●七月十三日 午後三時五十一分 破局後
さて、色々あって、あり過ぎて、まだきちんと自分の気持ちに整理がつけられない。失恋というか、人との別れはいつでも誰でもこういうものなのかもしれないが、まぁなんというか、本当に色々あったよ!
しかし生きている以上、自分の中で欠落した何かを抱えながらも、僕は歩みを止めるわけには行かない。止めてしまうと、今までの自分の行動や決断が間違っていたような、自分の関わった人たちの存在すら否定するような、そんな気がしてしてしまうからだ。
だから僕は今、かなりネガティブな思考になっているのを自覚しつつも、何とかアキの部屋から歩いてきたわけだが――
「なぁ。私はアイスコーヒーにしようと思ってるんだけど、あんたは何頼む?」
……明さんが僕の目の前にいるのは、何故でしょうか?
いや、僕をアキの部屋から引きずり出してくれたことには、感謝している。どうしていいのか途方に暮れていた僕を、無理矢理にでも足を進むきっかけを作ってくれたのは、他でもない明さんだ。
明さんと、明さんに連れられた僕は、アキの部屋を出た後駅に向かうでもなく、玄関の外で別れるわけでもなく、カフェへとやって来ていた。
入ったカフェは入り口にブラックボードが置かれ、そこにチョークでメニューが書かれている。その他にも色とりどりの花が咲く大きめの植木鉢が三つほど置かれた、小洒落た外観をしている店だった。
内装も凝っており、レンガ調の壁面には窓枠のような形をした写真入れがいくつも飾られている。その中には常連さんらしき人たちの写真や、海岸や草原などの風景を写した写真が、店内のアットホームな雰囲気を作り出していた。
それはいい。カフェに問題があるわけではない。問題は、何故僕は明さんに連れられるがまま、なすがまま、一緒にお茶をしばこうとしているのだろうか? ということだ。
明さんの手を振りほどくことが出来ないほど、そんな気にすらならないほど、僕は無気力だった。しかし、明さんには僕をわざわざカフェに連れてくる必要性が、地の果てまでも見つからない。
魂の抜けたような僕のことを哀れんで、取り敢えず落ち着くまでは、僕の面倒を見てくれようと思ったのだろうか? 明さんの真意がわからない。
「……じゃあ、僕も同じものを」
疑心暗鬼になりながらも、僕はボックス席で向かい合っている明さんに、そう告げる。明さんは、あいわかったとウエイトレスを呼び、アイスコーヒーを二つ頼んだ。なんだか明さんは随分と姉御肌のようで、気を抜くと今日あったばかりなのにも関わらず、明さんに任せておけば大丈夫というような、変な安心感を得てしまいそうになる。
だから僕は、そう思う自分の心を戒めた。
初めて出来た彼女に、アキに裏切られ、僕が女性不信に陥ったから、というわけではない。単に明さんが、突如として誰かを殴り倒す可能性を秘めていることを、僕は既に知っているからだ。明さんにまな板で殴られた左腕の痛みは、まだ後を引いている。心情的というより、物理的に警戒しているのだ。
「そういや私、亜希の家からこれ持ってきちまったままなんだけど、どうすればいいかね?」
「まな板持って来ちゃったんですか! 普通に返したほうがいいと思いますよ。アキ、結構自炊するタイプでしたし」
「そっか。そうだよな」
うんうん頷く明さんを見て、僕の中で明さんの信用度がだだ下がり、警戒心が急上昇を始める。
早く帰りたいけど、でもコーヒー頼んじゃったしなぁ、と思っていると、明さんが僕の方へ視線を向けてきた。
「……それぐらいまでには理解してたんだな。アキのこと」
「え、何のことですか?」
「自炊だよ、自炊。あいつ、ジャンクフードが好きな私に気ぃ使ったのか、私の前じゃあんまし、そういうとこ見せたがらなかったからな」
まな板で殴られる危険性を排除したかったんじゃないんですかね? と言おうとした僕の喉が、変な音を出す。
どこか遠い目をしつつも、僕を試すような目で見つめてくる明さんに、自分の動物的な本能がこの場にいるのはマズいと、警告音を鳴らしまくっている。なら今すぐ逃げればいいという自分と、ここまで連れてきてもらった恩みたいなものもあるし注文もしてしまったんだから、お茶ぐらい付き合えばいいじゃないかという自分が、心の中で天使と悪魔に成り代わり戦っていた。どっちが天使でどっちが悪魔なのかは、僕にも判断出来ない。
冷房の効いた店内にいながら、止めどなく汗が溢れだす。失った水分を補おうとお冷を震える手で飲む僕を見て、明さんは猛禽類めいた笑みを浮かべた。
「石原 明(いしはら めい)って言うんだ」
それが明さんの自己紹介だと僕が気づいたのは、ウエイトレスが注文したアイスコーヒーを運んできた頃だった。
そういえば自己紹介もまだだったなと思いながら、僕はぎこちなく口を動かす。
「ぼ、僕は山内敏夫って言います」
「じゃあ、付き合おうぜ。私たち」
何言ってるのこの人っ!
危なかった。手にしたコーヒーを口に含んでいたら、確実に噴き出していた所だ。脈絡のない明さんの会話に、僕は暴風にさらされ、散り乱れる桜の花びらのような気持ちになった。
「あの、石原さん」
「明と呼べ」
命令すんの、この人!
「め、明さ、」
「聞こえなかったのか? め・い・と・呼・べ」
「メ、メイ!」
獣たちを束ねる百獣の王並みの貫禄を出すメイに、僕はせめて心の中だけで抵抗した。メイのバカ、もう知らない!
「それで? 私に何が聞きたいんだ? 敏。あ、敏って呼ぶぞ。敏夫より、二文字の方が呼びやすい」
「二文字で呼ぶのが好きなのは、僕も同意見だけど……」
掠れるような僕のつぶやきに、メイは満足そうに頷いた。
「何だ。案外気が合うな、私たち。やっぱり付き合ってよかったぜ」
「もうそれ、確定事項なんですかっ?」
「何だ? 不満なのか?」
思わず口走り、僕の心臓から汗がだくだく流れ落ちたが、意外にもメイは嵐のように怒り狂うこともなく、きょとんと不思議そうな顔をしただけだった。いや、今までの会話の流れでその反応をするのは、十分異常なことなのだが。
「いやいや、ちょっと待ってよメイ。僕たち、まだ互いのことを何にも知らないし、急に付き合おうって言われても、困るっていうか……」
アキと付き合う時にだって、『普通』の男になるために、僕は一大決心をしなければならなかったのだ。こんなケースで付き合うなんて、僕には到底考えられなかったし、心の準備も出来ていなかった。
僕の言い分を聞いたメイは、なるほどなと頷いた。
「よし。なら、ホテル行くか」
「だから待って! あれ? 今の『なるほどな』は何に対してだったの? 僕の意見に賛成してくれたんじゃなかったの?」
「その通りだぜ、敏。だからこれから知り合おう、って言ってるんじゃんか」
「物理的にっ!」
ヤバイ。会話が全く通じない。キャッチボール(会話)ではなく、僕が投げたボール(言葉)をフリーバッティングで柵越えされた気分だ。ボールを投げ返してくれないことへの不満より、メイの打ったボールの飛距離とその軌道を、僕は唖然としながら、ただただ見送ることしか出来ないでいた。
綺麗な放物線を描いたそれの行く末を僕が見守っている間に、メイはもうその気になっているのか、アイスコーヒーを今すぐ飲み干そうと、ストローではなくグラスに直接口をつけて飲み始めている。
「だからちょっと待ってよ、メイ!」
「……何だよ。お前も男なら、据え膳は喜べよな。確かに私はアキみたいに胸はでかくねぇけど、玄人好みの体型してんだぜ?」
メイの言葉に、僕は思わず顔を引きつらせた。
しなを作るメイの体は、なるほど、トッシーの守備範囲外なのは確実であり、そのトッシーに貧乳と言われたキヨさんのそれよりも小さいのかもしれない。それが何がどうして玄人好みなのか、僕にはさっぱり理解出来ないが。
氷が溶け始めたアイスコーヒーをブラックで飲みながら、何の話ならメイと意思の疎通が可能だろうかと、僕は頭をひねった。
「あのさ、あまりにも色んな事が急に起き過ぎているから、いくつか質問させてもらってもいいかな?」
「それ、事後じゃないとダメなの?」
おっと、メイの方は、そもそも意思の疎通をするつもりがないらしい。
僕はコーヒーを薄めるように、グラスを回しながら、頭も回転させていく。このままだと、勢いで流される未来図しか脳裏に描けない。氷をグラスにぶつけながら、僕はとにかく思いついたことを、片っ端から聞いていくことにした。
「そもそもメイって、アキと付き合ってたんだよね? なら、その、レ、レズビア――」
「大丈夫。私、バイだから」
性的な事柄は極めてデリケートなものだと慎重に口を開いた僕を、メイはリトルリーグのエースピッチャーに対して、メジャーリーグのホームラン王をぶつけるような理不尽さで、こちらの精神を粉砕してきた。
相変わらずメイの話の軌道がさっぱり読めず、僕の思考は渋滞事故により二次災害どころか五次災害ぐらいまで発生し、未曾有の危機に視界が渦を巻くように回っているのかと錯覚してしまう。
さぞかし間抜け面を晒しているであろう僕を見て、メイは何が面白いのか、猫が鼠をいたぶるように笑いながら、コーヒーを飲み干し、グラスに残った氷をストローで突き回している。
「だからバイだよ、バイ。バイセクシャル。男も女もイケるんだ。私、両刀使いなのさ」
器用だろ、と言って、突くのに飽きたのか、グラスの氷を口に含み、砕岩機のような音を立てながら、メイはそれを噛み砕いている。
その音を聞きながら、僕はアキの言葉を思い出していた。
『だって、明、最近構ってくれないし。明の気持ちも、知りたかったし……』
メイの気持ちって、そういうこと? メイ(バイ)の気持ちってことですか? それでアキは僕を選んだってこと?
何だか納得出来たような出来ないような、どっちつかずの変な気分だ。
今日という日は、僕にとって刺激が強すぎる。まるで二リットルの炭酸飲料を、間を開けずに四つ連続で飲まされているように感じた。飲み終わった後は、ただただゲップ代わりのため息しか出てこない。
呆けていると、氷を全て食べ尽くしたメイは勝手に僕のグラスに手を伸ばし、それを飲み始めた。それを見ながら、僕は呼吸音ぐらいの大きさで、息を吐くように言葉を口にする。
「……どうして、僕なの?」
「お前があの時、亜希を庇ったから」
聞き漏らしてもおかしくない問に、メイは淀みなく、僕の方を真っ直ぐに見つめて、ハッキリとそう言った。
「こいつ、根性あるなって。今どきお前みたいな奴、珍しいぜ? 人間、中身が大事だと思うんだよね、私」
だからだよ、と言って、メイは僕のコーヒーも飲み干してしまった。
メイの手にしたグラスがテーブルのコースターに置かれ、水滴が一瞬のスコールのように飛び散る。それが合図だったかのように、メイは伝票を持って立ち上がっていた。
「確かに、今日は色々あったし、敏の中で消化出来てねぇ部分もあるだろうけどさ」
そう言ってメイが、少しはにかんだ。
「まぁ、なんだ。こんな出会いと、こんな始まりがあっても、いいんじゃねぇの?」
どうよ? と首を傾げるメイに応じるように、気付けば僕は立ち上がっていた。
運命的な出会いなんてものが早々この世に存在しないことは、既に十分過ぎるほど理解している。メイとの出会いは運命的というより、アキとの別れによってもたらされた、悲劇的なものだ。
では僕の中で燻り始めた、この不思議な高揚感は、一体何なのだろう?
何がどうなっているのか、相変わらず僕にはさっぱりわからない。けれども今、僕は何かをつかみかけているような、それを放してはいけないような、そんな気になった。
そんな僕を見て、メイはいたずらが見つかった少女のように微笑む。
「それじゃ、これ。割り勘な」
「ほとんど一人で飲んだくせに」
「いいじゃねーかよ。っていうか敏。お前、ポロシャツ似合うな」
「……ありがとう」
そうして僕らは会計を済ませ、外に出た。
アキにまな板を返し忘れていたのに気がついたのは、二人でホテルを出た後だった。
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