○十一月四日 午後十一時三十一分 告白

 コーヒーポットを手にした店員の声を聞いた反応は、四者四様だった。

「やっぱり、そういうことだったか」

 ハルは盛大に舌打ちを鳴らし。

「何で、お前がここにっ……!」

 メイは驚きのあまり体を浮かせ。

「だ、誰……?」

 アキは見知らぬ闖入者に呆然となり。

「……おかわり、いただきます」

 僕は安堵のあまり、腰を抜かしそうになった。

 店員は困ったように眉尻を下げると、申し訳無さそうな顔を僕に向ける。

「ごめんね、敏ちゃん。合図の前に勝手に出てきちゃって。でも、流石にちょっと危ないと思ったから」

「いえ、助かりました。ナイスタイミングでしたよ。アヤさん」

 僕はそう言って、ヘルマ唯一の店員であるアヤさんに頭を下げた。カウンターの奥に視線を向けると、初老の店主(マスター)は素知らぬ顔で、コーヒーカップを磨いている。喫茶店ヘルマを経営しているのが初老の店主で、その店主が運営している店舗、ヘルマで働く従業員が店員であるアヤさんなのだ。

「ボクの時には顔を見せて、それ以降顔を見せなかった陰湿店員が、今頃何の用があるっていうんだい? 彩さんが来なくても、ボク一人でどうにかこの場は丸く収めれたよ」

「だから、そういう言い方をするのは止めろよ、ハル」

 早速アヤさんに噛み付くハルを、僕は諌めた。ここの店員であるアヤさんとは、僕のバイト先であるコンビニでも顔を合わせるのだ。悪戯にこの店やアヤさんを貶めるようなことを言われると、僕は今後バイト先で気まずい思いをしなくてはならなくなる。

 だが、僕の心配は無用だとばかりに、アヤさんは軽快に笑った。

「大丈夫だよ、敏ちゃん。これがいつもの晴ちゃんなんだから。でも、もう少し私にも心を開いて欲しいかな?」

「ふんっ!」

 不機嫌そうに顔を逸らせたハルを見て、アヤさんは苦笑いを浮かべた。

 それにしても、ハルの言葉を聞く限り、ハルは僕がアヤさんの力を借りようとしていたのに、気がついていたようだ。

 僕は流石は元カレなだけはあるなと思いながらも、気がついていたのなら僕の段取り通りにさせて欲しかったと、ハルへ抗議の視線を送る。三白眼で睨む僕からも、ハルは頬を膨らませ、唇を尖らせて、こちらを見ようとはしなかった。

「……おい、ちょっと待てよ。お前ら、何勝手に納得してるんだよ」

 アヤさんの登場で緩んだ空気を、メイの静かで、硬い言葉が、一瞬にして場を凍りつかせる。

「どういうことなんだよ、敏。今日聞いたお前ことでも頭が一杯なのに、何でよりによってこいつがここにいるんだよっ!」

 激昂したメイの怒号が、店内を駆け抜ける。恋敵を見つけたようにメイの目は見開かれ、口は歪に釣り上がった。

「これは、アレか? 私に対する当てつけか? もう私に愛想を付かして、それで、」

「メイ、違うんだ。アヤさんを呼んだのは――」

「じゃあ何でこいつがここにいるんだよっ!」

 頭を抱え、僕の言葉を遮るように、メイの悲鳴に近い絶叫が発せられた。

「……それは、私の口から説明した方が良さそうだね」

 欲しい玩具を買ってもらえず、駄々をこねる子供のように頭を振るメイを見て、アヤさんは僕のカップにコーヒーを注ぐと、テーブルに錆納戸のポットマットを敷き、その上に手にしたポットを置いた。湯気が立ち上るポットの向こう側から、アヤさんはメイに語りかける。

「敏ちゃんがさっき話していたSNSのオフ会。あれ、私が企画したものなの」

「え?」

「それじゃあ、あんたもハルと同じなのか?」

 アキが目を見張り、メイは口を半開きにして、アヤさんの方を指さした。

 そんな二人に、アヤさんは首を振って、こう答える。

 

「いいえ。私は、敏ちゃんと同じなの」

 

 今度こそ、誰もが動きを止めた。唯一テーブルの上に置かれたキャンドルの炎だけが、螢火のようにぼんやりと、淡く揺らめいている。

 そんな中、アヤさんだけが止まった時の中を動くことが出来るとでもいうように、自嘲気味に笑いながらも、その小さな唇を動かした。

「私は敏ちゃんと同じ、性同一性障害者。違っているのは、私の体が女で心が男だっていうことね」

「……お前、それ、言っていいのかよ? 働いてるんだろ? ここで」

 メイがたどたどしい口調で、アヤさんに問いかけた。

 それを聞いたアヤさんは、そんなメイを見て、優しく笑う。

「心配してくれるのね。私の事」

「そ、そんなんじゃねぇよ! でも、アレだろ? 私もバイだって知られると、引かれることもあるし……。そういうの、嫌だろ」

 尻すぼみになるメイの言葉を聞いて、アヤさんの笑みが濃くなった。

「大丈夫よ、石原さん。店主もその辺は、理解のある人だから」

「何せ、あのオフ会で使ったのが、ここの喫茶店だからね。ボクたちのことも、店主は知ってるよ。だから君たちがレズビアンであることやバイセクシャルであることは、店主の口からは絶対に漏れない。店員と違って、店主は出来た人だからね」

「全く、晴ちゃんったら……」

 ハルとアヤさんの声を聞きながら、僕はカップに手を伸ばした。アキが今の話の真偽を問うように、僕を睨みつけてくる。返答は、沈黙という名の肯定だ。

 メイ以外の人に、僕が性同一性障害者であることを知られるリスクがあったのは、アキだけだ。

 今この店にいるメイとアキ以外の全員、僕が性同一性障害者であることを知っているし、ハルやアヤさんが抱えている問題についても同様だ。

 僕はコーヒーを飲みながら、コンビニでバイトをしていた時の自分の行動を振り返る。

 僕がバイト中、アヤさんの体、特に胸などの話題を振らなかったのは、『男』であるアヤさんに『女』の体であることを思い出させたくなかったからだし、僕が進んで冷蔵庫へドリンクの補充を行ったのは、例えアヤさんの心が『男』であっても、『女』の体では作業がし難いと考えたからだ。

 とはいえ、『男』であるアヤさんも色恋沙汰は気になるようだったので、バイト先ではメイとの関係をしつこく聞かれた。僕も女の子と付き合う難しさに、弱音を吐きそうになったこともある。

 しかし、僕らは『彼氏』や『彼女』といった言葉ではなく、なるべく付き合っている相手のことを『恋人』と呼んでいた。性同一性障害者である僕たちの恋愛対象は、必ずしも見た目の性別から断定出来ないからだ。実際、アヤさんは過去にバンドウーマンと付き合っていた経験があり、僕とアヤさんの間では、付き合っている相手のことを『恋人』と呼ぶのは、もはや暗黙の了解になっていた。とはいえ、僕がメイと、『女の子』と付き合い始めた時は、メイの性別もわかっていたこともあり、最初は一時的にその枠から外れていたのだが。

 カップをテーブルに置くと、僕のことを静かに見つめるメイの視線とぶつかる。

「敏。お前、言ったよな? 『互いに一人ずつ呼んで、二人二組で会おう』って」

「僕も言ったじゃないか。ハルは、『僕が呼んだ『一人』だよ』って」

 当初僕の段取りでは、僕とハルと一緒にいることでメイの反応を伺いながら、次に自分が性同一性障害者であることを明かした後、それを証明する人として、またバンドウーマンとの交際経験のあるアヤさんをこちらから合図を出し、会話に加わってもらい、意見を聞きながらメイと話し合いを進めるつもりだったのだ。

 僕の予想では、メイは一人でヘルマに訪れるはずだった。そして実際、その予想は当たった。しかし、想定外の人物が訪れた。

 アキだ。

 アキはメイから僕のバイト先の様子を伺うように言われ、アキがアヤさんの顔を知っている可能性があったため、仕方なく合図を出すのを遅らせて、アヤさんにはカウンター下に隠れてもらっていたのだ。結果として、午後十時から今までカウンターで隠れていてもらうことになってしまったのだが。

 ハルを呼んだのは、メイが男にも嫉妬することを確かめるため。

 アヤさんを呼んだのは、僕が性同一性障害者である証明と、メイとの関係を維持するためのアドバイスをもらうため。

 メイと真正面から話し合っても埒が明かないのは、もう学習済みだ。だからこそ、こうした方法を取ろうとした。

 しかし、その計画も崩れた。

 崩した張本人であるハルは、メイに向かって、静かに問いかける。

「明さんは、敏夫のこと、好き?」

「ああ、愛している」

「なら、何でさっきボクに嫉妬したの?」

 間髪を入れずに返って来たメイの答えに、脊髄反射のように更にハルが問いかける。苦渋に染まるメイに向かい、ハルは尚も問いかけ続ける。

「君は敏夫のことが好きだ。それはわかる。でも、それは敏夫の何処を好きになったの? 敏夫の何を好きになったの?」

「それはっ!」

「石原さんは、敏ちゃんが他の女性と話すのが許せない。でしたっけ?」

 また言い合いに発展しそうになったメイとハルの会話に、アヤさんがすっと言葉を差し込んだ。

「後は、曲がったことが嫌いで、人間中身が大切、なんでしたっけ?」

「……そうだ」

 憮然とした顔で答えるメイに、アヤさんは苦笑いを浮かべる。

「何でもかんでも自分の言葉で線引して、その型に合わないならダメなら、敏ちゃんのことは、諦めるしかないんじゃない?」

「なっ!」

 突き放すようなアヤさんの言葉に、メイの顔に動揺と激憤の色が入り交じる。

 それでもアヤさんは、言葉を紡いでいく。

「私たちはね、私たちなの。自分は自分でしかないの。そうなりたいと思わなくても、なりたかったわけでもないのに、自分は自分でしょう?」

 どうなの? と、アヤさんは僕らを見渡した。

 その言葉に、僕も、メイも、アキも、ハルも、自然と顔が俯く。まるでアヤさんが、僕らの頭の上に重たい空気の塊を乗せたかのように、重たい沈黙が僕らの頭上に横たわっていた。

 なりたくてなったわけじゃない。この言葉の意味を、僕は十二分に理解していたし、何度だって考えてきた。それは他の皆も同じだろう。

『普通』になれれば、どんなにいいだろうと。

 僕は、女の体に生まれれば、あるいは心が男になれるのなら、女を好きになれるのなら、『普通』に生きることが出来たのだろう。

 アキは男の体に生まれれば、あるいは心が女なら、男を好きになれるというのであれば、『普通』に生きることが出来たのだろう。

 ハルは交通事故さえ起きなければ、声変わりし、女装をしようだなんてことは思わずに、『普通』に生きることが出来たのだろう。

 メイは、男の体で生まれて女だけを好きになれれば、あるいは男だけを好きになれれば、『普通』に生きることが出来たのだろう。

 でも、そうはならなかった。ならなかったんだよ、『普通』じゃない僕たちは。

 性同一性障害者と同性愛者、ホモセクシャルやレズビアンは混同されることもあるが、両者には明確な差がある。

 同性愛者は恋愛の対象がどちらの性別かという性的指向に関する概念であり、性同一性障害者は自己の性の意識がどの性別かという性同一性に関する概念だ。

 だが、それが一体なんだというのだろう?

 様々に分類し、形に当てはめたりすることは出来る。だからここが違えば『普通』になれたんじゃないかという、ありもしない『もしも』の話をすることなら出来るのだ。

 でも、そうじゃない。そうじゃないんだよ、僕たちは。

 両手の指を絡め合い、僕は力を込めた。すると自分の中にあるモノが、搾り出されるように言葉となって、口から零れ落ちる。

「アヤさんの言う通り、今僕たちはこうして生まれてきてしまったし、こういう在り方しか出来ません」

 今まで、散々悩んできた。

 普通の形に自分を当てはめようと、自分自身を捻じ曲げ、捩り、削げ落とそうとした。

 それでも、出来なかった。出来なかったからこそ、ここにいる。

「僕たちは、世間一般で言う所の、『普通』なんかじゃないし、『普通』になんて、なれません」

 なら、普通じゃない僕たちは、どうすればいいんですか?

 どう生きればいいんですか?

 誰なら好きになってもいいんですか?

 でも、そんな答えなんて、ありはしないのだ。

 だから、それでも。

 だからこそ、

「だからこそ僕らは、僕は、自分で決めて、自分で生きて、自分で、誰かを好きにならなければいけないんだと思います」

 運命的な出会いなんてものが早々この世に存在しないことは、既に十分過ぎるほど理解している。理解しているが、でも、と僕は思ってしまうのだ。

「ある日突然運命的な出会いが起こるだなんて、『普通』じゃない僕にはありえない。だからこそ、何でもない日常を、日々を積み重ねて、最後に振り返って、あの日の、あの出会いが運命だったんだって、僕はそう言いたいんです!」

 運命的と言うより、悲劇的だった、あの出会いを。

 僕は、運命だと呼びたいから。

 だから、

「だから、僕は! いや、私はっ!」

 気付けばメイの顔が、目の前にあった。自分の両腕をメイのカップの辺りまで伸ばし、体をテーブルに預けるように乗り出している。傾いだカップが、文句をいうように大きく鳴った。

 それでも構わず、メイを見た。メイしか、目に入らなかった。

 だから、言おう。

「今まで段取りを考えたり、それも崩れて、ああだこうだ今まで言ってきたけど、とどのつまり、私はある一言を言うためだけに、今日メイをここに呼んだんだよ!」

「な、何をだよ」

 狼狽するメイに向かって、真っ直ぐに。

「好きです。メイという、あなたという存在が」

 だから、

 

「僕(私)を、あなたの彼氏(彼女)にしてください」

 

『普通』じゃない自分と、まだ別れたくないと言ってくれるのなら。

「僕が、あなたの女性の部分を満足させます! 私が、あなたの男性の部分を満足させてみせますっ! その代わり、僕が他の女性と話すのを、許してくれませんか?」

 受け身な聞き方になったのは、きっと自分の『女』の部分が出たからだろう。でも、それが自分の本音なのだから、しょうがない。

 メイの『彼氏』も『彼女』も、僕が、私が担ってみせる。だから女性と話をすることを、許して欲しい。それが、自分の提案だった。

 先ほどとは違う、けれども重い沈黙が、僕らの周りに漂い始める。

 賽はもう自分で投げた。後はメイの回答待ち。

 暴れる心臓が悪戯に血圧を上げ、キャンドルの灯りが増えたわけでもないのに、視界が真っ白に染められる。

 もし、これが受け入れられないというのなら、残念ながら僕たちは――

「……本当、だな?」

 やがて聞こえてきたのは、蚊の鳴くような小さな声だった。

「……本当に、その、満足、させてくれるんだろうな」

 顔を真っ赤に染めたメイは、見たこともないほど恥ずかしがっているように見える。

 それが少し可笑しくて、愛おしくて、僕は、私はメイに見入っていた。

 やがて耐えられなくなったのか、メイはいつもの調子で怒鳴りながら立ち上がる。

「ど、どうなんだよ! 満足させてくれるのか、くれねぇのか!」

「するよ! させてみせる! させてみせるさっ!」

 カップが倒れるのを気にもせず、僕はメイを抱きしめた。

 ハルが慌てて僕とメイのカップをどかし、アキが恋の断末魔を上げる。その様子をアヤさんは微笑ましそうに眺め、店主は相変わらずカップを磨いていた。

 

 それから始発が動き始めるまで、喫茶店ヘルマから喧騒が途絶えることはなかった。


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