○十一月四日 午後十時二十九分

「――というわけで、ハルに取り持ってもらいたいのは元カノのアキではなく、今付き合っているメイの方なんだ」

 時折アキがコーヒーを飲むの音を聞きながら、メイとの出会いを話し終えた僕は、ハルの顔を伺う。

 顎が外れたのかと思うぐらい大きく口を空けているハルを見て、僕は思わず笑ってしまいそうになった。顔から驚愕以外の色がなくなった表情をしているハルのその反応は、至極当然なものだろう。

 何せ、今話した、実際に経験した僕ですら、未だにあの時のことがどうしてそうなってしまったのか、全く理解できていない。あの日の出来事が全部夢でしたと言われれば、やっぱりそうだよね、と僕は惜しみながらもきっと納得するだろう。

 しかしあの日の出来事は実際に起こり、今日というこの日にまで連なる、僕の大切な一ページとなっていた。

「……トシは、私がトシと付き合わなかったら、私と明はまだ続いていたと思う?」

 苦虫を噛み潰したように、アキはそうつぶやく。僕は冷め切り、冷たくなったカップを手にしながら、口を開いた。

「どうだろう? アキがメイの気持ちを知ろうとしたのは、メイに構ってもらえなかったっていう大きな原因があったからで、遅かれ早かれ、今みたいな状況にはなってたんじゃないかな?」

 あるいは、もしも僕との関係がメイに気付かれず、アキと僕がそのまま続いていれば、別の結果もありえたかもしれない。

 しかし、それこそ『もしも』の話だ。それはアキもわかっているようで、俯いている。全ては詮無きこと。

 そうはならなかった。そうはならなかったからこそ、今がある。

 僕は、とうの昔に冷たくなったコーヒーを、一口飲んだ。口の中に、じんわりとした苦味が広がる。僕がカップをテーブルに置いた瞬間、ヘルマに来客を知らせるベルが、乱暴に鳴り響いた。

「いらっしゃいませ」

 ゆったりとした挨拶を掻き消すように、僕の彼女は苛立たしげに店へと入ってくる。

「こんばんは、メイ」

「……けっ」

 僕の挨拶に、メイは眉を歪め、露骨に嫌そうな顔をした。それでもメイは、肩で風を切る、というよりも、自らが台風そのものだというように、純白のコートに付いている柔らかそうなファーを振り回しながら、こちらへとやってくる。今日はバンドの練習後に来るという話だったので、あの下はロックファッションで着飾っているに違いない。

 アキの時は鬼火に例えたアロマキャンドルの炎は、メイの登場でかき消されそうになる。風前の灯火だったそれが持ち直したのは、メイが僕らのいる席の傍らで、立ち止まったからだ。

「……何で、亜希がここにいるんだ?」

「……だって、放っておけば明がトシとくっついたままだろうから、それで――」

「私は、な・ん・で、関係ないお前がここにいるかって聞いてんだよっ!」

「だって、私――」

「はいはーい、お店に迷惑かけないようにね」

 手を二回叩き、ひとまずメイとアキの視線をこちらに向ける。二人の視線が集まった所で、僕はメイに問いかけた。

「メイは、一人で来たの?」

「……ああ、そうだよ」

 バツが悪そうに、メイは僕から視線を逸らした。僕は根気よく、メイに話しかける。

「他の人の意見も聞くように互いに一人ずつ呼び合って話し合いをしよう、って決めたよね? 覚えてる?」

「……誰を呼ぼうが、私は意見を曲げるつもりはねぇよ」

 予想通りのメイの言葉に、僕は小さく頷いた。

「なら、メイが呼ぶはずだった一人をアキにしてもいいんじゃない?」

「……何だ? 敏。やけに亜希の肩を持つじゃねぇか」

 メイの瞳に、今までの苛立ちとは違う怒りの炎が灯った。嫉妬の業火だ。

「敏、まさかお前、亜希とよりを戻すつもりじゃ、」

「違うから。何度も言ったと思うけど、それはないから。ほら、座りなよ。疲れてるでしょ?」

 火種はまだ、メイの両の眼に残っている。が、まずは座ることを優先してくれたようだ。アキを蹴り出すようにどかし、僕の目の前の席に座る。一方のアキは、邪険にされつつもメイに相手にされるのが嬉しいようで、顔に笑顔が見えた。

 メイはコートを脱ぎ、アキに手渡す。その下には予想通り、ゴテゴテのロックファッションをしていた。着ていたコートとは正反対に、インナーは黒を基調として、そこに極彩色が見る人の目を犯し尽くすように、爆散している。と、そこでアキの両目が、更に釣り上がった。憎悪まで入り始めたメイの視線の先にいるのは、ハルだ。

 ハルはまだ僕の話を聞いた動揺から抜け出せていないのか、はたまた実物のメイを見たショックからか、口をまんまるに開けている。その口を元に戻してやりながら、僕はハルを紹介した。

「僕が呼んだ『一人』だよ。ハルっていうんだ」

「よ、よろしくお願いします」

 人形のような格好をしたハルに、メイは鬼のような顔をしながら、メンチを切り始める。やがてメイは、底冷えした声で、視線をハルに固定したまま、僕に問いかけた。

「……こいつ、誰?」

 今の僕なら、黄泉の国から追いかけてくるイザナミの声を聞いたイザナギの気持ちがわかるんじゃないか? そう思えるほどの迫力を、メイから感じた。

 先ほど挨拶を済ませたばかりだが、感情がむき出しになったメイの耳には言葉が届かなかったようだ。

「僕の知り合いだよ。高校からの付き合いなんだ」

 僕はこちらを見向きもしないメイに、そう言った。

 メイに睨まれ、縮こまるハルは恐怖と理解できる範囲の限界を超えたのか、うわ言のようにわかめわかめと、わかめのゲシュタルト崩壊を起こしている。

 眉雪の男性が注文を取りに来ても、メイの視線は僕の隣りに座るハルからは離れない。おすすめのメニューを聞くと、そこでようやくメイの視線が僕に移る。

 僕を見つめたまま、メイは口を開いた。

「コーヒー。ブレンドで」

「かしこまりました」

 下がる背中を見向きもせず、メイは僕から視線を外さない。僕も、それを逸らさなかった。

 そのまま僕は、口を開く。

「それじゃあ面子も集まったことだし、話し合いを始めようか」

「言っとくが、私の意見が正しいからな」

 そう最初に口火を切ったのは、案の定というか当然というか、メイの方だった。王者が下々の者の民を睥睨するように、メイは腕を組む。僕は苦笑いを浮かべながら、その様子を見ていた。

「わかった。それじゃあ僕の方から、メイが僕に対して不満に思っていることを話させてもらっても、いいかな?」

「そうしてくれ、敏。その方が、お前がどれだけ私を理解していたか、理解できる」

 ハルの顎がまた落ち、それを僕が戻し、メイが更に剣呑な気配を漂わせたところで、僕は言葉を紡いでいく。

「そうだね。僕がバイトをしている時の方が、メイの言いたい条件に合致しているから、夏休みのことを話そうか。だとすると、八月の――」


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