●七月十三日 午後二時十三分 破局前
『全く、トシ。お前はずりぃよなぁ』
スマホから聞こえてくるトッシーの声に、僕はまたあの愚痴が始まったのかと、小さくため息を付いた。
部屋の窓から見える空と言う名のキャンバスは、透き通るような青色で塗り尽くされ、文字通り絵に描いたような快晴だ。まばらに塗り残し程度の雲が浮かんでいるのは、ご愛嬌というものだろう。
外はうだるような夏の暑さだが、僕のいる部屋は冷房が効いており、快適だ。来週までには授業のレポートを仕上げ、試験を終えれば、待ちに待った夏休みが待っている。例年この時期は、ヤスとトッシーのレポートや試験勉強に付き合ったりするのだが、今年の夏は一味違う。
何せ僕にとって、今年は彼女持ちで迎える初めての夏だ。気持ちが違うのは、当然のことだろう。
『トシ、やっぱりお前はずりぃよ』
「何がだよ。来週締め切りのレポートや試験勉強には、今年も付き合ってるだろ?」
『そうじゃねぇよ! お前に彼女が出来たのが、亜希ちゃんと付き合ってるのがずりぃ、って言ってんだよっ!』
僕に彼女を作るという名目で実施されたあの合コン以来、トッシーはずっとこの調子なのだ。その名目は無事達成され、僕に彼女が出来たというのにもかかわらず、トッシーにはそれが不満らしい。
合コンを実施したのが五月なのでほぼ二ヶ月間、トッシーは僕と顔を合わせる度、合わせなければメールや電話で、こうして愚痴を言い続けてくるのだ。正直、もう勘弁して欲しい。
「ずるいも何も、僕だけじゃなくてヤスにだって彼女が出来たじゃないか。何で僕にだけ、こんなに執拗に愚痴を言い続けるのさ」
『うるせー! 俺は貧乳にゃあ興味ねぇんだよっ!』
ヤスもあの合コンをきっかけに、キヨさんと付き合い始めたのだ。トッシーの言う通り、キヨさんはスレンダーな体型をしているが、だからと言ってその言い草はないだろう。
僕は呆れ半分、諦め半分の気持ちで、口を開いた。
「トッシー、それは言いすぎだろ。ヤスがそれでいいと思っているなら、それでいいじゃないか」
『へっ。俺にはヤスが今の状況をいいと思ってるとは、とても思えないんだけどな!』
吐き捨てるようなトッシーの言葉に思わず同意しかけるが、危うい所で僕は頷くのを止めることが出来た。あっちはあっちで、色々とあるらしい。
『大体、俺に彼女がいなくて、お前らに彼女がいるのが俺には許せんっ!』
「随分理不尽な言い様だな」
トッシーは付き合っていた彼女に合コンへ参加していたのがバレ、フラれていた。そして現在まで、彼女なしの状態が続いているのだ。自業自得としか言い様がない。
そう思っていると、尚もトッシーは食い下がってくる。
『っていうか、トシ。俺は聞いたぞ! トシが高校生の時、女の子と二人で歩いてたの見たって、お前の高校の同級生になっ!』
「その無駄な行動力を、彼女作るのに向けろよ」
『なんだよなんだよ! お前が彼女出来たことがないって言ったから合コン開いてやったのに。恩を仇で返しやがってっ!』
僕の親切かつ的確な意見を聞いていないのか、トッシーは自分勝手な言い分を話し始めた。六月上旬まではこうした会話に付き合っていた僕も、今ではスルースキルに磨きがかかっている。僕は一言だけ断りを入れ、電話を切ることにした。
「ごめん、トッシー。今から用事があるから、それじゃ」
『おい、まだ話は終わって――』
スマホをホーム画面に戻し、それをしまう。トッシーも今では電話を途中で切られるのにすっかり慣れ、翌日会ってもケロッとしている。その代わり、これから何通かのメール攻撃があるだろうが、それは読み捨てればいいだけなので、実害はない。
僕は小さくため息をつくと、改めて今いる部屋を見渡した。
僕の目の前には脚の低く白い楕円形のテーブルが置かれており、その上にはノートパソコンと、テレビとエアコンのリモコンが寄り添うように二つ置かれている。テーブルの向こうには、同じく白色のテレビラックと三十二インチのテレビが鎮座し、この部屋にある唯一の黒い家電製品として、自らの存在を強調しているようだった。というのも、僕が背にしているベッドのシーツ、枕もクッションも、レースのカーテンからフローリングに敷かれたカーペットに至るまで、濃淡の差や柄の有る無しの違いはあれど、全て桃色を基調としたもので揃えられているのだ。ドレッサーミラーの縁まで撫子色にしているのは、ここがやはり女性の部屋だからだろう。
僕は今、アキの部屋にいた。
自分の部屋と見比べて、やっぱりここは女の子の部屋なんだなぁ、と僕は感慨深い気持ちになる。僕もアキと同じように、大学へ進学するに伴って一人暮らしを始めていた。
「電話、終ったの?」
アキが台所から、二つのグラスを持ってやってきた。グラスには小さなスミレが描かれており、それぞれ花弁の色が違う。僕の花弁は青色で、アキのそれは桃色をしている。
「ありがとう」
アキにお礼を言ってグラスを受け取ると、中に注がれた紅茶がさざ波を立て、琥珀色の液体が揺れた。
僕はグラスを傾け、よく冷えた紅茶を一口含む。トッシーとの電話で疲れた喉が、優しい冷たさで癒やされていくように感じた。
「今日、ちょっと暑いね」
自分のグラスをテーブルに置き、アキは桜色のパーカーを脱ぐと、僕の隣に座りに腰を下ろした。今日アキは大学の講義はないらしく、タンクトップに短パンと、ラフな格好をしている。
むき出しになった肩をアキが僕の肩へと押し付け、白いタンクトップに無理やり押さえつけられた彼女の双丘が、窮屈だと文句を言うように揺れた。
「冷房も入ってるし、そこまで暑くないと思うけど」
僕は午前中大学で講義を受けた後、アキの家に寄り、今に至っている。アキが何を言わんとしているのかは何となく理解しているが、自分が汗臭くないか、僕は少し心配になった。
そんな僕の胸中を知ってか知らずか、紅茶をもう一口飲むこちらの横顔を、アキはからかうようにじっ、と見つめている。
アキが自分と僕の肩の触れ合う面積を、じわりじわりと広げるように近づく度、僕はアキの匂いを強く感じた。
噴き出す汗を振り払うように、僕は更にグラスを傾ける。大きく二度喉を鳴らした後、僕はアキに振り向いた。二人の視線が絡まり合い、互いの距離を縮めるほど捻じれ始めた、その瞬間。
来客を知らせる音が、アキの部屋に響いた。
「……」
「……」
気まずい空気が濁流のように、僕とアキの間を流れる。
しかしそれも一瞬のことで、すぐさまアキは、よいしょ、と言って、玄関へと向かった。一瞥しただけだが、その横顔は不満気だ。
いかんいかん。今のは僕がタイミングを間違えた。宅配便か訪問販売か何かは知らないが、来客の応対後、アキが不機嫌になって帰ってくるのは、目に見えている。
どうしたもんかと小さく唸っていると、何やら玄関が騒がしい。強引な押し売りでも来たのだろうか? 不審に思い、僕も玄関へと向かう。
「どうしたの? アキ」
「トシ! ちょ、トシっ!」
いや、そうですけども。
急に狼狽し始めたアキを見て、僕は居合わせたことがないにも関わらず、何故だか二股がバレ、弁解を必死に考えている女性がいたら、今のアキのような状態なんだろうと、そんなことを思った。
でもそれはおかしいと、僕は自分の考えを振り払う。何故なら玄関の外に立っているのは、僕には小柄な女性に見えるのだから。
濃い目のビビットなメイクを決めている彼女は、ベリーショートな髪をパンクに跳ねさせている。黒地のキャミソールには銀色のビスで髑髏が描かれ、むき出しの肩は隠すつもりはないらしい。エナメルのショートパンツには赤に近い桃色で、大きなキスマークが付いている。ロックボーカルもかくやとばかりの彼女の格好に、装飾過剰なごついレザーのロングブーツが何故だか異様に似合っていた。
似合っているのは結構なことなのだが――
「え、っと?」
僕はアキの部屋を訪れた女性を前にして、ようやくそれだけつぶやくことが出来た。自分でもびっくりするほど、頭が回っていない。というか、状況が理解できていない。
アキは相変わらず、あの、だとか、違うの、だとか言いながら、僕と玄関の外にいる女性の顔を見たり見なかったりで、浮気がバレた女性みたいな反応しか見せず、僕の混乱に拍車をかけている。かけるのはいいのだが、アキはどうにもパニックに陥っているようで、状況を打開できそうなのが、僕か来客の女性しかいない。
その女性はというと、自分の浮気を弁解する妻を冷たい目で見つめる夫みたいな目つきで、アキの顔を冷笑とともに見つめている。どんな目つきだよと自分で思いつつも、そんな目する女が目の前にいるのだからしょうがない。初対面で申し訳ないけど、この人怖すぎる。
それでもアキの反応から、この女性とアキは互いに知らない仲ではないような気がして、僕は一つの疑問を彼女に投げかけた。
「あの、アキのお知り合いでしょうか?」
我ながら、悪くない問いかけだったと思う。肯定されればアキにとって全くの他人でないことの証明にもなるし、否定されればお帰りいただくという対応が出来るからだ。
何はともあれ、僕としてはこうして暑い中、玄関を開けっ放しにして突っ立っているより、話し合うなら話し合うで、部屋の中で話した方がいいと思ったのだ。熱中症も心配だし。
そう思っていると、女性は問いかけた僕の方を一瞥する。たったそれだけのことで、僕の背中を冷や汗が滝のように流れ落ち始めた。蛇に睨まれた蛙というのは、こういう気分なのかもしれない。
女性は僕を見ながら、爬虫類めいた口の動かし方で、僕の問に答えた。
「……あんた、こいつの性癖、知ってる?」
思ったよりもハスキーな声なんだなと、僕は現実逃避気味にそう考えた。
……いや、だってさ。僕の質問、二択じゃん? YesかNoで答えられる質問に、質問を返されるとは、流石に想定していなかった。というより、こんな返しが来ると予想できる奴なんて、この地球上に一ミクロンとも存在していないんじゃないだろうか?
ちなみに女性が『あんた』と言っているのは僕のことで、『こいつ』と血色のマニキュアで指さしたのがアキのことだ。つまり僕は今、初対面の女性から、自分の彼女の性癖について質問されている。こんなに混乱したのは、合コンの時以来だぞ。
「……えっと、最初はSっ気強いのに、以外にMってことですか?」
自分が何を言っているのか、僕にはもうわからない。考えることを放棄した僕の脳みそは、素直に女性が質問した内容にスラスラと答えていた。僕の言葉を聞き、羞恥心からか、アキの顔が赤く染まる。いや、染まってないで、この状況を説明してよ!
一方僕の答えを聞いた女性は、なるほどな、と何がなるほどなのかわからないが頷き、部屋の中に入ってきた。え、入ってくるの? アキも女性が入るために体をずらし、スペースを作る。お前も入れるの? 無抵抗でっ!
ひとまず三人が熱中症になる事態は避けられたが、今度はよくわからない人と自分の彼女と僕が密室にいるという謎空間が出来上がった。どうしてこうなったのか、誰でもいいから教えて欲しい。
「……お前、こいつと付き合ってんだろ?」
意外なことに、この膠着状態の中、女性がアキに向かってまともな質問をする。『こいつ』は今回、僕が担当することになった。『お前』担当に抜擢されたアキは、俯きながらも、首を縦に振る。
「……うん」
気付けば女性の迫力に押されるように、僕たちは部屋の台所付近まで移動してきていた。
尚も女性からアキへの詰問が続く。
「じゃあ、あの事、言ったの?」
「……言ってない」
あの事? そう考えた瞬間、女性はいつの間にか手にしていた台所のまな板を、アキに向かって振り下ろした。ってえぇぇぇえええっ!
「ちょっ!」
驚愕の表情を浮かべるアキにまな板が当たる刹那、間一髪。変な声を上げながらではあるが、僕は女性からの唐突な攻撃を受け止めることが出来た。女性の方も攻撃を止めた僕を見て、驚きの色が顔に広がる。
「痛っ!」
じんわりと、脈打つ度に鈍く響く左手の痛みに、僕は思わず顔をしかめた。
「トシ! 大丈夫?」
「私、言ったよね? そういう曲がったことは、嫌いだって」
痛がる僕を心配するアキに、女性は絶対零度の視線をアキに向け、淡々と言葉を紡いでいく。
……こいつはヤバイ。ヤバイ奴だ。部屋に入れたのは、失敗だった!
痛みとともに後悔するが時既に遅く、この危険人物を僕は既に部屋に入れてしまった。僕はアキを背にするようにしながら、女性に向かって疑問を口にする。
「あなた、一体何な――」
「お前、何でレズってこと、そいつに黙ってたんだ?」
……。
…………。
………………。
は?
え?
僕の頭の中を、疑問符が一瞬にして埋め尽くす。容量不足で、耳の穴からも出てきそうだ。ついでに目からは、涙が出てくるかもしれない。とにかく意味がわからない。
今この女性は、何とおっしゃいましたでしょうか?
ダメだ。まだ頭がおかしいらしい。痛みで更におかしくなったようだ。僕には今、ハッキリと、まな板でアキを攻撃しようとしたこの女性が、アキのことをレズだと言ったように聞こえてしまった。
今回は『そいつ』が僕で、『お前』がアキ担当だ。そんな馬鹿な。
そんなはずがないと思って後ろを、アキの顔を見ると――
「……」
僕から光速で、顔を逸した。
……。
…………。
………………。
え?
え? マジで?
「……何で黙ってたんだ」
「だって、明、最近構ってくれないし。明の気持ちも、知りたかったし……」
気が付くと、僕は座り込んで、頭上で交わされる彼女たちのやり取りを、この世のこととはとても思えない心地で聞いていた。そうか。あの女性は、明さんっていうのか。
っていうか、
「え、じゃあ僕は何だったの?」
「……ごめんなさい」
立ち上がり、アキに詰め寄るも、アキはそう言って僕の顔を見ようとはしない。ってことは、レズって、アキはレズビアンだったってこと? 本当に?
まだ現実を受け入れられない僕の脳とは違い、僕に隕石をピンポイントで落下させたほどの衝撃を与えた明さんの反応は、実に淡々としたものだった。
「さっきも言ったと通りだ。私は曲がったことをする奴は、嫌いだ。お前と私の関係も、ここまでだな」
「待って! 嫌! 出来心だったの! 彼とは遊びだったの! お願い明! 捨てないでっ!」
自分を本命じゃないと泣きながら訴え、明さんに縋りつくアキの姿を見て、僕は玄関で最初に感じた事が正しかったのだと実感した。
体の一部を失ったかのような喪失感と、自分が本命ではなかったという絶望感。更にようやく『普通』の男になったのにあんまりだという焦燥感に駆られ、今の自分の気持ちを整理できない。
因果応報。行動なくして結果は出ない。
付き合うという形から入ることで、僕は何かを見ることが出来たのだろうか?
今自分がショックを受けている理由は、何なのだろう? アキと付き合っているという、形が失われるからだろうか? それともアキという存在を、失うからだろうか? それ以前に、アキが僕のことを浮気相手としか認識していなかったことに対してなのだろうか? それともアキの本命が、女性である明さんだったからだろうか?
わからない。自分のことなのに、わからないことが多すぎる。
こんな僕は、一体どんな人を好きになればいいのだろうか?
誰なら好きになってもいいのだろうか?
呆然自失となっていた僕の意識を呼び戻したのは、アキにさっきから怒鳴り散らしていた明さんだった。疑問が頭の中から無限に湧き出てきて、周りの喧騒に、ようやく今気がついた。
「おい! あんたも荷物まとめて、とっととこの部屋から出ていこうぜっ!」
「嫌ぁぁぁあああっ! 捨てないでぇぇぇえええっ!」
「おい、しつけーんだよ! 放せこらっ!」
明さんに言われるがまま荷物をまとめ、僕はアキを引きずる明さんに、引きずられるようにして玄関へと移動する。
「おら! いいかんげんにしろっ! よし、靴履いたな? おら、行くぞっ!」
「アキッ!」
自分をそのまま部屋へから引きずり出そうとする明さんに抗い、僕は玄関に座り込んだアキに、問いかけた。
「どうして、僕だったんだ?」
アキは、レズビアンだ。男と付き合う必要はない。
でも、アキは言っていた。明さんの気持ちが知りたかったと。その意味はわからないが、何かしらアキの中で基準があったはずなのだ。
あの時合コンの場にいた、トッシーでもヤスでもなく、僕を選んだ、アキの基準。
それを僕は、知りたかった。
「どうして、僕を選んだんだ?」
アキは泣き腫らした顔でしゃくり上げながら、それでも僕の質問に答えてくれる。
「……は、じめて、って、言って、た、から」
「え?」
「……合コン、初めてって。だから」
だから、何だというのだろう?
その言葉に納得出来たわけじゃないし、それがアキの中でどういう意味を持つのかまでは、僕にはわからない。
でも僕は、『あの時の僕』がアキかにとって、いいと思ってもらえたんだという、人にとってはどうでもいいような、なんてことのない、ほんの小さな満足感をアキからもらえた。
そんな気がする。
だから、
「アキ」
俯いたアキが、僕の顔を見上げた。
「ありがとう。それじゃあ、元気でね」
自然と口から、そう言葉がこぼれ落ちていた。
明さんに手を引かれ、今度こそアキの部屋を後にする。
アキの部屋の扉は少し錆び付いていて、重い。閉まっていく扉が、金属同士が、互いをすり減らすように擦れ合い、不協和音を奏でていく。
それが今はなんだか泣き声のように聞こえて、泣き声が混じっている気がして。
僕は遠ざかりながらその泣き声が止むまで、耳を傾けていた。
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