●八月十三日 午後二時五十二分 バイト前
『全く、トシ。お前はずりぃよなぁ』
スマホから聞こえてくるヤスの声に、僕はまたあの愚痴が始まったのかと、小さくため息を付いた。
燦々と降り注ぐ真夏の太陽は容赦なく地球に熱波を送り届け、その熱に焼かれた僕の額からは大粒の汗が滲み出て、留まる気配がない。空が快晴なのは見上げるまでもなくわかるので、僕の視線は自然と下に向いていく。耳に当てたスマホの画面は僕の汗で濡れに濡れており、防水加工がされていなければ、とうの昔に壊れていたことだろう。
日本の技術力の高さに感心しながらも、僕はバイト先のコンビニへと足を運んでいた。
『トシ、やっぱりお前はずりぃよ』
「何がだよ。トッシーはともかく、お前にはキヨさんがいるだろうが」
『だったらだよ! 変わってみるか? 電話やメールの連絡に一分、一秒遅れただけで、リストカットしてその画像添付してくる女なんだぞっ!』
僕に彼女を作るという名目で実施されたあの合コン以来、ヤスはずっとこの調子なのだ。その名目は無事達成され、僕に彼女が出来たというのにもかかわらず、ヤスにはそれが不満らしい。
合コンを実施したのが五月なのでほぼ三ヶ月間、ヤスは僕とトッシーに顔を合わせる度、合わせなければメールや電話で、こうして愚痴を言い続けてくるのだ。正直、ヤスについてはご愁傷さまですとしか言い様がない。
あの合コンで酔いつぶれたヤスは、自分の話を聞いてくれる人だとキヨさんにタクシーでホテルまで連行。既成事実を作られたヤスは、交際を断りきれずに今に至る。まぁ、あのキヨさんがメンヘラかまってちゃんだったのを見抜けなかったヤスが悪いと言われれば、それまでなのだが。
「だから、言ってるじゃんか。そんなに嫌なら、別れればいい、って」
『だって死ぬ死ぬ言って、マジで死のうとするんだぞ! 一回救急車で病院まで付き添って、相手の家族からよろしくお願いします、とか言われちまってんだよっ!』
「……何でそんなことになってるんだよ。既成事実作られてからは、そういう周りを固められるの、ヤスは気をつけてたじゃん」
『それが、どうも千恵子ちゃんが裏で暗躍してるっぽくてさ……。未だにトッシーに彼女出来ないのも、千恵子ちゃんの影がチラつくせいだって』
「あの人、そんなにラスボスっぽい感じなのっ!」
合コンは戦争だ、という言葉が脳裏に甦る。まさかあの敗戦の爪痕が、これほどまでの傷跡になろうとは、あの時一体誰が予想できたというのだろう? チエさんを怒らせた、トッシーの罪は重い。
『くっそっ! ホント、お前はいいよなぁ。亜希ちゃんは地雷じゃなさそうだって、トッシーから聞いてるし』
「……あー、いや、そのことなんだけどさぁ」
アキのことに話が移り、僕の言葉の歯切れが悪くなる。だがそれに気付かないのか、ヤスは話し続けた。
『でもなぁ、トシ。別れる時だけは、相当準備しておかねぇと――』
「もう、別れてる、ん、だよ、ね」
ヤスの言葉を遮るように、途切れ途切れになりながらも、僕は事実を伝えた。
『え、マジかよっ!』
ヤスの驚愕する声が、スマホから聞こえてくる。
『トシ、大丈夫か? 手足、ちゃんとついてるか? 車いすじゃなくて、ちゃんと自分で歩けるか?』
「そんなに? そんなになの? チエさん! チエさんどんだけすごいんだよっ!」
戦争っていうか、そこまでいくともう殺戮の領域だ。いや、どちらも同じことなのかもしれないが。
『っていうか、トシ、お前この間彼女と約束があるって言ってたけど、あれは嘘だったのかよ?』
「いや、嘘じゃないんだ。今はその、別の人と付き合ってる」
詰問するようなヤスの声に、僕の口がまたもたつき始めた。
『え、そうなの! トシ、お前、バッカ、そういうことはちゃんと教えてくれよなぁ! 何でもっと早くに言ってくれなかったんだよっ!』
「あー、うん。ごめん。ちょっと、色々あって……」
アキと別れた理由もメイと付き合うようになったきっかけも、気軽に話すには話題が重すぎるし、複雑過ぎる。メイは自分がバイセクシャルであることを知られるのに抵抗はなさそうだが、アキの場合は周りにレズビアンであることを隠していそうだ。そうじゃないと、合コンになんて来られないだろう。本人の了解なしにこの手の話をすることは、僕には出来なかった。
だがヤスの方は、言葉を濁す僕がつぶやいた『色々』の部分に、理解を示してくれたようだ。
『あ、そうっかぁ、色々かぁ。そうだよなぁ、そうだな。うん。悪い。忘れてくれ。思い出したくないこともあるよな、うん』
「そう言ってもらえると、助かるよ」
ヤスはチエさんのことと勘違いしているのだろう。それは全く見当外れな見解なのだが、僕にとってそれは好都合だったので、そのままにさせてもらうことにした。
今更秘密の一つや二つ、増えたところでどうということはない。今まで通り、僕は自然に振る舞える。
そうした生活を、僕はずっと続けてきたのだから。
『でもやっぱり羨ましなぁ。俺も普通の彼女が欲しいっ!』
「……だから、そこまで言うなら相手の親がどう言おうが、別れろって。初対面の相手にまな板でぶん殴ってくる女性に比べたら、キヨさんの方がいいところもたくさんあるだろ?」
『馬鹿だなぁ、トシ。そんな女、この世に存在するはずねぇじゃねぇか』
「それもそうだね」
メイの場合、アキをまな板で殴ろうとした結果、アキを庇った僕を殴ったのであって、ギリギリ範囲外だ。多分。そういうことにいておいた方が、主に僕の記憶にとって都合がいい。
『そういえばトシ、高校の頃誰か女の子と付き合ってた? 見間違いだと思うんだけど、俺の知り合いがそう言ってたんだけど』
「またその話? トッシーにも聞かれたけど、僕に彼女が出来たのは、あの合コンが最初だよ」
ヤスへ気怠げにそう返すと、もうコンビニが見えてきた。
「あー悪い、ヤス。俺、これからバイトなんだ」
『あ、そうなの? 悪いね。バイト、頑張れよ!』
電話を切ると、今はもう傷まない左腕をさすり、僕はバイト先のコンビニへと入店した。店内の冷房が汗だくの僕を、優しく迎え入れてくれる。
汗を拭きながらバックヤードへ入る前に、僕はバイト仲間のアヤさん、神川 彩(かみかわ あや)に挨拶をした。
「お疲れ様です、アヤさん」
「お疲れ様、敏ちゃん。今日も暑いね」
「そうですね。ヨシさんはもう帰ったんですか?」
「今着替え中かな? あ、引き継ぎは終わってるから」
「了解です」
アヤさんの、黒に近い茶色のポニーテールと甘い香りに見送られながら、僕はバックヤードに入る。
「ヨシさん、お疲れ様です」
「あ、山内君。お疲れ様」
僕と入れ違いになる形でヨシさん、進藤 孝高(しんどう よしたか)が帰ろうとしている所だった。
「引き継ぎは神川さんにしてあるから。それじゃ!」
僕の返事を待たず、ヨシさんはそそくさとバックヤードから飛び出していった。ヨシさんはフリーターで、バイトを三つも四つも掛け持ちしているらしい。ヨシさんとは今みたいに交代時に挨拶するだけの間柄で、僕はヨシさんのことをよく知らなかった。
フリーターも楽じゃないんだなと他人ごとのように思いながら、僕はコンビニの制服に着替える。自分の名札の裏に記載されているバーコードをスキャナーに読み込ませ、僕は店員その二として、再び店内に舞い戻った。
「今日は忙しそうな感じですか?」
「いや、全然。大学近くだから夏休みに入ると、人がほとんど入ってこないからねぇ」
僕の問いかけに、アヤさんは気安い感じで、そう答えた。その気安さを、僕も馴れ馴れしいとは思わない。むしろ心地良とすら感じている。
「店内の清掃もしておいたし、夕方まではゆっくり出来ると思うよ。敏ちゃん」
「マジですか。流石、仕事が出来る人は違いますね」
バイトの先輩で、かつ僕より一つ歳上のアヤさんを、頼もしく感じる。でも僕は、そうしたものとは別の点でも、アヤさんに親しみを感じていた。
「でも、ホント偶然だよね。敏ちゃんがここにバイトに来るなんて」
「直接顔を合わせての再会は、高校の時以来でしたからね。最初面接に来た時、僕びっくりしましたよ」
「それは、私の台詞だよ」
そう言ってアヤさんは、鈴を転がしたように笑った。
僕とアヤさんが最初に知り合ったのは、とあるSNSのオフ会で、このコンビニで偶然再会したのだ。
この地域近辺に在住している人たちを集めたあのオフ会があったのは、当時僕がまだ高校生だった頃の話だ。僕はそのオフ会へ参加するのに、清水の舞台から飛び降りるようなつもりで臨んだのを、今でも鮮明に思い出すことが出来る。
ネット上でのやり取りしかしていない人たちと、現実で会うことへの不安感。オフ会の内容が内容なだけに、騙されているんじゃないか? 行ったら、嘲弄と侮蔑と冷笑にさらされるんじゃないか? 体を震わせながら、歯と歯をぶつけ合わせながら、僕は待ち合わせの喫茶店へ向かったのだ。
今となれば笑い話に出来るのだが、疑心暗鬼で死にそうになりながらも勇気を出してオフ会に行った当時の自分を、僕は全力で褒めてやりたい。おかげで僕はアヤさんのような同士とも巡りあうことが出来たし、あの時出会った人たちとは、今でもメールなりSNS上でやり取りを続けている。
だからこそ、僕はアヤさんとの思いがけない再会に驚いたし、それ以上に嬉しかった。近くに住んでいるのは知っていたのだが、あまりプライベートなことは聞いていなかったのだ。それが顔を合わせたのをきっかけに、より親密な関係を、僕はアヤさんと築いていた。
例えばそう、今付き合っている人の話が出来るようになるぐらいに。
「そういえば敏ちゃん。今、付き合ってる女の子がいるんだって?」
「ええ、まぁ。紆余曲折ありまして……」
「そっかぁ。あの敏ちゃんに、彼女かぁ」
アヤさんが腕を組み、孫の成長を見守る祖父の目をしながら、二度三度と頷いた。それを見ながら僕は、ヤスとの電話が尾を引いているのか、トッシーならアヤさんの胸は美乳だと表現するだろうなと、何故だかそんなことを考えた。
当然、今僕が考えたことをアヤさんに言えるはずがない。アヤさんが気にしているからだ。
「それで? その子とは上手くいってるの?」
満面の笑みを浮かべるアヤさんに、アホなことを考えていた僕は罪悪感で死にそうになりながら、言葉を絞り出していく。
「まぁ、上手くいっているといえばいってますし、いってないといえばいってないっていうか……」
「何? その中途半端な、あ、いらっしゃいませ!」
お客さんが来店したので、会話は一旦ストップ。レジはアヤさんに任せて、僕は店内の品出しに向かう。が、お客さんが少ないからかアヤさんの仕事が素晴らしいからか、店内の品出し作業はすぐに終了。仕方がないので、僕はバックヤードへと向かった。
防寒着は着ず軍手だけして、ウォークイン冷蔵庫の重たい扉を開ける。涼しい、というより寒いと感じる冷気を浴びながら、僕はドリンクの棚を観察していく。夏場なだけあり、他の商品よりは売れているようだ。いかにアヤさんでも、女性の体では寒い場所は辛いだろう。僕は在庫のあるドリンクを、傾斜のついた棚板に放り込んでいく。入れられたドリンクは、ころを回転させながら、前へ前へと進んでいった。
ドリンクの補充が終わり、店内に戻ると、ちょうどお客さんが帰るところだった。
「ありがとうございました」
「またお越しくださいませ」
アヤさんの言葉に重ねるように、僕も定型文を配信した。僕がレジに戻ると、アヤさんがウズウズとした表情で、こちらを見ている。色恋沙汰は老若男女、誰しもが気になる事柄だ。
「さっきの話の続きですか?」
「そう! 恋人と、上手くいってないの?」
ため息混じりに頭をかきながら、僕はどう説明したものかと思案する。
「今付き合ってるのは、二つ上の女性なんですけど」
「歳上なんだねっ!」
アヤさんは、嬉しそうに相槌を打つ。
「その人は、バンドしながらイベント系の仕事もしていて、まぁ、どうしても夜遅くなるといいますか、交友関係も広いといいますか」
「あー、バンドマンだと、どうしてもそうなっちゃうよねぇ……」
「いや、彼女なんでウーマンなんですが」
まるで経験があるようにしみじみと頷くアヤさんを見て、あれ? アヤさんって、バンドマンと付き合ってたこと会ったっけ? と僕は首をひねった。僕の記憶が確かなら、アヤさんはバンドマンと付き合った経験はないはずだ。
そんな僕のことなど気にもとめず、アヤさんは話の続きをせがむ。
「それでそれでっ?」
「それから、何でかしらないですけど、半同棲みたいな状況になりまして……」
「ど、同棲っ!」
顔を赤らめながら、アヤさんは驚愕の表情を浮かべた。その驚きはもっともな反応で、僕もどうしてそうなったのか未だによくわかっていない。確かメイが僕の家の近くでライブがあったとかで、仮眠取らせ欲しいと僕の家に上がり込み、いつの間にかメイが自分の家に帰るのは着替えを取りに行く時だけと、完全に家に居座られているような状況になっていた。
メイの意見に一度首を縦に振ると、そのままゴリゴリと力押しで話をまとめられてしまうことに、その時僕はようやく気づいたのだった。
「でも、それなら上手くいってるんじゃないの? 敏ちゃんは、嫌じゃないんでしょ? 今の状況」
「……まぁ、嫌ではないですけど」
流石アヤさん。僕のことをよくわかっていらっしゃる。アヤさんの指摘通り、僕はメイと半同棲をすることについて、別に嫌だとは思っていない。いっそ完全に同棲してしまった方が、メイの家賃という負担も減るので、むしろそうしたいぐらいだ。
ただ。
「ただ、ちょっとですね。まぁ、二人の見解の不一致といいますか、どうしても譲れない点があったりしてですね……」
アヤさんには濁りに濁った言葉でしか話せないが、要はメイがバイであることと、メイの性格のある部分に対し、僕が許容できないところがあるのだ。
特に前者に対しては、何でそうなっちゃったの? と言わずにはおれない状況が発生しており、現在進行形で絶賛議論中なのだが、着地地点が全く見えていない。後者の方は、後者の方もなぁ……。
「何か、色々深刻そうだね、敏ちゃん」
「……そうですね。思っていたより、難しいんですね。女の人と付き合うのって」
何かを察したようなアヤさんが、遠い目をした僕を、気遣うように見ていた。僕は気を取り直すように咳払いをすると、今度はアヤさんに問いかける。
「そういうアヤさんの方は、どうなんですか? 恋人さんと、上手くいってます?」
「私は、ぼちぼちかなぁ」
僕と同じく、アヤさんは中途半端な解答をした。
「ぼちぼちですか」
「ぼちぼちですよ」
中途半端な解答であったとしても、それが良い方なのか悪い方なのかぐらい、はにかむアヤさんを見れば、一目瞭然。アヤさんの交際は、順調のようだ。
それから僕らは夕方のピーク時間を迎えるまで、他愛ない世間話とポツポツと来店するお客さんの対応に、時間を費やした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます