○十一月四日 午後十一時十四分 告白

 性同一性障害者。自分がそうなんだとハッキリと認識したのは、中学二年生の体育、水泳の時間だった。

 裸で泳ぐのが怖い。何で胸をはだけて泳がなければいけないのか、意味がわからなかった。そんな恥ずかしいこと、何故みんな平然とこなすのだろう?

 最初は、自分が恥ずかしがり屋なんだと思っていた。同じクラスの男子と着替えるのが嫌なのも、自分の体に自信を持てず、コンプレックスになっているだけなんだと思っていた。

 でも、違った。

 僕は着替えながらも、同級生の子供から大人へと移り変わる体を気付けば目で追ってしまっており、更にあろうことか、勃起までしていた。そこで僕は、自分の異常性に気がついた。

 恐れわななき、震える体と身勝手にぶつかり合う歯の音を聞きながら、僕はもつれる足を必死に動かして学校のトイレの個室へと駆け込んだ。心臓の音だけが僕の聞こえる全てとなり、目の前が暴力的な白で強引に塗りつぶされる。

 耳は聞こえず、目も見えない。

 故に余計に感じるのだ。

 自分の起立した、ソレの存在の違和感に。

 心臓が伸縮を繰り返す度、ソレに注がれる血液のせいで、否応もなく僕はソレの存在を認識させられる。痛むほど膨れ上がるソレをどうしたらいいのかわからず、僕はひとまず、ソレを束縛から開放してやることにした。

 ベルトを外し、ズボンをパンツとともに脱ぎ去る。瞬間、僕の目に飛び込んできた、自分の一部でありながら、自分の違和感の根源でもあり、自分が何物であるのかを象徴するソレを見て。

 僕は嘔吐しながら、射精した。

 あの惨めさと忌々しさと不甲斐なさは、今でも鮮明に思い出すことが出来る。

 気管は圧迫され、口から吐瀉物と唾液が飛び散り、嫌な酸っぱさと未消化の半固形となった物体が舌にナメクジのようにまとわりついてくる。鼻は鼻水と胃酸混じりの何かが糸を引くように伸び、胃液の酸っぱい臭いが鼻腔を貫いた。吐いたそれらに混じるように、自分のソレから出た黄色がかった練乳のような白濁としたそれが、僕にはおぞましくて仕方がなかった。

 自分の体から出た汚物と汚水と汚濁の上に、唯一透明な雫が流れ落ちる。両目から、何のために溢れ出しているのかわからないそれさえも、やがてそれらと交じり合い、透明と言う色は汚される。

 吐き出すだけ吐き出した後、いつものソレに戻った自分の一部を含め、僕は自分の不始末を掃除をすることにした。掃除の最中、怒りに近い激情を胸に抱えて、僕はこう思った。

 僕は、『普通』の男ではないんだ、と。

「僕は性同一性障害者だ。そう気づいてから、毎日が地獄だった。鬱々とした気持ちを抱え、かといって親にも相談できない。出来るわけがない……」

 そもそも、あの時僕は、僕の異常性を語る言葉を持っていなかった。これが風邪であれば、咳や熱などの症状から、薬を処方することも出来る。

 しかし、自分が何物であり、何であるのか、僕には僕自身がわからなかった。ただ『普通』の男ではないということしかわからず、自分がどうなってしまったのかを、自分が何物であるかわかりもしないのに、誰かに相談なんて出来るはずがない。

 僕は毎日、自分の心を殺すように、『普通』の男であるように振る舞うしかなかった。『普通』の男もどきという存在にすがるしか、自分の精神を保つ方法を持っていなかった。

「でもある日、僕は同じような悩みを抱えている人たちが集まる、SNS上のコミュニティがあることを知った」

 そこは自分の体にコンプレックスを持っていたり、自分の心の在りように悩みを抱えている人たちが集まるコミュニティだった。そこで僕は初めて、胸の内を明かすことが出来た。ネットという、実際に顔の知らない相手だからこそ、自分の悩みを打ち明けることが出来たのかもしれない。気休めだったかもしれないが、自分の想いをさらけ出すことで、また同じ悩みを抱えている人と交流することで、僕は何とか日常生活を送ることが出来た。

 だが、そんなある日。

「僕が高校生になった時、この地域に住んでいる人たちとオフ会をしよう、という話が出たんだ」

「そこでボクは、敏夫と知り合ったんだよ」

 僕の言葉を引き継ぎ、ハルはそう言った。メイとアキは、僕らの話を聞き、まだ信じられない、といった表情をしている。

 それでも構わず、ハルは僕との関係を語っていく。

「ボクは、こんな声だからね。それはもう、『色々』からかわれたよ。親もボクの事故を自分のせいだって責めるだけで、ボク自体には見向きもしなかった。そうすることで罪を直視したくない気持ちはわからなくはないけれど、ボクにとってそれは辛すぎた。だからこんな格好をして自分を見てもらおうとしたのが、ボクが女装をするようになったきっかけかな。今にして思えば、こんな格好をすればこの声が似合う女の子になれるんじゃないか、なんて想いもあったのかもね」

 そんなこと起こり得るはずなんてないのにさ、とハルは自嘲気味に笑った。

 ハルに向かって、アキが遠慮がちに声をかける。

「それじゃあ、あなたは自分のことを……」

「そう。こんな格好をしているけれど、ボクはボクのことを男だと思っているよ。そしてボクは、こんなボクを受け入れてくれた、男の体をした敏夫を、一人の女の子として付き合っていたのさ」

 ハルの言葉に、僕は頷いた。

 トッシーやヤスが聞いたという僕が付き合っていた女の子の正体は、ハルのことだ。僕が性同一性障害者であることは、彼らには言っていないが、それ以外で嘘は付いていない。僕は一度も『彼女』が出来たことはないが、『恋人』がいなかったとは言ったことはないし、童貞だったのも嘘ではない。

「でも、付き合うって言ったって、セックスとかは?」

「言っただろ? 性行為は出来るって。精子は作れないけど、ちゃんと勃つんだよ」

 アキの問に、ハルは胸を、その下にパットが入ってるのを僕は知っているのだが、それを自慢するように反らせた。

 合コンで僕が自分で持っていたコンドームはハルと付き合っていた時に買ったものであり、あの日にはその残りを持っていったのだ。僕とハル、どちらがつけるのかは、先のハルの発言から言うまでもない。傷口などから性病が感染する可能性があったので、ハルには一応付けてもらっていたのだ。

「他に、何か質問はあるかい?」

 この場の主導権を完全に握ったハルが、女王のように僕らの前に君臨していた。アキはその姿に萎縮し、メイはいつもの威勢は何処へやら、まだ僕の告白の衝撃から抜け出せていないのか、小さく嘘だとつぶやいている。

 しかし残念ながら、僕が体は男で心が女だという事実は覆せない。

 元々僕が名前を二文字に略して呼ぶのを好んでいるのは、相手を見かけの性別で呼びたくないからだ。僕のように性同一性障害者の可能性がある以上、見かけで『彼』や『彼女』と呼ぶのは避けている。もし使わなくてはならない時があったとしても、相手の名前がわかるまでしか使わないし、使ったとしても『僕の彼女』のように、心の性別がわかっている時にしか使わない。

「……なら、何でアキや私と付き合ってたんだよ」

 絞りだすような声で、メイがようやくまともな言葉を口にした。初めて聞くメイの弱々しい声に、僕はなるべくゆっくり話すよう心がけながら、言葉を紡いでいく。

「結局、ハルとは別れちゃったからね。僕の体が男であるという事実は、変えられない。でも、心ならどうだろう、って、そう思ったんだよ」

 因果応報。行動なくして結果は出ない。

 だから自分の何かが変わることを期待して、『普通』の男ではない僕が『普通』の『男』になるつもりで、アキと出会うことになった合コンに参加したのだ。

 そういえばあの時調べた雉撃ちという隠語も、結局僕は一度だって使っていなかったなと、今更ながらに気がついた。

 あの日から自分がどんなことを考えながら行動していたのかを、僕は赤裸々に語る。

「だからアキと、その、体の関係を持つのは、『普通』の男になるには、僕にとって一大決心だったんだよ。でも、アキの部屋に入ると、やっぱり落ち着くというか、女の子の部屋だなぁって思ってさ。親にも内緒にしてるから、僕の部屋は、あんなんだしね」

 それでも、二ヶ月間。アキとの関係を、維持することはできた。

『普通』の男でいることが、出来たのだ。

 でも。

「ようやく『普通』の男になれたって、何とか自分の中で折り合いが付けれそうだった所で、その、アキにとって、僕が浮気相手だったっていうのが、わかった」

「……ごめんなさい」

「いや、もう済んだことだし。謝らないでよ、アキ」

 申し訳無さそうにするアキに、僕は苦笑いを浮かべながらそう言った。

 アキの浮気と、アキがレズビアンであるという事実は確かにショックで、それを聞いた時の僕は、ただ呆然とするしかなかった。

「だけどアキがレズビアンだって知って、変な話だけど、僕は少し嬉しかったんだよ」

「……嬉しかった?」

 アキの問に、僕は頷きを返す。

「うん。だってアキの恋愛対象は、女性でしょ? だからそのアキに、その、浮気相手に選んでもらえて、『普通』の男に変わろうとしていた『女』の自分を認めてもらえた気がしたんだ」

 アキは僕のことを合コンに初参加だから、という理由で浮気相手に選んだと言っていた。でも僕は、『あの時の僕』は合コンが成功して自分に彼女が出来るだなんて思ってもいなくて、自主的に料理を取り分けたりとお母さん的な、女としての役割をあの場で担っていた。

 だからあの合コンで、僕は『普通』の男になろうとしている女、ではなくその前のただの『女』として、アキに恋愛対象として見てもらえるんだという、無理に変わらなくてもいいんだと言ってもらえる気がして、嬉しかったのだ。

「敏夫を『女』という意味で愛したのなら、ボクが最初だろ?」

「そうだね、ハル。だからこそ僕はアキと付き合って、『普通』の男になれたって思って、それもそこで有耶無耶になるように別れ話になっちゃったけれども、歩みを止めなかったんだよ」

 不貞腐れるように言うハルをあやすように、僕はそう言った。

「そして歩みを止めず、僕の手を引いてくれたのが、メイ。君だった」

 話を振られたメイは、小動物が怯えるように、小さく震える。小柄なメイには似合うはずのその動作が、メイの気性とひどく不釣り合いだった。

「僕は『普通』の男になった、つもりだった。でも、やっぱりメイから『男』だろ? って言われると、必ず頬が引きつった。だからあの時僕がメイに惹かれたのは、強引なところに君の、バイセクシャルの『男の部分』を見たからかもしれないね」

 女の部分が残っていたからこそ、僕はメイの体型がどうして玄人好みなのか理解できなかったし、トッシーが何故そんなに女性の胸を気にするのか、未だに理解できていない。

「でも僕がメイと付き合い始めたのは、君についていった一番の理由は、あのカフェで君が、人間は中身が大事って言ってくれたからなんだよ」

 ゆっくり話すよう心がけていたはずなのに、僕の言葉は自然と熱を帯びていく。

「正直に言うよ。メイが僕と女性が話すのに嫉妬してくれるのは、嬉しかった。自分のことを『普通』の男だと思っていてくれるようで、僕の変わろうとした決意が正しいんだって、そう言ってくれているようだったから」

 いつかの、バイト先でのメイとのやり取りを思い出す。今度は役割が逆で、距離もあり、季節も違う。それでも僕の言葉はどうしようもないほど、自分の喉を焦がしてしまいそうなほど熱くなり、空気を震わせ、キャンドルの炎をより燃え盛らせる。

「でも、僕がこの先メイ以外の女性と話さず過ごすなんて、無理がある。それでも今までメイから罵声を浴びせられても、何度怒鳴られても僕がメイと一緒にいたいと、い続けたいと思い続けれたのは、君がこう言ってくれたからなんだよっ!」

 

『ホントは男と話すのだって嫌なんだ! 敏には私だけ、私だけを見ていて欲しいんだ! お前の全部を、私は全部欲しいんだよっ! それの、一体、何処が悪いってんだよ……』

 

「僕も同じだった! メイが欲しい! メイには僕だけを見て欲しい! でも、君は僕以外に手を伸ばし続けたっ!」

 押し殺していた感情が、醜い言葉となって僕自身を焼いていく。その激情が悋気の炎だと知っていても、この熱でメイを焼き尽くし、自分のものにしたいという卑しい独占欲が、僕の口が閉じるのを許さない。

「メイが他の女と寝ている時、僕の中の『女』が顔を出す! 何故僕じゃない『女』に手を出すんだと、激昂する! 自分は『普通』の男なんだと、何度言い聞かせてもダメだった! ここに『女』ならいるじゃないかと、君に僕が性同一性障害者だと伝えていないのに、ヤキモチを焼いた! 嫉妬したっ!」

 焼いたそれらは焼き過ぎ、炭化し、心に黒く蓄積し続ける。

 理不尽な言分であるとわかっていても、僕が『普通』の男になりきれればいいとわかっていても、そうはなれなかった。

「それでも先月までは、どうにか自分を抑えることが出来た。メイ。君が『男と話すのだって嫌』だって言ってくれたから、『女』の僕は、我慢することが出来たんだよ! でも、君はこう言ったっ!」

 

『……なら、もし僕がメイ以外と、女性ではなく男性とイチャイチャしていたとしても、メイは気にしないんだ。僕に『彼氏』が出来ても、気にしないんだね?』

『ああ、問題ねぇぜ』

 

 あの言葉を聞いた瞬間、僕の中で初めてメイへの愛情が、憎悪へと変化し始めたのだ。

 憎悪は心に蓄積し続けたものを巻き込み、タールのように粘着き、毒々しい色となり、僕の心に絡み付いている。錯覚だとわかっていても、心臓の鼓動を感じる度、それが放つ自分の全身を焼焦がしたような異臭を、僕はどうしようもなく意識していた。

「……止めどなく話したけど、僕はそういう人間で、そうでしか、あり得ないんだよ」

 そうなんとか声を絞り出し、僕は歯が歯茎に食い込むほど強く、口を閉ざした。

 今僕の胸中には、全てを吐き出した開放感と、やってしまったという後悔の念が入り混じり、虚脱感のようなものが渦巻いている。

 僕が今したことは、自分が何をどう考えていたかをただぶち撒けただけの、子供じみた八つ当たりのようなものに等しい。そうなると自分でもわかっていたからこそ、僕は段取りを考えていたのだが、今更何を言っても遅すぎる。

 アキは冷めたカップをうつむくように見つめ、メイは腕を組んで下唇を強く噛み、何かを考えるように目をつぶっていた。色々なことが明かされ、二人とも戸惑っているのだろう。だが、黙っていても事態は何も変化しない。

 僕が何か話そうと考え始めた瞬間、僕の腕に重みが加わった。

「ねぇ、明さん。曲がったことが嫌いで、人間中身が大切だと思っている明さんに、ボクから質問があるんだけれど、いいかな?」

 僕の腕を、ハルが強引に抱き寄せる。それを見たメイは、ハルに飛びかからんばかりの勢いで立ち上がった。

「てめぇっ!」

「ねぇ、明さん。今、何で怒ってるの?」

「……何だと?」

 テーブルに乗り出すメイを、ハルは薄笑いを浮かべながら見つめている。

「だからさ、聞いたよね? 敏夫の話。彼は、彼女でもある」

「……ああ。それがどうしたっていうんだ」

「なら、聞かせてくれないかい? 今明さんが怒っているのは、『彼氏』である敏夫と女の格好をした男が一緒にいるからかい? それとも、敏夫の中の『女』と女の格好をした男が一緒にいるからなのかい?」

 どっちなんだい? と言って、ハルは妖艶に笑う。その笑みは悪魔めいており、まるで問いかけた相手から、巧みに魂を抜き取ろうとしているかのようだった。

「さぁ、答えてよ! 『彼氏』が女に見える相手と一緒にいるから嫉妬しているのかい? それとも『彼女』が男と一緒にいるから嫉妬しているのかい?」

 尚もハルは、メイに問いかける。メイの口がためらうように中途半端な形をしている間に、ハルは煽るように、僕との距離を縮めていく。

 だが、メイは何も言うことが出来ない。その理由を、ハルは言葉で正確に射抜く。

「人間中身が大切? 笑っちゃうね。君は今まで敏夫の何処を見ていたんだい? 明さん。君は結局、敏夫の外見しか見てなかったんだね。ボクについてもそうさ。何故なら君は女の格好をした男のボクに嫉妬して、敏夫の『女』に気付けなかったんだからっ!」

「……そんなもん、そんなもん、言われねぇとわかるわけねぇだろうがっ!」

 メイの両手がテーブルを強く叩き、四つのカップは音を立て、キャンドルがグラスごと一瞬宙に浮く。不規則に揺らめく炎で照らされる中、メイは噛み付くようにハルへ口を開いた。

「女の格好されりゃあ女にしか見えねぇし、心が女だなんて言われねぇとわかるはずねぇだろうがっ!」

「だから、言っただろ? そのための今日なんだよ! ボクは男で、敏夫は男で女さ! それを踏まえて聞いたんだよ! 何故君はボクに嫉妬したの? それが語れないのに、何故敏夫にだけ他の女と話すななんて言えるの? 何故自分だけ他の女と関係を持つのが許されると思うの? 何で自分だけが正しいだなんて、不確かなことが言えるの? 何でだよ! 何でなんだよっ!」

「おい、ハル! 落ち着け!」

 立ち上がろうとしたハルの腕を、僕はつかんだ。しかし、それがメイには逆効果だったようだ。

「うるせぇ! 敏は、私のだ! 私のだから、私は、だからっ!」

「ちょっと、明!」

 いきり立つメイをアキが引き止めるが、効果は薄い。

 メイとハル。二人の手がつかみ合いそうになった、その瞬間。

 

「コーヒーのおかわりは、いかがしょうか?」

 

 店員の声が、聞こえた。


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