●八月十三日 午後二十二時三分 バイト中

「それじゃあ、後はよろしくね。敏ちゃん」

「はい。お疲れ様でした」

 帰宅するアヤさんを見送り、僕はレジに一人で立った。この時間帯は来客が殆ど無く、今もお客さんは一人もいない。午後二十三時までバイトの店員は、僕一人だけになる。

 もうすぐ店長が来るはずなのだが、客が少ないのをいいことに、遅れることが多い。まぁ、店長が店の売上のためバイトに払う賃金を削ろうと、自分一人で夜間に仕事をし続けることを考えれば、そうなってしまうのも理解できなくはなかった。

 店長は店主と違い経営サイド側の人間ではないため、雇われる側なのだ。そう考えると、多少来るのが遅れても、許せる気になってくる。

 それに最近、僕にとっても店長が遅れて来る方が、都合がいいことがあった。

 それは――

「いらっしゃいませ」

「……おう」

 シャツに描かれた柄を強調するように、胸を張りながらメイが来店した。外はまだ蒸し暑いらしく、メイの額には汗の跡が見える。一瞬だけ涼しそうに、メイは目を細めた。そのまま機嫌が良くなってくれればいいなと、あり得ないことを僕が考えていると、その通りお前の考え通りには行かねぇよとばかりに、メイがズカズカと僕のいるレジの前までやって来る。

 メイが目の前にやって来たと僕が認識した瞬間、僕の視界は崩れ落ちた。メイに襟を捕まれ、思いっきり引っ張られたのだ。

 汗ばむメイの匂いを僕が感じたのと、メイが静かな罵声を発したのは、ほぼ同時。

「……敏。お前、何デレデレしてやがったんだ?」

 相変わらず言葉が足りないなと思いながら、僕は左目に『激』、右目に『怒』と書かれたメイの両目を見つめ返す。

「アヤさんのこと? 僕はデレデレなんてしてな――」

「男なら言い訳すんなっ!」

 激昂するメイの言葉に、僕は顔を引きつらせた。

「私は、ちゃーんとこの目で見てたんだよ。敏が、あの女にヘラヘラしてんのをよぉっ!」

「メイ。今日は確か、仕事だったんじゃ――」

「だから、男ならごちゃごちゃ抜かすなって言ってんだよっ!」

 僕の顔は、更に強張る。

 僕がメイの性格で、許容できない点。それはメイが、異常に嫉妬深いということだ。

 今のようにバイトの同僚であるアヤさんと話すのは言わずもがな、デートで行った店で僕が話した店員や、映画館で僕の隣りに座ったのが女性だとわかった瞬間、その場で大爆発だ。今にして思えば、アキと別れた後に入ったカフェを出る時メイがレシートを手にしたのは、レジ打ちをしていたのが女性だったからに違いない。

 僕のことを信用していないのか、それともそんなに僕がモテると思っているのか、メイはたまにこうして仕事を抜け出し、店内を見張っていたりするのだ。姿が見えればその間アヤさんと話さないとか対策を講じることも出来ようが、どういうわけかガラス張りのコンビニから、メイの姿を確認できた試しがない。ひょっとしたら僕を監視するためだけに人を雇っているのかもしれないし、このコンビニの監視カメラの映像を何処かで入手しているのかもしれない。メイ忍者説も否定し辛い所だ。

 そういうわけで、僕が女性と接するだけでメイの嫉妬の炎が燃え上がり、現在僕の私生活が大炎上中なのである。

「いいか? 何度も言ってるが、浮気は許さん! 他の女と仲良くすんなっ!」

「……僕も何度も言ってるけど、メイと付き合ってから二人っきりどころかグループでも他の女性と遊びに行ってもいないし、会話も人間関係を維持するものにとどめているよ」

「ダ・メ・だ! 私以外の女と会話をするんじゃねぇ!」

「だからそれだと私生活に影響出まくりでしょ! 世界の人口の半数は女性なんだよっ!」

「もう半分は男じゃねぇか。それで十分だろ?」

「何がどう十分なの! 話すぐらいは許してよ! 店員さん呼ぶのでもアウトになるでしょ、それじゃあっ!」

「あぁ! うるせぇうるせぇうるせぇうるせぇっ!」

 メイは僕の首をガクガク揺さぶり、こう叫んだ。

 

「惚れてる男が他の女と話してたら苛立つのは、当然だろうがっ!」

 

 その言葉に、僕の顔は音を立てて歪んだ。骨が軋み、歯が噛み合い、肉の繊維が捩れ上がる。

 僕の様子に気づかないまま、メイの激情は尚も勢いを増し、僕の心まで焼き尽くそうとしていた。

「ホントは男と話すのだって嫌なんだ! 敏には私だけ、私だけを見ていて欲しいんだ! お前の全部を、私は全部欲しいんだよっ! それの、一体、何処が悪いってんだよ……」

 何度も聞いた言葉だが、その言葉の熱が冷めることは決してない。

 メイの吐き出した言葉は空気を熱し、僕の鼻、頬、唇、さらに口を通って喉の奥までを焼け焦がす。狂ったような熱は、メイの両目から形となって零れ落ちる。触れなくともそれが、メイの両頬に焼き跡を作るほどの熱量を持っていると、僕は知っていた。

「メイ」

 溶岩のように遅々と溢れ出てくるそれに触れようと、僕が手を伸ばした、その瞬間。

 メイの手が、燃え尽きた線香花火が地面に落下するように、僕の襟を放す。と、燃え尽きようとしていた炎が再び息を吹き返したかのように、メイは店から、全速力で駆け出していった。

 僕はメイの背中を、燃え尽き、崩れゆく炭火のように頭を真っ白にして、見送ることしか出来ない。

「……どうしたんだろうね? あの子」

 呆然としたまま動けずにいた僕の意識が現実に戻ってきたのは、遅れて来た店長の言葉を聞いてからだった。

「遅れちゃってごめんね、山内君。山内君? 大丈夫?」

「……ええ、大丈夫です」

 燃え尽きた後に残る灰が崩れ落ちるぐらいの小さな声で、こちらを心配そうに伺う店長に、僕は何とかそう答えた。

「……すみません、店長。ちょっと花摘みに行ってきます」

「ああ、いいよ。もし体調が悪ければ、今日は早めに帰ってもいいからね」

「……ありがとうございます」

 引きずるような足で、僕は何とかトイレに向かう。

 その最中、燃え滓の灰になった僕を、自分の言葉が嘲笑うかのように、容赦なく蹂躙していた。

 

『だから、言ってるじゃんか。そんなに嫌なら、別れればいい、って』

 

 トイレに入り、鍵を閉め、僕は両手で顔を押さえた。

 全く僕は、ヤスにとんでもないことを言ってしまったものだ。

 聖人君子なんて、この世に存在しない。人間誰もが、何処かしらに欠点を抱えている。

 確かに僕は、メイの、あの異常な嫉妬深さには、耐えられそうもない。

 それでもそれ以上に、異常なほど。

 燃え尽き、灰になっても、それでも尚。

 メイへの想いが、僕の中に燻っているのだ。


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