●十月二十七日 午後二十三時十七分 決裂

 すっかり日の暮れたバイト帰りの夜道を、枝から舞い落ちた葉を踏みしめながら、僕は歩いていた。乾燥し、緑という色が抜け落ちて落葉色となった葉は、僕が一歩足を進める度、スナック菓子をかじった時のようにパリ、っと音を立てて砕ける。

 見上げれば、木々には紅や黄色をした葉がまだ自分の役目は終えていないんだとばかりに、闇夜を照らない星として彩っていた。そんな星たちを不憫に思ったのか、雲の合間から見え隠れする月が、自分を照らす太陽からの光を地上の星々に分け与えている。今日は満月のはずだが、あいにく雲間に隠れ、その全容を見ることが出来ない。

 それでも月明かりのおこぼれにあずかった紅葉が、僕には儚く、美しいものだと映った。そう感じたのは、あの葉たちも、今自分が踏みしめている落ち葉と同じように、いずれ散ることになると、知っているからだろう。

 そのまま街灯の少ない、人工の光がない道を進むと、僕の住居が見えてきた。僕が借りているアパートは、二階建ての築二十年にもなるボロアパートだ。一応リフォームはされており、七畳半ある一Kの部屋を、僕は特別不満に思ってはいない。それでも僕は二階の自分の部屋を見上げて、溜まりに溜まった不満を吐き出すように、大きなため息を付いた。

 明かりを消して出てきたはずの僕の部屋に、明かりが灯っている。

 消し忘れでもなく覚え違いでもない。僕は確かに、バイトへ向かう前にきちんと部屋の電気を消してきた。それなのにも関わらず、部屋の電気がついている。その原因に、僕は心当たりがあった。

いっそ今回は物取りが原因であればいいなと物騒なことを考えつつも、僕は錆びついた階段を上っていく。金属音が僕の静かな怒りを代弁してくれるかのように、階段は一弾上がる度、甲高い音を鳴らしていた。

 やがて二階に辿り着き、自分の部屋の前まで来ると、僕は開錠せずにドアノブをつかみ、それを捻り上げる。部屋の電気を切っていく僕が、部屋の施錠せず家を出ることはない。それなのにもかかわらず、いや、この場合やはりというべきか、侵入者を防ぐはずの鍵はかかっておらず、ドアノブは僕の手にされるがまま、ドアを無条件降伏するように開いた。

 ドアを開けた自分の部屋から聞こえてきたのは、艶かしい嬌声。喘ぐ吐息と、動物的な最中の生臭さが、僕の鼓膜と鼻腔をまち針で丁寧に突くように刺激する。

 僕は玄関に入り、ドアの鍵を閉め、乱暴な足音を立てながら、部屋の中へと進軍した。僕の部屋は簡素なもので、ベッドと本棚に姿見。二十四インチのテレビとそれを置くテレビラックにちゃぶ台と、大学のレポートなどで使うノートパソコンぐらいしか置いていない。

 そのベッドの上で甘い声を立てていた二人は部屋の主である僕の姿を見て、それぞれ違った反応を見せた。

 一人は驚愕。その次の瞬間には、僕に裸を見られていることに気付き、羞恥心で顔を真っ赤に染める。

 もう一人の方はというと――

「よう、敏。お帰り」

「お帰り、じゃないよ! どういうことなんだよこれはっ!」

 僕は毎度のことながら、怒りで頭の毛細血管がはち切れんばかりに、僕のベッドに全裸で横たわる二人の女性へ、怒鳴り声を上げた。

 そんな僕を見て、情事でボサボサになった髪を面倒臭げにかきながら、メイがうるさそうにこちらを一瞥する。まだ酒が抜けていないようで、メイの口からアルコール臭が漂ってくる。

「どうもこうも、見ての通りだよ」

 メイの説明は、たったそれだけだった。それだけだが、何を言いたいのかは、その一言で十分過ぎるほど理解できる。

「……今度は、誰を連れ込んだんだよ」

「レイだよ。フルネームは、なんだっけ? とにかく、いつものクラブで知り合って、仲良くなってたところなんだよ。お前も混ざるか?」

 その台詞を聞いて叫声を上げたのは、僕ではなく、メイが連れ込んだレイさんだった。

 メイとレイさんが言い争いをしている最中僕は何をしていたのかというと、施錠したドアが開いた音を聞き、またやって来たのかとうんざりしながら、そちらの方へと振り向いていた。

「トシ、また明が新しい女連れ込んだでしょっ!」

「アキも、ためらいもなく別れた僕の部屋に入ってくるなよ! 後、いい加減合鍵返せっ!」

「嫌よ。これ、明からもらったものなんだから。ちょっと明! 何やってるのよっ!」

 それからは、いつも通りてんやわんやの大騒ぎで、僕はまずメイとレイさんの仲裁に入る。

 ぽっちゃり体型のレイさんの素性を聞き出すと、レイさんはレイチェル・ワイズというイギリス人で、日本にはSEとして働きに来ており、クラブで知り合ったメイに連れられてきたレズビアンであることが発覚。そのことでアキがぎゃーぎゃー言い始めるが、いつものことなので僕はガン無視を決め通す。更にレイさんへ、僕とメイが付き合っていること、メイがバイセクシャルであることなどを説明し、家に帰るためのタクシーを手配すると、またあんたのとこなの? と迷惑そうな顔をした同じアパートの住人たちに土下座せんばかりの謝罪周りを開始する。それが終わると、レイさんをタクシーに乗せ、アキを部屋から追い出した所で、ここでようやく一段落。

 バイト後に追加でメイが起こした事案を八面六臂の活躍で解決した後、あろうことかその間ベッドで熟睡していたメイを、僕は文字通り叩き起こした。

「痛って! おい、敏! ふざけんなよっ!」

「こっちの台詞だよ、それは! ねぇ、僕たち付き合ってるんだよね? 恋人同士なんだよね?」

「あったりめーだろ、敏。愛してるぜ」

「心の底から信じられないよ、その台詞! 僕のことを愛しているのなら、何でメイはレイさんを連れ込んでるんだよっ!」

 矛盾だらけだろ、と言う僕に、また始まったよ、とメイは教師に何度も注意されすぎて全く反省しない悪ガキのような態度で、下着を身に付け始めながら、こう言った。

 

「何度も言ってんだろ、敏。お前は私の『彼氏』であって、『彼女』じゃねぇんだよ」

 

 相変わらず言葉が足りなさ過ぎて、何を言っているのかさっぱりわからないメイの言葉だが、流石に四分の一年付き合っていると、メイが何を言いたいのか、僕には理解することが出来た。

 メイの言い分は、言葉にするだけなら単純だ。

 メイは、バイセクシャルだ。だから恋愛対象は、男と女、その両方になる。

 だから付き合う相手も、男と女、『彼氏』と『彼女』がいてもいいはずだ。

 メイの言いたいことはそういうことなのだが、本当に何でそうっちゃったの?

「……あのさぁ、メイ。僕も何度も言ってるけど、それは納得出来ないよ。そりゃ、世の中には特定の人と付き合っていなければ、複数の人と体の関係を持つ人もいるのは知ってるし、そういう人もいていいと思うよ」

「だろ?」

「だからメイは僕と付き合ってるでしょ! っていうか連れ込むにしても、何で僕の部屋なんだよ! 自分の部屋に連れ込めよっ!」

 場所を変えればいいという問題でもないのだが、僕の糾弾を受けたメイは、むず痒い顔をして、言葉を濁す。

「……だって、敏の家の方が、なんつーか、その、イイんだよ」

「何が? いや、言わなくていい! 言わなくていいけど、いつぞやメイがアキに言ったこと、覚えてる?」

「あ? 何のことだよ」

「メイと付き合いながら、僕と付き合ってたアキに、メイが言ったことだよ」

 口をポカンと空けるメイに、僕はあの時メイの言ったの言葉を思い出す。

「確か、『曲がったことをする奴は、嫌いだ』だったっけ? 他にも、人間中身が大事って、言ってくれたよね? メイが今しているようなことは、あの時のアキと同じことをしているんじゃないの?」

「流石敏。よく覚えてんな。その通りだぜ。私は曲がったことをする奴は、嫌いだ」

「なら――」

「だがな、敏。よく聞けよ?」

 僕の言葉を遮り、そう言われるのは心外だとばかりに、メイは首を振る。

「私は、ちゃーんと付き合う前に、自分がバイだと敏に教えている。だから私は、『彼氏』が、敏がいるから、他の男とは寝てねぇし、寝るつもりもねぇ。でもアキと別れてから、私に『彼女』はいねぇから、敏がさっき言った通り、複数の『女』と一人一人、体の関係を持つのは問題ねぇ」

 メイの今付き合っている『彼氏』は、僕がいる。

 メイの今付き合っている『彼女』は、いない。だから複数の女性と、一人一人関係を持つのは、問題ない。それは僕にとって、問題以外の何物でもなかった。何故そこで『だから』という接続詞が出てきてしまうのか?

 何度聞いても理解不可能なメイの理論に、僕はただ愕然となり、騒然となり、唖然となるほかない。ほかないのだが、何もしなければ同じ問題が発生し続ける。それは僕にとって、非常に面白くないことだった。

「メイはそう言うけどさ。『彼女』はいなくても、そんなに取っ替え引っ替えしてたんじゃ、前の、誰だっけ? ドイツ人の、あの人も連れてきたじゃない」

「ああ、巨乳のあいつか。酒の飲み合いして、飲み負けたら抱いていいって言ったから、しこたま飲ませて飲み勝って連れてきた奴だな」

「そうそう。朝起きたら記憶がなくて、メイもブチ切れて、えらい騒ぎだったよね」

「だってあいつ、私の敏に色目使いやがったんだぞ! あり得ねぇだろっ!」

 メイのその言分こそあり得ないと思うのだが、それを言い出したらキリがない。僕は話を続けることにした。

「あと、誰だっけ? フランス人の、黒人の人」

「いや、あれは確かアメリカ人だった。留学生っつってた奴だろ?」

「……そうだね。そしてアキにも勝手に僕の部屋の合鍵渡して、定期的に関係を持ってるんだよね? 浮気してるのと変わらないでしょ? これ!」

 ひとまず僕は、僕の部屋にメイが勝手に連れ込んだ、日本人以外のことを例に出し、自分の考えが変だとメイに気づいてもらおうとした。日本人を入れるとアキを含め、えらいことになるので、考えないようにする。

 しかし僕の試みはメイには通用しなかったようで、ちゃんとよく聞いとけよ、と前置きをし、メイが自分のトンデモ理論を展開する。

「私はさっき、複数の『女』と一人一人、体の関係を持つ、って言ったろ? この『一人一人』が重要なんだよ。重複はしねぇ。そいつはダメだ」

「……さっき、レイさんがいた時に、まざるか? って聞かれた気がしたんだけど、あれは僕の気のせいかな?」

「いいや、気のせいなんかじゃねぇぜ。『彼氏』と『彼女』は、別物だからな」

「……なら、もし僕がメイ以外と、女性ではなく男性とイチャイチャしていたとしても、メイは気にしないんだ。僕に『彼氏』が出来ても、気にしないんだね?」

「ああ、問題ねぇぜ」

 その言葉に。

 僕の中で何かが、煮え滾る水がぬるま湯になるような音を立てて、崩れ落ちた。

 ぬるま湯だから、温かいと言えば、温かい。けれども熱くはなくて、このまま何もしなければそれは冷めて、汚泥のように醜く、別の何かに凝固してしまうだろう。

 固まり始めたそれは知らぬ間に、僕の口から滲み出た。

 

「……僕が他の女性と話すのはダメなのに、メイはいいんだ」

 

 思った以上に固くなった自分の言葉に驚きはするものの、そうした事実すらも客観的に、まるで自分を自分の真上から見下ろしているかのように、僕は冷静に、冷徹に、冷血に、メイのことを見ていた。

「あ?」

 いつもとは違う、明確な拒絶を含む僕の視線を、メイは苛立たちげに見つめ返してくる。

「しつけぇな、敏。何べんも同じこと言わせんな! お前、男だろうがっ!」

 そこから先は、まぁ、控えめに言ってかなりの大喧嘩をした。

 メイにとって、僕の言分はある意味で理不尽なものも含んでいる。けれども僕も、譲れないものがあった。

 言い合いながら、メイの言う『普通』の男になれればどんなにいいだろうと、何度も思った。そうすればきっと、丸く収まる。多少の凹凸はあるだろうけれど、今のように真っ二つにはならないだろう。

 でも、そうはならなかった。そうはならなかったんだよ、メイ。

 

 気が付くと薄靄の中から太陽が顔を出し、僕の部屋に自然の光が差し込んでいた。その光を、僕とメイは肩で息をしながら、互いにその肩を押し付け合うようにして、浴びている。

 夜が明けても、結局話は平行線のままだった。

 メイは、僕が他の女性と話すのが許せない。

 僕は、メイが他の女性と関係をもつのが許せない。

 決して交わることのない二人の意見は、ある一点のみ、完全に一致していた。

「愛してるぜ、敏」

「僕もだよ、メイ」

 運命的ではなく、悲劇的に出会い。

 そのままホテルまで連れて行かれ、形から入るように、僕はあの日、苦いコーヒーを飲んだ。

 今僕は、その味を忘れたくなかった。恋しかった。愛おしかった。嬉しい事に、メイもそうだと言ってくれる。

 だが、二人は互いを飲みきれない。受け入れられない部分を、見つけてしまった。だからもう、無視することは出来ない。何故なら『受け入れられない部分』も、その味の一部だからだ。

 味の好みを変えるか、味そのものを変えるのか。

 話は未だ、平行線のままだ。ひょっとしたら、水平線なのかもしれない。僕とメイの間には、空と海ほどの隔たりが生まれていた。

「……後日、もう一度この話をしよう。そうしないと、僕たち――」

「わかってる。だからその先の言葉は言うな。そうなりたくない」

 ハルが、僕の右手を握りしめてきた。

 僕も、ハルの左手を握り返す。

 この手を話したくないと、強くそう想った。だからそうならない方法を、僕は必死に考えながら、口を開く。

「会う日と場所は、また調整しよう。それに、今みたいに言い合いにならないよう、他の人の意見も聞けたほうがいいかな。互いに一人ずつ呼んで、二人二組で会おう」

 その提案は僕にとって、ある意味大きなリスクを負うものだった。

「……誰を呼ぼうが、私が正しい」

 そのハルの言葉に、ハルは一人で来るかもしれないなと、僕は半ば確信する。その方が僕にとって都合がいいが、早々うまくいくものではないだろう。

 僕は右手に、少しだけ力を込めた。


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