○十一月四日 午後十時四分

「……なるほど。あの敏夫が、彼女ねぇ」

 度々コーヒーで口を湿らせながら僕の話を聞いていたハルは、今は感慨深げに両手を組み、何度も頷いていた。

 ハルとは僕が高校生だった頃、とあるSNSのオフ会で知り合い、それ以来の付き合いになる。ハルの方からすれば、何かしら感じ入るものがあるのかもしれない。

「それで、その、能美屋さん? だったかな。その彼女さんとの間を、ボクは取り持てばいいんだね?」

 ひとしきり小声で、大変だったね、よく決心したね、頑張ったね、等々労いの言葉を僕に投げかけながら満足そうに頷くと、ハルは僕にそう言った。

 だが、僕はハルに向かって首を振る。

「いや、違うんだ、ハル。君に間を取り持ってもらいたいのは、アキのことじゃないんだ」

「へ?」

 僕がそう否定すると、ハルは呆けたように、口をぽかんと開けた。

「……ええ、っと、その、能美屋さんの方としては、もう敏夫とは別れるつもりでいるから、彼女じゃなくて、元カノ、ってことになるのかな? だから能美屋さんは彼女じゃなくて元カノで、ボクはその元カノさんとの間を取り持つ、っていう、言葉の綾の問題かい? ややこしいね」

 そう言って小首を傾げるハルに、僕は再度、首を振って答える。

「そうじゃないんだよ、ハル。アキは確かに僕の元カノだけど、彼女との間を取り持ってもらいたいわけじゃないんだ」

 眉間にしわを寄せ、また何か言い出したぞこいつ、と言いたげな顔で、ハルは僕を横目で見る。

「……うーん。ちょっと待ってね、敏夫。君が何を言っているのか、ボクにはさっぱり理解できないよ」

「えぇっとね、ハル。それこそ言葉の綾なんだよ。アキは僕の元カノだけど、今の彼女じゃ――」

 ハルに説明しようと僕が口を開くのとほぼ同時に、ヘルマに来客を知らせるベルが鳴り響いた。

「いらっしゃいませ」

 変わらぬ男性の声を聞き、僕は視線を店の入り口に向ける。そこにいたのは――

「アキっ! 何でここに?」

「何でもクソもないわよっ!」

 肩で息をしながら、アキは僕を射抜くように睨みつけ、こちらへとやってくる。アキに気圧されたのか、ハルの体が一瞬震え、僕の服の袖をつかんだ。

 静かな店内に似つかわしくない、アキの床を踏み抜くような足音が、テーブルの上のアロマキャンドルを大きく揺らす。揺れる炎は鬼火のように見え、アキの心情を代弁しているかのようだった。

 アキは僕たちの所までやってくると、群青色のダッフルコートを脱ぎ、空いている向かいのソファーに投げ置いた。コートの下から鮮やかな鴨の羽色のベルスリーブのニットワンピースが見えたのも束の間、アキはどっしりと、コートを投げたソファーに腰を下ろした。目線は相変わらずで、アキは僕を睨みつけたまま、視線はハルに移る。

 ハルを見たことで一瞬緩んだアキの視線の強さは、ハルが僕の袖を握っていたのを確認した瞬間、ダイヤモンドのような硬さに変わった。

「それで? 今日のことを、アキは何処から嗅ぎつけてきたんだい?」

 質量を持っていれば、人を撲殺できそうなほどの殺気を放つアキの視線を受けて、僕は平然と、そう尋ねる。

 アキは僕から視線を一度切ると、老君におすすめのメニューを聞いた。そしてすぐに目の前のテーブルに置かれた、僕とハルのカップに目を移す。

「トシたちは、何にしたの?」

「僕らは、ブレンドコーヒーを頼んだよ」

「なら、私もブレンドコーヒーをお願いします」

「かしこまりました」

 そう言って下がる男性を見送ると、アキはすぐにこちらへと振り向く。

「決まってるでしょ。明から教えてもらったのよ」

 先ほどの会話が再開したのだと即時に僕が気付けたのは、きっとハルと似たようなやり取りをしていたおかげだろう。

 今度は固まることなく、僕はすぐさまアキに切り返した。

「勝手に覗いたメイのスマホから、の間違いなんじゃないの?」

 そう言うと、僕の予想が当たっていたのか、アキは気まずそうに目をそらした。

「……まぁ、他の人の意見も聞くように互いに一人ずつ呼び合って話し合いをしよう、って僕とメイの二人で決めたんだけどね。メイの性格なら、自分の意見が正しいに決まってる! って感じで、誰かを連れてくるとは思えないから、アキが来てくれてちょうど良かったといえば、ちょうど良かったんだけど」

 ため息混じりの僕の台詞を聞いて、アキは開き直ったように、鼻を鳴らす。初対面の、合コンで出会った時の印象とのあまりの差に僕が苦笑いを浮かべていると、目を白黒させたハルが遠慮気味につかんだままの僕の袖を引いた。

「あの、ボク、全然状況がわからないんだけど。一瞬、ふわっ、とわかった気がしたんだけど、今はもう最初店に来た時より、全くわからないや。わけがわかめでわかめが無限増殖しているよ」

「大丈夫だ、ハル。簡単な話だよ。僕の話は、まだ途中なんだ」

 わかめわかめ言い始めたハルの肩を、なだめるように二回叩き、僕はアキに顔を向ける。

「今日の話し合いのために、僕とアキが別れた時の話を今からハルにしようと思うんだけど、いいよね?」

「ええ。それより彼女、ハルって言うのね」

 気にするのそこなんだ、とつぶやくハルの手を僕の袖からゆっくりと放し、アキの了解を得た僕は、再度自分の過去へと思いを馳せる。

「あれはちょうど、七月のことなんだけど――」

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