天井から吊るされて振り子の如くゆっくり左右に振れていた。確認するため、識也は揺れるそれに向かって近づいていく。

 不意に強いビル風が吹き込んだ。窓を塞いでいたシートが剥がれて飛ぶ。長い年月で降り積もった砂埃を激しく舞い上げた。そして猛烈に差し込む夕陽に照らされ、識也はそれを見た。

 天井から床に向かって伸びるロープ。ロープの途中に滑車を挟んで、先端は白い裸足に結び付けられ、血の気の失った青白い豊かな胸が重力に逆らえず下に垂れている。何かを称える様に両手は万歳をし、だが感情を最も如実に表すはずの顔はそこには無かった。

 首から先は切断されていた。鋭利な刃物で切られたであろう断面からは赤い雫がポタリポタリと滴り、下に置かれたバケツと思しき入れ物に溜まった血の液面に静かに波紋を広げていた。

 識也は思わず見とれ、目的に巡り会えた歓喜に震えた。だがそれも一瞬だ。女性らしい肉付きの良い裸体が惜しげも無く晒されて、首から滴る血とは対照的にその裸は些かも汚れていない。胸元に刃物で斬られたような傷痕があるが、殺人死体としては破格の美しさだ。九分九厘識也の好みだった。


 しかしただ一点、唯一にして最大の欠点。最大の美であるはずの頭部だけが無かった。その事に落胆し、何処かにあるだろうかと識也は視線を彷徨わせた。

 頭は無造作に床に転がっていた。長い黒髪はざんばらに広がり、砂埃やゴミで汚れてしまっている。顔も砂に塗れ、裸体とは対照的に血がこびりついている。

 何より、顔には幾つもの酷い損傷があった。口元は切り裂かれ、死の直前で断末魔を叫んだのか大きく開かれていた。血と涙の跡が残る目元は、眼球が破壊されて落ち窪んでしまっている。元々はかなりの美人だっただろうと識也は推測するが遺体には見る影もない。


「もったいない……」


 一層の落胆と、何も理解していない犯人に憤りを覚えながら識也はしゃがみこんだ。切断面を下にして拾い上げた頭を床に立て、砂を払いながら乱れた女の髪を整えていく。手が汚れるために少しためらったが、顔についた砂も軽く払ってやると幾分苦痛に満ちていた最期が落ち着いたものに変化した。そんな気がした。

 立ち上がり、まるで展示された美術品を観察するように識也は遠目に見た。天井から吊られて風で揺れる胴体の横に置かれた穏やかな死に顔。悪くは無いとは思うが識也の琴線には届かず、首をひねるに留まった。そしてどうすればもっと美しくなるだろうと髪型を変えてみたり頭部の配置を変えてみたりする。

 そうやって死体観察に集中。別段芸術家を気取るつもりはなく、また識也自身も自らにそのような美的なセンスがあるとは思っていない。それでもこうして醜い死体を自らの手で美しいものに変えようとするのは思いの他、心を弾ませるものだった。

 だが。


「ん?」


 息を殺した生者の存在に識也はようやく気がついた。振り返る。しかしその時に彼が目撃したのは自身に向かって振り下ろされるパイプの様な物だった。

 ぐしゃり。

 痛みは無く、代わりに何かが潰れる音を頭蓋の中から聞く。そこから先、識也の記憶は途絶えた。






―参―






 意識の奥に差し込んできた眩さに識也は体を震わせた。

 閉じていた瞼を静かに開けるとカーテンの隙間からより一層の光が瞳を焼く。耐え難い痛痒を覚えながら体を起こす。鈍痛が頭の奥底ににじり寄ってきて、思わず顔をしかめた。

 識也が眼を覚ましたのはベッドの上だった。六畳一間ほどの広さの部屋に冷蔵庫やパソコン、本棚など最低限の家具家電が置かれ、白い壁紙には何も飾られていない殺風景な部屋だ。

 そこは識也の部屋だった。自身がいる場所を確認し、識也は深く息を吐いた。


(夢、か……)


 酷い夢だ。識也は独りごちた。夢の中で死体を見つけられたという意味では良い夢だったのかもしれない。しかしその後が酷い。観察に夢中になって撲殺されるなど悪夢だ。まだ十分に観察もできていなかったというのに。

 苛立たしげに髪を掻きむしって立ち上がる。時計を見れば時刻は午前七時前。休日は遅くまで惰眠を貪るのが常である識也なのだが、随分と早くに眼が覚めてしまった。つい舌打ちをした。

 机の上に置いてあるラジオのスイッチを入れると、DJの陽気な声が流れ始める。話している内容に識也は興味を覚えず、聞き流しながらキッチンの歯ブラシを手に取って歯を磨き始める。

 シャカシャカと口の中で音を奏でながら、ラジオから流れる軽快な音楽と溌剌とした声をぼうっと聞き流しつつ頭の覚醒を待った。


『はい! それでは続いて本日のお天気です! 吉川さん、今日のお天気は如何ですか!?』


 若干のノイズが混じった中、女性DJの努めて明るい声で呼びかけられた気象予報士が快活に返事をする。


『はい! えーっとですね、本日十月……』


 識也の手が止まった。机上のラジオを見つめ、聞き間違いか、と思いながらもスマホのモニターをオンにする。

 まだ半分眠っていた眼が見開かれた。椅子代わりのベッドから慌てて立ち上がって識也はパソコンのスイッチを入れる。口に歯ブラシをくわえて立ったまま、まだかまだかと起動するのを待つ。

 やがてデスクトップのシンプルな壁紙が現れ、右下の時計を目にする。

 識也は力なく椅子に座った。口から歯ブラシが落ち、だがそれも気にならない。気にする余裕が、今は無い。

 脱力した腕を伸ばして枕元に置いてあるデジタル時計を手に取り、時刻の隣に表示された日付を睨みつける。そしてすぐに手から時計が床に転げ落ち、識也は目元を覆って天井を見上げ、そのまま後ろのベッドへと倒れた。


 全ての時計が告げていた。

 今日は、十月五日。

 識也の意識が途絶えた日から、三日前を確かに示していた。



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